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{左}瀧樹神社(たぎじんじゃ)入口 少し先で県道24号線を横断し少し進むと下部に「是従四丁」と刻まれた明治33年(1900)神社名石柱と説明板がある。左折し直進すると灯籠が並ぶ参道となり神社(土山町前野155)境内横に通じる。古くから地主神を祀っていた地に仁和元年(885)水害除けのため伊勢より速秋津比古命、速秋津比売神を勧請し合祀した。祭神は他に大山祇神、事代主之神など6柱。応永21年(1414)瀧樹大明神と称し滝樹神社、多義神社とも書く。本殿左に文明2年(1470)創建で菅原道真を祭神とする天満宮。本殿前には正徳2年(1712)などの灯籠12基が横に並び拝殿前には延享元年(1744)灯籠。拝殿、本殿など建物や境内は平成17年に大改修された。境内には神馬像、牛像、享保2年(1717)手水石、明治43年狛犬もある。 |
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{右}牛頭天王社 すぐ先。石段数段を上がると境内で木製鳥居があり奥に瓦屋根の小さな社殿と左に木屋根の祠がある。境内には手水石や安政元年(1854)安政3年などの灯籠4基がある。少し進むと左に紅殻(べんがら)塗りの格子がある民家がある。紅殻は紅柄、弁柄、辨柄などとも書き三酸化二鉄(Fe2O3)を主成分にした赤色の顔料でインドのベンガル地方で産出したことが語源とされる。耐光性、耐候性、耐熱性が高く防腐と装飾の目的で江戸時代には建築塗料として盛んに用いられた。柿渋液と合わせて防腐効果を高めたり松煙を合わせて色調を調節する。紅殻格子は京の町家の特徴の1つでもあり近江にも広がった。 |
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{左}瀧樹神社 入口 しばらく進むとある。手前にあった瀧樹神社入口と同じ神社境内に続く別の入口。鳥居前右に昭和6年(1931)神社名石柱、「瀧樹神社の由来」説明板、左に「定」高札、昭和54年灯籠、昭和7年狛犬がある。その先は昭和12年などの灯籠が並び右に地蔵などが安置された祠。その先で十字路を直進しゆるやかな下り坂を進んで行くと左に御神木の杉(幹周6.82m樹齢700年)があり拝殿下の正面鳥居に着く。神社は昭和59年指定国無形民俗文化財「近江のケンケト祭り・長刀振り」の1つであるケンケト(献鶏頭)踊りでも有名。延徳元年(1489)この地域の豪族・岩室氏と頓宮氏が田楽を奉献したのが起こりとされ現在も毎年5月3日に7歳〜12歳の男児8人が頭に孔雀などの羽で作った冠をかぶり派手な衣装で踊る。 |
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{右}福慧山 地安寺[黄檗宗] 土山町前野529-1 少し先。手前右には前野集会所。聖徳太子の開基とされ寛文年間(1661-72)龍渓性潜が改宗。本尊は聖観音菩薩。鐘楼門入って左に石塔群、隣に石仏やダルマが安置された堂。境内左に宝永5年(1708)建立の御影堂があり黄檗宗を庇護した後水尾天皇の御影、位牌を安置する。御影堂前には「御影堂」石柱と説明立札、江戸中期の国学者・丹羽桃丸(本名:丹羽重治郎)の辞世が刻まれた小さな石碑。桃丸は享保5年(1720)土山の旧:松野尾村で生まれ京都で国学を学び56歳で江戸へ出て多くの著書を執筆した。墓は東京の宝鏡山円光寺[臨済宗妙心寺派](台東区根岸3-11-3)にある。他に本堂左前に昭和27年忠霊塔、境内右に「不許葷酒入山門」碑、昭和54年子安地蔵尊。甲賀西国観音霊場第26番。 |
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{右}林丘寺宮御植栽の茶 地安寺の鐘楼門手前左に昭和56年石柱と茶木、平成4年説明立札がある。門前手前右にも茶木があり隣には「不許葷酒入山門」碑がある。鐘楼門までの参道両側の現在駐車場になっているあたりは古くは茶畑があり地安寺が管理していた。林丘寺宮と呼ばれた後水尾天皇の第8皇女・朱宮光子内親王(普明院)が宝永年間(1704-10)に茶の木を植栽したとされる。内親王は出家し照山元瑤尼となった後の天和2年(1682)に京都の朱宮御所(音羽御所)を聖明山林丘寺[臨済宗系単立](左京区修学院林ノ脇)として開基しておりここに植栽された茶は収穫されると毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘で林丘寺に献納された。茶畑は昭和初期になくなったが現在も土山茶が林丘寺に献納されている。 |
