東海道ルートガイド
水口宿

{右・寄}秋元寺(しょうげんじ)[浄土宗] 水口町秋葉3-21
ゆるやかな細い上り坂の道をしばらく進んだ右の民家の間の小道を右折し突当りを右折した正面にある。明和5年(1768)創建。寺名石柱は昭和57年。山門入った左に6地蔵、2基の6字名号碑、宝塔、平成12年建立「狩猟鳥獣愛犬之碑」、石仏12体が並ぶ。
{右・寄}秋葉神社
秋元寺境内左の道路を渡った先にある。水口宿は江戸時代に3度の大火があり明和7年(1770)火防を願って静岡県の秋葉神社(浜松市天竜区春野町領家841)の前身である秋葉大権現を勧請し創建された。祭神は火之迦具土大神。石段下左の道路沿いに説明碑がある。石段途中右の神社名石柱は昭和13年(1938)。石段途中に鳥居。登った正面に「三尺坊」扁額がかかる堂。その前を右折しさらに80段ほど石段を登ると昭和10年灯籠、明治33年(1900)鳥居があり「秋葉神社」扁額がかかる社殿が左にある。その前にある狛犬、灯籠は平成3年。さらに社殿の左へ登る丸木で作った階段があるが少し先で藪になっている。
{右}東見附(江戸口)跡
東海道を少し進み坂を上がると右から秋葉神社前からの道が合流する三角地点のポケットパークにある。門柱に「東海道水口宿」木製看板とある冠木門、奥には小さい松、地蔵の祠、石ベンチ、説明碑があるベンチ背後には観光案内パンフが入ったボックスもある。江戸口はそれまで野洲川に沿っていた古東海道が慶長10年(1605)に現ルートになったためここに定められた。天和2年(1682)水口藩成立以降は城下にもなったため宿入口は厳重な警備施設となり享保年間(1716-36)作成の水口宿色絵図や寛政9年(1797)刊行の伊勢参宮名所図会には桝形土居、木戸、番所が描かれている。冠木門左には「中畑へ一リ」と刻まれた石柱もあり右折して行くと現在の水口町中畑に通じる。
水口宿   本陣1脇本陣1旅籠41家数692人口2692[天保14年(1843)]
平安時代に伊勢大路が通ると伊勢参りの人々が往来するようになり室町時代には宿村となった。天正13年(1585)古城山に岡山城が築城されると山麓の集落は城下町となり江戸時代に宿場に指定され3代将軍家光が水口城を築くと城下町と宿駅としての両面で栄えた。町並は東西2km余りで通りが3つある三筋町(みすじまち)となっており現在もその道筋が残り江戸時代の町名を刻んだ石柱も設置されている。名物は干瓢、葛細工、煙管、泥鰌汁などで干瓢造りの様子は広重も描き現在でも特産品。水口神社(水口町宮の前3-14)祭礼の水口曳山祭も有名で現在も16基の曳山を保管する曳山蔵が点在する。
{右}日風寺 [本門仏立宗] 水口町元町8-21
少し先の元町交差点で国道307号を歩道橋で横断すると右に「松原町」石柱があり少し進むとある。普通の民家のような敷地で本堂は2階建コンクリート平屋。本堂右に灯籠と昭和25年(1950)建立「日旺上人頌徳碑」がある。
{左}水口宿本陣跡
少し先にある。元和元年(1615)から明治まで鵜飼伝左衛門が営んでいた本陣跡。建物は門玄関付平屋で間口は一般家屋の3軒分あったが明治以降に撤去された。竹垣風の柵で囲まれた細い道の入口右に「作坂町」石柱、入ったすぐ右に「東海道水口宿」説明板。奥に進むと左に本陣の説明碑があり奥の正面に昭和10年(1935)建立「明治天皇聖蹟」石柱がある。明治天皇は明治元年(1868)9月(食事)12月(休憩)明治2年3月(宿泊)の3回立ち寄った。左にも大正4年(1915)建立「明治天皇行在所御旧跡」石柱がある。他には桜が2本あるのみ。本陣の手前左には西村脇本陣があった。少し先左には「桔梗屋文七」の看板がある紅殻格子の建物があり現在はクリーニング店となっている。
