東海道ルートガイド
三雲〜甲西

{左}「北脇縄手と松並木」説明碑
住宅街を進み左の事務機器販売会社うかい(水口町北脇925)の1軒先には狛犬があり奥に燈籠の残骸や小祠がある。住宅街を抜け両側が田畑になると左に説明碑がある。手前には庇付の小さな双体道祖神もある。ここから泉一里塚手前の舞込橋までの3kmは北脇縄手(泉縄手)と呼ばれる直線道路で平安時代からの伊勢大路を東海道に整備した際に曲がっていた道路をまっすぐにした。江戸時代は両側は土手で松並木となっており近隣の村が分担して保護してきたと言う。現在は碑の先に若い松が7本並ぶのみ。しばらく進むと右に用水路が沿うようになり水路上に道祖神など石仏3体がある。
{左}三世代北脇 湧遊せせらぎ広場
さらに進むと右の用水路がなくなる手前の向かいを少し入ったところにある親水公園。地域の憩いの場として平成18年に整備されたポケットパークで四阿、ベンチ、小さな池がある。横には小川が流れ小さな水車もある。向かいの街道右には煉瓦ブロックの土台の横長の祠に石仏石塔5基が安置されている。その先右には小さな神社もあり鳥居、小祠、燈籠、藤棚がある。1kmほど進んだ左の柏木小学校(水口町北脇1132)向かいには松が3本ある。
{右}「時の鐘」モニュメント 水口町北脇1615-1
しばらく進んだ柏木公民館前にある。隣には「近江路 東海道水口宿」「柏木公民館」の大きな看板柱。鐘塔に梯子を登る半纏姿の人形が付いたモニュメントで下部の正面には広重の水口宿の絵、裏面には原宿の絵に53次の宿場名と広重の辞世が入ったプレートが貼られている。内部は広重の水口宿の絵を立体化したジオラマがあり横の扉を開けると干瓢を干す人々が乗った台が回転し右にはそれを描く広重の人形もある。水口名物・干瓢は朝鮮から渡来した干瓢を古城山の岡山城主・長束正家が作らせたのが起こりとされ正徳2年(1712)下野壬生藩に転封した水口藩主・鳥居忠英が栃木県壬生町に伝え現在は栃木が干瓢の生産日本一になっている。斜め向かいの柏木公民館バス停横には小祠がある。
{右}「従是山村天神道」石柱
しばらく進み甲賀市コミュニティバスの酒人口バス停横にある。宝暦12年(1762)建立。下部分が折れたため修復され鉄枠で補強されており折れた部分の下は「十二丁」とある。北東3.5kmにある山村神社(水口町山3019)への道。天之神と菅原道真が祭神で吉の時は軽く持ち上がり凶の時は重い「占石」があることで有名で参詣者が多かった。東海道を少し進むと左に小祠がありしばらく進んで行くと右にも小祠がある。泉地区に入ると古い家も点在し紅殻格子の建物もある。右の泉公民館(水口町泉827)前には昭和63年「日吉神社御旅所」石柱がある。
{右・寄}宝珠山 泉福寺 [天台宗] 水口町泉480
しばらく行くと右に泉口バス停と明治42年(1909)「国宝延命地蔵尊」石柱があり2本の道が分岐し左の道を進み途中の2叉路を右に進むと山門。弘仁4年(813)伝教大師が創建し元は泉寺とも延命院とも言い数坊を擁したが天正年間(1573-93)兵火で焼失。免れた地蔵菩薩座像を慶長10年(1605)本堂再建時に本尊として安置した。明治41年国重要文化財の秘仏鎌倉時代の作とされ本堂右前には本尊を模した水子やすらぎ地蔵尊がある。本堂前の境内中央に「水口町の古木・名木」のクスノキ(幹周4.72m樹高33m)とカヤ(幹周4.33m樹高20m)が並ぶ。山門入った左に泉老人憩の家。本堂左奥に稲荷神社。境内左に愛宕社、不動堂、浅間社、石仏群の堂、小祠、由緒碑、鬼瓦、宝篋印塔、神明社、石仏群
{右・寄}日吉神社 水口町泉482