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{左}垂水頓宮御殿跡 少し先の十字路を過ぎしばらく行くと民家前に昭和56年建立の石柱と平成16年設置の説明立札がある。伊勢神宮創建時に倭姫命が天照大御神の鎮座地を求め各地を転々とし土山の甲可日雲宮に仮座した際に殿舎がこの付近に設けられたとされ地名が御殿と呼ばれるようになった。後に垂水斎王頓宮が設けられた際にも関連する施設がここに造営されたと伝わる。 |
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{左}諏訪神社 土山町市場146 道が右にカーブするとある2叉路は右へ進みしばらく行くと甲賀市消防団土山第4分団第3班倉庫手前に参道と昭和43年建立の諏訪大社宮司・三輪磐根書の神社名石柱がある。倉庫奥は市場区自治会館。参道途中に共に平成8年の灯籠と鳥居、その先に手水石。二之鳥居をくぐった左に昭和44年建立の詩が刻まれた石碑。その先左の「金刀比羅大神」石柱、「山神」石碑、「稲荷大神」石碑などが並ぶ先に社殿がある。社殿左前に平成15年「敬神生活の綱領」碑。社殿前には昭和3年(1928)狛犬、昭和49年などの灯籠もある。さらに奥には昭和42年建立の大きな「頌河原口農地復旧」碑があり昭和19年と24年の洪水で被災した農地復旧を記念したもの。境内には直径1m以上の切株も2つある。 |
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{右}生徳山 長泉寺 [浄土宗] 土山町市場185 少し先。街道沿いは四阿、住宅案内図、ブランコや鉄棒やすべり台などの遊具がある市場児童遊園地になっておりその奥の石段数段上に山門がある。創建年は不明で永禄元年(1558)喜伝が中興した。山門前右に昭和42年建立の寺名石柱、左に昭和42年建立の「子安延命地蔵尊」御詠歌石碑がある。山門入って右に水子供養之塔、歴代住職墓石。山門入って左に鐘楼、殉国英霊碑。本堂左に無縁墓石群。本堂前の灯籠は昭和14年(1939)建立。 |
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{左}大野市場一里塚跡(111) 「市場村」の屋号札がかかる集落を抜けていくとシャッターのある建物前に昭和57年建立の「一里塚跡」石柱、平成7年設置の説明立札がある。旧:土山町内の3箇所(山中、土山、大野市場)の一里塚は規模はどれも高さ2.5m円周12mだったと伝わるがいずれも現存しない。大野市場一里塚は市場村と大野村の境付近にあったとされ元禄3年(1690)東海道分間絵図には右は榎1、左は松1と記録されている。この先の大野村は間宿で焼鳥が名物であり大田南畝の「改元紀行」にも紹介されている。一里塚から少し行くと左の石田電気(土山町市場324)隣には紅殻塗りで茅葺屋根の民家がある。 |
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{右}大日川(堀切川)堀割 茅葺屋根の民家向かいに昭和57年「大日川掘割」石柱がある。古くから頓宮山を源流とする水が大雨時には市場村、大野村方面に水害をもたらし江戸初期に大野村が市場村との境に堤を築くと市場村の水害はさらに甚大となった。元禄12年(1699)市場村は野洲川への排水路を掘削することを計画し近江宮川藩主・堀田正国(正休)に願い出て許可を受けた。川敷地の提供や村民の総賦役の末、元禄16年(1703)頓宮村境より延長504間(916m)川幅4間(7.3m)の排水路が完成し現在の大日川の元となった。すぐ先で大日川を昭和57年竣工の大日川橋で渡る。橋や付近のガードレールは紅殻風にこげ茶に塗られており川を渡った左には「東海道 反野畷」石柱と平成7年「大日川(堀切川)堀割」説明立札もある。 |
