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{右・寄}御厨神明社 四日市市松寺3-6-33 しばらく行くと昭和3年(1928)神社名石柱があり右折した右に昭和6年鳥居がある。祭神は豊受姫命など。参道には昭和3年御大典記念の灯籠などが並ぶ。社殿前灯籠や狛犬は昭和6年。境内左に「山神」石碑がありその左には明治13年(1880)手水石がある。社殿左には松寺連合自治会第2集会所もある。 |
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{左・寄}タカハシ酒造 松寺2-15-7 しばらく進み左折すると左にある。文久2年(1862)創業。代表銘柄は「天遊琳」で「天遊」とはおおらかな心の状態を表し「琳」は美しい玉を意味する。純米活性にごり酒伊勢の白酒は生酒を加熱せずに「生きた酵母」を含んだままで瓶詰しており天然の炭酸ガスが発生したスパークリング日本酒となっている。他に吟醸酒「伊勢物語」もあり昭和8年(1933)からは1年も欠かさず伊勢神宮をはじめとする三重県下300余の神社の新嘗祭に奉納する木桶仕込の神酒「三重の新嘗」も醸造している。酒蔵を改造した直売所「伊勢の蔵」も併設しており試飲ができ酒蔵見学も予約制で実施している。日本酒の香りを活かした酒ケーキ「伊勢の蔵」などもある。 |
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{左}佐藤輝子頌徳碑・松寺の立場跡 少し先に石垣の土台に乗った大正7年(1918)建立の碑がある。嘉永年間(1848-54)に庄屋として活躍した佐藤庄九郎の娘・輝子は弘化3年(1846)に生まれ25歳で夫と死別してから大正6年に72才で没するまでこの地で裁縫学校を開いていたと言う。碑の左前には平成16年設置の「旧東海道 伊勢の国 松寺の立場跡」説明板もある。この付近は松寺の立場があり間宿・富田にかけて焼蛤を売る茶店が何軒もあった。今は立場の面影はなく近年まであった大きな榎もなくなっている。 |
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{右}松栄山 蓮證寺(蓮証寺) [浄土真宗本願寺派] 松寺3-3-28 少し先。寛文年間(1661-72)に祐顕が寺として創建したとされ本堂が200年ほど前に建てられたと伝わる。松寺の地名はこの寺の山号の松栄山が由来とも言われる。本尊は阿弥陀如来。平成6年再建の山門の左にある鐘楼は平成5年の再建。梵鐘は戦争で供出され再鋳されたもの。他に境内には本堂、庫裏、灯籠1基がある。 |
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{右・寄}龍王山 宝性寺 [単立] 蒔田2-12-26 しばらく進むと寺名柱と「御厨神明神社」石柱がある。右折し境内に入る手前には明治36年(1903)鳥居がある。単立寺院で現在は無住。天平12年(740)聖武天皇が休憩したと伝わる現在地から西300mの付近に創建された。敷地が2万8千平方mあり天台宗で七堂伽藍が並んでいたが永禄11年(1568)焼失し後に現在地に小堂が再建された。正徳元年(1711)火災により焼失し享保4年(1719)桑名藩主松平忠雅が再興した際の棟札が残る。現在の本堂は文化11年(1814)築とされ昭和52年市指定文化財。蒔田観音と呼ばれる本尊は11面観世音菩薩で良弁の作とされ16年に1度の開帳。伊勢西国33所観音第28番。境内右には豊宇気毘売神、応神天皇、天児屋根命、大山祇命を祭神とする御厨神明神社がある。 |
