東海道ルートガイド
手原〜目川

{右}法界寺(六地蔵地蔵尊) [曹洞宗] 六地蔵601
六地蔵に入り少し先で道がカラー舗装になり左にカーブすると少し先。街道沿いに寛政4年(1792)灯籠。山門前右に大正15年(1926)「国寳 地蔵尊」石碑。六地蔵の地名は岩上神社背後の日向山の麓にあった陀羅尼寺の本尊である6体の地蔵が由来で6体のうち1体がこの寺の本尊として現存し明治33年(1900)国重要文化財。平安時代作の木造地蔵菩薩立像(96.5cm)で桧1本造。現在は無住のため福正寺に移されされている。境内は公園のようになっておりベンチ、奥にはすべり台などの遊具、小さなバスケットコートもある。境内右の本堂右前の灯籠は天保8年(1837)左前の手水石は文政6年(1823)。本堂左には稲荷神社、境内左奥には愛宕神社。他に昭和3年(1928)御大典記念塔、石仏石塔群など。
{左}日向山印松院 浄玖寺 [浄土宗] 六地蔵393
少し先にある。天正13年(1585)定玖が創建した。山門入ると境内右に鐘楼。その前に平成16年建立の1石に彫られた6地蔵と説明碑がある。本堂前灯籠は大正5年(1916)。本堂前右に「旅立ちの法然さま」と台座に刻まれた平成14年建立の石造法然立像もある。本堂前と右には鬼瓦が並べられている。街道沿いの寺名石柱は昭和30年(1955)建立で寺の向かいには丸ポストもある。
{右}高野山 福正寺 [真宗大谷派] 六地蔵574
少し先。元は天台宗の寺で別の所にあったが寛正2年(1461)正善が改宗中興し寛永6年(1629)現在地に移転。本尊は阿弥陀如来。街道沿いに「蓮如上人御舊跡」石柱、昭和41年寺名石柱。山門前の灯籠は大正7年(1918)。山門入った左に鐘楼と平成16年蓮如銅像。境内右の枝が広がった松の横に鎌倉末期の石造多宝塔があり昭和43年市指定文化財。本堂左前に蓮如上人御逗留地碑、境内右に電柱のような昭和12年(1937)献燈、境内左に井戸跡、手水石。敷地は六地蔵城跡とされ南北朝時代以降に六角氏の家臣の高野氏が居城し永正年間(1504-20)頃からは青地氏の家臣の林氏が居城し永禄11年(1568)信長に敗れ廃城になった。六地蔵の北に栗東市高野、東に栗東市林の地名が残る。
{左}和中散本舗大角家 小休本陣
少し先で道が右にカーブするとある。手前左の電柱前には石仏。店舗・製薬場に隣接してほぼ同時期に増築された茶屋本陣部分で街道に面して正門と袖塀、門左前に庭園の説明板、右前に昭和26年(1951)「史跡 舊和中散本舗」石柱がある。多くの大名が休憩した他、安永2年(1774)には松江藩主・松平治郷が宿泊した。明治天皇も明治元年(1868)など3回訪れ手を温めた桐火桶、庭園散策時に使った草履などが現存する。門を入った小庭には「明治天皇 英昭皇太后 昭憲皇太后 御駐蹕聖跡」碑もある。玄関の間(10畳)次の間(6畳、8畳)があり一番奥に上段の間(10畳)。上段の間に面した日本庭園は平成13年国指定名勝。曽我蕭白の襖絵、狩野永納の屏風絵、蜀山人の狂歌の書なども所蔵する。
{左}和中散本舗大角家 店舗・製薬場 六地蔵402
すぐ隣。漢方薬「和中散」の製造・販売を行っていた大角弥右衛門家の店舗、製薬場、住居部分の建物で間口67尺(20m)奥行62尺(16m)。元禄年間(1688-1703)築とされ旧東海道の民家としては最大級。高塀造で両端に防火用の卯建壁があり1階は柱が1本おきに外れ茶屋としても利用された。和中散は元和元年(1615)京都の名医・半井ト養の娘を娶った織田家が薬の製法を伝授され売り始めたのが最初で多い時には近隣に7〜8軒の和中散を商う家があった。弥右衛門家は伊勢屋、是斎と称し金功丸、黄膏、神教丸、鎮火五冷散などの薬も作った。現在、薬は製造されていないが建物内はそのまま保存され明治中期まで使われていた動輪付製薬機、石臼なども残る。見学可能(要予約)10時-17時、400円
