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{左}石場の渡し場跡 斜め向かいと少し先右に石仏の小祠がありしばらく進むと大津警察署(打出浜12-7)裏の左から道が合流する角に「石場の常夜燈」説明付き付近案内地図がある。江戸時代この付近は打出浜で矢橋追分先にあった矢橋湊からの渡舟が往来していた。渡し場には弘化2年(1845)灯台代わりにもなった大きな常夜燈(高さ8m40cm)が建立されたが昭和43年琵琶湖文化館前に移された。常夜燈の隣には1本の老松もあり船頭が松の根元に立ち客を呼んだので呼次の松と呼ばれていたが枯れたため現在はない。石場の地名は古くは石工が多く住んでいたのが由来。少し先の石場踏切で京阪電鉄石山坂本線を渡る。右奥には石場駅。線路を渡った2叉路の間に「呼次松の由来」説明付き付近案内地図があり左に進む。 |
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{左}福蔵寺 [真宗大谷派] 石場4-20 分岐すると緩やかな上りとなり少し先。長禄元年(1457)教専が創建。本尊は阿弥陀如来。山門入って左に灯籠、井戸跡。他は本堂、庫裏のみ。石場を過ぎると大津宿に入る。この付近には江戸時代には石場一里塚(123)があったが標識はない。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも榎が1本あったと記録されている。 |
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大津宿 本陣2脇本陣1旅籠71家数3650人口14892[天保14年(1843)] 古くから京都の玄関口として栄え中大兄皇子(天智天皇)が遷都し大津京を開き壬申の乱の舞台にもなり奈良時代は古津と呼ばれた。延暦寺創建、園城寺再興で仏都としても賑わい戦国時代は重要拠点として重視され天正14年(1586)には秀吉が大津城を築き城下町にもなった。江戸時代には天領として大津代官が支配し琵琶湖の水運を利用した近江商人の町として発展し町数が100あったことから大津の賑わいぶりは「大津百町」と称された。東海道の他に中山道、北陸道の宿場でもあり53宿場中で最大規模の宿場。名産は大津算盤、大津絵、大津針。明治になると大津県(現:滋賀県)の県庁も置かれた。 |
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{左}平野神社 松本1-8-25 すぐ先に「平野神社」説明付き付近案内地図、明治16年(1883)神社名石柱、文久元年(1861)「蹴鞠之神社」小石柱、宝暦4年(1754)灯籠がある。左折し坂を登って少し先右に鳥居と石段があり登ると境内。天智天皇の代の7年(668)頃に藤原鎌足が大津京近くに創建。祭神は大鷦鷯皇命(仁徳天皇)で同じ頃に京都から近くに移転し創建した猿田彦命を祀る精大明神も天正2年(1574)合祀された。精大明神は蹴鞠の神として信仰を集め現在も毎年8月に境内で蹴鞠祭が行われる。所蔵する木造猿田彦命座像は平安時代作で明治38年(1905)国重要文化財。石段上右に保存樹木のカヤ。本殿前狛犬は万延元年(1860)。本殿左に天満宮、愛宕社、常世社、稲荷神社。安政5年(1858)などの灯籠が境内を囲み並ぶ。 |
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{左}月見山往生院 西方寺 [浄土宗] 松本1-5-13 すぐ先の2叉路も左を直進し少し先左の民家に石仏2体の祠、さらに少し行くと小さな常世川を渡る左に地蔵があり渡って1軒置いた先。文禄元年(1592)春甫が創建した。街道沿いに明治30年(1897)寺名石柱。参道右に法然の幼少時の姿である「せいし丸さま」銅像。山門入って左に手水石。境内左に茶室「無量寿庵」、池付き庭園、灯籠、弁財天がある。本堂左には水子地蔵と60体ほどの石仏群もある。大津33観音霊場第16番。この付近の寺は門前や境内が貸駐車場になっていることが多い。寺の少し先左にはばったりがある民家がある。 |
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{右}正信山 成覚寺 [浄土宗] 中央4-12-13 少し先で広い道と交差するが横断歩道が無いので左にある交差点の横断歩道で迂回する。横断して少し先左に「旧東海道」説明付き付近案内地図があり斜め向かいが寺。慶長3年(1598)法阿が創建し元は月見山と号していた。山門入ると右に松。境内左に本堂と灯籠、境内右に小祠が2つある。大津33観音霊場第15番。 |