高札場跡・東海道分岐
東海道はすぐ先の正面に作坂町集会所(水口町元町4-12)があるところで2叉路となる。集会所前が高札場跡で小さな高札場が復元されている。3枚の高札が架かっており上の大きな高札には高札場の説明と下の高札の楷書表記が書かれており下の小さな2枚は正徳元年(1711)の人足と駄賃に関する高札を模写している。左には石垣に乗った石造小祠もある。ここの高札場は正徳元年(1711)に設けられ明治維新で撤去されるまで続きここは「札の辻」とも呼ばれていた。水口宿は通りが3つ(北道、中道、南道)ある三筋町でここで右の北道と左の中道が分岐し中道を少し進んだ2叉路で左に南道が分岐する。3つの道は平行して進み800mほど先の三筋の道広場で合流し1つになる。
{右}(北道)湯屋町 曳山蔵
北道を進むと少し先にある。向かいには「湯屋町」石柱と昭和41年建立の石祠もある。蔵内には昭和60年県指定無形文化財の水口曳山祭で使用する湯屋町の曳山(全長3.9m幅2.55m高さ5m)が格納されている。水口の曳山は享保20年(1735)に9基の曳山が巡行したのが起こりで後に1町ごとに建造され最盛期には30基余りがあった。現在は16基あり全て市指定文化財で1基は1年交替で水口歴史民俗資料館(水口町水口5638)に展示され他は各町内の曳山蔵にある。2層露天式人形屋台という構造で巡行時は屋上に毎回趣向を変えた飾り物「ダシ」をのせ出来栄えも競う。巡行するのは16基のうち毎年選ばれた5〜8基ほどで他の町は纏田楽を巡行する。少し進むと右に石祠、左に「瀧町」石柱がある。
{右}(北道)「鴨長明発心所」石柱
右に「池田町」石柱と池田町曳山蔵を過ぎると十字路に出て渡ったところにある。左面には「岡観音甲賀三郎兼家舊跡」右面には「江州三十三所二十六番」「甲賀三十三所二十二番」と並んだ下に「大岡寺」とも刻まれている。下鴨神社(賀茂御祖神社)の神官の家の次男として生まれたが神官にはならず仏門に入り蓮胤と名乗った鴨長明は大岡寺に滞在した際に髪を剃り出家したと伝わる。岡観音は大岡寺の古くからの呼び名で山の神である大蛇を斬殺したため蛇に姿を変えられてしまった甲賀三郎兼家が観音堂下で念仏を唱えると人間に戻ったとされる。
{右・寄}(北道)龍王山 大岡寺(だいこうじ) [天台宗系単立]  水口町京町1-30
十字路を右折して行くと正面。途中左に稲荷神社、右に大正6年(1917)「国宝本尊観世音大岡寺」石柱、「大岡寺町」石柱。天武天皇の代の15年(686)諸国行脚中の行基が山頂に千手観音を安置したのが起こり。最盛期は16坊を構える大寺院だったが天正2年(1574)兵火で焼失し東之坊のみが残った。天正13年(1585)中村一氏が岡山城を築く際に水口の南側に移転したが享保元年(1716)寂堂の時に現在地に移り水口藩主加藤氏歴代の祈願所となった。本尊は観世音菩薩。石段の上に山門があり正面に本堂、その左に行者堂、客殿。本堂前灯籠は元禄2年(1689)。境内左に6地蔵、寛保2年(1742)宝篋印塔、藩学者中邨栗園顕彰碑など。近江西国33ヶ所霊場第26番。甲賀西国観音霊場第22番。
{右・寄}(北道)大岡寺 芭蕉句碑
