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{左}京都市蹴上浄水場 東山区粟田口華頂町3 しばらく進むと右にカーブし右後方から道が合流する交差点を渡るとある。明治45年(1912)日比忠彦、田邊朔郎の設計により完成した市最古の浄水場で日本初の急速濾過式浄水場。急速濾過方式は凝集剤硫酸アルミを用いて不純物を凝集沈殿させる方式でそれまでの緩速濾過方式に比べ30倍早い。使用設備も少く山間の狭い敷地である蹴上には適していた。昭和60年近代水道百選にも選ばれた。新しい建物や塀なども煉瓦風の景観重視の施設になっている。場内には4千本のツツジと3千本のサツキが植えられゴールデンウィークにのみ一般公開される。この付近には明治34年(1901)与謝野鉄幹と晶子夫婦が結婚前に逢っていたという辻野旅館があったことから場内には与謝野晶子の歌碑もある。 |
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{右}日向大神宮・安養寺入口 この付近は山科区、東山区、左京区が入り組んだ地域になっている。浄水場向かいの京栄技研左の石段上には大日如来堂があり大小含めてたくさんの石仏が安置されており少し先に昭和5年(1930)鳥居、大正2年(1913)「式内日向大神宮」石柱、年不明の灯籠がある。左には昭和6年「青龍山 安養寺」石柱、年不明の「市営大日山墓地」石柱もある。鳥居くぐってすぐ右に大正4年の鳥居敷石寄付者碑。その先の石段を登ると琵琶湖疎水に架かる大正12年(1923)竣工の大神宮橋があり手前には左が安政6年(1859)右が嘉永5年(1852)常夜燈がある。橋を渡り進んでいくと日向大神宮や安養寺に通じる。 |
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{右・寄}琵琶湖疎水 復元木造船 大神宮橋から左にはインクラインの台車に乗せられた木造船(三十石舟)が見える。琵琶湖疏水で使用されていた運輸船を平成22年に復元したもの。橋の下を流れる琵琶湖疏水は琵琶湖の湖水を京都へ通す水路で府知事・北垣国道が計画し明治16年(1883)工部大学(現:東京大学)を卒業したばかりの田邉朔郎が中心となり設計した。明治18年着工し明治23年鴨川までが完成しその後濠川、宇治川まで繋がった。明治45年(1912)には琵琶湖〜蹴上までの第2疏水も完成した。橋の右の蹴上ダムで第1と第2疏水が合流している。疏水の水は水運、灌漑、水道、発電、防火、工業など多目的に利用され疏水関連施設はインクライン、水路閣など大津から京都までの12箇所が平成8年指定国史跡となっている。 |
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{右・寄}蹴上ダム(船溜り) 旧:九条山浄水場ポンプ室 大神宮橋から右に見える。当初は疏水を往来する船を留める場所でもあり水は浄水用や発電用に使われた。現在はダム右に蹴上浄水場と山之内浄水場の共同取水場がありさらに奥には旧:九条山浄水場のポンプ室の建物がある。九条山浄水場は背後の九条山にあり明治45年(1912)完成した御所水道の取水場が元で昭和22年(1947)水道水確保の増強策で宮内庁から市に譲渡され改築後の昭和24年浄水場となった。昭和62年に老朽化のため浄水施設としては休止し現在は水質対策などの実験施設となっている。ポンプ室は貯水槽に揚水するための渦巻ポンプ3台を置く建物で青銅葺煉瓦造。皇太子時代の大正天皇が疏水を舟下りする計画があり要人が出迎える場所にする予定で疎水側にも玄関がある。 |
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{右・寄}青龍山 安養寺 [西山浄土宗] 左京区粟田口山下町8 橋を渡り緩やかな石段を登ると共に大正15年(1926)建立の鳥居と灯籠1基がある3叉路があり左を登ると山門。慈覚大師が延暦寺別院として創建した一切経堂が起こり。応仁の乱で焼失し延徳年間(1489-92)比丘尼智照が現在地に庵を建て復興し天正18年(1590)道観(永養)が改宗し安養寺となり明治以降に光明寺末寺となった。本尊は恵心僧都作とされる阿弥陀如来像。慈覚大師像も所蔵する。3叉路真ん中の道を進むと左に別の門もある。本堂右の不動堂に石造不動明王立像があり大日山(旧:東岩倉山)山頂にあった観勝寺大日堂のものとされ東巌倉不動明王と呼ばれる。他に境内には共に天保6年(1835)の手水石と百度石、神社小祠、井戸跡など。3叉路の真ん中を直進すると市営大日山墓地。 |