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{右・寄}朝明殿(朝明山) 長明寺 [浄土真宗本願寺派] 蒔田2-13-29 少し先に入口。元は真言宗で潮音寺と称し西600mの豊田村(現:川越町豊田)にあり文明17年(1485)絵像本尊を下附され明応年間(1492-1501)に浄空により改宗した。現在地は文治3年(1187)蒔田宗勝が築き永録年間(1558-69)に春日部家春が城主だった際に滝川一益により落城した蒔田城跡。寺は家春の菩提寺でもあり慶長9年(1604)寺号を改め慶安5年(1652)城跡に移転した。境内は堀と塀に囲まれ参道正面に平成8年竣工の石橋が架かりその先に昭和初期建立の山門がある。山門手前左に文化3年(1806)建立の石橋親柱。本堂は昭和31年(1956)再建の入母屋造で平成18年改築。山門左の築山の上には延宝年間(1673-80)建立の鐘楼がある。本堂右前に親鸞像。本堂前灯籠は昭和11年(1936)。 |
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{左}「鏡ヶ池」石柱 少し先の交差点で県道26号線を渡り東海道は県道66号線ではなくなる。渡った一軒先の民家前に昭和8年(1933)建立石柱「聖武帝御遺跡 鏡ヶ池」と説明立札がある。天平12年(740)聖武天皇が伊勢行幸中に通った際に風が吹き笠を落とした池があった場所と伝わる。近くで洗濯をしていた娘が笠を拾うと天皇は感謝しその晩は娘の家に宿泊したと言う。明朝、旅立つ際は風も無く空も晴れ渡り池の水面が鏡のように周りの景色が美しく映ったことから池は「鏡ヶ池」呼ばれるようになった。また「笠取り池」とも呼ばれる。東南700mには聖武天皇が宿泊した跡地に安貞元年(1227)創建されたとされる聖武天皇社(松原町5-8)があり昭和30年(1955)建立の佐佐木信綱揮毫による聖武天皇歌碑もある。 |
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{右}木下山 三光寺 [浄土真宗本願寺派] 西富田町1134 しばらく行くとJR関西本線の踏切を渡るが上には三岐鉄道が高架で通っている。踏切を渡って少し先右に明治29年(1896)建立「廣瀬荒木両君墓」の大きな石碑がありさらに少し先に寺がある。現在長明寺がある地に文治3年(1187)蒔田城を築いた蒔田相模守宗勝の11代後の子孫である正了が本願寺8世蓮如に帰依し室町時代に開基した。本堂左の墓地奥には別の寺から移された承久3年(1221)没の宗勝(法名:祐善)の墓も現存する。江戸初期には長福寺と称していたが享保2年(1717)三光寺となる。安政大地震で倒壊し明治20年(1887)再建したが昭和37年に焼失。現在の建物は昭和47年築で本堂は鉄筋コンクリート造。平成5年に庫裡、書院新築。書院前に親鸞像。山門入って左には鐘楼がある。 |
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{右}富田一里塚跡(98) 少し先で道は左にカーブし正面と右に道が分岐する変形十字路となるが東海道はそのまま左に行く。しばらく進み三岐鉄道と近鉄名古屋線の高架を続けてくぐると昔は庚申橋と言った小さな一里塚橋があり渡ってすぐに石垣土台上に石柱「史蹟 冨田の一里塚阯」と説明立札がある。昭和12年(1937)県指定史跡。富田は間宿でありここにも焼蛤が名物の茶店があった。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは富田の茶店で焼蛤を食べ騒動を起こし「膏薬は まだ入れねども はまぐりの やけどにつけて よむたはれうた」と詠んでいる。また京から江戸へ向かう旅人は富田や小向で焼蛤を先に食べてしまうため桑名では茶店の客引を断ることから「その手はくわなの焼蛤」と言う洒落が生まれた。 |
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{左}八幡神社 少し先で2叉路となり東海道は右へ進みしばらく行くとある。弘安2年(1279)富田地頭佐原豊前守政盛が東富田に創建したのが起こり。明治42年(1909)鳥出神社に合祀されたが昭和40年頃に富田西町の鎮守として分祀され現在の社殿が建てられた。祭神は応神天皇。入って右に大正4年(1915)建立の紡錘形の「八幡神社址」石碑、左に説明立札、松、手水石。境内左には力比べに使ったと言う重さ百kgの力石と説明立札もある。江戸時代には間宿・富田の西端には八幡の森と呼ばれる森があり昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝わる。 |
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{右・寄}「行啓記念道路」石柱 その先の十字路を過ぎ次の角を右折したすぐ右に石柱と説明立札がある。皇太子時代の大正天皇(当時は東宮嘉仁親王)がこの道を通った記念碑。明治43年(1910)三重、愛知を行啓する一環で11月16日に四日市を訪れた皇太子は富田駅に着くとこの道を通り現在の四日市高校(富田4-1-43)である明治32年(1899)創立の県立第二中学校を訪問した。授業や成績品陳列室のほか校庭で4年生と5年生の中隊分列行進も見学し学校では21発の祝砲を上げ職員、生徒、近隣の住民が歓迎したと言う。同日は他にも築港中の四日市港も視察している。現在の石柱は昭和2年(1927)に再建されたもの。その先の角を左折すると突当りが明治27年(1894)開業のJR富田駅。 |
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{右}服部泰次郎の道標 東海道は少し先を右折しヤマシタ洋品店(富田3-5-7)と司クリーニング(富田3-4-12)の間の中町通りに入る。角左の電柱に「右東海道→」標示。その先右の善快堂薬局(富田3-4-1)先の十字路角に現:四日市高校の県立第二中学校(富田中学校)とその先1.5kmの三重郡大矢知村(現:四日市市大矢知町)への道標「左 大矢知中学校」がある。建立した服部泰次郎は安政元年(1854)三重郡小杉村(現:四日市市小杉町)に生まれ明治に入り雑貨などの行商をしていたが29歳で米問屋を始め日清日露戦争時には軍用米の指定業者、後には国産米を海外に輸出し成功。行商時代に道を間違え苦労したことから晩年の大正8年(1919)から翌年没するまで地元産花崗岩(菰野石)製の道標を近隣市町村に多数建立した。 |
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{左・寄}月光山 正泉寺 [真宗高田派] 富田2-16-10 道標の向かいを左折し次の十字路を直進し次の角を左折すると正面に山門。高田派10世真慧の弟子・月光院唯円が永正4年(1507)照泉寺として創建し元和年間(1615-24)に富田に移転した。正徳元年(1711)山号を月光山とし明治以降に寺号を正泉寺とした。本尊は阿弥陀如来立像で秘仏。本堂は17世映亮の代の明治20年(1887)築。平成11年屋根の大改修をし境内左の鐘楼前に鬼瓦(三宝瓦)が展示されている。梵鐘は昭和40年鋳造。24世住職・北島義信は四日市大学環境情報学部教授でもあり著書も多数。 |
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{左・寄}鳥出神社 富田2-16-4 正泉寺正面を左折せずに直進すると左。延喜式神名帳記載の古社。「鳥出」は死して白鳥となった日本武尊がこの地に降り再び飛び立った伝説に由来し地名の富田は「飛んだ」が訛ったと伝わる。祭神は日本武尊と事代主命。明治40年(1907)頃に近隣の数社を合祀し他に天照大神、菅原道真など10柱を配祀。現本殿は昭和4年(1929)移築した伊勢神宮別宮の月読宮の建物で木製大鳥居は平成7年拝領した内宮二之鳥居。大きな神社名柱は大正5年(1916)神宮大宮司・三室戸和光書。境内は広く右に戦役記念碑、人形筆塚。社殿左に神楽殿、右に小祠が3つある境内社、その右に稲荷社。稲荷社手前左に水神社、手前右に神馬舎、赤鳥居の手前右に龍神社。鯨船神事は平成9年国指定無形民俗文化財。 |