寺の右の同じ敷地にあり山門手前を右に入ると昭和12年(1937)神社名石柱、鳥居がある。治安3年(1023)泉福寺守護のため坂本の日吉大社を勧請した。祭神は玉依姫命。明治に藤木神社と称したが戦後に日吉神社となった。社宝として永正12年(1515)狛犬を所蔵。本殿前灯籠は昭和48年、狛犬は昭和12年、鳥居は平成4年。本殿前左に弁財天、右に祇園社。本殿の1段下の灯籠は平成6年、右に秋葉社。鳥居入った左に平成14年手水石、右に由緒碑、ケヤキ(幹周3.69m樹高28m枝張25m)があり「水口町の古木・名木」説明板もある。境内右の別入口から境内を出て左折し裏へ進むと塀に飛び出してもう1本の古木・名木のケヤキ(幹周6.3m樹高22m枝張20m)がある。境内右にはシーソーなどの遊具。
{右・寄}蓮臺(台)山 淨品寺(浄品寺) [浄土宗] 水口町泉488
泉福寺手前の2叉路に「左 浄品寺」石柱があり左に行くとある。天正年間(1573-92)大徳が創建。山門前右に昭和53年寺名石柱、左に6字名号碑。境内右に英霊観音、戦没者碑。本堂前灯籠は昭和46年。書院前に井戸跡。書院横から泉福寺山門前に出られ右にはシーソー、ブランコ、鉄棒などがある。東海道を先に進むと少し先で左に広めの用水路が沿うようになり水路沿いには若い松並木がある。松の間に桜も植えられ途中にはベンチや水路際に降りられる階段もある。慶応2年(1866)には泉地区の松並木は南側293本、北側248本あったと言う。
{右}泉一里塚(114)
松並木の先左に「東海道」の太い木柱があり「水口宿」「横田渡」の方向標示がある。車道は右にカーブしていくが東海道は標示に従い左の野洲川支流の泉川に架かる舞込橋を渡る。渡ると右に昭和63年「日吉神社御旅所」石柱がありしばらく行くと復元された一里塚と説明立札がある。本来はもう少し先にあったが明治13年(1880)に撤去された。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右は榎2、左は榎1と記録されている。少し進むと泉川支流の酒人川を昭和59年竣工の河原屋敷橋で渡る。
横田の渡し跡
少し進むと県道535号に突き当たり渡るとある。野洲川土手の小公園で入口に冠木門と説明板。入ると左に文政5年(1806)常夜燈があり横に「東海道横田渡常夜燈」説明碑もある。野洲川はこの辺りでは横田川と呼ばれ支流の杣川が合流した後の当地は水流も激しく巨石もあり難所だった。室町時代には横田河橋があったが江戸時代は通年の架橋は許されず泉村に渡し役が命じられ3月から9月は船渡しで10月から2月は土橋が架けられた。渡し跡は平成10年県指定史跡。常夜燈は市指定文化財で高さ10.5m笠石2.7m四方で周りは7.3mの玉垣を築いており明治29年(1896)水害で1部破損した。シーボルトも江戸参府紀行に「石灯籠という金比羅さまを記念した灯火をともす大きな台がある」と記している。
{右}金刀比羅宮
公園右端に小さな祠と平成7年設置の説明碑がある。往来が多く夜中でも川を渡った横田の渡しは舟渡しの際には方向が定まらず危険だったため灯台代わりの常夜燈の建立と同時期に水上交通の守り神として金刀比羅宮を勧請し建立された。公園内には四阿もあり川側には明治24年(1891)に架けられた板橋跡の石垣が残る。前の「横田橋の歴史」説明碑には当時の板橋の写真も転写されている。現在は橋はないため右の下流1kmにある国道1号の横田橋で迂回して川を渡る。
{右・寄}横田橋