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{右・寄}日向大神宮 山科区日ノ岡一切経谷町29 3叉路を右に行くと300m左。顕宗天皇の代(485-87)に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移し祀った地で天智天皇がこの山を日御山と名付け清和天皇の勅願により創建された。京都最古の宮とされる。祭神は内宮が天照大神で外宮が天津彦火瓊々杵尊。応仁の乱で焼失し寛永年間(1624-44)に仮宮で再建後、天皇家などの寄進で境内が整えられた。境内社に神田稲荷神社、厳嶋神社、朝日天満宮、福土神社、猿田彦神社、御井神社(朝日泉)、戸隠神社(天の岩戸)、多賀神社、恵美須神社など多数。朝日泉は貞観年間(859-77)疫病が流行した際に泉の水を与えると治ったと伝わり 毎年元旦には若水祭と呼ばれる神事も行われる。内宮前左に影向岩、駐車場奥からさらに登ると伊勢神宮遥拝所もある。
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{右・寄}義経大日如来 大神宮橋手前を左折して琵琶湖疎水沿いの遊歩道を少し進むと左の児童公園の奥にある。承安4年(1174)金売り吉次と奥州へ向かう遮那王(義経)がこの辺りを通った際にすれ違った美濃の武士・関原與市重治の馬が蹴上げた水が遮那王にかかってしまった。怒った遮那王は與市と従者8人を切り殺したと伝わり蹴上の地名の由来にもなっている。如来像は村人が9人の菩提を弔うため造った石仏の1つとも後に京に戻った義経が自戒のため安置したものとも伝わる。山科には遮那王が血の付いた刀を洗ったとされる御陵血洗町という地名や腰掛石、血洗池跡もある。如来の手前右には田邊朔郎が明治35年(1902)工事犠牲者17人の慰霊のため建立した「一身殉事萬戸霑恩」碑(琵琶湖疏水殉難碑)もある。 |
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{右・寄}蹴上インクライン広場 そのまま遊歩道を進んで行くと複線のレールがある広い場所が遊歩道の続きとなっている。インクラインは高低差が36mある蹴上船溜と南禅寺船溜を結ぶ傾斜鉄道でレール上の台車に船を載せ陸上をロープで引いた。琵琶湖疎水完成の翌年の明治24年(1891)土砂を埋立て敷設。全長320間(582m)で動力は蹴上発電所の電力を利用し2段変速が可能で片道10〜15分だった。京阪電鉄の開通などで利用が減り昭和23年(1948)運転停止し3年後に舟運もなくなった。遊歩道の右側は蹴上疏水公園として整備され山ノ内浄水場導水管(直径1.65m長さ4m重さ5t)、奥に大正12年(1923)賀茂川と高野川の合流点に建てられ昭和16年に移された朔郎紀功碑(高さ4.5m)、横に昭和57年建立の朔郎銅像などがある。 |
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市営地下鉄蹴上駅 東海道を進むと少し先右に1番出口、斜め向かいに2番出口がある。平成9年市営地下鉄東西線醍醐駅〜二条駅間開業とともに開業。それに伴いウェスティン都ホテル京都前にあった京阪電鉄京津線蹴上駅は廃駅となった。この付近は江戸時代は京の出入口として茶屋が並び旅人と送迎客で賑わっていた。大名や武士にとっては京に入る前の身支度を整える場所でもあった。大田南畝も享和元年(1801)刊「改元紀行」に蹴上の茶店で休憩し身支度を整えたと記述している。元治元年(1864)刊「再撰花洛名勝図会」には街道に面した日向大神宮一之鳥居横に弓屋、向かいに藤屋、井筒屋などの茶屋とともに東海道を通る牛車や大勢の旅人の様子が描かれている。駅付近から東海道は左右とも東山区となる。 |
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{右・寄}ねじりマンポトンネル 2番出口の向かいにある。インクラインをくぐるためのレンガ造りアーチの歩行者用トンネル。レンガが螺旋状に積まれておりねじりの構造は強度を保つレンガ積み技法の1つ。トンネル入口には「雄観奇想」出口には「陽気発処」扁額があり共に琵琶湖疎水を計画した京都府知事・北垣国道の揮毫。出口側の扁額は破損している。北垣国道は天保7年(1836)但馬国の豪農の生まれで戊辰戦争前に鳥取藩に仕官し維新後は高知県令、徳島県令、北海道庁長官、貴族員議員、枢密院顧問官を歴任した。京都市上下水道局疏水事務所(左京区聖護院蓮華蔵町35)には明治35年(1902)建立されたものの戦争供出され平成2年に再建された銅像がある。トンネルをくぐれば何有荘や南禅寺などへ通じる。 |
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{右・寄}何有荘(かいうそう) 左京区南禅寺福地町46 トンネルを抜けてしばらく行くと正面。南禅寺塔頭の正因庵、寿光院跡地に明治28年(1895)植治こと小川治兵衛が作庭した6千坪(1万9800平方m)の回遊式庭園。明治38年(1905)稲畑産業の創始者・稲畑勝太郎所有となり和楽庵と称したが昭和28年(1953)宝酒造社長・大宮庫吉所有となり何有荘と命名された。昭和59年日本工業社長・大山進、平成3年大日山法華経寺、平成18年津多家と所有者が変わり平成22年米オラクルCEOのラリー・エリソンが購入した。平成16年100年ぶりに一般公開されたが現在は非公開。表門を入ると明治時代の洋館、右に庭園入口。庭園に入り石橋を渡ると神泉亭があり鐘楼や池が見える。奥に茶室「龍吟庵」「残月亭」、本堂もある。丘の上には草堂、能舞台がある。 |