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反野畷松並木 「東海道 反野畷」石柱向かいに松があり少し先まで右のみ、その先は両側に松が点在する。一度枯れて復元された並木で少し先左の土山機工(土山町徳原7-2)から先の茶畑付近で両側とも一旦途切れるが少し先で再度小さな松が両側に点在し合わせて500mほど続く。土山機工斜め向かいの茶畑前にはベンチもあり並木沿いには常夜燈風の街灯も設置されている。 |
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{左}「従是東淀領」傍示石 右側に小さな松と新しい住宅地が並びしばらく進むと向かいの小さな林の手前側の生垣の後ろにある。角が欠けたり風化しているが4面に「従是東淀領」とある。淀藩は元和9年(1623)松平定綱が遠江国掛川から転封して立藩した藩で定綱が寛永10年(1633)大垣藩に転封した後は永井家、石川家、 戸田松平家、大給松平家、稲葉家と続き明治を迎えた。主に山城国淀(現:京都市伏見区)を所領としたがここは飛地領であり近江国には他国大名の飛地が多かった。淀藩は稲葉家の頃は10万2千石のうち8万石以上が山城国以外の摂津国、河内国、近江国、下総国などに分散していた。少し先には石ベンチが置いてあり林が終わる所には大日川を渡ったところにあったものと同じ「東海道反野畷」石柱がある。 |
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{右}花枝(はなえ)神社鳥居 その先で松はなくなり「徳原村」の屋号札がかかる集落をしばらく行くと大野小学校(土山町大野949)の手前にある。建立年不明の大きな石鳥居で右前には明治26年(1893)建立の巌谷一六(修)の書による神社名石柱もある。神社(土山町大野388)は鳥居をくぐり小学校と小学校グランドの間を進み国道1号を渡った正面にある。平安時代の創建とされ祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、大山咋神。本殿は延享元年(1744)築。古くは花木堂、中世には八王子社とも呼ばれ明治になって花枝神社となった。 |
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{左}明鏡山 長圓寺(長円寺) [浄土宗] 土山町徳原77 小学校を過ぎ少し行くとある。街道沿いに昭和51年建立寺名石柱と「旅籠 松坂屋跡」石柱があり左折正面に山門。創建時期は不明で元は禅宗の寺だった。文明年間(1469-86)に兵火により焼失したが伊勢神宮に向かう僧が再建し天正7年(1579)改宗した。本尊は弥勒菩薩、阿弥陀如来。改宗時は金勝山慈恩寺浄厳院(蒲生郡安土町慈恩寺744)の末寺だったが後に大徳寺の末寺となった。安政5年(1858)焼失し再建。境内に入って左が庫裏、本堂でともに平成13年築で境内右に竣工記念碑がある。山門前の道を右に少し行った左には大正7年(1918)陸軍中将・田中義一揮毫の忠魂碑と前に昭和17年灯籠。寺からしばらく進むと右の民家に「大野村」屋号札が見られるようなる。 |
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{右}鴨長明の歌碑 土山町大野2154 しばらく進むと甲賀市消防団土山第4分団自動車班倉庫奥の大野公民館の建物前に鴨長明の歌碑「あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る 布引の山」がある。横には平成3年設置の「布引山」説明立札もある。大野地区の1kmほど北に東西に細長く連なる丘陵が布引山で布を引いたように細長い山というのが由来。平安時代から歌に詠まれておりさらに北の東近江市布引台、石塔町、大森町、土器町、蒲生郡日野町、竜王山にかけても東西3里(12km)に渡る別の布引山(261.9m)がある。明治13年(1880)明治天皇行幸に随行した国学者で眼科医の池原香穉も「吾が袖に 通ふも涼し 布引の 山より下す 夏の朝風」「みゆきます 道のとばりと 見ゆる哉 布引はへし 山の姿は」と詠んでいる。 |