渡し跡前の県道535号を右に進んで行くと泉西交差点で国道1号に出て左折し甲賀市から湖南市に入りその先の朝国交差点の朝国横断歩道橋で国道の右側歩道に行き昭和36年(1961)竣工の横田橋(231m)を渡る。橋には右側歩道(昭和42年竣工の横田橋側道橋)しかない。明治24年(1891)に横田の渡し跡に架けられた板橋は昭和4年(1929)に現在の少し下流に移され昭和27年(1952)国道1号の敷設後に現在の横田橋となった。
{右}横田渡常夜燈
横田橋を渡って右の石段を下りて右にUターンするように川に戻って右折し国道をくぐり川沿いの土手を上流に200m進み小さな川の手前で右折し土手を少し進んで車道に出た十字路にある。安永8年(1779)建立でこの付近が江戸時代の横田の渡し舟渡しの対岸とされる。常夜燈の火袋と屋根は木製で竿部分には縦書きで「常夜燈」と刻まれ下の土台には横書きで「東講中」とある。右に鴨長明の歌「横田川 石部川原の 蓬生に 秋風さむみ みやこ恋しも」が書かれた「横田川」説明立札、左に「横田の渡し」立札もある。十字路斜め向かいには小祠。東海道は十字路を右折する。
{左・寄}「新海道」石柱
右折せず十字路を直進し線路を田二川踏切で渡り坂を登って行くと2叉路の斜面にある。明治21年(1888)建立で明治24年横田の渡し跡から架けられた板橋の対岸付近にあったが近年移された。板橋の対岸を通り横田渡常夜燈で東海道に接続する野洲川・杣川沿いの道は平安時代以前に関から伊賀を抜け三雲に至る道として使われていた古東海道で江戸時代は杣街道と呼ばれ明治に整備され新海道と称した。石柱右には「県民花の森 天保義民の丘」碑と案内図もある。碑は農民が手に取った鍬、鎌を形どり背後の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗と流れを表す。平成7年に整備された県民花の森の池にはモリアオガエルも棲息している。2叉路手前左には三雲山里創成館もある。
{左・寄}天保義民の碑
石柱がある2叉路を左に進みビジネス旅館天保閣を過ぎた突き当たり右の石段を登るとある。天保13年(1842)苛酷な測量に抵抗する甲賀、野洲、栗太郡の農民1万数千人が決起し検地10万日延期を勝ち取ったが多くの者が捕らえられた。三上村平兵衛、油日村惣太郎、針村文五郎ら11名が江戸送りとなり無事着いた8名の内7名は獄死、惣太郎のみ佃島に流された。各村にも罰金が科せられ幕府側の役人数名にも処分が下された。明治に入り関係者の罪は大赦され甲賀郡の犠牲者を弔うため明治31年(1898)碑が建てられた。高さ10mで巌谷一六の揮毫。毎年10月15日に慰霊祭が行われる。石段登った左に四阿、右に手水石と藤棚。碑の前には明治31年灯籠。碑の裏からは県民の森に通じる遊歩道。
{左}JR三雲駅 湖南市三雲457
横田渡常夜燈から東海道を進んで行くとある。明治22年(1889)関西鉄道の駅として開業した。関西鉄道は明治21年設立され翌年に草津〜三雲の路線を開業しその後も大阪府中東部、三重県、奈良県、和歌山県を中心に路線を展開したが明治40年(1907)国有化された。昭和62年民営化でJR西日本となった。三雲の地名は東海道名所図会に日雲が転じたとの記述がありこの先に道標がある立志神社(三雲1353)が土山の甲可日雲宮と同じく伊勢神宮創建時に倭姫命が天照大御神の鎮座地を求め各地を転々とした際に訪れた地と伝わることに関係する。
{右}「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」道標