{右}和中散本舗大角家 住宅隠居所 六地蔵568
向かいにある。長屋門を入った左に大角家の家長が隠居後に住んだ建物があり江戸中期の築とされ現在は子孫が住む住宅となっている。部屋は座敷(6畳)、次の間(4畳)、仏間、奥の間、台所、土間などがあり東面に千鳥破風屋根付玄関、南面に押入が付属する。向かいを大名が本陣として使用している間は家族全員こちらに居住した。所蔵文書に十数回小修理が行われたことが記録されており昭和46年に半解体修理が行われ玄関屋根や台所部分等が整備された。隠居所と向かいの主屋(本舗、本陣)、本陣正門は昭和29年(1954)国重要文化財で敷地全体は昭和24年国指定史跡となっている。長屋門下に平成7年設置の説明板、右には薬師堂もある。
{左}六地蔵一里塚跡(梅の木一里塚跡)(118)
すぐ先で左後方から県道116号線が接近し平行するようになり道路に挟まれた小公園には狸、ベンチ、藤棚、栗東八景「積日の海道と城跡」看板、洪水対応に尽力した塚本兄弟の大正3年(1914)顕彰碑がある。小公園を過ぎるとカラー舗装がなくなりしばらく進むと2つの道路が離れる三角地に一里塚跡がある。平成18年「東海道一里塚」石柱があり左面に「和中散のまち・六地蔵/東へ至 石部の宿」右面に「間ノ宿・六地蔵/西へ至 目川一里塚」とある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも複数の松と記録されている。右の石碑の表には東海道名所図会「梅の木」の絵を転刻し下に説明、裏には六地蔵村古絵図と「六地蔵村」「梅の木」の説明がある。石碑右には小さな盛土もあり桜が植えられている。
{右}修齊学校跡・巡査駐在所跡
一里塚向かいの民家には「指物屋 指亀」屋号札、少し先左に「酒屋 鈴鹿川」その隣に「両替商 茶太」屋号札。江戸時代には一里塚の少し先左には和中散を売る定斎・嶋林家、是斎・織田もあった。少し先右の鎌田酒店(六地蔵717-1)手前に平成21年建立の石柱が2基並んである。修齊学校は明治8年(1875)に伊勢落、林、六地蔵、高野の4村の学校としてこの地に開校し明治26年他村の2校と統合し3年後に新校舎に移転して現在の葉山小学校(高野310)となった。巡査駐在所は明治14年に六地蔵分署として置かれ昭和35年まで存続した。少し先左には地蔵2体の祠もある。
{左}香雲山 高念寺 [真宗大谷派] 六地蔵974
しばらく行くと右に「旅籠 蔦屋」屋号札、さらに先左に「表具師 古梅堂」屋号札があり隣に昭和43年建立の寺名石柱がある。宝徳3年(1451)道順が中興した。本尊は阿弥陀如来。 参道右に石仏5体の祠や松、宝暦7年(1757)灯籠がある。山門入って左に鐘楼。境内左に多宝塔、平成2年建立の親鸞銅像、昭和4年(1929)灯籠。本堂前の灯籠は平成12年と平成13年。本堂前左には平成14年建立の親鸞の言葉の碑がある。境内右は灯籠がある庭園や松。寺の少し先右には蒸気機関車のボックス動輪が庭先に置かれた民家、その先左には紅殻格子の民家がありその先で小野に入る。
{右}小野山 光円寺(光圓寺) [真宗大谷派] 小野891