山門入って右にある。「いのちふたつ 中に活たる さくらかな」とあり寛政7年(1795)水口藩家老で俳人の加藤蜃州が発起人となり建立したものとされる。貞享2年(1685)刊「野ざらし紀行」には「水口にて 二十年を経て 故人に逢ふ」として「命二つの中に生きたる桜哉」とあり碑では「命二つの」の「の」が抜けて彫られている。芭蕉が水口で時々泊まっていたのは蓮華寺で「故人」とは旧友の意味で同郷の俳人・服部土芳とされる。他に境内右には昭和58年「開創千三百年忌大法要記念碑」、稲荷神社の祠、鐘楼、放生池があり池畔には弁天堂がある。池に架かる橋を渡った左に諏訪神社、巌谷一六顕彰碑、石仏群、右奥に日清戦役忠魂碑もある。大岡寺境内は桜の名所でもあり水口八景の1つにもなっている。
{右}(北道)岡龍山 慶円寺(慶圓寺) [真宗大谷派] 水口町本町1-3-13
十字路からしばらく行くと右に小祠、さらに行くと左に小祠、向かいに大原町曳山蔵と「大原町」石柱、さらに先には呉服町曳山蔵と「呉服町」石柱がありその先。元は天台宗で宇田院と言ったが元亀2年(1571)教宅が再興した。本尊は阿弥陀如来。 門を入って右に鐘楼。境内左に20以上の石仏が安置された堂がある。本堂前には昭和4年(1929)建立の灯籠、松の木もある。
{右・寄}(北道)旧:水口図書館 水口町本町1-2-1
すぐ先の十字路を右折すると正面の水口小学校の正門左にある。明治14年(1881)水口に生まれ大阪で金物商(現:井上鋲螺工業)として成功した実業家・井上好三郎が昭和3年(1928)故郷のために寄贈した旧:水口町立水口図書館の建物。アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計でトスカナ式円柱を配した玄関ドア上には燭台と本とオリーブの葉がデザインされている。建築面積52平方mで鉄筋コンクリート(1部レンガ造)2階建で塔屋付。昭和45年から平成14年までは水口教科書センターとして利用された。平成13年国登録有形文化財で平成16年保存改修され塔屋上のランタンも復元された。現在はコンサート、展示会への利用や毎月第2,4日曜の10時-16時には内部公開(無料)されている。
{右}(北道)華園山 本正寺 [日蓮宗] 水口町本町2-3-18
十字路からしばらく行くと左の空地に松、「中之町」石柱、小祠、石仏5基があり少し先にある。天正5年(1577)量詮院日祐が創建。入口左に題目塔、右に寺名碑。山門前右には日蓮銅像がある。天保3年(1832)10世中心院日遍が本堂と庫裏を改修。慶応2年(1866)水口藩主・加藤明実が帰依し藩主祈願所となり開運殿妙見堂を建立した。明実の3番目の妻・慶姫の父は陸奥国八戸藩主・南部信順で熱心な日蓮宗信者だった。現在の本堂は昭和57年23世龍興院日正の再建で境内右にある現在の妙見堂は平成元年の再建。本堂左の書院は平成15年、本堂右の庫裏は平成18年の築。境内には盆栽が数多く並ぶ。
{右}(北道)家松山 大徳寺 [浄土宗] 本町3-3-46
少し先で十字路を渡り少し先。元は禅宗で林慶寺と言ったが古城山に岡山城を築いた中村一氏が天正16年(1588)菩提寺・香花院として再興し後に改宗し浄慶寺とした。慶長5年(1600)家康が立寄った際に「家康」「松平」より家松山の山号と梵鐘を与えられ慶長7年(1602)に「大将軍」「徳川」より大徳寺の寺号が与えられた。本尊は長束正家の持仏と伝わる阿弥陀如来立像で3世還誉岌閑は正家の実子。現本堂は平成元年築。寛政10年(1798)再建の山門前両側の石堤は小堀遠州作と伝わる。山門入って右に家康腰掛石。境内左隅に天保15年(1845)建立天保義民の五輪塔。近江湖南27名刹霊場第3番。びわ湖108霊場第83番。寺の向かいには井戸と「塗師屋町」石柱があり100m先が三筋の辻広場