駅前の十字路にある。昭和4年(1929)建立。右面に「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」左面に「妙感寺 從是二十二丁」とある。萬里小路(藤原)藤房は永仁4年(1296)に生まれ後醍醐天皇の側近として仕え元弘元年(1331)元弘の乱では鎌倉幕府倒幕計画が露見し後に捕らえられ下総国に流罪となった。元弘3年幕府滅亡後に戻るがしばらくして出家し臨済宗妙心寺派の大本山正法山妙心寺2世授翁宗弼となったとされる。ここから南西3kmの三雲山麓にある雲照山妙感寺[臨済宗妙心寺派](三雲1758)は宗弼が延元年間(1336-39)に開山した寺で晩年に住んだとされ墓所(五輪塔)がある。微妙大師は昭和2年(1927)昭和天皇による諡号で明治3年(1870)には明治天皇より円鑑国師の諡号も贈られている。
{右}「明治天皇聖蹟」碑
少し先左の桂衛生堂(三雲416)の向かいの民家前に昭和8年(1933)建立の自然石の碑がある。石垣と土台石に乗った碑で前には灯籠2基もある。明治元年(1968)9月22日、明治2年3月8日、明治13年7月13日に明治天皇が立寄った。この付近は江戸時代は田川村と言い立場があった。この先の道は右左と少カーブが続きその先左には地蔵の小祠もある。
{左}道標3基
少し先の2叉路右の荒川橋で荒川を渡った先の十字路角にある。橋の左には歩道橋。手前から明治24年(1891)建立で上部に指矢印がある「田川ふどう道」石柱、寛政9年(1797)建立で側面に「雲照山 妙感寺 從是十四丁」とある「万里小路藤房卿古跡」石柱、大正11年(1922)建立の自然石の「立志神社」碑。立志神社(湖南市三雲1353)は左折してJR草津線の線路を渡り450m右折正面。祭神は国常立神で欽明天皇が飢饉救済祈願の勅使を派遣した全国12ヶ所の神社の1つと言われる。神社から100m先を左に分岐し県道4号線を600m進むと左に三雲不動尊(三雲大日大聖不動明王)がある。田川は三雲の旧村名。神社から1.5km先が妙感寺で萬里小路藤房の墓所がある。
{右}東海道の標識
しばらく進むと県道4号線に突き当り左折しすぐJR草津線を三雲踏切で渡りすぐ右折し県道から分岐する。本来は踏切手前からまっすぐ続いていたが線路で消滅しており踏切を渡った右の小広場が旧道だったところで木製標識がある。柱に「旧東海道」とあり右方向に「水口宿場」左方向に「石部宿場」手前方向に「妙感寺・信楽」の板が取り付けられている。右折してすぐ地名が三雲から吉永に変わり狭い道から一時的に広くなるがすぐに元にもどる。歩道が緑に塗られている道をしばらく進むと集落に入る前右に石仏がある。
{左}「吉見神社」石柱
集落をしばらく進むと右に光陽産業(吉永61-3)がある十字路にある。平成9年建立。神社(吉永249)は左折350m先正面の山の中腹。途中右には石仏祠、左には大正10年(1921)神社名石柱もある。参道途中右に元文5年(1740)自閑が創建した長谷山南勝寺[臨済宗妙心寺派]もあり本尊は観世音菩薩で境内にある鎌倉時代の青銅釈迦誕生仏が昭和48年市指定文化財。神社の祭神は大日貴命。昭和48年に大改修した社殿右に稲荷神社、左に金比羅大権現、延王行者大菩薩の境内社。社殿前狛犬は昭和10年(1935)。境内には「従是東淀領」「従是西淀領」傍示石を流用した灯籠もある。他に天明6年(1786)明治13年(1880)灯籠などもある。十字路渡った右に石仏2体の祠がある。
大沙川(大砂川)隧道
しばらく行くと上部に「大沙川」石板が貼られたトンネルで大沙川を潜る。土砂等が川底に堆積し氾濫防止で土手を高くしていったため川が家や田畑よりも高くなった天井川であり滋賀県東部には多い。奈良時代に奈良の寺院建築用に付近の山の木々を伐採したため土砂が流出し易くなったのが原因と言う。江戸時代には土手を登って川を渡り対岸の土手を下りて通行した。花崗岩切石積の半円アーチトンネルは明治17年(1884)県初の道路トンネルとして築造され長さ16.4m高さ4.6m幅4.4m。地元では「吉永のマンポ」と呼ばれた。大沙川は延長2.4km川幅4〜20mで雨後以外は水がないことが多い。手前右には湖南市コミュニティバスの吉永バス停があり待合所には三雲城址の写真や説明が貼られている。
