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海道橋(田村川板橋跡) しばらく進むと田村川を平成17年竣工の海道橋で渡る。橋は広重も土山宿の絵として描いた田村川板橋を再現したもの。板橋は安永4年(1775)に架けられ長さ20間3尺(37.3m)幅2間1尺5寸(4.1m)。渡り賃は武士、対岸に畑がある農民は無料、他の住民、一般旅行者などは3文だった。板橋は後に田村永代橋となったが昭和13年(1938)大雨で壊れた後は国道1号に田村橋が出来たことから再建されていなかった。橋手前右には橋の通行に関する安永4年高札が再現され橋を渡った左には広重の絵と説明もある。渡った右には江戸中期の俳人・井上士朗が田村川を詠んだ「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」句碑と説明立札。橋の手前右と渡った左右には石薬師〜大津の各宿代表が1本ずつ植樹した若木もある。 |
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土山宿 本陣2脇本陣0旅籠44家数351人口1505[天保14年(1843)] 平安時代から鈴鹿峠を控えた宿駅として発達してきた。江戸時代には雨が多いとされ「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に唄われたり広重も雨の情景を描いている。田村川板橋から松尾川(野洲川)まで25町55間(2.5km)の細長い宿場町は東海道を挟んで田村神社を鎮守とする北土山村と白川神社を鎮守とする南土山村に分かれ両村で宿場を運営していた。もと一村であったが永享12年(1440)に街道を境に分村したと言う。平成16年に水口町、甲賀町、甲南町、信楽町と合併し甲賀郡土山町から甲賀市土山町となり現在も古い建物を中心に町並が整備され面影を残している。 |
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{右}高札場跡 橋を渡り少し先の田村神社参道と交差する十字路手前に平成5年建立の石柱、海道橋の説明立札、付近の地図がある。土山宿の高札場は2箇所にありそのうちの1つがこの付近の街道左側にありもう1つは大黒屋本陣付近にあった。十字路を左折し神社参道を通り抜けるのが東海道で安永4年(1775)海道橋が架けられて以降にこのルートとなった。それ以前の東海道は橋の手前で左折し田村川沿いを進み途中で徒歩で川を渡り現在の道の駅 あいの土山横の道に合流していた。十字路右には神社由緒碑、安政4年(1857)狛犬と灯籠、安永2年(1773)灯籠があり右折し青銅製二之鳥居、三之鳥居と進むと神社境内に通じる。 |
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{右}田村神社 土山町北土山469 前年に没した坂上田村麻呂を弘仁3年(812)嵯峨天皇の勅命で厄除として祀ったのが起こり。主祭神を田村麻呂とし嵯峨天皇、倭姫命を配祀。この地は弘仁元年に田村麻呂が鈴鹿峠で山賊を退治した折に峠から射た矢が落ちた場所と伝わる。拝殿裏を進むと太鼓橋がありこの川に節分の福豆を年の数だけ東に向かい流すのが厄除けとされる。橋を渡り進むとある本殿は元文4年(1739)焼失後の築。本殿右に吉崎稲荷社、左奥にプールのような禊場。他に境内には祈祷殿、御神木の杉(幹周4.8m樹高34.5m)、昭和61年神馬銅像、昭和3年(1928)狛犬、明和3年(1766)手水石など。 灯籠は安政4年(1867)明治30年(1897)明治45年(1912)平成19年など。平成24年に鎮座1200年記念で本殿建替などを予定。
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田村神社 一之鳥居 高札場跡前を左折し参道を進み国道1号に出たところにある。昭和15年(1940)年皇紀2600年記念の建立で前の灯籠も同年の建立。手前の参道には左に天保3年(1832)灯籠、右に明和8年(1771)手水石があり両側に文政12年(1829)灯籠4基が並ぶ。鳥居横には大正15年(1926)建立の東郷平八郎揮毫の社名石柱もある。東海道は国道を横断し直進する。右には歩道橋がある。 |