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{左}眞風軒の漢詩碑 土山町大野2154 公民館敷地の街道沿い(隣の交番の手前)に平成13年建立の碑がある。江戸後期から明治時代にかけて甲賀郡内を散策し「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を著した眞風軒の漢詩で「過土山即興 採茶時節事匁忙 緑髄青芽壮僻郷 清風一瀹君知否 遠到紅洋黒漠香」とある。茶摘みの季節に土山に来た際に人々が忙しく働き新茶を蒸す香りが漂っている様子を詠んでいる。土山茶は江戸時代からの名物であり明治には紅茶に加工され輸出されるようにもなり緑の茶が黒い紅茶になることも詩の末尾で触れられている。碑の前には説明立札、後ろには「あいの土山観光案内図」もある。公民館の向かいは四阿、ベンチ、すべり台などがある小公園となっており園内には三軒家集会所、愛宕神社の小祠もある。 |
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{右}「明治天皇聖蹟」碑 道の両側に旅籠跡石柱が並ぶようになりJA甲賀大野支所(土山町大野2156)斜め向かいの民家前に平成6年「丸屋」少し先向かいに平成5年「井筒屋」斜め向かいに平成5年「篤居屋」隣に平成4年「中屋」斜め向かいに平成5年「枡屋」少し先向かいに平成5年「日野屋」斜め向かいに平成4年「森田屋」少し先右に平成5年「柏屋」がある。その先の小さな空地に平成4年「旅籠 小幡屋跡」、昭和7年(1932)宮内大臣・一木喜徳揮毫の「明治天皇聖蹟」碑がある。明治元年(1868)9月22日、12月20日、明治2年3月9日に小幡屋(渡辺伊兵衛宅)で休憩した。明治13年7月13日には英照皇太后、照憲皇太后も休憩。碑のすぐ先の安井書道教室前に平成4年「金屋」石柱、その向かいは明治初期創業の安井酒造場。 |
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{右}三好赤甫旧跡(現:みよし赤甫亭) 土山町大野2175 少し先左に平成5年「田畑屋」石柱があり斜め向かいに地域の俳人・三好赤甫の生家で現在は会席料理・仕出し屋のみよし赤甫亭があり建物先の大野交差点手前の三角地に「三好赤甫旧跡」説明板、「三好赤甫先生をしのびて」石碑、大日如来を祀る小祠、「布引山若王寺」道標、灯籠がある。江戸時代は代々魚類商で赤甫は寛政10年(1798)長男として生まれ嵯峨上田村の宍戸霞洲や常明寺の虚白に俳句を学んだ。虚白が京都の東福寺に移ると家業を妻子に託し追って京都に行き十数年後に戻ると後進を指導して地域の俳諧の発展に尽くし明治5年(1872)75歳で没。赤圃、待花園、月坡とも号し通称を才市と言い俳著に「窓あかり」などがある。みよし赤甫亭の建物壁には「魚屋 茂吉」屋号札もかかる。 |
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{右・寄}布引山医王院 若王寺(にゃくおうじ) [浄土宗] 土山町大野1856 大野交差点で国道1号に出て歩道橋で渡り左の階段で下りてすぐ右に分岐するのが東海道の続きだが歩道橋を右の階段で下りると左に昭和43年寺名石柱があり左折していくと正面に寺がある。戦国時代頃に比叡山から移されたと伝わり元は天台宗だったが承応2年(1653)改宗し万治元年(1658)に再興された。本尊の薬師瑠璃光如来は秘仏で年に1回9月8日の大法要で開帳される。山門前右に巨杉(幹周4.6m樹高22m)があり国道からも見える。山門左の鐘楼堂は昭和61年築。山門入って右に三好赤甫が京に行く際に詠んだ句の句碑もある。本堂左前には水子地蔵菩薩がある。 |
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大野西交差点 歩道橋の左の階段下り国道から分岐ししばらく進み十字路を過ぎると少し先に茅葺屋根の民家前に平成5年建立「旅籠東屋跡」石柱がある。少し先で橋で県道183号線を渡りさらに1kmほど進むと大野西交差点に出る。交差点手前右の田んぼ前には自然石を頭上が庇になるように残して彫った石仏があり今後も同様のものが見られる。交差点手前左の三角地(緑地)には「東海道土山 今宿」石碑と常夜燈や時計台がある。交差点は国道1号と×状に交差しているが旧:東海道はほぼまっすぐのルートで150mほど消滅している。 |