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{左・寄}冨田山(ふでんさん) 長興寺 [曹洞宗] 富田3-1-16 正泉寺手前の十字路を右折すると右。東海道の1本左の道沿い。薬師如来を安置した草庵が起こり。養老6年(722)泰澄が立寄り薬師如来の夢告で大日如来如来を刻み寺として開基した。弘仁8年(817)に弘法大師が再建し真言宗とし仁治3年(1242)に満月上人が再建し北島長興寺と称した。天文14年(1545)富田城主南部兼綱が菩提寺とし曹洞宗となり永禄7年(1564)鉄門の代に現在地へ移転。明和4年(1767)永平寺直末となる。平成8年に鐘楼門を解体撤去、平成15年2階建コンクリート造の本堂を新築。本尊は釈迦牟尼仏で後方に秘仏大日如来を安置。脇本尊は聖観世音菩薩で伊勢西国33所観音第27番、三重梅花観音霊場65番。本堂左の壁に十六羅漢、地蔵菩薩、薬師如来などを安置。 |
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{右}里程標石柱 服部泰次郎の道標からすぐ先右の馬嶋医院(富田3-3-13)の前庭には大きな一本松がありその先の角に大正3年(1914)に県が建立した高さ239cmの里程標がある。正面に「津市 元標へ拾里 三重郡富田町」左面に「桑名郡桑名町大字桑名へ貮里貮拾町」「員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町貮拾四間」右面に「四日市市大字四日市へ壹里八町」とある。津市は三重県の県庁所在地。 |
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{右・寄}蓮光寺跡(現:富田中公園) 里程標がある角を右折して行くと正面。途中左には稲荷神社もある。公園入口右に一本松と説明立札がある。平成10年に移転した冨松山蓮光寺[真宗高田派](茂福601-1)の跡地で寺は富田城主・南部氏の子孫で出家して眞光となった父・忠次(忠嗣)を開基として長男の兼治がこの地に建立した南部堂が起こり。本尊は阿弥陀如来。脇仏の親鸞上人座像は3代城主・頼武が高田派10世真慧より下賜されたもので永禄12年(1569)信長の北勢侵攻で落城した際に堀に埋められたが忠次が掘り出した。公園は平成16年完成で園内にはブランコ、すべり台、ジャングルジム、ベンチ、トイレがある。手前の稲荷神社の入口石鳥居は昭和5年(1930)、狛犬は平成7年。宮宿の赤本陣南部家も富田城主・南部氏の子孫。 |
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{右}サトウハチロー詩碑 中町通りが終わると近鉄富田駅口交差点で県道8号線を横断する。交差点を右折して行くと近鉄名古屋線富田駅。渡ったマンション「キャッスルハイツ富田」前に平成14年建立の詩碑がある。「わが家がある幸せよ」の歌詞が刻まれ昭和48年に大東グランドハイツ(岐阜県可児市鳩吹台)の竣工記念曲として施主の大東住宅産業(現:エイディーノウビ)の依頼で作られたもの。山下毅雄が作曲、浅田美代子が歌った。左には家族をモチーフにした銅像「幸せの像」もあり詩碑と共に同社が東海圏に展開するマンションに設置されている。サトウハチローは終戦直後のヒット曲「リンゴの唄」や童謡「ちいさい秋みつけた」などを作詞し日本作詞家協会会長、日本童謡協会会長、日本音楽著作権協会会長もつとめた。 |
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{右}東洋紡績道標 富田1-24-47 1軒おいた右に木製鳥居と「南町集会所」の札が掛かった堂がありその先の富田地区市民センターの門右に大正6年(1917)建立の道標がある。「右」の下に「富田一色」「東洋紡績」「川越村」が並んで刻まれその下に「道」とある。東洋紡績富田工場は現在のイオン四日市北ショッピングセンター(富州原町221-2)がある一帯に大正5年に完成し最盛期は20万平方mの敷地で5千人以上が働いていたが平成9年に閉鎖された。敷地南端に現存する大正6年築の旧:原綿倉庫は平成12年国登録有形文化財で内部は飲食店となっている。市民センターの門の先の低いレンガ塀の向こう側には木で枠を作った高札風の「東海道総合案内図」があり富田から采女までの東海道地図が掲載されている。 |