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{左}かにが坂飴 高岡孝商店 土山町南土山1301 国道を渡るとある。蟹塚を造った恵心僧都が蟹の甲羅を模した飴を作り竹皮に包み里人に授け厄除けにするよう言い残したことが起こり。供養された蟹の血が自然に8つの飴となったとも伝わる。飴はこの付近の名物となり東海道名所図会にも蟹坂付近に「丸き飴を売る家多し」と記された。麦芽糖(地黄煎)を長時間煮て冷ましてコイン大に固めた飴は現在は昭和末期から近隣住民で構成される八ツ割飴協同組合により手作りで作られている。商店はその製造場所兼販売元だが店舗としては田村神社の厄除祭(2月17-19日)の3日間しか開店せず普段は道の駅 あいの土山でのみ販売。1袋小400円大750円竹皮包1000円。店前には由来が記載された木看板、付近の地図、「歴史の道 東海道」金属製立札もある。 |
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{右}道の駅 あいの土山 土山町北土山2900 向かいが駐車場で奥に建物がある。平成5年から登録が始まった全国の道の駅のうち第1回に登録された全国103箇所のうちの1つ。建物内では土山茶やかにが坂飴、毬饅頭など土山の名産品も販売。休憩スペースもあり土山茶の無料サービスもある。土山は県内一のお茶所で文和5年(1356)常明寺の鈍翁了愚が龍寶山大徳寺[臨済宗大徳寺派](京都市北区紫野大徳寺町53)から持ち帰った種を寺で栽培したのが起源とされる。9時-18時無休。右には野菜等を直売するやまなみ館土山宿も併設。駐車場右端には斎王群行、鈴鹿馬子唄全国大会などの大きな紹介看板、 国道沿いには甲賀市コミュニティバスの田村神社バス停もある。東海道は道の駅を回りこむように右折しカラー舗装された道を進む。
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{左}生里野(いくりの)公園 右折するとすぐ左に大きな宿場案内地図がありその後ろが平成15年に整備された小公園となっている。中央は小さなグラウンドとなっており周りにベンチや遊具がある。公園前右角の植込みには若い松と「東海道 土山宿」碑もある。公園を過ぎる茶畑となりその先の両側が民家となる右には昭和56年「東海道 土山宿」石柱。すぐ先の民家には「東海道土山宿 要志屋」屋号札がある。他の家の玄関にも昔の屋号が書かれた札がある。平成2年に青年団や商工会のメンバーらが中心となって発足した土山の町並みを愛する会が設置したもので他にも旅籠跡を示す石柱、土山を詠んだ漢詩、和歌、俳句碑なども設置している。 |
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{左}生里野地蔵公園・上島鬼貫(おにつら)句碑 民家が途切れると十字路となり渡った道路脇が平成11年に整備された緑地帯となっている。正面に「従是 左京都へ十五里 右江戸へ百十里」左面に「東海道近江国 土山宿生里野」とある平成11年道標、「歴史の道 東海道」金属製立札、生里野の説明が刻まれた石碑、カラフルに彩色された地蔵2体を安置する平成11年建立の堂、ベンチ、松、平成11年上島鬼貫句碑「吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風」と説明立札、平成18年設置の広重の絵がある。鬼貫は万治4年(1661)摂津国川辺郡伊丹郷(現:兵庫県伊丹市)で酒造を営む上島家の3男として生まれ大坂に出て独自の俳諧の境地を拓き東の芭蕉、西の鬼貫と呼ばれた。句は旅の途中の鬼貫が貞享3年(1686)秋に土山でお六櫛を買って詠んだもの。 |