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{右・寄}瑞龍山 南禅寺 [臨済宗南禅寺派] 左京区南禅寺福地町86 そのまま門前の道を左に進んで行くと境内に入る。正応4年(1291)亀山法皇が開基、無関普門(大明国師)が開山し龍安山禅林禅寺と称し正安年間(1299-1302)に南禅寺となった。本尊は釈迦如来。日本最初の勅願禅寺で京都五山、鎌倉五山より上の別格扱いの寺で日本の全て禅寺で最高格式を持つ。天正年間(1573-92)築の大方丈と寛永年間(1624-44)築の小方丈からなる方丈は昭和28年(1953)国宝。藤堂高虎が大坂夏の陣の戦死者を弔うために寄進した寛永5年(1628)築の三門(山門)は京都3大門の1つで明治32年(1899)国重要文化財。寛永18年(1641)築の勅使門も昭和31年国重要文化財。 方丈前の小堀遠州作とされる枯山水庭園は昭和26年国指定名勝。境内は平成17年国指定史跡。
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{右}旧:蹴上発電所(旧:京都大学化学研究所原子核科学研究施設) 2番出口すぐ先の蹴上交差点はそのまま左カーブし三条通りを進む。すぐ先の道の右下に煉瓦造の建物がある。明治45年(1912)蹴上発電所の第2期工事で完成した建物で昭和11年(1936)まで発電所として使用され昭和27年から昭和63年までは京都大学化学研究所原子核科学研究施設となっていた。蹴上発電所は明治24年(1891)運転開始した日本初の商用発電所で琵琶湖疎水の水を利用し発電し市内の電灯、工場、インクラインの動力、電車などに電気を供給した。昭和17年市から関西電力に委譲され現在は背後にある昭和11年第3期工事で完成したコンクリート建物が関西電力蹴上発電所となっている。明治期の発電設備の1部は琵琶湖疏水記念館(左京区南禅寺草川町17)に展示されている。 |
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{左}ウェスティン都ホテル京都 東山区粟田口華頂町1 向かい。明治23年(1890)油商の西村仁兵衛が華頂山麓に料亭「吉水園」を開業したのが起こりで明治33年(1900)洋式に改築・増築して都ホテルとして創業。部屋数18室、外に玉突場、酒場、食堂2、談話室2があり庭園には運動場もあった。京都ホテルと並ぶ京都の2大ホテルで外国人の宿泊も多かった。大正4年(1915)日本生命社長・片岡直温が社長に就任し株式会社となり戦後には2年間進駐軍に接収された。平成12年近鉄グループが買収し平成14年スターウッド・ホテル&リゾートと提携しウェスティンホテルとなる。葵殿庭園は昭和8年(1933)7代目小川治兵衛(植治)が作庭、 佳水園庭園は大正14年(1925)8代目小川治兵衛の作庭で共に平成6年市登録名勝。この先はなだらかな下り坂を進む。
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{左}佛光寺本廟 [真宗佛光寺派] 粟田口鍛冶町14 ホテルを過ぎ少し先。佛光寺20世随如が元禄年間(1688-1703)佛光寺廟堂を移して創建した親鸞御廟所を中心とした真宗佛光寺派の墓所。入口に文政3年(1820)灯籠、右に昭和4年(1929)寺名石柱。参道を進み明治中期築の山門を入って右に御茶所、手水石、鐘楼、左に光寿堂(納骨堂)、本堂。山門前灯籠は寛延3年(1750)。境内左奥が親鸞の遺骨を安置する御廟所に続く。境内右奥に弘化3年(1846)建立の普門律師(円通)顕彰碑「梵暦開祖之碑」、大正6年(1917)「三條小鍛冶宗近之古跡」碑。宗近は平安中期の刀匠・粟田口宗近(信濃守粟田藤四郎)のことで合槌稲荷神社付近に住んでいたとされここには刀剣を鋳る際に用いた井戸があったと伝わる。山門前の通りは古くは東海道だった時期もある。 |
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{右}「三條通 東 大津道」道標 少し進んだ交差点の角にある。建立年不明で高さ110cm。正面に「三條通」の下に「東 大津道」とあり左面に「左」の下に「動物園」「真如堂」と並び下に「黒谷 道」とある。動物園とは東京の上野動物園に続き国内2番目の動物園として明治36年(1903)開園した京都市動物園(左京区岡崎法勝寺町126)のことで右折300m左にある。市費と市民の寄付で創設され開園時の収容動物は61種238点だった。黒谷とは金戒光明寺[浄土宗](左京区黒谷町121)のことでさらに北西500m先。さらに先に真如堂(鈴聲山真正極楽寺)[天台宗](左京区浄土寺真如町82)がある。手前右の骨董店・兵部(東山区中之町216-4)の鉄格子シャッター内には正面に「右 三条大橋」左面に「左 おゝつ路」と刻まれた道標(高さ75cm)もある。 |