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{右・寄}稲川清泉跡 大野西交差点右にある甲賀バラスリサイクル工場(土山町大野3294-1)の敷地奥にある。見学を告げて事務所建物裏の稲川の河畔に通じる階段を降りると水の湧き出し口に石仏が置かれ横に古い説明碑、昭和57年建立「即翁旧蹟」石柱がある。付近の住人や旅人が水に困っていたため正保4年(1647)山口志兵衛重成が湧水を拡張して整備した稲川清泉の名残とされる。重成は常陸牛久藩主・山口重政、弘隆親子に仕えた家臣で弘隆が幕府の管轄である水口城城番をつとめた関係でこの地に赴任していた。本名は住山盛治だが主君の信頼厚く山口姓を与えられており承応3年(1654)に没し法名は即翁了心と言った。湧水はその昔「義朝の首すすぎし水」「景清が手水に使った水」だったとも伝わる。 |
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{左}今在家(いまざいけ)一里塚(今郷一里塚)跡(112) 大野西交差点で国道を渡って県道549号線(旧:国道1号)の右歩道を進み稲川を渡って水口タイヤ工業所(水口町今郷492-3)の先を右折しすぐ左折すると東海道の続きとなる。途中の県道の左には大きな「水口宿」標柱、石ベンチがあり稲川を境に土山町大野から水口町今郷になる。東海道の続きに入りゆるやかな上り坂をしばらく行くと整備されたポケットパーク内に低い盛土に木が植えられた復元された塚、説明板、「一里塚」石柱がある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右は榎1、左は松2と記録されている。塚の右には大正10年(1921)建立「甲賀四国八十六番札所」碑もある。 |
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{左}権現山 浄土寺 [浄土宗] 水口町今郷588 一里塚の次の角で東海道は左折し少し先にある。創建不明で延宝9年(1681)再建された。山門右前に昭和51年寺名石柱。山門入って左に庫裏、本堂。右にはブランコ、シーソーなどの遊具や「水口町の古木・名木」のクスノキ、石仏の祠などがある。高台の境内からは野洲川が一望できる。寺を過ぎるとすぐ先で下りとなり東海道は県道549号線に出て右折する。少し先の県道右側は膨らんでおり旧道の名残がある。 |
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{右}「街道をゆく」碑 しばらく行くと右後方から道が合流する三角地点の合流道側にある。「街道をゆく」と題し「古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。」とある陶板が嵌められている。昭和46年から平成8年まで週刊朝日で連載された司馬遼太郎の紀行シリーズ「街道をゆく」は東海道の旅はないが第1回は「湖西のみち」として近江(大津)からスタートした。碑の向かいには今郷公民館(水口町今郷827)があり右奥には「神輿御旅所」石柱がある。 |
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{右}龍王山 宝善寺 [浄土宗] 水口町今郷789 少し先で県道549号線から右に分岐し住宅街をしばらく進み県道182号線を渡るとある。元は真言宗で後に改宗した。現本堂は明治2年(1869)の築。山門入って左に六字名号碑、奥にみどり児地蔵尊を中心とする無縁墓石群。本堂右前には昭和53年建立の聖観音像がある。山門前左の道には「岩上不動尊」「八坂神社」が縦に並ぶ文字の下に「参道」とある新しい道標があり道なりに行くと八坂神社の鳥居がある。くぐって石段を登っていくと社殿があり社殿左の山道をさらに登っていくと「役行者」石碑、さらに登ると岩上不動尊に通じる。宝善寺から東海道を少し進むと再び県道549号線に合流する。 |
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{右}岩神社 入口 県道を少し行くと「岩神社」「岩上不動尊」が縦に並び下に「参道」とある昭和53年道標がある。手前を右折したすぐ左には「岩神のいわれ」説明石碑がある。この付近は巨岩、奇岩からなる岩山が野洲川に突き出ており景勝の地として有名だった。寛政9年(1797)刊の伊勢参宮名所図会にも岩神と紹介されており村人は子供が生まれると岩の前を通る旅人に名を決めてもらう習慣があったと言う。当時の岩神は社殿はなく岩自体を祀っていたが現在の岩神社は小さいながら社殿がある。右折して少し先の明治26年(1893)鳥居をくぐり2叉路を右に行くと社殿で社殿前には享保17年(1732)灯籠、手前左には石仏が安置された祠もある。2叉路を左に進みさらに登ると右に四阿とベンチ、さらに行くと岩上不動尊に通じる。 |