少し先右の「五葉の松」屋号札がある古い民家の1軒挟んだ隣。明応2年(1493)幸円が創建した。本尊は阿弥陀如来。寺名石柱は昭和43年の建立。石畳が敷かれた参道の灯籠は明治のもの。山門入って左に鐘楼があり端には石仏4体が並ぶ。境内右は庭園。他は本堂、庫裏のみ。向かいには「酒屋清右衛門」屋号札がある古い民家があり屋根に煙出し2階に虫籠窓1階に連子格子の建物や蔵が連なっている。
{右}石谷山 西厳寺 [真宗大谷派] 小野901-1
少し先右の小野公民館の隣に昭和56年建立の寺名石柱がある。天和3年(1683)秀岳が創建した。本尊は阿弥陀如来。現在は無住で小さな堂のような本堂、井戸跡、11体の石仏群があるのみで境内は駐車場になっている。街道沿いに一本松があり江戸時代には人足達がこの松の下で休憩し荷物を担ぐ肩を変えたことから「肩替えの松」と呼ばれた。
{右}「東海道」石柱 手原1-11-1
しばらく進み手原1丁目交差点を渡った駐車場「猪飼ガレージ」角にある。以前は「右 東海道」と間違った方向が彫られていたが現在は「右」が白く塗られ消されている。横には灯籠もある。少し先の駐車場入口には同材質の石による「交通安全」石柱もある。その横にはガレージ名と住所が入った石碑、灯籠もある。手原村は古くは手孕村とも書かれた。東海道名所記には所用で他国に行く村人の若妻を託された友人の男が毎晩他の男が寄り付かないようにその若妻の腹に手を置いて守っていたところその若妻が「手」を産んだと言う話が書かれており手孕(てばらみ)が手原(てばら)に転じたとされている。少し先左の谷久商店(手原1-8-8)には「手原村 魚屋 谷久」屋号札がある。
国道・名神高速道路接続道高架
少し先で東海道は高架をくぐる。北に並行する国道1号と南に平行する名神高速道路の栗東ICを接続している道路が上を通る。名神高速道路の栗東-尼崎間71.1kmは昭和38年(1963)日本初の都市間高速道路(高速自動車国道)として開通し栗東ICは日本初のインターチェンジにもなった。田園風景だった栗東周辺は開発が進み国道1号と8号の分岐点で利便性もあり全国から企業進出が進んだ。高架くぐって少し先左の民家には「手原村 地黄煎屋 飴藤」屋号札がある。
{右}里内家住宅(里内呉服店・かぎて屋) 手原3-4-31
少し先。明治5年(1872)に分家して呉服商を創業した町家の建物で同年築の主屋、中蔵、北蔵、昭和12年(1937)築の離れが平成10年国登録文化財。街道側に「手原村 里内呉服店」屋号札もある。主屋(建築面積202平方m)は木造平屋建1部2階建。主屋の後方西側の離れ(建築面積86平方m)は木造2階建。離れ後方の中蔵(建築面積26平方m)は土蔵造2階建。中蔵後方の敷地の北西隅に建つ北蔵(建築面積69平方m)は平屋建。現在は着物リフォーム.com鍼灸治療院かぎて屋となっている。2代目里内勝治郎は明治41年(1908)私立図書館である里内文庫を設立し昭和21年閉館したが資料2万点は呉服店看板、引札などと共に昭和60年栗東町(現:栗東市)に寄贈され栗東歴史民俗博物館に現存する。
{右}手原醤油 手原3-4-33
道を挟んだ隣。「手原村 手原醤油 塩屋藤五郎」屋号札がある。街道沿いの主屋右に蔵があり奥にも蔵や離れがある。明治23年(1890)「手原醤油引札」や明治24年「江州栗太郡手原村 醤油製造所 里内藤五郎」文書が栗東歴史民俗博物館に現存する。
{左}手原赤坂会館 手原3-9-5
斜め向かいにある。名神高速道路の栗東IC南の赤坂山の名前を取り命名された昭和44年開館の公民館。赤坂山は江戸時代から手原村が柴草や材木採取の権利を有し村の貴重な財源となっていた。明治32年(1899)には全村民72人の共同名義で登記されたが昭和38年(1963)名神高速道路が開通すると周辺開発が進み昭和43年に売却された。現在は赤坂団地などになっている。会館の右前に昭和44年建立の「赤坂山記念碑」がある。江戸時代にはこの付近には高札場があった。