{左}弘法杉
隧道をくぐった左に大沙川に登る道があり登口右に昭和57年「弘法大師錫杖跡 お手植えの杉」石碑と平成6年「弘法杉」説明板がある。登ると川の土手に大杉弘法堂と昭和52年市指定天然記念物の杉(樹高26m周囲6m樹齢750年)がある。弘法大師が植えた杉が枯れたため後に里人が再び植えたとされ古来より弘法杉、二本杉と呼ばれ元は2本あったが安永2年(1773)の洪水で1本になった。大師が食事後に差した杉箸が芽を出したとの説もありこの地方では左手で箸を持つ子供にこの杉枝で作った箸を使わせると自然に右手で食事をするようになると伝わる。弘法堂内には平成4年弘法大師銅像がある。登口には三雲城の標示もあり土手をそのまま行くと1.5km先の山中にある三雲城址に通じる。
{左・寄}吉祥山 西住寺 [浄土宗] 湖南市吉永493
少し進むと左の公園の金網に「八丈岩、三雲城址、六体地蔵(市指定文化財)」の看板があり公園を過ぎた角に昭和57年建立の寺名石柱があり左折していくと左にある。創建時期は不明で天正5年(1577)創建の金勝山浄厳院[浄土宗](蒲生郡安土町慈恩寺744)の末寺だった。貞享2年(1685)吉祥房が中興し明治以降に知恩院末となった。山門前左の寺名石柱は平成6年建立。本堂前灯籠は平成13年。本堂前左に仏足石。その隣に室町時代の石造一石六体地蔵菩薩があり平成4年市指定文化財。境内左には昭和57年水子地蔵もある。手前の公園内には鉄棒、ブランコ、ベンチなど。この付近で街道左の山を見ると頂上近くに白い巨岩が見えるのが八丈岩(八畳岩)で三雲城址の北に位置する。
{左}「夏見の里」立札
しばらく行くと吉永から夏見になり左カーブした先の十字路に京側を向いて木製筆書立札がある。右のサンビレッジ甲西の看板上には伊勢参宮名所図会の夏見の里の一節を転記した立札もあり「方丈記に行く水の流れは元の水にあらずといへども、この木偶(にんぎょう)の行衛(ゆくえ)は元の水にして、しかも昼夜をすてず、ただ過ぎにすぐる物と「枕草子」にいいひし類とやいはん」とある。江戸時代の夏見村には茶屋が並ぶ夏見立場がありところてんが名物で各店先には水からくりの人形があり客を楽しませていた。天保11年(1840)宮崎平左衛門の伊勢参宮道中記にも「夏見村に心太の名物、家毎に水からくりを仕立色々の人形を仕掛有」とある。この先の湖南市の史跡には同様の筆書立札が設置されている。
{左}金照山 盛福寺(じょうふくじ)[浄土宗] 夏見1737
少し進むと昭和49年建立の寺名石柱があり左折した奥に山門がある。創建時期は不明で200mほど南にある観音寺[天台宗](夏見1753)の前身である光明寺[法相宗]の塔頭だったとされる。元亀年間(1570-73)に慶春が中興し後に改宗した。山門前には「愛宕山」灯籠、中央がくり抜かれて木扉が付けられた自然石が安置された堂、石塔、石仏、灯籠がある。本堂は平成14年築で本堂前灯籠も平成14年。本堂右前にイチョウ、左前に松。境内右に杉、平成14年建立の子安地蔵。境内右奥の墓地前に井戸跡がある。
{右}梅見山 了安寺 [浄土宗] 夏見502