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{左・寄}華頂山 良恩寺 [浄土宗西山禅林寺派] 粟田口鍛冶町7 交差点を左折し細い道を進み突き当たりを左折すると右に山門がある。非公開寺院。永禄年間(1558-70)の創建。本尊は阿弥陀如来座像で小野篁の作と伝わる。背後の華頂山にあった火葬場の管理をしていたとされ地蔵堂に安置される伝教大師作と伝わる地蔵は火葬場に送られる死人に引導を渡すという意味で導引地蔵と呼ばれた。付近に住む茶人・粟田口善法に秀吉が贈ったという伊勢国の鋳物師・辻越後守家種の作の手取釜を所蔵する。江戸後期の国学者・伴蒿蹊による寛政2年(1790)刊「近世畸人伝」には秀吉が利休に命じて善法が持っていた釜を譲るよう説得させたが善法が拒んで壊してしまったので利休が見た記憶を頼りに釜を2つ造らせ1つは秀吉自身が使用し1つは善法に贈ったとある。 |
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{右}合槌稲荷神社 交差点の少し先右の京都三条廣道郵便局(中之町210-5)の1軒挟んだ角に赤鳥居、「合槌稲荷大明神参道」石柱、説明立札がある。右折して参道を進み突き当たりを左折し民家の間を抜けると境内。平安中期の刀匠・三條小鍛冶宗近が祀った、信仰したとされる神社。祭神は倉稲魂命。謡曲「小鍛冶」では一条天皇の勅命で剣を打つことになった宗近が向い槌を打つ相槌役がおらず稲荷神社に祈願すると化身の童子が現れ2人で名刀・小狐丸を造ったとされている。境内入って右に「小鍛治水」小石碑、手水石。社殿右に昭和39年(1964)灯籠。境内左に境内社の二宮弁財天社、昭和39年灯籠など。他に宗近が造った刀では三日月宗近(東京国立博物館所蔵)が有名で昭和26年(1951)国宝で天下5剣の1つ。 |
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{左}粟田神社 粟田口鍛冶町1 斜め向かい。貞観18年(876)藤原興世が創建したとされ主祭神は建速素盞嗚尊と大己貴命。他に八大王子命、奇稲田比賣命など。荒廃後の永久年間(1113-18)第46世天台座主・忠尋が再興するが応仁の乱で焼失。明応9年(1500)吉田兼倶による再建後に感神院(現:八坂神社)も勧請した。感神院新宮、粟田天王社(八大王子社)とも呼ばれ明治に粟田神社となった。街道から少し入った右に平成元年「粟田焼発祥之地」石柱、左に昭和15年(1940)「出世恵美須神社参道」石柱。その先に天明2年(1782)灯籠。参道の先の石段を登ると神馬像。 文政6年(1823)本殿と元禄16年(1703)拝殿は平成8年市指定文化財。他に庚申堂、能舞台。境内社に出世恵美須神社、北向稲荷神社、鍛冶神社、大神宮など。
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{右・寄}「粟田口」石柱 しばらく進み三条神宮道交差点を左折し少し先左の旧:白川小学校(夷町175-2)入口左に昭和45年建立の石柱(高さ113cm)と説明板がある。粟田口は三条通の白川橋以東から蹴上付近までの地名で京の7口の1つ。東海道、東山道、北陸道の出入口にあたり三条口、三条橋口、大津口とも呼ばれた。平安遷都以前は粟田郷と呼ばれ粟田氏が本拠としていた。平安末期から付近には刀鍛冶が住み寛永年間(1624-45)瀬戸から来た三文字屋九右衛門の開窯がきっかけで江戸時代は粟田焼の産地となったが明治以降は衰退した。石柱を過ぎて少し進んだ十字路左には昭和14年(1939)「尊勝院 庚申堂参道」道標もある。白川小学校は平成23年度から近隣校と統合され東山開睛館(多門町155)となった。 |
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{右}「平清の道」石柱 西町151-1 交差点渡った右のテナントビルSAKIZO神宮道の前にある。平成9年建立で高さ123cm。左面に「左 八坂神社から清水寺」右面に「右 南禅寺から平安神宮」とある。平清の道とは北の平安神宮、南の清水寺を結ぶ道。平安神宮は右折500m正面で交差点からは赤い鳥居も見え通りは神宮道とも呼ばれる。清水寺は左折して知恩院、円山公園、高台寺などを経て2kmほど先。他にビル前には昭和56年「地球の四季の図」石柱、昭和47年「さきぞうブランド」石柱、昭和47年「般若陽陰の図」石柱など6基の石柱がある。ビル外壁にはちりめんデザイナー・田村佐起三の「般若陽陰の図」が描かれ由来説明プレートもある。源氏物語から着想を得た般若の図で壁画がある横の店舗がSAKIZO SHOP神宮道三条店。 |