{左}(中道)問屋場跡
高札場から左の道をしばらく行くと2叉路があり右が中道。少し進むと右に「旅籠町」石柱、旅籠町曳山蔵と「曳山蔵」説明立札がある。その先をしばらく行くと十字路があり手前右には「葛籠町」石柱、小祠、松などがある。十字路を渡った左に問屋場の説明碑がある。碑の周りは車道を含め色タイルが敷かれている。水口宿の問屋場は何度か移転したが江戸中期以降は現在位置に定まった。向かいには文政年間(1818-29)創業の和菓子屋一味屋(京町5-18)があり古城山、ひき山、本陣羊羹などの郷土菓子を売る。この先は本水口商店街となりしばらく行くと右に瓦葺の町家を模した建物(待合所)があり建物の奥は甲賀市コミュニティバスの本水口バス停&ロータリーで小祠もある。
{右}(中道)水口曳山からくり時計
その先の交差点に出るとある。水口曳山をデザインしたからくり時計で毎日4回(9時、正午、15時、18時)曳山を引く人形が動く。横には「曳山の由来」説明碑、「大池町」石柱。交差点を渡って3軒先右に明治33年(1900)創業の和菓子屋長田屋(本町1-7-7)があり五十三次、水口ばやし、五万石などの郷土菓子を売る。その隣は明治25年(1892)創業の笑四季酒造で斜め向かいに「柳町」石柱。少し先向かいに小祠があり少し先右の前野昭雄税理士事務所(本町1-7-15)先の十字路で本町商店街に入る。右に「夷町」「伴町」石柱を過ぎさらに先右の「平町」石柱を過ぎると道がタイル張りの米屋町商店街となりその先左の「米屋町」石柱と小祠を過ぎると少し先が三筋の辻広場
{左・寄}(南道)九品山 善福寺 [浄土宗] 水口町高塚1-64
高札場から左の道をしばらく行くと2叉路があり左が南道。左に井戸跡、小祠、東町曳山蔵、右に「東町」石柱、東町公民館を過ぎた十字路を左折すると正面に寺がある。永観2年(984)開山とされ元は天台宗だったが永禄4年(1561)永秀が再興。本尊は阿弥陀如来。山門前右に昭和52年建立の寺名石柱。山門入って左に鐘楼、庫裏がある。江戸時代の建物に古城山にあった岡山城の古材が使用されており城が落城した際に自害した武士の血痕が残る部材は現本堂の右廊下の天井板として残されている。本堂前の灯籠は大正4年(1915)建立。境内右には昭和52年石造法然上人座像、昭和28年忠霊塔、戦没者碑2基、境内奥には6地蔵、6字名号碑などがある。
{左・寄}(南道)水口山 蓮華寺 [真宗高田派] 水口町松栄2-40
「永原町」石柱がある左の東部コミュニティセンター(神明3-12)を過ぎ少し先で水口中央商店街となる。少し先の十字路先左の「中嶋町」石柱と小祠がある駐車場角を左折すると正面。推古天皇の代の27年(619)に聖徳太子が創建したと伝わり享保9年(1724)再興された。山門入って左に鬼瓦、砂山地蔵堂本堂右の書院の唐破風玄関は水口城の建物の1部を再利用。所蔵する平安時代作の木造阿弥陀如来立像は市指定文化財。小堀遠州作の庭が境内にあったとされ現存する石が1つだけ石垣に囲まれて境内左にある。墓地には初代水口藩主・加藤明友の次男で沢海藩主の溝口政親の墓芭蕉が時々泊まっており水口で詠んだ句碑は大岡寺にある。山門前を左に行った突き当たりには日雲宮がある。