{左}稲荷神社 手原3-9
隣にある。一帯を領し後に手原氏を称した馬淵広政が寛元3年(1245)創建。祭神は稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神。里中稲荷大明神や笠松の宮とも称される。明応9年(1500)木造男神座像を所蔵。神社前は東海道に沿って享和2年(1802)などの灯籠5基、昭和13年(1938)「明治天皇手原御小休所」石柱、掌の形をした「手ハラベンチ」、神社由緒碑、平成17年栗太八景漢詩碑「手原行人」、「右 栗東中學校」道標が並ぶ。境内入った左に「明治天皇御聖跡」石碑。右に「愛宕神社」灯籠型石柱。社殿前灯籠は文化5年(1808)。社殿右奥に境内社の御太刀大明神。社殿裏に神木の椎。境内にはすべり台などの遊具もある。神社裏は稲荷公園で蒸気機関車D51 403号や昭和57年土地区画整理記念碑がある。
{右・寄}三雲山 真慶寺 [浄土宗] 手原4-4-2
神社の先の十字路を東海道は直進するが右折すると少し先左にある。7世紀頃に栗本寺として創建され室町時代に大西大和守が真慶寺として再興した。本尊は阿弥陀如来立像。聖徳太子作と伝わる地蔵菩薩立像も脇仏として安置し手孕地蔵として子授け、安産などの信仰を集めた。明治の廃仏毀釈や農地改革で荒廃し昭和51年から手原地区で管理している。境内右に水子地蔵などの40体の石仏群、聖観音菩薩。境内左に五輪塔14基、石仏50体が安置された小堂、40基ほどの石仏石塔群がある。寺の前を過ぎて100m正面には大正11年(1922)開業のJR手原駅があり駅前広場には手原地区の説明も刻まれた「東経136度の通る駅」モニュメントがある。
{左}猪飼時計店 手原4-6-29
東海道を先に少し進むとある。街道から少し奥に長屋門などの建物があり敷地は代官屋敷跡とも伝わり門の前には石橋や堀の名残もある。手原村には江戸時代には癲癇などに効く薬「仙伝虫脱丸」を製造する猪飼家があった。大田南畝も「改元紀行」に仙伝虫脱丸について記載しており薬の包紙や紙看板が栗東歴史民俗博物館に現存する。向かいの民家には「桶屋 桶常」屋号札がある。
{右}「東経136度 子午線」石柱
すぐ先の十字路を渡った少し先の民家のブロック塀前にある。東経136度0分0秒0の子午線がこの地点で東海道を横切っている。石柱は平成5年建立で左面には「太陽南中時刻 午前11時56分」右面には「北緯35度01分22秒」とある。太陽南中時刻は日本標準時の東経135度を12時として東に1度進むと4分早くなる。実際は地球の自転軸の傾きと公転軌道により毎日変化しており年間で前後15分ほどのずれが生じる。
{左}川崎光雄家住宅 手原5-4-28
斜め向かいにある。街道から少し奥まってある主屋、主屋右手前の北蔵、奥の南蔵が近世の地主農家住宅の重厚な特徴を残す建物として平成10年国登録文化財。明治36年(1903)築で大正元年(1912)頃に現在地に移築されたという主屋は瓦葺木造平屋建で建築面積209平方m。1階は紅殻格子、厨子2階の2階部分は白壁塗で屋根は緩やかなむくり屋根に煙出しがある。北蔵は建築面積17平方m、南蔵は建築面積30平方mで共に大正元年頃の築で瓦葺土蔵造2階建となっている。
{右}川崎睦男家住宅 手原5-3-10