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{右}一切経山 金剛寺 [浄土宗] 五軒町124 少し先の山本美容室(五軒町125)隣。少し奥に山門がある。行基が東岩倉山の一切経谷に堂を建立し阿弥陀如来を安置したのが起こり。「上の堂」と呼ばれていたが応仁の乱で荒廃し粟田に移転、粟田惣堂と呼ばれる仮堂だったが慶長7年(1602)浄土宗の僧・岌然が青蓮院の許可を得て現在地に移して再興した。本尊は行基作と伝わる木造阿弥陀如来座像(高さ4.8m)で応仁の乱で首から下が焼失して以降は頭部だけであったが正徳3年(1713)修復された。山門入って左に天明6年(1786)「本尊阿弥陀如来 行基剋」「阿弥阤峯一切経谷阿彌陀堂」石柱。本堂は享保15年(1730)築。境内左に昭和6年(1931)石造地蔵立像、観音堂、座像石仏(供養佛)がある。洛陽48願所第27番札所。 |
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{左}坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡 五軒町112 少し先の東山ユースホステル前に平成21年建立の石柱と説明碑、背後のガラスに2人の写真がある。2人の結婚には諸説あるが明治32年(1899)頃に元海援隊士・安岡金馬の3男・秀峰がお龍から聞き取りまとめた回想録「反魂香」によると元治元年(1864)青蓮院の塔頭・金蔵寺本堂にて住職・智息院の媒酌により30歳の坂本龍馬と24歳の楢崎龍は祝言を挙げた。龍の亡き父・将作が青蓮院宮の侍医だったことがこの地を選んだことに関係するとされている。明治になって廃仏毀釈により金蔵寺は廃寺となったがこの付近から南が寺跡にあたる。東山ユースホステルは平成23年に廃業し跡地にはマンションが建設予定。向かいのローソン東山三条店(五軒町113)がある建物左前には石仏の小祠もある。 |
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{左}三条白川橋道標 少し先の三条白川橋で白川を渡る手前にある。延宝6年(1678)建立で高さ157cm。京都に現存する最古の道標で昭和62年市登録文化財。正面に「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水 みち」右面に「三条通 白川橋」左側に「京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽」とある。橋手前を左折し白川に沿った道を行くと知恩院、祇園、清水寺へと向かう。平成13年に車が追突し折損し補修されており「ぎおん」の「お」あたりに補修跡がある。道標後ろには平成17年設置の鉄柱もある。 |
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{左・寄}明智光秀首塚 橋手前を左折し少し左の光秀饅頭を売る和菓子屋・餅寅(梅宮町475)前に弘化2年(1845)「東梅宮 明智光秀墳」石柱があり左折していくと左。天正10年(1582)山崎の戦いで秀吉に敗れ自刃した光秀の首は粟田口処刑場に晒された後に西小物座町に埋められ五重石塔(首塚)が築かれた。明和8年(1771)子孫を自称する明田理右衛門がこの付近の自宅へ移し明治になってこの地に移された。周りには明治36年(1903)市川団蔵建立の「長存寺殿明窓玄智大禅定門」碑、説明立札、文久2年(1862)手水石、光秀木像と位牌を安置した小堂もある。首は自刃後に家臣・溝尾庄兵衛が知恩院まで運ぼうとしたが途中のこの地に埋めたとも伝わる。三条白川橋渡ると右に地下鉄東山駅1番出口。100m左に2番出口。 |
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{右・寄}多宝富士山 要法寺 [日蓮本宗] 左京区法皇寺町448 その先の東山三条交差点から東海道は府道37号線となる。渡って少し先に昭和3年(1928)寺名石柱があり右折正面が寺。延慶元年(1308)日尊が開基した法華堂が起こり。天文5年(1536)に暦応2年(1339)創建の上行院と正平17年(1362)創建の住本寺が焼失したため天文19年に日辰が統合して再建し要法寺とした。本尊は十界曼荼羅。宝永5年(1708)焼失し現在地に移転。昭和25年日蓮宗から日蓮本宗が独立し本山となる。表門は享保9年(1724)西門は安政4年(1857)伏見桃山城跡からの移築とされる。安永3年(1774)本堂の左に天保元年(1830)開山堂、前に清涼池、右前に元文2年(1737)鐘楼堂、右に安政8年(1779)薬医門。境内右に明和8年(1771)鬼瓦、方丈。他に本地院、真如院など塔頭8院もある。 |