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{右}お六櫛商 三日月屋 しばらく進むと左のカーショップ・ベストセラー(南土山59)向かいの民家に「東海道土山宿 お六櫛商 三日月屋」屋号札がある。櫛は土山宿の名物でこの付近の幾野(現:生里野)には十数戸の櫛屋が軒を連ねていた。「お六櫛」は中山道の薮原宿(現:木曽郡木祖村薮原)の名産でもあり元禄12年(1699)木曽から伊勢参り後に京都見物して帰る旅人が病に倒れ土山の大森家に助けられため無事帰国後に礼にと「お六櫛」を販売用に贈り大森家が売り始めたのが起こりと言う。薮原宿の「お六櫛」はお告げで櫛を使っていたら病が治ったという娘・お六が由来で現在でも薮原で作られている。土山で病人を看病したのがお六さんと言う説もある。この先にも「お六櫛商 三日月屋」屋号札を掲げた家が何軒かある。 |
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{右}一里山地蔵堂 右に道が分岐する角を過ぎると綾戸燃料住設(南土山121)の別棟手前にある。堂は昭和45年築でカラフルに彩色された半浮彫の地蔵2体が安置されている。手前角の左には「木綿屋」屋号札の民家があり「歴史の道 東海道」金属製立札もある。少し進むと右に平成3年建立「土山宿 旅籠 大槌屋跡」石柱がある。この先にも旅籠跡には石柱が建てられている。 |
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{右}土山一里塚跡(110) 少し先の民家前に昭和56年建立「東海道一里塚跡」石柱と説明立札がある。旧:土山町内の3箇所(山中、土山、大野市場)の一里塚は規模はどれも高さ2.5m円周12mだったと伝わるがいずれも現存しない。土山一里塚付近には一里山の字名が残る。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも榎1と記録されている。一里塚跡のすぐ先の民家にも「東海道土山宿 お六櫛商 三日月屋」屋号札。少し先向かいには立派な塀のある大きな建物の家があり「油屋権右衛門」と屋号札にある。しばらく進み右の前友木材(北土山870)を過ぎたら下り坂となる。 |
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来見(くるみ)橋 左に平成3年「土山宿 旅籠 寿し屋跡」石柱を過ぎると坂を下りきって平成13年竣工の来見橋で来見川を渡る。橋の欄干は白塀で瓦屋根があり右には地元の切絵家・黒川重一による街道風景の切絵3枚の陶板が貼られ左には土山茶もみ唄の歌詞「お茶を摘めつめ しっかり摘みやれ 唄いすぎては手がお留守」「お茶をもめもめ 揉まねばならぬ もめば古茶も粉茶となる」と切絵1枚の陶板が貼られている。手前左右には「歴史の道 東海道」金属製立札もある。橋を渡ると上り坂となり左にカーブしていく。 |
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{左}白川神社 土山町南土山261 カーブするとある。創建時期は不明で古くは牛頭天王社、祇園社などと呼ばれた。祭神は速須佐之男尊、天照大神御神、豊受大御神。寛文5年(1665)付近の火災で類焼し現在地に移転。千鳥破風と唐破風が組み合わさる本殿は文久3年(1863)築。本殿前の願かけ神石はなでると祈願成就すると伝わり拝殿前にも願かけ参り用の白石がある。本殿右に愛宕神社、左に若宮、琴平など6社を祀った境内社と稲荷神社。境内には文久元年(1861)などの灯籠、土俵もある。参道左に昭和12年(1937)「明治元年天長節 内待所奉安紀念地」石柱、参道右に文化14年(1817)灯籠。境内入口左に昭和61年「悠紀斎田之碑」。夏に行われる土山祇園祭の花奪い神事は承応3年(1654)に復興されたとされ県無形文化財。 |
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{右}正和堂(正和堂製菓舗) 土山町北土山1538 少し先左の大原医院(南土山288)向かいに平成4年「土山宿 旅籠 木屋跡」石柱、斜め向かいに平成3年「土山宿 旅籠 海老屋跡」石柱があり過ぎるとある。戦前から現在地で営む和菓子屋。毬(いが)饅頭(1個105円)は古くから鈴鹿峠越えの主食だった白団子と山栗を菓子にアレンジしたもの。関宿の志ら玉と同じく彩り粒がのっている。万人講最中(1個137円)玄米茶煎餅(16枚入420円)茶羊羹(700円)もある。商品は道の駅 あいの土山でも販売している。