{右}(南道)割烹旅館 魚兵楼  水口町本町2-5-17
蓮華寺入口よりしばらく進むとある。安政元年(1854)創業。近江牛、鮎、松茸など地元の食材を使った懐石料理を中心とした2食付き料理旅館としての他、合宿、ビジネスなどの団体、長期宿泊もできる。宿泊なしの食事・宴会や仕出しも行っている。
{左・寄}(南道)来迎山 西蓮寺 [浄土宗] 水口町鹿深1-4
少し先の十字路を渡った左に「西町」石柱があり左折していくと右にある。元は文殊堂と言い天正年間(1573-1592)に中興された。山門前左に昭和49年建立の寺名石柱、明治17年(1884)建立「善光寺如来」石柱。山門入って右に昭和11年(1936)建立「孝子 松之助菩提所」石柱、本堂左に大正15年(1926)「孝子 中村松之助墓」がある。境内左に石仏4体の祠、石仏21体の祠、小祠、水子地蔵。本堂前左には「せいし丸さま」銅像もある。
{左・寄}(南道)国造神社 水口町松栄1
西蓮寺向かいが弟殿駐車場となっておりその奥に社殿がある。祭神は大己貴命。水口神社(水口町宮の前3-14)の境外社で社殿には水口神社の神紋である桐紋と巴紋がある。水口曳山祭の際には曳山の集合場所である御旅所・弟殿(おとんど)となり巡行する曳山はここに集合してから飾り物「ダシ」を付けて順番に水口神社へ向けて出発する。昭和61年建立の鳥居前の灯籠は天明3年(1783)のもの。鳥居右には井戸跡と手水石がある。社殿前狛犬は昭和15年(1940)建立。駐車場奥や社殿前の道を隔て少し入った右にも小祠がある。 東海道に戻りしばらく進むと左の小祠前から道がタイル張りとなり少し先が三筋の辻広場
三筋の辻広場(3つの東海道合流点)
北道、中道、南道の3道はここで合流する。中道と南道の合流点の間にはからくり時計があり毎日4回(9時、正午、15時、18時)に時計の脇や下から人形が出てくる。時計土台部分には「東海道水口宿」プレートと広重の水口宿の絵の銅板がある。時計の南道側には若い松。中道側には「宿場町の水口」説明碑、その左には小祠、自然石の常夜燈もある。この先も水口城天王口跡までは中道から続く米屋町商店街となる。
{左・寄}水口石橋
すぐ先にある。江戸時代からここには石橋が架かっていた。現在も新しい小さな橋が細い水路に架かっており橋柱には「東海道」「いしばし」とある。橋を渡ると左に丸ポストがあり近江鉄道本線の線路を東海踏切で渡る。渡って少し先を左折していくと左に昭和32年開業の水口石橋駅があり東海道の石橋が駅名の由来となっている。近江鉄道は明治29年(1896)旧:彦根藩士・大東義徹、西村捨三らが中心となって設立した滋賀県最古の私鉄。土地買収で苦難し経営が近江商人・小林吟右衛門らに移り明治31年(1898)彦根〜愛知川が開通し2年後に貴生川まで延伸した。滋賀県出身の堤康次郎が大正9年(1920)創業した箱根土地(現:西武グループ)の傘下に昭和18年(1943)から入っている。
{右・寄}順礼山(順禮山) 真福寺 [浄土宗] 水口町八坂6-32
踏切を渡り少し先右に「天王町」石柱、「曳山の由来」説明板、天王町曳山蔵。その横を右折し少し先を右折した左が寺。平安時代の創建とされ順礼堂と称していた。承応元年(1652)に大徳寺3世還誉岌閑が移り中興した。還誉は長束正家の実子で古城山の岡山城落城後に正家が自害した後に生まれ旧臣・山本浅右衛門により育てられ大徳寺2世岌誉脱空の弟子となった。山門、本堂、庫裏などは平成21年の築。山門前右に昭和50年建立の寺名石柱、左に明治4年(1871)建立の「本尊子安観世音」石柱。山門入って左に水子地蔵、小祠、石仏24体を安置する堂。本堂前灯籠は平成12年のもの。