斜め向かいにある。街道に面した主屋、右の東蔵、奥の離れと北蔵が近世の町家の特徴を残す建物として平成10年国登録文化財。明治36年(1903)築の主屋は瓦葺木造平屋建で建築面積151平方m。1階は紅殻格子、厨子2階の2階部分は白壁塗で屋根は緩やかなむくり屋根に煙出しがある。明治中期築の東蔵は瓦葺土蔵造2階建で屋根は置屋根形式で下部は縦板貼りになっており建築面積20平方m。昭和初期築の離れは瓦葺木造2階建で入母屋瓦葺の平屋が付いており建築面積35平方m。離れに連なる昭和初期築の北蔵は瓦葺土蔵造2階建で屋根は置屋根形式で下部は縦板貼りになっており建築面積40平方m。
{右}すずめ茶屋跡 手原5-9-18
その先の十字路を渡り少し行くと右に分岐する道がある角に灯籠型の「東海道 すずめ茶屋跡地」石柱がある。石柱左には「手原村 田楽茶屋 すずめ茶屋」屋号札も地面に直接立てられてている。ここに茶屋があったとされ刷物、版木、豆腐田楽に使用した竹串などが栗東歴史民俗博物館に現存する。石柱の右面には「石部へ(伊勢参道)」左面には「草津中仙道」裏には「志那港道起テン」ともある。志那港は北西6kmの琵琶湖岸にあり対岸の坂本や比叡山延暦寺へ向かう人や物資で古くから賑わった。信長の比叡山焼討ち後は利用が減り江戸時代には琵琶湖対岸へは矢橋港が多く利用された。東海道はその先で緩やかに左カーブし上鈎(かみまがり)に入り県道55号線を渡ると東海道は県道116号線となる。
{左}足利義尚 鈎陣所跡(上鈎いこいの公園)
少し先の上鈎池の土手が小公園になっており平成3年「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」石碑がある。長亨元年(1487)室町幕府9代足利義尚(義煕)は勢力を増していた近江守護・六角高頼の討伐のため管領・細川政元、若狭守護・武田国信、加賀守護・富樫政親らを率い出陣し鈎(現:上鈎、下鈎、安養寺一帯)に陣を置いた。一帯は昭和35年(1960)市指定史跡。戦は膠着状態となり義尚は上鈎に本陣(将軍御所)を造営した。真宝館(鈎の陣)と呼ばれ江戸中期の文書では西方300mの永正寺近辺とされ掘や土塁も現存するが詳細は不明。延徳元年(1489)義尚は病のため25歳で陣没した。碑の周りには義尚などの歌碑7基、木製常夜燈、花時計、恵みの滝、風車、藤棚、ベンチ、ブランコもある。
葉山川橋
上鈎東交差点で池を過ぎしばらく行くと天井川の葉山川があり坂を上って葉山川橋を渡る。江戸時代もここに板橋が架かっていた。橋の上は見晴らしが良く左後方には三上山が見える。橋を渡った左には「東海道」石柱があり右面に「川辺」左面に「上鈎」裏面に「安養寺へ」とある。渡ると川辺(かわづら)に入る。この先は江戸時代には松並木があった。
{左}養煙山 善性寺 [真宗大谷派] 川辺450
しばらく進み川辺交差点を渡った少し先にある。慶安2年(1649)玄竜が創建した。本尊は阿弥陀如来。山門右前に昭和37年(1962)寺名石柱。山門前左に「シーボルトと善性寺」説明板がある。5世堀江恵教は生け花池坊での号を華坊と言い植物学者としても知られた。文政9年(1826)にはドイツ人医師で博物学者のフランツ・フォン・シーボルトが江戸から帰る途中に恵教を訪ねスイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等や庭園を見たと江戸参府紀行に記されている。説明板後ろには松、東本願寺御影堂の瓦がある。瓦は現在の愛知県西尾市志貴野町に明治14年(1881)門徒が開設した製瓦場で製造されたもので平成16年からの御影堂改修で新品に葺替えられた。山門入って右に鐘楼、その奥にビルのような庫裏。