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{左}村山造酢本社工場 東山区三町目2 すぐ先。「銘酢 千鳥」看板がある建物。備前岡山の池田藩士だった初代が享保年間(1716-36)京に移住し創業。酒造の傍ら酢や醤油も造っていたが次第に友禅染の色止め剤や京料理に欠かせない酢の需要が高まり主力となった。平成7年の阪神淡路大震災で被災した江戸時代の醸造蔵を近代建築で囲った平成9年築の現社屋は市都市景観賞市長賞を受賞。商標の「千鳥」は詠み人知らずの古歌「加茂川や 清き流れに 千鳥すむ」に由来する。主力商品の京酢「加茂千鳥」は米と水を原料とした米酢でまず原料となる酒を造るところから半年かけて醸造する。米酢と京の白味噌を用いた「都すみそ」、米酢に薄口醤油と柑橘果汁を加えた合わせ酢「甘露千鳥」もある。 |
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{左・寄}城安寺 [浄土宗] 南西海子町424 村山造酢の手前の道を左折して行くと左にある。創建時期は不明で元は伏見にあり寛永6年(1629)に現在地に移転してきた。それ以前のこの付近は青蓮院の土地で畑だった。境内は狭く山門、本堂、庫裏のみ。慶応3年(1867)3月20日には新撰組から分離した伊東甲子太郎ら御陵衛士15名が1泊した。甲子太郎の手記には分離後の宿舎がなかなか見つからなかった様子が書かれており三条付近を数日探し城安寺にようやく1泊できた。その後、五条橋東詰にあった寺(長円寺又は善立寺)を経て6月に高台寺塔頭の叢林山月真院[臨済禅宗建仁寺派](下河原町528)を屯所とした。 |
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{左・寄}大将軍神社 長光町640 寺の向かい。村山造酢の真裏にあたる。桓武天皇が延暦13年(794)平安京を造営した際に都の4方に祀った大将軍神社のうちの1つとされる。祭神は素盞嗚尊。相殿には藤原兼家を祀る。境内社に荒熊稲荷社、東三條社(天満宮)、白龍弁財天など。境内中央に拝殿。稲荷社右に榎(樹高24m幹周3.1m)、本殿左に樹齢800年のイチョウ(樹高26m幹周4.1m)があり双方とも区民誇りの木に指定されている。境内には他にも榎やクロガモチなどの大木がある。古くは平家物語で源頼政が退治する鵺の住処「東三条の森」を思わせる深い森があり鵺の森と呼ばれていた。付近には兼家ら藤原摂関家の広大な邸宅・東三条殿があり藤原家由縁の天皇の里内裏にも利用されたが仁安元年(1166)焼失以降は荒廃した。 |
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{右}辻留 京都本店 三町目16 少し先にある。「茶懐石 辻留 出張専門」看板がある建物。明治35年(1902)辻留次郎が創業した懐石料理の名門。留次郎は裏千家13世家元・圓能斎宗室に茶懐石を学び料理人が出向いて料理を作る仕出しスタイルを確立した。昭和初期から裏千家の出入り料理店として正月の初釜などの行事で茶懐石を担当する。本店は出張専門で客席はないが昭和29年(1954)開店した東京赤坂店(港区元赤坂1-5-8)は客席もある店舗になっている。京都ではグランドプリンスホテル京都(左京区岩倉幡枝町1092-2)の茶寮に仕出しをしている他、京都駅ビル直結のジェイアール京都伊勢丹(下京区東塩小路町657)地下2Fで弁当(5,250円〜)を販売している。建物の右前には昭和42年改修の離厄地蔵尊の小祠がある。 |
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{左}慈眼山 大蔵寺 [浄土宗西山禅林寺派] 二町目59 少し先右のデイリーヤマザキ京都三条店(二町目55)向かいに入口。本尊は阿弥陀如来。寺名石柱は昭和11年(1936)の建立。山門入って左に地蔵の小堂。境内左に本堂、正面に書院、庫裏。他に境内には五重石塔がある。東山開睛館(多門町155)の前身の1つである有済小学校が明治13年(1880)焼失した際は新校舎完成までの半年間は仮校舎として利用された。写真家で日本風景写真協会初代会長の上杉満生の菩提寺。少し先向かいには地下鉄三条京阪駅1番出口がある。 |
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{右・寄}獨妙山(独妙山) 超勝寺 [浄土宗西山深草派] 左京区超勝寺門前町82 少し先左のいろは旅館(大橋町84)向かいを右折して行くと右。門左前に昭和58年築の大日如来の祠、昭和13年(1938)建立の寺名石柱、松。境内中央に座像銅像、左に書院、右に庫裏、正面に本堂がある。幕末の勤皇芸者で祇園一の美貌を誇ったという中西君尾の墓がある。19歳で祇園の島村屋の芸者となった君尾は長州藩士や薩摩藩士らと交流を持ち勤皇志士の手助けをした。長州藩士・井上馨(聞多)に贈った手鏡が懐で刺客の剣を受けたため井上の命が助かった話は有名。他に京舞井上流の家元・井上八千代の初代(井上サト)、2代(井上アヤ)、3代(片山春子)の墓や粟田焼の名工・錦光山茂兵衛の墓もある。 |