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{左}森白仙終焉の地 井筒屋跡 その後も左に平成3年「山本屋」右に平成4年「簾屋」平成4年「江戸屋」など旅籠跡石柱が続き左の大原製茶場(南土山320)の1軒先の民家前に昭和56年建立の石柱と平成4年設置の説明立札がある。森家は代々石見国津和野藩(現:島根県鹿足郡津和野町)亀井家の典医で白仙は長崎と江戸で漢学、蘭医学を修めた。藩主・亀井茲監の参勤に随行し茲監帰国後に江戸から帰る途中の文久元年(1861)ここで没した。明治時代の文豪・軍医である森鴎外(林太郎)の祖父にあたり明治33年(1900)墓参のため土山を訪れた鴎外は井筒屋の場所を探したが既に廃業していたと小倉日記に記している。向かいの佐治屋酒店(北土山1549)前には「釣瓶屋」「大工屋」「柏屋」の3軒の旅籠跡石柱が並べてある。 |
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{右}旅籠 平野屋跡 少し先左に平成4年「木綿屋」石柱があり斜め向かいに平成3年建立の石柱と平成17年設置の説明立札がある。祖父・白仙の墓参のために土山を訪れた森鴎外が明治33年(1900)3月2日に1泊した。同年に執筆された小倉日記には「平野屋藤右衛門の家に投宿す。」とある。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道許諾す。」ともありこの時に田村川に架かる大山橋の袂にあった白仙の墓を常明寺の当時の住職・固道に頼み寺の境内に移した。寺には明治39年白仙の妻・清子、大正5年(1916)白仙の娘(鴎外の母)・峰子も葬られたが昭和28年(1953)鴎外没後33年を機に白仙の墓と共に島根県の覚皇山永明寺(津和野町後田ロ107)に移され常明寺には昭和63年3人の供養碑が建てられた。 |
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{左}民芸・茶房 うかい屋 土山町南土山328 斜め向かい。江戸時代には高利貸だった菱屋の建物で江戸中期築とされる。「質 菱屋跡」屋号札もある。戦後に鵜飼家が買取り改造し平成5年に喫茶食事処として開店した。鴨南蛮(850円)は「街道で2番目に美味しい」との記録があるが詳細不明の土山名物「夕霧そば」を目指して考案した。抹茶セットやぜんざい等の甘味もある。主人・鵜飼秀郎は歴史の道 東海道宿駅会議の常任理事、東海道ネットワークの会21の関西ブロック長で毎年行なわれる東海道五十三次シンポジウムの初代実行委員長。店内には東海道に関する本、パンフレットなど東海道関連の資料も置いてあり陶芸などの民芸品を売るコーナーもある。10時-18時、不定休。向かいには共に平成3年建立「はた屋」「万屋」石柱がある。 |
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{左}二階屋脇本陣跡 うかい屋の1軒挟んだ先の民家前に昭和56年建立の石柱がある。天保14年(1843)の記録には土山宿に脇本陣はなかったが往来が多くなったため幕末頃に堤家が営む旅籠・二階屋が脇本陣となった。 |
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{右・寄}東海道伝馬館 土山町北土山1570 斜め向かいを右折すると正面。東海道制定400年記念に江戸後期の農家の建物を買い上げ改修し東海道や土山宿の情報発信の拠点として平成13年開館。門を入って左の建物には往時の問屋場が再現されおり窓口で帳付する宿役人や馬と馬子などが原寸大人形で表現されている。本館1Fには土山宿ジオラマなどの宿場と東海道に関する展示、映像コーナー、2Fでは広重の浮世絵、53次に沿って三上静雄が作成したジオラマ(盆景)、黒川重一が作成した切絵、各宿の名産品を展示している。離れには京人形による大名行列再現。他に井戸跡、茶染めができる体験工房(予約要、有料)もある。9時-17時、無料、月火休。門前には平成16年「文豪森鴎外来訪の地」碑と説明立札、自然石の灯籠がある。 |