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{右・寄}西栄寺(西榮寺)[浄土真宗本願寺派] 中央4-12-3 少し先を右折すると右にある。永禄8年(1555)宗円が創建した。元は天台宗で禅宗を経て慶長13年(1608)浄土真宗となった。本尊は阿弥陀如来。大津松本城主・松本民部少輔の子孫が住職をつとめている。松本民部少輔豊国は室町幕府12代将軍・足利義晴の弓術指南役をつとめた近江川守城主・吉田上野介重賢の子で吉田家は日置流を祖とする弓術の名家だった。忠臣蔵の吉田忠左衛門(兼亮)も子孫にあたると言う。松本城は浅井山(松本山)北方(現:本宮2丁目付近)にあった山城とされ天正10年(1582)本能寺の変後に居城である坂本城に向かう明智光秀勢に攻められたとも伝わる。門前右に石仏2体の小祠。他は本堂、庫裏のみ。 |
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{右・寄}養法寺 [真宗佛光寺派] 中央3-5-24 少し先で吾妻川を常盤橋で渡り1つ目の角を右折し少し行くと下り石段手前左にある。慶長11年(1606)休斎が創建し楊坊寺とも書き柳の寺とも呼ばれていた。平成19年に本堂などの屋根葺替。山門前右に石仏2体の祠。この付近は江戸時代から昭和40年まで大津百町の1つである境川町で吾妻川が町境となっていたことに由来する。 |
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{右・寄}西念寺 [真宗木辺派] 中央3-5-28 少し先の民家壁に表札があり奥が境内。創建など不明だが元禄8年(1695)の町絵図には記載されている。中山道守山宿から真宗木辺派の本山である遍照山錦織寺(野洲市木部826)へ向かう道が分岐する場所にある道標「右 中山道 并 美濃路」「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は延享元年(1744)に西念寺の講中が建立したもので昭和52年守山市指定文化財となっている。 |
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{左}清源寺 [浄土真宗本願寺派] 京町4-3-12 少し先にある。文亀元年(1501)覚専が創建した。境内は本堂、庫裏のみで街道沿いすぐ先左に生水地蔵尊の小堂がある。東海道はその先で県庁前通りを横断する。手前左角には「旧境川町」茶色説明柱、渡った左に「旧東海道」説明付き付近案内地図がある。渡った左の滋賀会館(京町3-4-22)の建物左前には江戸時代の東海道の敷石である車石、昭和50年建立の滋賀県民の歌の碑があり碑には一般公募によって作られた滋賀県民の歌の歌詞と服部岩吉県知事の肖像が刻まれている。ここから先は街灯に「旧東海道」と旧町名が表示された看板が取付けられている。 |
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{右}龍学山 善正寺 [真宗大谷派] 中央3-4-32 少し先にある。正徳2年(1712)浄念が創建した。鉄柵門の奥に山門がある。大津宿内には3つの大きな通りがあり一番南側の旧東海道は京都への道筋という意味で別名:京町通りと呼ばれた。通りには呉服、古手屋、仕立物、荒物、合羽物、質屋、大物商、紙屋、両替屋、小間物屋、賃織、染物等の商店が並んでいた。他は家具や畳、蝋燭、菓子などの製造業が並ぶ中町通り、港湾、蔵屋敷、米会所などが並ぶ浜町通りがあった。 |
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{右}大津祭 西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)由来碑 中央3-4-1 少し先の十字路角にある鍛冶屋町自治会館前にある。平成18年建立。西行桜狸山は天孫神社の祭礼・大津祭で曳き回される鍛冶屋町の曳山の名称。大津祭の曳山巡行は慶長年間(1596-1615)に祭礼で狸面をかぶり風流踊りを踊っていた塩売・治兵衛を竹の屋台に乗せて担ぎ歩いたのが発祥とされる。治兵衛はこの辺りの旧:鍛冶屋町在住だったため曳山巡行の先導は毎年必ず鍛冶屋町がつとめるようになった。寛永15年(1638)に屋根に日和見する狸を立てた現在の原型となる3輪式曳山が造られ明暦2年(1656)に西行が桜の精と問答する謡曲「西行桜」を題材とした「からくり」が造り込まれた。治兵衛が踊りに使用したとされる木造狸面は昭和48年市指定文化財で祭礼時に当町に飾られる。 |