金勝川(こんぜがわ)の土手
少し先で天井川の金勝川の土手に突き当たる。土手下には「東海道 やせうま坂」石柱があり右面には「中仙道 でみせ」左面には「金勝寺 こんぜ」とある。やせうま坂は左折していくとある坂で昔は馬も痩せるほどの急坂だったが現在は緩やかになっている。金勝川は栗東市観音寺の湖南アルプスが源流で栗東市岡で新草津川に合流する。山から大量の土砂が流下するため天井川となった。渇水期は水がないことも多いが昭和28年(1953)の台風13号では左岸(東海道と反対側)が決壊し目川、岡の水田が全滅した。石柱の少し左には「県道川辺御園線起点」石柱、少し右には帝産バス坊袋バス停もある。東海道は右折し坊袋(ぼうぶくろ)に入り川沿いを進む。
{右}延命山 地蔵院(目川地蔵院)[浄土宗] 目川413
少し先で目川(めがわ)に入るとある。天文13年(1544)教貞が創建し禅宗寺院だったが明治以降に改宗した。本尊は地蔵菩薩。門前左に平成5年寺名石柱、「皇太神宮の碑」説明立札。境内右に北向地蔵堂、昭和12年(1937)三界万霊塔、縦書で「八幡大菩薩」「天照皇太神宮」「春日大明神」が並んで刻まれた元禄8年(1695)石造三社神号碑、昭和58年子佛地蔵。本堂は平成4年築。所蔵する平安時代の木造伝観音菩薩像立像は平成8年市指定文化財で形状から観音ではなく貴顕天部ともされる。門前には江戸時代に高札場があった。寺の先左の青木石油(目川の408)にはウインドウ内に「目川村 油屋 油丑青木油店」屋号札や目川名物の瓢箪が展示されている。その先で道は川に沿って左にカーブする。
{右}目川一里塚跡(119)
少し行くと民家の門右に「東海道一里塚」石柱と説明説明立札がある。向かいのカーブミラーにも説明立札がある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右は榎3左は榎2と記録されている。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には両方とも椋とあり両塚とも明治初期に削られた。石柱右面には「草津宿まで半里」左面には「目川ひょうたんの里」とある。民家は江戸中期の漢方医・鎌田右内の邸宅「布袋館」跡でもあり平成6年までは江戸時代の建物が残っていた。現建物も旧建物を模しており田の字型四間取りの典型的農家住宅の構造をしている。右内は延享元年(1744)阿波徳島生まれで徳島藩に仕えたが京都で学び30歳頃に目川に来住し雲庵と号した。当時の医学書百冊以上や薬種箱なども現存する。
{右}久遠山 専光寺(專光寺) [真宗大谷派] 目川517
少し行くとある。本願寺8世蓮如に帰依した津田近江守昌国が光念と称し応仁元年(1467)開いた道場が起こり。4世法道は青地城主・青地氏の一族の北川左京。慶安3年(1650)6世の時に寺号を専光寺とした。以前は光念が天台宗から改宗した大放山光明寺(草津市渋川1-6-15)と同じ真宗興正派だったが現在は大谷派となっている。江戸中期に火災に遭った。山門前左右に松、右前に昭和57年建立の寺名柱。山門入って右に鐘楼。境内右に手水石、昭和44年慰霊碑。境内中央のイチョウ(樹齢350年幹周5m)は戦後に上方が切られたが以前は遠くから目印になる高さだった。戦時中は逢坂国民学校の児童が集団疎開しここから治田国民学校(現:治田小学校)に通った。
{右}田楽茶屋 元伊勢屋跡(現:門岡家) 岡384