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{右}問屋場跡 伝馬館へ通じる角の先に「問屋場」「成道学校」が並び刻まれ下に「跡」とある平成5年建立の石柱がある。土山宿の問屋場は中町とこの先の吉川町の2箇所に置かれたが問屋役の自宅に設けられたため問屋役が変わるたびに詳細な位置は変わった。明治5年(1872)宿廃止時に問屋場だったのが現在地でその後は成道学校として利用された。学校は翌年高座山永雲寺[臨済宗大徳寺派](北土山1808)を仮校舎とし創立した現在の土山小学校の前身となった。手前向かいには「歴史の道 東海道」金属製立札がある。 |
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{右}問屋宅跡 少し先の1階が格子、2階が白壁で間口が広い大きな建物左前に平成13年建立の「土山宿 問屋宅跡」石柱と平成14年設置の説明立札がある。問屋場の責任者である問屋役を務めていた家で「土山宿 油佐」屋号札がある。東海道を挟んで北土山村、南土山村の2村で構成されていた土山宿の問屋役は両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役でもあった。石柱先の道を挟んだ先には「歴史の道 東海道」金属製立札がある。 |
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{右}土山本陣 道を挟んだ隣の建物。建物左前に昭和56年建立の「土山宿本陣跡」石柱と平成3年設置の説明立札がある。甲賀53家の土山城主・土山鹿之助の子孫にあたる土山喜左衛門が寛永11年(1634)3代家光上洛の際に本陣に任命されて以降明治までつとめた。現在も子孫の土山家が住んでいる。建物は1階が格子、2階が黒漆喰塗りの壁で中には上段の間、裏には庭園も残っている。関札、宿帳、工芸品なども現存し宿帳には勝海舟など幕末の志士の名前も見られる。熊本藩細川家の御用達でもあり細川家ゆかりの調度品も伝わる。入館料300円(要予約)。向かいには平成3年「俵屋」石柱がある。 |
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{右}井上圓了漢詩碑・「明治天皇聖蹟」碑 本陣建物隣。手前に平成13年建立の漢詩碑、説明立札、奥に昭和3年建立の聖蹟碑。明治天皇は明治元年(1868)9月22日に土山本陣に1泊した。この時に即位後最初の誕生日を迎え次の日には本陣にて祝賀式(第1回天長節)が挙行され土山の住民全戸に神酒と鯣が下賜された。漢詩碑は私立哲学館(現:東洋大学)創立者で仏教哲学者・井上圓了が大正3年(1914)にこの地を訪れた際にその話を聞き詠んだもの。「鈴鹿山西古驛亭 秋風一夜鳳輿停 維新正是天長節 恩賜酒殽今当賀」とある。明治天皇は同年12月20日と明治2年3月9日にも休憩で立寄った。明治天皇誕生日は明治6年の太陽暦採用により11月3日となり昭和21年の日本国憲法公布日にもなったため現在は文化の日となっている。 |
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{左}林羅山漢詩碑 土山町南土山406 左に平成3年「山形屋」右に平成3年「近江屋」左に平成3年「山田屋」と石柱が続き土山中央公民館(土山公民館)の建物右前に平成11年建立の碑、説明立札がある。朱子学者・林羅山が江戸から京都へ向かう元和2年(1616)34歳の時に土山で詠んだ詩で「行李東西久旅居 風光日夜憶郷閭 梅花繋馬土山上 知是崔嵬知是岨」とある。収録している紀行文「丙辰紀行」には前文に「釋詁毛傳などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」とあり土山とはどんな石の山なのか疑問に思う心情を詠んだ。公民館には「東海道あいの土山宿お休処」木看板、道路側には平成10年「宿場のけごみ」石柱もある。 |