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{左・寄}天孫神社 京町3-3-36 十字路を左折して行くと右。延暦年間(782-806)桓武天皇の勅命による創建とされ大同3年(808)近江行幸中の平城天皇の仮御所にもなった。祭神は彦火火出見命、国常立命、大名牟遅命(大己貴命)、帯中津日子命(仲哀天皇)。近江国四宮として江戸時代は四宮大明神社と呼ばれ地名も四宮町だった。文明年間(1469-87)に琵琶湖湖畔から現在地に移った。秀吉が天正14年(1586)大津城を築城した際に余った資材で社殿の修復もされた。四宮大明神、天孫第四宮とも呼ばれたが明治に天孫神社とした。灯籠は享保20年(1735)宝暦10年(1760)明治33年(1900)など。 境内右に福富稲荷、八幡神社などの境内社。社殿右に日若宮、左に天満宮。10月上旬には県指定無形民俗文化財の大津祭が行われる。
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{左・寄}旭光山 華階寺(けかいじ) [浄土宗] 京町3-3-14 少し交差点で中央大通りに出ると「京町通り」石柱が左にある。左折すると「旧東海道」説明付き付近案内地図がありその先に寺。天文元年(1532)西念が創建。江戸時代は大津浄土宗5大寺の1つ。本堂はコンクリート建。大津33観音霊場第14番。境内は藤原秀郷の晩年の館跡とされ秀郷ゆかりの月見岩、矢の根地蔵を所蔵する。矢の根地蔵は山門右の道路に面した小堂に安置され石板に線刻された地蔵で秀郷が大百足を討ち取った大矢の根(鏃)で刻んだと伝わる。山門入って左の庭園奥に小祠2つ。境内に創建時に植えられたイチョウ2本は江戸時代より大木として有名で現在は寺前の中央大通り中央分離帯にある。共に雌木で昭和50年市指定天然記念物。イチョウ付近の歩道に「旧葭原町」石柱がある。 |
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{右・寄}東本願寺 大津別院 [真宗大谷派] 中央2-5-25 中央大通りを渡った左にも「旧東海道」説明付き付近案内地図。渡って右折していくと左に山門。慶長4年(1599)真宗大谷派の開祖・教如が東本願寺よりも先に大津御坊として創建し明治9年(1876)から大津別院と呼ぶようになった。本尊は阿弥陀如来。山門前右に昭和14年(1939)「明治天皇大津別院行在所」石柱、本堂と書院の平成5年説明立札。本堂右前にも「明治天皇聖蹟」碑があり明治13年(1880)6月29日と7月14日に訪れた。慶安2年(1649)建立の本堂は桁行9間(16m)梁間10間(18m)入母屋造で外陣が広く本堂後ろにある寛文10年(1670)建立の書院と共に昭和36年国重要文化財。境内左の鐘楼にある梵鐘は安永3年(1774)鋳造。本堂前灯籠は宝暦7年(1757)。境内左に万霊塔、灯籠もある。 |
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{左}竹越山 唯泉寺 [真宗大谷派] 京町2-4-12 中央大通りを渡り少し先に行くとある。弘仁2年(811)道可が創建した。もと天台宗寺門派で慶長3年(1598)坂本より移り改宗した。山門前右に大日如来、地蔵などの石仏群の祠がある。山門入ると右に庫裏、書院、本堂、左奥に鐘楼がある。 |
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{右}餅兵・梅村商店 中央2-5-37 すぐ先に明治元年(1868)創業の森野すだれ店(京町2-4-11)。その向かいにある和菓子屋。現在の高島市から移り住み鍛冶屋をしていた先祖が江戸中期にぜんざいもちを食べさせる茶店を始めたのが起こりと伝わる。初代の名を取り餅屋兵祐と呼ばれていたのが短縮されて餅兵となった。軒上にある「御饅頭處 大津京町通五町目 梅村商店」庇看板は江戸後期から明治初期に製作されたものでケヤキの一枚板でできている。江戸時代から季節の和菓子など庶民向けの菓子を売り「もっちょはん」と呼ばれ親しまれてきた。豆大福(1個150円)いちご大福(1個220円)など。9時-19時、月休。 |