しばらく住宅街を行くと民家の間の路地に昭和57年建立の寺名石柱があり砂利道を右折した正面に山門。天平年間(729-49)良弁が創建した華厳宗の寺で円満堂と称したが天正年間(1573-91)本尊の釈迦如来と共に焼失。江戸初期に了安寺として再建し元禄5年(1692)貞悦が改宗し中興。現本尊の木造阿弥陀如来座像は鎌倉末期の作とされ昭和52年市指定文化財。山門前左にも平成7年寺名石柱。山門入って左に昭和55年「華開希有色」石碑、昭和61年子安地蔵、30体の石仏群。本堂左に平成元年「念仏は申し候きく作り」碑。境内左の墓地前に昭和27年(1952)「英霊之碑」。一帯は平安中期から鎌倉時代の集落跡である了安寺遺跡で掘立柱建物跡、土坑墓、土器、陶器、輸入陶磁器等も出土。
{右}夏見一里塚跡(115)
その先で三雲小学校(夏見1857)に通じる十字路を過ぎ少し先の変形十字路手前にある。跡地と伝わる一角の石垣の上の中央に盛福寺にあったものと同様の中央がくり抜かれて木扉が付けられた自然石があり地元では「愛宕さん」と呼ばれている。右前に石柱型灯籠、左前に自然石の常夜燈もある。一里塚の正確な位置は不明で小学校正門付近にあったとも了安寺から由良谷川にかけてあったともされる。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左は榎1右は松1と記録されている。向かいの民家前の歩道上には以前あった一里塚石柱の痕跡も残る。
{左}夏見立場跡 夏見1506-1
しばらく行くと市立夏見診療所前に「夏見立場」木製筆書立札がある。夏見の立場は「いさぎよき 菜摘の茶屋の ところてん みずからくりの まわす人形」と狂歌に歌われた心太(ところてん)と水からくり人形の他にも夏見藤棚と呼ばれた藤棚が有名だった。寛政9年(1797)伊勢参宮名所図会の夏見の里の絵にも茶店の左に藤棚が描かれている。ところてんに黒蜜をかけて食べる発祥の地は夏見とも言われる。公卿で陰陽家の土御門泰邦が宝暦10年(1760)天皇の宣旨を勅使と共に江戸に届ける際に書いた道中日記「東行話説」には夏見の名酒桜川の記述もある。
{右・寄}雲照山 覚蓮寺 [浄土宗] 夏見970
しばらく進み正面に由良谷川隧道が見えてくると右に昭和9年(1934)「天満宮」石柱と横に平成18年指矢印付の小さな「覚蓮寺」石柱があり右折し少し先左折すると右にある。建治元年(1275)俊聖が創建し元は聖観寺と称し後に改宗した。山門前に平成5年建立の延命地蔵、合掌地蔵、子安地蔵が並ぶ。本堂右前に平成3年「聖観世音菩薩」石柱。書院前の灯籠は平成9年。山門前の道を真っ直ぐ進むと報恩寺の境内横の門に通じる。街道沿いにある「天満宮」石柱は出雲大社宮司・千家尊統の書。天満宮(夏見881)は天神神社とも呼ばれ右折し300mでJR草津線の線路を越えさらに300m先の国道1号を渡るとある。
{右}龍王山 報恩寺 [浄土真宗本願寺派] 夏見1443
少し先にある。創建時期は不明で元は天台宗であり天正年間(1573-92)に道味が改宗した。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には夏見地区の寺子屋が開かれ明治7年(1874)に夏見学校となり現在の三雲小学校(夏見1857)の前身となった。山門入って右に蔵、松、手水石、井戸跡。境内右の小さな庭園の中央に親鸞銅像がある。本堂前の灯籠は平成8年の建立で右の灯籠前には松がある。境内右奥には覚蓮寺門前の道に通じる門がある。
由良谷川(ゆらだにがわ)隧道
すぐ先に大沙川隧道と同様のトンネルがあり由良谷川を潜る。明治19年(1886)築造の花崗岩切石積欠円アーチトンネルで長さ16.0m高さ3.6m幅4.5m。由良谷川は竜王山が水源で延長は3.3km川幅2〜6mで雨後以外は水がない。手前右に昭和10年(1935)建立「新田道」道標があり「昭和十年三月改修」と刻まれている。右折していくと左に川への登口がありその先は国道1号付近の夏見新田に通じる。トンネルを抜けると地名は夏見から針となり左の山には昭和43年に開設されたタキイ種苗の70haに及ぶ広大な研究農場が広がる。