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{右}飛脚屋 日野屋跡 斜め向かいの駐車場には土山宿の大きな案内地図があり駐車場隣に1階が連子格子の民家がある。屋号札に「日野屋太郎左衛門跡」とあり近江日野商人の飛脚取次所として金、荷物の配送を一手に請負っていた。江戸、大坂の飛脚仲間と連帯して荷物の破損、紛失の保証もしていたと言う。近江日野商人は天正12年(1584)領主・蒲生氏郷の伊勢松ヶ島転封をきっかけに生活を支えるため多くが行商人となって全国にちらばりやがて各地に店を構えるようになった。相互扶助の心が強く独自のネットワーク組織も持ち飛脚、金銭面の便宜だけでなく主要街道の宿場町には日野商人定宿と言った商人のための指定旅館もあった。手前向かいには平成3年「山村屋」石柱もある。 |
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{右・寄}平成万人灯 少し先右に平成3年「中嶋屋」石柱を過ぎると県道539号線(一の松通り)に出る。東海道は直進だが右折してしばらく進み国道1号と交差する土山支所前交差点を渡った左の緑地にある。平成3年に交通事故防止の願いを込めてふるさと創生資金で建てられた。岐阜県中津川市蛭川産の白錆御影石で造られ基礎上の高さ9.33m重さ156.8tで自然石の石灯籠では福岡県八女市の八女伝統工芸館の八女石灯籠(高さ10.5m重さ108.8t)に並び国内最大級。自然石でない灯籠では岡山県岡山市の吉備津彦神社に高さ11.5mのがある。万人灯前には広重の土山宿の絵の石碑、右には「平成万人灯」文字碑、説明碑、左には「あいの土山」文字碑がある。緑地の国道側には「土山町一級基準点」石柱もある。 |
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{右}大黒屋公園(大黒屋本陣跡・問屋場跡) 交差点で県道539号線を渡るとある。現在は公園となっている。街道沿いに昭和56年建立「大黒屋本陣」と同年建立「土山宿問屋場跡」石柱が並び横に本陣の説明立札がある。豪商・立岡家が営む大黒屋は旅籠屋であったが街道の通行量の増大で土山本陣のみでは収容しきれないことが多くなったため江戸中期以降に控本陣(補佐宿)となった。一時期は問屋役も兼ねていた。建物は大広間など多数の部屋に上段の間、門、玄関もあり敷地も広く明治13年(1880)7月12日に明治天皇が宿泊した際に作られた間取図が現存する。公園内には昭和5年(1930)建立「明治天皇聖蹟」石柱もある。他に公園内の右には井戸跡、ベンチ、「歴史の道 東海道」金属製立札もある。 |
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{右}高札場跡 公園内の問屋場跡石柱の左に昭和56年建立の石柱がある。土山宿の高札場は2箇所にありそのうちの1つがこの付近にありもう1つは田村神社手前にあった。高札場は桁行5m幅1.8m高さ3mで明治7年(1874)廃止された。公園奥左には「巖稲荷神社跡」石柱があり正面奥に松や社殿の台座が残る。一の松通り側には「弥生松」という名の付いた松もある。その手前には京都東山の芭蕉堂主・高桑闌更(らんこう)が詠んだ平成19年建立の句碑「土山や 唄にもうたう はつしぐれ」と説明立札もある。闌更は享保11年(1726)加賀国金沢(現:石川県金沢市)の商家・釣瓶屋に生まれ諸国遊歴後に京都に住み後に東福寺や南禅寺の管長となる常明寺15世の松堂慧喬(虚白)の俳句の師匠でもあった。 |
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{左}土山陣屋跡 少し先右の平成3年「古め屋」石柱がある民家の斜め向かいの民家前に昭和56年建立の「土山宿陣屋」石柱がある。土山宿は天領であり派遣された代官・猪飼次郎兵衛(治郎兵衛)ら役人の詰所、住居として天和3年(1683)に建てられた。瀬古川の東崖にあり東西25間(45m)南北30間(55m)の規模だった。後に代官は宝永3年(1706)多羅尾四郎右衛門、明和8年(1771)岩出甚右衛門に引き継がれ天明2年(1782)から明治までは再び多羅尾氏になった。その先で吉川を平成12年竣工の大黒橋で渡る。来見橋と同様で白塀、瓦屋根付の欄干には街道風景の切絵計6枚と鈴鹿馬子唄「鈴鹿山には 霞がかかる 可愛い娘にや 目がかかる」「坂は照るるてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」の陶板が両側にある。 |