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{左}大津魚忠 京町2-4-10 斜め向かい。湖魚などを使った懐石料理店。明治38年(1905)呉服商の住居として建てられた建物は平成14年国登録有形文化財。木造2階建、瓦葺、建築面積169平方mで1階は連子格子で2階は虫籠窓。建物の壁には「登録有形文化財」と「煌めき大津賞都市景観部門受賞」のプレートが飾られている。煌めき大津賞は「活動部門」と「都市景観部門」があり昭和62年から平成16年まで毎年選出が行われた。平成17年からは「活動部門」のみ継続し市民活動をたたえる煌めき大津環境賞となっている。魚忠は明治後期創業で近くの別の場所にあったが平成8年に取壊し寸前だったこの建物を買取り移転した。 本屋背後の庭は7代目小川治兵衛(植冶)の作。11:30-22:30水休。懐石料理7350円〜。
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{右・寄}蛭子神社 中央2-6-30 すぐ先の十字路を右折すると左に昭和7年(1932)石鳥居がある。鳥居後ろの門扉に鍵がかかり社殿は奥にある。本殿は一間社流造。境内左には小祠、社殿前には灯籠1基もある。創建時期は不明だが榊宮神社(坂本4-9-57)の倒れた神木から神像を作り祀ったのが起こりと伝わる。祭神は蛭子尊。古くは胡神社、夷神社とも書いた。付近はこの神社があることから江戸時代から昭和40年までは蛭子町と呼ばれた。幕末の円山派画家・中島来章による文政7年(1824)「六歌仙」絵馬を所蔵する。日吉大社(坂本5-1-1)の祭礼・日吉山王祭で4月3日に行われる大榊神事では天孫神社へ大榊が渡御する途中にこの神社に立ち寄る。少し進むと右には古い町家を改装した居酒屋・旬遊あゆら(中央2-6-39)がある。 |
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{左}露国皇太子遭難地の碑 京町2-2-11 少し先徳永洋品店の脇に昭和45年「此附近露国皇太子遭難之地」石柱と壁に説明ビニールがある。明治24年(1891)日露親善のため来日していたロシアのニコライ・アレクサンドロビッチ皇太子が琵琶湖周遊から京都への帰途、警備中の巡査・津田三蔵に頭を切りつけられた大津事件の現場付近。ニコライは軽傷で三蔵はすぐに取り押さえられたが両国をゆるがす大事件に発展した。明治天皇は翌日京都に向かい直接謝罪し学校は謹慎休校、寺院では平癒祈願などが行われた。松方正義内閣は皇室に対する大逆罪(刑法第116条)を適用し三蔵の死刑を主張したが大審院院長・児島惟謙は「外国の皇太子には適用されない」と考え一般の謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し「司法権の独立」を守った。 |
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{左・寄}香光山 乗念寺 [浄土宗] 京町2-3-3 碑がある角を左折していくと左。天正16年(1588)信誉が創建。江戸時代は大津浄土宗5大寺の1つだった。本尊の木造聖観音立像は寺の創建以前に造られた平安時代の作で明治33年(1900)国重要文化財。他に鎌倉時代の浄土曼荼羅図、平安時代の経典、南北朝時代の阿弥陀三尊来迎図、大正時代の画家・竹久夢二の美人画など多くの寺宝を所蔵する。山門前左に大正11年(1922)「國寶聖観世音菩薩」円柱型石柱。山門入って左に鐘楼、境内左に「観世音菩薩 地蔵菩薩」扁額がある堂、境内右に「旅立ちの法然」銅像がある。他に境内には灯籠、松などもある。大津33観音霊場第11番。 |
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{右}島林書店 中央2-1-1 徳永洋品店向かいには1、2階とも連子格子の民家があり、その先の中央二丁目南交差点に出るとある。安政3年(1856)地図や寺子屋の教科書を出版する島林南強堂として創業した。明治18年(1885)に出版した「珠算問題集 小学生徒復習便覧」や明治25年(1892)に出版した「滋賀県官民実用便覧」は国立国会図書館に現存する。現在の洋風建物は昭和初期築で神戸の洋館を参考に設計された。Gackt JobのYOUこと島林勇一の実家。向かいには「露国皇太子遭難地の碑」の説明付き付近案内地図もある。 |