{右}中部コミュニティセンター・新水口宿公園 水口町八坂7-4
少し先にある。この地区に旅籠や商家が多かったことから商家の蔵をイメージした建物で中には曳山も展示されている。センター横には広重の水口宿の絵もある。センター裏の新水口宿公園は門、格子窓の木塀、四阿で囲まれた東海道をテーマにしたポケットパークとなっており平成7年度国土交通大臣表彰手づくり郷土賞コミュニティ部門受賞。センターから少し進むと左の滋賀県信用組合本店(水口町八光2-45)前に丸ポストがありすぐ先には「河内町」石柱もある。
{右}「水口城天王口跡」説明板
少し先左の湖東信用金庫水口支店(水口町八光3-56)向かいのメゾン城東前の角の電柱に地図付き説明板がある。東海道は江戸初期までは直進していたが寛永11年(1634)水口城が出来るとこの先は武家屋敷となったため右折して迂回するようになった。ここには城内に出入りする天王口御門(中見附門)と呼ばれる木戸が置かれ一般人は通行が出来なかったが水口曳山祭の時には開放され曳山が巡行したと言う。東海道は説明板がある角を右折するが信用金庫のすぐ先左には「東海道50次水口宿」の大きな看板があり広重の絵や曳山祭が紹介されている。
{左・寄}明治天皇聖蹟
右折して少し進むと左に井戸跡、「北町」石柱、小祠があり少し先突き当たりの花喜米穀店(水口町城東1-12)で左折するのが東海道。少し先左の甲賀建設会館(城東1-8)先を左折していくと右に昭和10年(1935)建立の石柱がある。明治13年(1880)に明治天皇が食事をした場所。そのまま石柱前を通り過ぎると左に水口幼稚園を併設する日本基督教団水口教会(城東3-21)がある。昭和5年(1930)築の教会礼拝堂と煉瓦造の門柱は平成12年国登録有形文化財で礼拝堂は旧:水口図書館と同じくアメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した。
{左}護念山香華院 心光寺 [浄土宗] 水口町城東5-19
甲賀建設会館から少し先。入口右に寺名石柱と「心光寺門前町」石柱、向かいには天神町曳山蔵。延喜3年(903)菅原道真の没後に5男淳茂が菩提を弔うため開基し愚定が天台宗の寺として開山。大永5年(1525)改宗した。平安中期作の木造阿弥陀如来立像は昭和59年市指定文化財。参道途中に山門、右に6地蔵、左に元禄10年(1697)阿弥陀如来銅像と寛保元年(1741)地蔵石仏を安置する堂。境内奥の墓地に慶長年間(1596-1615)など数十基の美濃部一族の墓石があり高さ3.3m円径79cmの五輪塔2基もある。水口は平安時代には美濃部郷と呼ばれ菅原家の荘園があった。道真の6男兼茂から12代後の元茂が美濃部氏の祖となったとされる。境内右にイチョウ、平成7年佛足石。本堂前灯籠は平成2年。
{右・寄}綾野天満宮 水口町綾野4-42
少し先右に「天神町」石柱と小祠がありさらに先の十字路を右折し右に分岐していくと正面。延喜3年(903)菅原道真の没後に5男淳茂が道真の木像を彫り水口天神として祀ったのが起こり。天慶年間(938-47)に淳茂の子・直茂が社殿を造営し美濃部宮と称した。現:藤栄神社の地にあったが水口城築城時の寛永10年(1633)現在地に移転した。主祭神に菅原道真。菅原淳茂、天穂日命、野見宿禰も祀る。境内奥の本殿右に平成3年牛像。本殿周りの灯籠は天明2年(1782)天保8年(1837)文久2年(1862)安永6年(1777)宝暦6年(1756)延享3年(1746)などがあり水口藩主奉納のものもある。境内左にフェンスに囲まれた灯籠もある。寺名石柱は大正13年(1924)狛犬は昭和4年(1929)。境内右奥に稲荷神社。