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{左・寄}瑞寶(宝)山 常明寺 [臨済宗東福寺派] 土山町南土山531 少し先左の石岡商店(南土山487)の先を左折していくと右に塀が続き東海道と逆方向に面して山門がある。和銅年間(708-14)創建とされ貞和5年(1349)鈍翁了愚が中興。昭和42年寺名石柱には「開基 元明天皇」とある。後に兵火で焼失し延宝年間(1673-81)に再建。15世松堂慧喬は号を虚白、俳号を煨芋(わいう)と言い地域の俳壇で指導的立場だった。山門前左に「禅俳僧 虚白住寺跡」石柱や虚白句碑がある。山門前左に天保12年(1841)人足代役仲間が建てた三千佛名塔、右に昭和44年「不許葷酒入山門」石柱。本堂左の庫裏前には井戸跡。所蔵する大般若経27帖は高市皇子の子で天武天皇の孫の長屋王が和銅5年(712)写経させた長屋王願経(和銅経)600巻の1部とされ明治43年(1910)指定国宝。 |
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{左・寄}芭蕉句碑 常明寺境内右の木の下にある。建立年不明で自然石に「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ」とある。寺の15世松堂慧喬(虚白)と親交があった俳人・桜井梅室の揮毫。貞享4年(1687)芭蕉44歳の時の句で自選句集「あつめ句」に収録されており江戸の庵で五月雨の音を聞き琵琶湖への思いを詠んだ。春から夏にかけて葦や水草の葉を使って浮き巣を作る鳰(カイツブリ)が多く生息していた琵琶湖は「鳰の海」とも呼ばれていた。他に境内右には昭和30年鋳造の梵鐘がある鐘楼、昭和52年水子地蔵、稲荷など5柱を祀る小祠、観音銅像もある。 |
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{右}「東海道 土山宿」石柱 しばらく進むと左に平成3年「藤屋」その先左に平成3年「竹屋」石柱がある。少し先左に土山宿の大きな地図付案内板がありしばらく進むと南土山交差点で東海道は国道1号に合流する。手前角の白い塀で囲まれた三角地に小庭園があり昭和56年建立の「東海道 土山宿」石柱がある。庭園には台座に「万人講」とある自然石の常夜燈、平成7年設置の土山宿の説明立札、「歴史の道 東海道」金属製立札もある。南土山交差点に出るとカラー舗装が終わる。 |
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{左}御代参街道道標 国道に合流した斜め向かいに道標2基と説明立札がある。右の道標は文化4年(1807)建立で正面に「右 北国たが街道 ひの八まんみち」左の道標は天明8年(1788)建立で正面に「たかのよつぎかんおんみち」左面に「高埜世継観音道」右面に「瑞石山永源寺」とある。「たが街道」は土山から日野八日市を通って中山道の愛知川宿手前に出て多賀大社へ通じ江戸時代には朝廷から天皇の代参の公家が通り御代参街道と呼ばれた。「八まんみち」は日牟禮八幡宮、「高埜世継観音道」は瑞石山永源寺[臨済宗永源寺派](東近江市永源寺高野町41)への道で御代参街道の途中で分岐していた。道標横の小道を右折した少し先左には「見性庵廃寺跡」石柱、国道の斜め向かいには「追分屋跡」石柱もある。 |
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{右}東海道分断の案内板 少し先の「歴史の道 東海道」金属製立札がある所で東海道は国道から右に分岐する。しばらく進むとトラバースロードと交差する十字路の両側にも同じ立札があり右には分断の案内板がある。この先の野洲川で東海道が分断するため迂回を促す地図付案内板でここを左折し途中から明治13年(1880)に作られた新東海道を進むルートが掲載されている。トラバースロードは土山の北を東西に通る道の愛称で甲賀市(旧:土山町)の姉妹都市であるアメリカのミシガン州・トラバースシティーが由来。沿道にトラバースシティーの名産であるチェリーの木が植えられている。本来の東海道は直進で下り坂をしばらく進むと途中左に関西電力土山町変電所、右に「馬頭観音」石碑と小さな石仏などを安置した堂があり川に出る。 |