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{左}日照山 永福寺 [浄土宗] 水口町新城61 少し先の三角屋根の家がある所で再び県道549号線から右に分岐ししばらく進むと変形十字路の手前にある。街道沿いの昭和49年寺名石柱を左折すると正面に山門。慶長18年(1613)唯心が創建し宝永2年(1705)に再興された。鎌倉時代のものとされる昭和59年市指定文化財の絹本著色阿弥陀如来四尊来迎図(縦83cm横35cm)を所蔵する。山門手前右にブランコ、すべり台などの遊具がある小公園、山門前右に「子安延命地蔵尊」「水子地蔵尊」が並んで刻まれた昭和50年石柱と来迎図の説明立札。山門入って左に享保14年(1729)の6地蔵。境内左に庫裏、本堂、正面奥に裏門、奥右に明治33年(1900)新庄伊勢守宗重大人碑、クスノキ、六字名号碑。境内右の墓地内には忠魂碑もある。 |
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{右}八幡神社 水口町新城 しばらく行くと変形十字路手前に神社名石柱があり右折した少し先が境内。 宝永3年(1706)鳥居をくぐった左に「水口町の古木・名木」説明板、杉の巨木。横に石仏7体が安置された祠と「関の地蔵尊遥拝所」石柱、宝暦12年(1762)灯籠。境内左にはすべり台、ベンチがある広場、行者堂、観音堂がある。馬頭観音を安置する観音堂内の200枚に及ぶ小絵馬は殆どが水口宿の旅籠や宿役人などから奉納されたもので堂前には説明立札もある。一段高い社殿右には春日神社、左には八坂神社。社殿前鳥居は平成10年、昭和41年、灯籠は文化5年(1808)。境内右奥に小祠、左奥に稲荷神社。境内左には津島牛頭天王社があり前に文化11年灯籠、左後ろに「水口町の古木・名木」説明板、杉の巨木がある。 |
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{右}東海道の松並木 しばらく行くとある2叉路は右へ行くのが東海道で正面に矢印標示がある。少し上り坂となりしばらく行ってさらに坂道を登ると竜が丘団地の3階建の建物前に若い松が5本植えられており「東海道の松並木」説明陶板が嵌められた石碑がある。この付近からは江戸時代は松並木の合間から古城山が見え景色が良かったと伝わるが松並木は戦後に次第に姿を消した。 |
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古城山 先に進むと正面に小高い岡状の古城山(282.9m)が見えてくる。水口宿の北東に位置し大岡山とも言い天正13年(1585)には秀吉家臣の中村一氏が岡山城(水口古城)を築き後に増田長盛、長束正家が城主となったが関ヶ原の戦いで正家が西軍に付いたため合戦後に廃城となった。城を明け渡した正家は城代を兼務していた日野城近くの桜井谷(現:蒲生郡日野町佐久良付近)の中西孫左衛門宅に蟄居したが池田長吉に攻められ自刃した。江戸時代は古城山は水口藩の御用林で享保元年(1716)には山頂に大岡寺の奥の院の小祠が建立され昭和40年の台風で倒壊したが翌年に再建。現在は正家も祀られた阿迦之宮となっており一帯は県立自然公園郷土の森として整備されハイキングコースや広場もある。 |
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{左}月ヶ丘 大師寺 [真言宗] 水口町秋葉5-8 しばらく進むと下りとなり秋葉北交差点に出る手前左にある。街道に面して数段の石段があり登ると本堂がある。嘉永2年(1849)奥村藤八が開基した。本尊は弘法大師。境内右には八十八霊場の石仏が並び、五輪塔や宝塔もある。石段を登った右には昭和55年に国道改修の際に移された三界万霊塔。その横には「月ヶ丘」などの言葉が入った歌碑がある。秋葉北交差点で東海道は国道307号を横断する。すぐ先で山川を昭和56年竣工の山川橋で渡った右の平成18年完成の秋葉水公園横には「東海道五十次 水口宿」「田町」石柱がある。公園内には四阿、ベンチ、池などがある。 |
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