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{左・寄} 栄泉寺 [浄土真宗本願寺派] 京町2-2-5 交差点を左折していくと左。天正年間(1573-1592)創建で天台宗だったが享保15年(1730)に改宗した。手前には地蔵堂がある。さらに手前は3階建ての町家もある。京町には同寺号の清流山栄泉寺[真宗大谷派](京町1-1-10)もある。地元では住職の名字でこちらは獅子堂、清流山は澤と呼ばれている。 |
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{左}柴山商店 京町1-3-25 交差点で県道7号線を渡り少し先左に1階が連子格子で2階が虫籠窓の民家があり、少し先にある。寛延元年(1748)創業の傘、提灯の店。建物は明治5年(1872)築の町家を大正年間、昭和初期の改築を経て平成13年に現代風に大改装し店舗兼住宅にしている。町家の風情の維持と屋内の温度環境改善を両立させるためOMソーラーを目立たないように導入するなどの工夫をしている。店内では今も手作りの提灯を扱っている。向かいの吉田医院(中央1-2-9)前には昭和57年「旧京町」茶色説明柱がある。 |
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{左}大津聖マリア教会 京町1-2-21 少し先。日本聖公会の京都教区に属する教会。大津では伝道師・永田保次郎が明治20年(1887)より借家にて宣教を始めていたが、大津講義所として1組の母子の洗礼を行った明治25年(1892)4月17日を宣教開始日としている。後に淡海基督教会、大津基督教会、大津聖公会などに改称し大正7年(1918)大津聖マリア教会となった。現在の鉄筋コンクリート造2階建の礼拝堂は昭和6年(1931)築。牧師館は昭和57年築。明治45年(1912)より教育事業として清心幼稚園を併設している。日本聖公会は全国に11の教区があり、京都教区の範囲は9府県(京都府、大阪府の1部、 奈良県、和歌山県、三重県、滋賀県、福井県、石川県、富山県)にまたがる。教会数は42あり11教区の中では最も多い。
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{右・寄}大津祭曳山展示館 中央1-2-27 教会向かいを右折し丸屋町商店街で右折し少し進むと右。湖国3大祭りの1つ・大津祭について展示している。本祭では祭囃子とともに豪華な装飾が施された13基の曳山が巡行する。曳山にはからくりがあり「所望」の声がかかるとそれが巧妙に操られる。館内には丸屋町の曳山・西王母山の原寸大レプリカを展示。山に住む仙女・西王母が王に桃を与える古代中国の伝説を元にした曳山でからくりは桃が2つに割れその中から童子が生まれる。他に1階は曳山巡行とその前日の宵宮の様子を映すマルチスライド、お祭りビデオ、お囃子体験コーナー、2階は曳山装飾品の展示やからくりビデオルーム。3階は多目的ホールとなっている。10時-19時、月休、無料。建物左の駐車場奥には大津城外堀の石垣がある。 |
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札の辻 少し先の京町一丁目交差点で国道161号に出る。ここが札の辻で北国街道との分岐だった。渡った左角の株式会社セレマ大津テレフォン支所(札の辻6-22)前に昭和56年「札の辻」茶色説明柱、「辻の札の由来」説明付き付近案内地図、大津市道路元標がある。江戸時代はここに高札場、人馬会所、馬神社もあり明治に入り中央小学校(島の関1-60)の前身である日新学校が建てられた。校舎は明治22年(1889)に町役場となり明治31年市制施行から市役所庁舎として大正5年(1916)まで利用された。馬神社は校舎建築時以降場所を転々とし現在は長等神社(三井寺町4-1)の境内社となっている。東海道は左折し逢坂山関址までゆるやかな坂を上る。道路中央には路面電車の京阪電鉄京津線も走る。 |