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野洲川(やすがわ) 川に突き当たり舗装が途切れる所で左折し林の中に入り少し先右に警報局の石段を過ぎ右にカーブし下りてすぐ左にカーブする付近で東海道は本来は直進していた。野洲川は江戸時代は松尾川、松野尾川、松の尾川と言いここには水量の少ない10月から2月は木橋または土橋が架かり3月から9月は松尾の渡しの舟や徒歩で渡った。江戸中期の国学者・丹羽桃丸の著書「蜻蛉の道艸」の挿絵には松の尾川に架かる木橋が描かれている。現在は橋がないため分断の案内板がある十字路まで戻りトラバースロードで国道1号に出て右折し昭和35年竣工の白川橋で川を渡る。渡ってすぐ右折ししばらく行くと十字路で東海道の続きと交差し右に鈴鹿馬子唄石碑がある急な下り坂を右折して行くと対岸の河原となる。 |
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{右・寄}甲可日雲宮 東海道の続きの十字路から左折すると京都方面に向かう。しばらく進むと右には民家が続き左には平成4年「旅籠 水口屋跡」石柱がある。民家が途切れ右が小高い山となると石段上に小祠がありさらにゆるやかな上り坂を進むと小高い山を過ぎて右折すると右に神社がある。伊勢神宮創建時に倭姫命が天照大御神の鎮座地を求め各地を転々とした際に訪れたと伝わる地で「倭姫命世記」には近江国の甲可日雲宮(こうがのひくものみや)に4年滞在したと書かれている。入口に大正8年(1919)鳥居、右に昭和56年神社名石柱、左に手水石。奥には平成6年鳥居、その先左に稲荷神社、正面の石段上に小さな社殿がある。倭姫命が滞在した甲可日雲宮については日雲神社(信楽町牧75)など別の伝承地もある。 |
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{右・寄}垂水斎王頓宮跡 道は下り坂となりしばらく進むと国道1号に出る。右折して茶畑沿いにしばらく行くと右に昭和39年「史蹟 垂水頓宮跡」石柱があり右折して茶畑の中を進むと「史蹟 垂水頓宮址」石柱と木製鳥居、平成5年説明板がある。甲可日雲宮前を過ぎてそのまま進んでも裏口に通じる。天皇名代として伊勢神宮に奉仕した皇族の未婚女性である斎王は天皇即位の度に交代し京から斎宮(現:三重県多気郡)まで数百人の供を連れ赴く斎王群行を行った。平安初期から鎌倉中期までは行程5泊6日のうちの1泊がここの垂水頓宮で計31人の斎王が宿泊した。他は勢多、甲賀、鈴鹿、一志で場所が明確に判明してるのはここのみで国指定史跡。森の中には伊勢神宮遥拝所、昭和36年「斎王垂水頓宮址」碑、井戸跡がある。 |
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{左}「伊勢大路(別名 阿須波道)」石柱 国道1号を右折せず渡り小道に入ると左に昭和56年建立の石柱がある。延暦13年(794)平安京に都が移されると伊勢神宮への奉幣使が通る道として近江を通り鈴鹿峠を越える阿須波道が整備され仁和2年(886)斎王群行がこの道を初めて通った以降は官道となった。伊勢への通行が増えると伊勢大路と呼ばれるようになり江戸時代の東海道の前身となった。少し進むと左にはカラフルな石仏を安置した堂がありその先でカラー舗装された道に合流する。左から合流する道は明治13年(1880)に作られた新東海道で御代参街道道標から国道を少し進み脇道に分岐しここに至るルートで合流点左に地図付案内板もある。合流点右の民家には「東海道頓宮村 たばこや」屋号札がありこの先は旧:頓宮村の集落を進む。 |
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