{左・寄}巌谷一六先生旧居跡(現:冨永社会保険労務士事務所) 水口町城東5-42
十字路を左折して行くと平成9年巌谷春聲揮毫の石柱がある。一六は本名は修と言い天保5年(1834)水口藩の藩医の子としてここで生まれた。6歳の時に父を亡くし母と共に京都に行き医学を学び地元に戻って父の後を継いだ。明治元年(1868)新政府に出仕し内閣大書記官、元老院議官、貴族院議員などを歴任。書家としても有名で中林梧竹、日下部鳴鶴と共に明治3筆の1人とされる。明治38年(1905)72歳で没。墓所は京都の霊山正法寺[時宗](東山区清閑寺霊山町35)。明治大正期の作家で児童文学者の巌谷小波は3男。甲賀市水口歴史民俗資料館(水口町水口5638)に2人を紹介する「巌谷一六・小波記念室」がある。大岡寺には楊守敬の題字、三島毅の撰文、日下部鳴鶴の書による顕彰碑がある。
{左・寄}藤栄神社(ふじさかじんじゃ) 水口町梅が丘2-26
そのまま旧居跡を過ぎて進み交差点を渡った左。角には「東邸町」石柱。文政12年(1829)藩主・加藤明邦が加藤家の祖・加藤嘉明を祭神として創建。嘉明大明神社と称したが明治に入り加「藤」が「栄」えるようにと藤栄神社となった。文政13年鳥居の左前の明治3年(1870)巌谷一六書の神社名石柱「従比川中西水口領」傍示石を再利用した。その左には井戸跡と文政13年手水石。社殿前灯籠も文政13年敷地内には藤栄会館もある。奥の広場に「天満宮舊趾」石柱、石仏群もある。境内地は水口城築城時に移転した美濃部宮(現:綾野天満宮)の旧地だった。神社向かいの水口中央公民館(本丸1-20)前には明治期の甲賀郡長・松田宗寿顕彰碑、広重の絵、平成16年甲賀市誕生記念碑、甲賀市市民憲章碑。
{左・寄}水口城跡・水口城資料館 水口町本丸4-80
そのまま神社前を進み少し先を右折した左。寛永11年(1634)3代家光の上洛時の宿泊所として築かれた城で水口御茶屋とも呼ばれ作事奉行は小堀遠州上洛に使用後は城番が管理し天和2年(1682)加藤明友が2万石で入城し水口藩が成立。元禄8年(1695)明友の子・明英が下野壬生に転封すると壬生から鳥居忠英が入封し正徳2年(1712)壬生に戻ると明英の後を継いでいた加藤嘉矩が水口に戻り明治まで加藤家が続いた。豊富な湧水を利用した薬研堀から碧水城とも呼ばれた。明治7年(1874)に廃城で城は殆ど壊されたが石垣の遺構が残る出丸に平成3年隅櫓を復元し水口城資料館となった。10時-17時、木金休、100円。昭和47年県指定史跡。出丸隣の本丸跡は水口高校グラウンドになっている。
{右}水口石
東海道に戻り十字路を渡り少し先の突き当たりで左折すると右にオレンジの鉄柵がある稲荷神社。東海道はその先で右折する。右折する角に水口石と呼ばれる直径80cmの力石と説明碑、「小坂町」石柱がある。江戸時代の小坂町の角には大きな石があったと伝わり歌川国芳も東海道五十三對で描いている。この辺りは水口城本丸北の二之丸に置かれた水口藩藩庁にも近く百間屋敷(武家屋敷)や小坂町御門などもあった。右折し少し行った先左には第20区遊園地(小公園)があり稲荷神社、「北邸町」石柱、北邸町集会所、ブランコ、鉄棒などの遊具がある。