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{右}旧:北国街道(西近江路)・小関越え間道分岐点 東海道は札の辻を左折するが直進するのが北国街道(西近江路)で300mほど先の突き当たりを右折し北国橋を渡った少し先で右折、少し先を左折し皇子が丘で現在の国道161号に合流し坂本、竪田などの琵琶湖西岸を通り敦賀に抜けていた。最初の突き当たりを右折したすぐ先からは東海道の迂回路の小関越えの間道も分岐している。小関越えは逢坂の関を通らないで京に向かうルートで逢坂越を大関越と呼んだのに対し小関越と呼ばれ京阪電鉄京津線四宮駅付近の三井寺観音道分岐で東海道と再び合流した。札の辻を右折する道は江戸時代は細道で大正元年(1912)に現:京阪電鉄京津線ができた際も終点は札の辻までで大正14年に道が拡幅され浜大津まで延伸した。 |
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{左・寄}江西山浄土院 九品寺 [浄土宗西山派] 京町1-2-1 札の辻を左折し少し先の京町一丁目南交差点を左折していくと左にある。建保3年(1215)浄土宗開祖・法然の高弟である長西(覚明)が創建し天和年間(1681-83)俊教が中興。文禄5年(1596)養景が創建した大谷西方寺を明治11年(1878)に併合した。本尊は阿弥陀如来座像。所蔵する平安時代作の木造聖観音立像が平成9年県指定文化財。現在の本堂は平成14年築で天井の「四季花絵図」「四季鳥絵図」は竹内義夫の作。山門入って右に由緒碑、石仏群、小祠。境内には旧本堂の鬼瓦もある。慈王殿もあり寛永年間(1624-45)に境内の松に掛けられていた地蔵菩薩画像の代わりに木造地蔵菩薩を彫って安置したのが起こりと伝わる。江戸時代は大津浄土宗5大寺の1つだった。大津33観音霊場第13番。 |
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{右・寄}近松山 顕証寺 [浄土真宗本願寺派] 札の辻4-26 京町一丁目南交差点を渡り少し先右の角に延享3年(1746)「蓮如上人近松御舊跡」石柱があり右折正面。応仁3年(1469)大津に移住した蓮如が園城寺から別院の近松寺(逢坂2-11-8)の寺領を分与してもらい創建し親鸞像を安置したのが起こり。本尊は阿弥陀如来。別名近松別院、近松御坊と呼ばれ寺を町や支院が取り囲み大津代官の支配を受けない寺内町を形成していた。門右に大正14年(1925)「蓮如上人近松御舊蹟」石柱、門左には昭和57年「旧寺内」茶色説明柱。門前の灯籠は寛政元年(1789)。本堂右前に樹齢150年のイチョウ、手水石。境内左に近松保育園、平成20年西本願寺24世即如手植えの垂れ梅。寺の建物は隣に軍病院があったため昭和20年全て取り壊され現在の建物は昭和56年築。 |
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{右・寄}妙光山 本長寺 [日蓮宗] 札の辻3-19 少し先で京阪電鉄京津線は右に分岐し反れていく。その手前を右折すると左にある。永禄5年(1562)等覚院日壮が創建し元は天台宗で天正14年(1586)坂本から移転した。享保4年(1719)第9回朝鮮通信使が宿泊し通信使が残した掛軸が現存。大津代官だった小野家、石原家の菩提寺で木像も所蔵。墓地に小野家歴代の大きな墓石が並ぶ。大津代官は家康に仕えた小野宗左衛門貞則が元和元年(1615)初代代官となり元禄12年(1699)まで世襲した。代官廃止期を経て明和9年(1772)石原正顕が就任すると明治まで殆ど石原家がつとめた。芭蕉の門人で医師の江左尚白の墓も墓地右奥にある。境内に妙見宮、清正公大神祇、瀧光大明神、妙隆善神。他に天明8年(1788)法界万霊塔、題目塔、石仏群など。 |
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{右・寄}犬塚の欅 本長寺門前を右に進み大津赤十字病院(長等1-1-35)に突き当たって左折していくと右にある。本長寺墓地の塀と道路を隔てた裏手。高さ10m樹齢600年で昭和40年市指定天然記念物。欅の前には「犬塚」石碑がある。顕証寺を創建した本願寺8世蓮如の膳に毒が盛られたが愛犬が先に食べ身代わりに死んだため蓮如が墓を建て欅を植えたと伝わる。蓮如は寛正6年(1465)の寛正の法難以後比叡山延暦寺の門徒に追われ近江を転々としており応仁3年(1469)逃亡先の夕陽山本福寺(本堅田1-22-30)から大津に移り住み文明3年(1471)には越前の吉崎御坊へ移った。 |