{左・寄}子安地蔵尊(法音寺跡)
しばらく進み左に昭和11年(1936)「子安地蔵尊」石柱がある角を左折し小道を上り突き当たりを右折し左のアパートを回り込むように左にカーブし左に「子安地蔵尊」碑がある角を左折していくとある。この地は明治に廃寺となった法音寺の跡地で境内中央の小堂内に地元で子安地蔵として信仰される平安時代作の木造地蔵菩薩半跏像が安置され昭和52年市指定文化財。地蔵の脇には不動明王など仏像3体も安置され堂前にはベンチがある。堂右には鎌倉時代作の半彫の石造不動明王像があり市指定文化財。自然石の灯籠もある。境内左の墓地横に平成10年建立「天保義民 針文五郎顕彰碑」、40基近くの石仏石塔群もある。文五郎は天保義民の決起で捕らえられ江戸に送られた11人の1人で針村出身。
{左}「式内 飯道神社」石柱
少し先右に針公民館(針648)を過ぎしばらく進むと十字路にある。昭和20年(1945)建立。神社は左折200m先右の小高い山の上にあり石段を登りコンクリート橋で家棟川を渡ると境内。大同2年(807)飯道の森に創建され明治6年(1873)家棟川の改修工事で現在地に移転した。旧社地は現在は市役所東庁舎(中央1-1)となっている。祭神は素盞鳴尊、菅原道真。拝殿は平成21年築で本殿右に愛宕大神、境内右に皇大神宮の境内社がある。境内右に塔身が欠損した嘉元4年(1306)宝篋印塔があり昭和48年市指定文化財。参道の灯籠は元文3年(1738)延享4年(1747)など。境内左には針つどいの家がある。
{右}針元山 慶應寺(敬応寺) [真宗大谷派] 針679
十字路渡って少し先。元は盛福寺と同じく観音寺[天台宗](夏見1753)の前身である光明寺[法相宗]の塔頭だったとされ延暦5年(786)創建とも伝わり天正15年(1587)修栄が中興した。本尊は阿弥陀如来。境内左に灯籠がある小庭園。寺の斜め向かいの空地には小さな神社があり石仏3体がある。
{左}北島酒造 針756
少し先にある。元は針村の庄屋で文化2年(1805)酒半の屋号で酒造を始め天保年間(1830-43)は米や薬も売っていた。明治に「柳川」銘柄の酒が有名になり戦中の醸造中断を経て昭和25年(1950)に株式会社化し「御代榮(みよさかえ)」銘柄の酒を造り始める。万葉集18巻の大伴家持の歌「天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く」が由来。大吟醸「御代榮」は昭和63年に国土庁主催全国鑑評会で金賞受賞。敷地内に湧く鈴鹿山系の伏流水と近江米を使用している。店舗部分にて試飲販売もしている。8:30-17:30日祝休。
家棟川橋(やのむねかわばし)
少し先で家棟川を渡る。現在は普通の川に橋が架かっているがかつてはここも天井川で大沙川隧道由良谷川隧道と同様の家棟川隧道があった。明治19年(1886)築造の花崗岩切石積欠円アーチトンネルで長さ21.8m高さ3.6m幅4.5m。昭和56年の第36回国民体育大会(びわこ国体)開催に合わせJR草津線甲西駅が開業する際に河川の流路変更と改修工事がされ昭和54年に隧道は撤去された。家棟川は針地区内を源流とし延長2.6km川幅4〜10mで雨後以外は水がない。橋の手前の川沿いではない道を右折し突き当たりを右折すぐ左折した正面が甲西駅。橋を渡ると右に旧隧道に架かっていた県令中井弘揮毫の「家棟川」石板、「奉 両宮常夜燈」と刻まれた常夜燈がある。橋を渡ると針から平松となる。