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{右・寄}法城山晴明堂 心光寺 [浄土宗] 左京区超勝寺門前町80-1 超勝寺斜め向かい。陰陽師・安倍晴明が鴨川の氾濫を鎮めるために五条橋(現:松原橋)の東北の鴨川の中洲に建立した法城寺[真言宗]が荒廃し慶長12年(1607)知恩院[浄土宗]の末寺としてこの地に再興したのが起こりと伝わる。本尊は阿弥陀如来。法城寺時代のものとされる阿弥陀如来と地蔵菩薩も所蔵する。寛弘2年(1005)85歳で没した晴明の墓も移されたとされるが現存しない。晴明の墓については京都を始め全国各地に多くの伝説地がある。境内左に庫裏、正面に本堂、境内右に石仏、松がある。東海道を少し進むと左に地下鉄三条京阪駅2番出口。その先左のKYOUEN(大黒町137)は平成16年に整備された京阪電鉄京津線京津三条駅跡で商業施設に囲まれた中央は庭園となっている。 |
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{右}朝陽山栴檀王院 無上法林寺(檀王法林寺) [浄土宗] 法林寺門前町36 向かい。古くは蓮華蔵寺[天台宗]と称していた寺を文永9年(1272)望西楼了恵が改宗し朝陽山悟真寺としたのが起こり。永禄年間(1558-69)焼失したが琉球の布教から戻った袋中良定が慶長16年(1611)現寺名で復興し元和5年(1619)後を継いだ團王が恵心僧都作とされる阿弥陀如来立像を本尊とし本堂を建立した。街道沿いに「浄土宗 だん王」寺名石柱。明治21年(1888)築の三条門(南門)を入ると右に石碑石仏石塔群、明治21年(1888)楼門の先に寛政3年(1750)本堂。本堂右に庫裏と児童館、左に童地蔵、保育園、観音堂、竜神堂がある。境内左に樹齢300年の大銀杏切株。 本堂と川端門(西門)、墓地内の霊屋2棟は昭和59年市指定文化財。他にも琉球から寄進された書棚、香炉などを所蔵する。
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{左}高山彦九郎皇居望俳之像 少し先。高山彦九郎正之は延享4年(1747)上野国新田郡細谷村(現:群馬県太田市細谷町)に生まれ13歳の時に太平記を読み勤皇に目覚めた。18歳で家を出て各地で幕藩体制を批判し勤皇論を説き幕府や各藩に追われて寛政5年(1793)筑後国久留米の友人・森嘉膳宅で46歳で自刃した。京都に出入りする折には京都御所に向かって拝礼しその姿は幕末の歌人・橘曙覧の歌に詠まれたり明治中期の俚謡・サノサ節に謡われるなどした。銅像は昭和3年(1928)に最初に建立されたが昭和19年に金属供出され現在の像は昭和36年の再建。左にある「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」石碑(高さ162cm)は供出時に銅像の代わりに建立されたもの。像の後ろには昭和59年建立の直筆歌碑と説明石柱もある。 |
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三条大橋 すぐ先に三条大橋交差点があり周辺には京阪電鉄三条駅の5〜10番出口がある。交差点の先が橋。最初に架けられた時期は不明で室町前期に架けられた際は簡素な橋だった。天正18年(1590)秀吉が奉行・増田長盛に命じて礎は地中に5尋(9m)埋め橋脚が63本ある本格的な橋が架けられた。橋脚に石を使った日本初の橋で東海道名所図会などにも石の橋脚が描かれているが広重の保栄堂版は橋脚が木で描かれている。幕府直轄の公儀橋でたびたび流失しても幕府によりすぐ修復された。現在の橋は昭和25年(1950)竣工のコンクリート橋で長さ74m幅は15.5mの2車線で欄干は木製。広重が描いた時代は長さ100m以上ある長い橋だったとされ四条大橋、五条大橋とともに京三大橋と呼ばれた。 |
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{左}「花の回廊」石碑 橋手前左にある。平成11年建立。花の回廊は昭和62年に三条〜七条間の京阪電鉄本線と琵琶湖疏水が地下化されたため跡地を活用した2.3kmの散策路のこと。平安京遷都1200年記念として平成4年から整備され平成11年完成。シダレザクラ、モミジ、ヤナギ、ユキヤナギ、コムラサキシキブ、ツツジ、ドウダンツツジ、ヤマブキなどの木が植えられ毎年4月初旬には「鴨川さくらまつり」も催されライトアップもされる。一般公募された和歌や俳句の碑も所々に設置されている。「花の回廊」石碑の右前には「我が心 きよめ流るる鴨川は 優しき母の まなざしに似て 堀井由紀」左前には「かもがわに どこからきたの ゆりかもめ 安住仁史」の碑がある。 |