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{左}大津宿本陣跡 少し先の滋賀労働局(御幸町6-6)入口の先に説明立札、「八町通」茶色説明柱、共に昭和9年(1934)建立の石碑2基がある。大塚嘉右衛門本陣(大坂屋)跡で3階の楼上からの琵琶湖の眺めは絶景だったと伝わる。建物は明治6年(1873)から逢坂小学校(音羽台6-1)の前身である鶴里学校(滋賀郡第6区第9小学校)として使用された。石碑は大きい方が公爵一条実孝書「明治天皇聖跡」碑で小さな方には天皇や皇族が立寄った日付が刻まれている。この通りの両側には多くの旅籠屋がありもう1軒の本陣である九左衛門本陣(肥前屋)や市右衛門脇本陣(播磨屋)、問屋場もあったが場所は特定できない。すぐ先の御幸町交差点左の千寿美容室(御幸町1-29)前には大津宿本陣跡の説明付き付近案内地図もある。 |
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{右・寄}松月山 長安寺 [時宗] 逢坂2-3-23 少し先の春日町交差点を右折し長安寺踏切で線路を渡ると石段があり右に昭和5年(1930)「長安寺西國三十三所」石柱と石仏15体の小堂がある。境内は石段の上。創建年代は不明で元は逢坂の関に近いということから関寺と呼ばれ南北朝期に衰退し慶長5年(1600)兵火で焼失。後に長安寺と改称し再建された。本尊は阿弥陀如来。本堂右に元亀2年(1502)比叡山延暦寺焼き討ちで比叡山山麓に埋もれていた地蔵が昭和35年に百体集められピラミッド状に積まれている。背後にも石仏群、右には「玉姫龍神」石碑。その右に小野小町供養塔(五輪塔)、一遍上人供養塔(五輪塔)、超一房(一遍の妻)供養塔。大津33観音霊場第27番。境内右の庫裏右背後の山内には西国33所石仏などの石仏が所々にある。 |
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{右・寄}長安寺 石造大宝塔 境内に向かう石段途中右にある。高さ3.3mの太めの灯籠で牛塔と呼ばれ昭和35年(1960)国重要文化財。平安末期の寺の修復工事の際に京都の音羽山清水寺(東山区清水1-294)から贈られた牛が良く働いたため仏の化身だという噂が広がり死後に供養のため藤原道長の子・頼通が宝塔を建てたとされる。横には昭和63年設置説明立札、安政3年(1856)灯籠もある。向かいの石段左には昭和2年(1927)獣魂碑、北向地蔵の小祠もある。長安寺の前身の関寺は平安時代には日本3大仏の1つだった高さ5丈(15m)の関寺大仏もあり大寺院として知られており鎌倉時代には時宗宗祖・一遍が訪れ「おどり念仏」を奉納している。 |
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{右}水上山 妙光寺 [日蓮宗] 逢坂2-3-7 少し進み右に少し入ったところに門柱がある。その左には土台に寺名が入った享保21年(1736)題目塔とイチョウもある。門柱の先の妙光寺踏切で京阪電鉄京津線の線路を渡ると山門があり境内。天正元年(1573)日性が創建した。山門前左に安政4年(1857)「妙見大菩薩」石柱。山門入って右に鐘楼。境内左に妙見宮、三社大明神、石仏群、井戸跡などがある。妙見宮前の鳥居は大正12年(1923)、灯籠は元禄13年(1700)と正徳5年(1715)。三社大明神左に文久元年(1861)手水石、嘉永7年(1854)題目碑もある。 |
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{右}蝉丸(上関寺)跨線橋 すぐ先に陸橋がありJR東海道本線の線路を渡る。右を見ると東海道本線の4本の線路はすぐ京阪電鉄京津線の跨線橋をくぐっている。大正元年(1912)京津電気軌道(現:京阪電鉄京津線)が開通した2年後の大正3年に東海道本線の逢坂山トンネル(長さ2325m)が着工したため東海道本線が京津電気軌道の下を掘り下げてくぐることになり跨線橋が造られた。左側の2線はレンガ造りで大正10年(1921)京津電気軌道跨線拱橋として背後の逢坂山トンネルと共に完成したもの。右の2線は内側が昭和16年(1941)着工し昭和19年に完成し外側が昭和40年着工し昭和45年に完成した。 |
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