少し先で岡に入るとある。民家前に左面に「東海道間の宿 岡村 目川立場」「立場茶屋 元いせや 岡野五左衛門屋敷跡」とある平成18年建立「田楽発祥の地」石柱、「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡」説明立札、平成18年「従是西膳ヽ領」傍示石がある。目川と岡の境付近にあった目川立場の3軒の田楽茶屋のうちの1軒で岡野五左衛門家が営んだ。享和文政(1801-29)頃の当主・五左衛門惟精は与野蕪村に師事した文人画家で岡笠山とも号し幕命で揮毫した書は将軍も観たという。栗東歴史民俗博物館所蔵の複数の山水画、小槻大社(下戸山1200)奉納の大絵馬などが現存する。目川田楽は味噌田楽と菜飯をセットにした名物で元伊勢屋が最初に売出し江戸や京にも「目川」を称する田楽茶屋が広まった。
{右}田楽茶屋 古志゙ま屋跡(現:寺田家) 岡388
1軒おいた民家前に左面に「東海道間の宿 岡村」「菜飯田楽 小嶋屋 寺田徳兵衛屋敷」とある平成18年建立「目川田楽 古志゙まや跡」石柱、「名代 田楽茶屋 古志゙ま屋跡」説明立札がある。寺田徳兵衛家が営み明治期に廃業した。民家には「菜飯田楽 古志゙ま屋徳兵衛」屋号札もある。「目川」「名物でんがく」「小じま屋」などと染付けられた茶碗(直径6.5cm)が現存する。街道の茶屋では同様の茶碗で酒も出していたとされ目川立場は名酒「菊の水」も有名だった。敷地には藤棚があったが明治初期に新善光寺へ奉納された。平成17年に発足した「めがわ田楽保存会」などで再現されている目川田楽は古志゙ま屋のレシピが使われている。豆腐は硬めで季節に合わせ味噌に木の芽や柚子を混ぜ風味を出している。
{左}東護山 乗円寺(乗圓寺) [真宗大谷派] 岡368
少し行くとある。天和元年(1681)利慶が創建した。本尊は阿弥陀如来。山門前左の寺名石柱は昭和60年建立。山門入って右に昭和59年築の手水舎。他は本堂、庫裏のみで境内は木々と苔に覆われている。江戸時代には寺前に高札場があった。
{右}田楽茶屋 京伊勢屋跡(現:西岡家) 岡405
少し先の道が右に少しカーブしたところにある。帝産バス岡バス停向かい。民家前に右面に「東海道間の宿 岡村」「菜飯田楽 京いせや 西岡忠兵衛屋敷」とある平成18年建立「目川田楽 京いせや跡」石柱、「名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡」説明立札がある。西岡忠兵衛家が営んだ。東海道名所図会の「目川」では「京いせや」暖簾を掲げる茶屋が描かれており広重の石部の絵も同じ構図で描かれている。享和元年(1801)大田南畝も「改元紀行」で「伊勢やといへる家に入りかの菜飯を求むるに田楽の豆腐あたたかにものして味よろし」と書いている。京伊勢屋は3軒の中で最後まで目川田楽屋を続け大正時代に廃業した。文政7年(1824)から明治16年(1883)の講招牌が現存する。敷地には藤棚も現存する
{左}田楽茶屋「ほっこり庵」 岡347-2
少し先で旧:草津川の土手に沿って右にカーブするところにある。岡自治会が目川田楽の田楽茶屋を再現するため市有地を無償で借り平成20年に建てた。木造瓦葺白壁の純和風造の建物で入口には「菜めしでんがく」の暖簾が掛かる。休憩所として利用でき菜飯田楽(700円)も味わえる。土山町の安井酒造場が復刻醸造した目川名酒「菊の水」もある。10:00-15:30火休、食事は1週間前予約要(4名より)。カーブし少し進むと左の土手上には防災グラウンド「岡草の根広場」がある。この先は江戸時代には松並木があった。
{右}「従是東膳ヽ領」傍示石