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{右}駅伝の碑 橋の手前右に橋の説明立札がありその少し奥にある。大正6年(1917)開催された東海道駅伝徒歩競争の記念碑(高さ145cm)で平成14年建立。上部は「駅伝の歴史ここに始まる」と題し説明と走者のイラスト、下部の土台にはコースである東海道の宿駅が刻まれている。奠都50周年記念大博覧会を盛り上げるため読売新聞社が企画したもので社会部部長で歌人でもある土岐善麿が「駅伝」という言葉を最初に使ったとされる。3日間かけて京都〜東京間を関東組と関西組の2チームが走り関東組が1時間24分差で勝利した。508kmを23区間に分け最長区間は22区(藤沢-川崎)の33km、最短区間は19区(三島-箱根)の13km。ゴール地点の博覧会場玄関前だった東京・上野の不忍池畔にも同じ碑がある。 |
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鴨川(賀茂川、加茂川) 北区雲ヶ畑の桟敷ヶ岳や魚谷山を源流とし京都盆地を南北に流れ桂川に注ぐ。延長31km流域面積210平方km。古くから氾濫を繰り返す暴れ川として知られ天長元年(824)には治水を担当する防鴨河使という官職も設けられた。白河法皇は自らの意に沿わないものである天下三大不如意の第1を「賀茂の水」としている。寛文10年(1670)には今出川通〜五条通まで堤防も造られた。昭和10年(1935)にはと三条大橋や五条大橋も流出するなど大きな被害が出て昭和22年川底を掘り下げるなどの改修工事が行われた。江戸時代には京友禅を鴨川の流れにさらす「友禅流し」も行われていた。二条から五条にかけての西岸は5月から9月にかけて京都の夏の風物詩の1つである納涼床の場所となる。 |
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池田屋騒動刀傷跡擬宝珠 橋の擬宝珠は全部で12あり天正18年(1580)や昭和25年(1950)のものが混在している。江戸側から4つ目の左右の擬宝珠には文久3年(1863)新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した池田屋騒動の際に付いたとされる刀傷がある。池田屋は橋を渡り少し先の高瀬川に架かる三条小橋を渡った右にあり現在はチムニーが経営する居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」(中京区中島町82)になっており前には昭和2年(1927)「維新史蹟 池田屋騒動之址」碑もある。他に江戸側から2つめの左の擬宝珠には昭和10年に流され昭和25年に造られたことが刻まれている。橋を渡ると東山区から中京区になる。渡った右には高札場があったとされ現在は「天正十七年津国御影」と刻まれた石柱(旧橋脚)が置かれている。 |
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{左}弥次喜多像 橋を渡るとある。東海道の西の起点のシンボルとなるよう三条小橋商店街が依頼し京都在住の彫刻家・小山由寿が平成6年に製作した。十返舎一九「東海道中膝栗毛」の主人公である弥次郎兵衛と喜多八をモデルにしたもの。像右には「道中安全祈願」立札があり「ふれあいの弥次喜多さん 旅は道づれ世は情 道中安全願いつつ ふれて楽しい 旅の始まり」とある。物語では伊勢参りの後に京都めぐりをし三条大橋近くの宿屋に泊まってハシゴを買わされる。膝栗毛は5編までが江戸〜伊勢、6編と7編が京都、8編が大坂となっている。その後も「続膝栗毛」として金比羅宮、宮島、木曽街道〜善光寺、草津温泉、中山道〜江戸と旅は続く。 |
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{左}撫で石 弥次喜多像のすぐ左。左に「弥次喜多像」と「撫で石」の説明が1枚になった説明板や「三条大橋擬宝珠刀傷跡」説明板もある。西院春日神社(右京区西院春日町61)の境内社・還来神社(もどろきじんじゃ)にある撫でて旅の安全を祈願する「梛石(なぎいし)」にならい旅の安全を祈願して設置された。京都に産出する鞍馬石で酸化鉄の含有により玉葱状剥離が現れ鉄錆色が表面を覆っているのが特徴。還来神社は淳和天皇の皇后・正子内親王が晩年の貞観16年(874)に住まいの火災で一度は別邸に移ったものの再び戻れたことに感謝し祀ったことから「還来の神」として信仰されるようになった。撫で石は東海道歩きを出発する際は道中の安全を、到着した際は再びここに戻れるよう願って撫でる人が多い。 |
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