{右}如林山 真徳寺 [浄土宗] 水口町城内3-22
少し先に昭和51年寺名石柱と山門の説明立札があり右折すると正面。慶長2年(1597)願誉が小庵を建て道場としたのが起こりで天台宗だったが後に改宗。帰寿の時に堂宇を再建し如林山真徳寺とした。本尊は阿弥陀如来座像(高さ189cm)で漆箔仕上げ寄木造。本堂の欄間には1間に25列4段の100体ずつ10間に嵌め込まれた千躰仏がある。素焼に金箔を貼った座像(高さ20cm)1体ごとに「水口真徳寺千躰仏量寿」とあり量寿は19世的寿の妻とされる。本堂内には西国33ヶ所の観音菩薩像もある。山門は水口藩士・蜷川家の武家屋敷長屋門の移築で前左に説明立札、内側左に石仏7体の祠、右に太鼓がある。本堂前左に水子地蔵。境内左には6字名号碑、6地蔵。境内右の客殿、庫裏は平成13年築。
{右}五十鈴神社 水口町東林口4-18
少し先右に慶円寺が管理する御茶園墓地公園入口がありしばらく進むとある。鳥居は木製で右前の昭和10年(1935)建立の神社名石柱は多賀大社宮司・大和田貞策書。鳥居前の灯籠は左が元治元年(1864)右が明治のもの。鳥居くぐった左に「水口町の古木・名木」のヒノキ、右に杉と鉄棒。境内左に手水石と井戸跡、市杵姫神社。社殿右に五十鈴会館、社殿左に境内社の秋葉神社、愛宕神社、八坂神社、稲荷神社がある。
{右}林口一里塚(113)
神社の先で突き当たりとなり角に再現された塚と石柱、説明碑がある。本来は手前の神社境内東端にあったが明治25年(1892)に撤去された。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも榎1と記録されている。宝暦2年(1752)東海道分間絵図には左塚はなく右塚のみ榎1とある。寛永11年(1634)水口城が築城され東海道が迂回するまではここよりも南を通っていた旧道沿いにあった。東海道は突き当たりを左折し少し先の右にひまわり薬局水口店(水口町西林口4-15)がある交差点を右折する。この交差点で寛永11年以降迂回していた東海道が元の道に戻る。
{右}雙龍山 妙沾寺(みょうてんじ) [日蓮宗] 水口町西林口4-16
右折するとひまわり薬局の先にある。昭和2年(1927)神山長兵衛が開基した。境内中央に大正15年(1926)建立の大きな題目塔がある。境内左には石仏1体を安置する小祠がある。この付近には江戸時代には水口宿の西見附(京口)があった。少し進むと両側に大正6年(1917)創業の美冨久酒造(水口町西林口3-2)がある。左の事務所内に店舗も併設しておりその先の白塗海鼠壁の建物の先には小祠もある。
{右}柏木神社鳥居
酒造すぐ先の十字路にある。昭和3年(1928)建立で手前に明治34年(1901)灯籠、左前に昭和10年「馬場改修記念献燈」石柱、右前に大正11年(1911)県知事・堀田義次郎揮毫の神社名石柱。神社(水口町北脇187)は右折300m先。途中左に御旅所、その先左の畑の中に「柏木神社神饌田」石柱もある。白鳳元年(672)この付近の柏木御厨の鎮守として創建されたとされ主祭神は大己貴命(大国主命)。元は日吉宮と称していたが頼朝が鶴岡八幡宮の分霊・誉田別命(応神天皇)を合祀して以降は若宮八幡宮と呼ばれた。承応4年(1655)水口城城番だった常陸牛久藩主・山口弘隆が灯籠、手水石を寄進し水口藩成立後は歴代藩主の祈願所となり明治4年(1871)に柏木神社となった。境内社に稲荷社、大行社。