広場を過ぎ少し進み東海道新幹線のガード下を潜ると新しい住宅地になり少し進んだ角の手前にある。平成18年建立で元伊勢屋跡にあった傍示石と対になっている。江戸後期頃の岡村は膳所藩領であり手前の目川村は三上藩領、この先の小柿村は旗本領だった。明治22年(1889)3村とも栗太郡治田村となり昭和29年(1954)栗東町、平成13年栗東市となった。角を右折して行くと正面には弁財天社があり小さな社殿前に昭和11年(1936)灯籠と神社名石柱、宝暦10年(1760)灯籠がある。東海道を進むと少し先で岡から小柿に入る。
{右}老牛馬養生所跡 小柿10-7-20
少し行くと民家生垣の中に大正14年(1925)建立「史蹟 老牛馬養生所阯」石柱と横の電柱に「史蹟老牛馬養生所跡」説明立札がある。老いた牛馬を生きたまま殴り殺して皮を剥いでいるのを見て嘆いた和邇(わに)村(現:大津市)榎の庄屋・岸岡長右衛門が天保12年(1841)この地に老牛馬が余生を静かに送れるように養生所を建て近隣の老牛馬を集めて収容し皮剥ぎのために老牛馬を殺すのはやめるよう呼びかけた。敷地は石柱がある民家とその隣のフクミ研磨機工(小柿10-7-22)の辺りで間口11間(20m)奥行3間3尺(6.3m)の小屋と厩舎16があり1つの厩舎に10頭ずつ収容しており幕末まで続いた。石柱左後には当時使用されていた井戸跡もある。
東海道分岐
少し行くと左には白塗地蔵の小祠、斜め向かいの民家前には「小柿村 高札場 大谷」屋号札があり少し進むと正面遠くに25階建マンション「クサツウエストロイヤルタワー」が見える。その先左の「小柿村 天秤棒 棒喜」屋号札の民家を過ぎると左に「草津市」看板があり草津市大路に入る。少し先に2叉路があり東海道は左で県道116号線から分岐し川沿いの堤防道に登って行く。三角地帯には「東海道 草津宿へ」矢印標柱もある。堤防道を登る途中に平成3年「わが町のシンボル いろはモミジ」石柱と平成6年設置の説明板が県道側を向いてある。ここに紅葉(樹齢150年樹高9m幹周2m)があったが平成8年に枯れたため現在は小さな紅葉が植えられている。紅葉の県道斜め向かいには双体石仏の小祠もある。
東海道分断
堤防道を登っていくと再び2叉路がある。東海道は本来は右で進むと宮脇医院(大路3-3-6)裏の駐車場に通じその先は国道1号で分断され行き止まりとなっている。国道は天井川の旧:草津川をトンネルでくぐるため下を通っており反対側には旧東海道の道が続いている。行き止まり地点のすぐ左に駐車場から車道に出る階段があり川の堤防上の道に出て迂回する。
{右}世続地蔵堂 
迂回し国道の反対側の続きから少し進むとある。建物は新屋敷公民館にもなっている。堂前に「世續地蔵願王菩薩」石柱が2基あり左は大正7年(1918)の建立。堂前の香台石柱は弘化3年(1846)のもの。道はしばらく進むと突き当たりとなり左折する。
旧:草津川
少し坂を登ると土手に出る。湖南アルプスからの土砂が多く古くは砂川と呼ばれ豪雨時にはよく決壊した川は平成14年完成した新草津川(草津川放水路)で流路変更され金勝川合流点から下流は廃川となった。すぐ左に草津川橋があるが江戸時代は河川敷を歩いて渡っており広重は有田屋版や蔦屋版東海道の草津宿で河川敷を渡る様子を描いている。元文年間(1736-41)には天井川となっていたとされ明治19年(1886)中山道に草津川ずい道が掘られ現在は国道1号やJR東海道線も川をトンネルで抜けている。土手には明治末期に草津小学校の生徒らによって桜が植えられたが現在は数が少ない。川跡は公園などに整備する計画もある。草津川橋を渡ると正面には「失業対策事業二十周年記念」小石柱