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{右}明治天皇御小憩所跡 富田1-24-49 その先の富田小学校の門左に「明治天皇御小憩所跡」説明板、「史蹟 明治天皇富田御小憩所阯」石柱、近衛文麿揮毫で昭和40年に(1965)富田地区市民センターから移された「明治天皇御駐輦跡」石碑がある。明治天皇は明治元年(1868)9月25日東幸の際に広瀬五郎兵衛邸で休憩し焼蛤を食べたとされ同年の京都へ帰る12月19日、翌年の東京遷都の3月15日、明治13年陸軍大演習で三重に来た7月3日にも休憩した。広瀬邸はここかから手前の市民センターにかけてあり「酒五」という屋号で幕末から旅籠を営んでいた。旅籠の前は酒屋だったため酒屋五郎兵衛とも呼ばれた。説明板前には平成13年建立の「東海道」石柱。門手前には小学校の生徒が作った東海道の紹介立札3枚もある。 |
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{左・寄}成徳山 善教寺 [真宗高田派] 南富田町7-3 しばらく進み十四川手前を川沿いに左折した左。海戸尻と呼ばれたこの地区にあった海戸尻道場が起こり。開基は義孝で寛正年間(1460-65)高田派10世真慧が伊勢に布教に来た際に高田派となり元和3年(1617)寺号を善教寺とし正徳元年(1711)山号を成徳山とした。明治42年(1909)築の山門左に昭和51年建立の寺名石碑と地蔵堂、山門入って右に鐘楼。2層式屋根の現本堂は昭和10年(1935)築、本堂右の庫裏は文政年間(1818-29)築で近年改築された。境内左の昭和48年築の本尊収蔵庫(奉安殿)には仁治2年(1241)作で秘仏の木造阿弥陀如来立像(高さ79cm)があり昭和26年に胎内から発見された願主・藤原実重が摺った715体の摺仏、般若心経、日記等の文書と共に昭和34年指定国重要文化財。 |
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十四川 東海道は十四川を昭和52年竣工の十四橋で渡る。川の両側には桜並木があり製網業を営んでいた伊藤勘作が大正12年(1923)個人商店を法人化した記念に植樹したのが始まりで現在ではソメイヨシノが両岸1.2kmにわたって800本植えられており昭和53年には財団法人日本さくらの会より表彰も受けている。橋を渡った右には説明立札もある。十四川は朝明川や米洗川と共に壬申の乱(672)で大海人皇子(後の天武天皇)が狼煙を上げて伊勢神宮を遥拝し戦勝祈願したとされる迹太川(とほがわ)と推測されており上流の大矢知町には昭和16年(1941)県指定史跡の天武天皇迹太川御遥拝所跡もある。橋を渡り少し先の角右には天保10年(1839)常夜燈と説明立札がある。 |
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{右}薬師寺 [浄土宗] 南富田町10-32 少し先。前には忠魂碑などの大きな石碑群4基がある。大同年間(806-10)付近で疫病が流行したが弘法大師が彫った薬師如来のおかげで平癒したためその薬師如来を堂を建て安置したのが起こり。室町時代初期に茂福城主・朝倉下総守盈盛が菩提寺として茂福村に大伽藍を建立し報乳山洪恩寺としたが永禄10年(1567)信長の伊勢侵攻で焼失。この時、本尊は自ら門前の松まで逃れたと伝わる。翌年現在地に草庵が建てられ本尊を安置し桑名の十念寺の芳誉上人が浄土宗として再建した。現在は尼寺で薬師如来像は秘仏となっており山門左前には小さいが松もある。山門左には地蔵3体が安置された祠もあり「東海道のお地蔵さん」と呼ばれている。境内には本堂、庫裏のみ。 |
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{右}光明山 常照寺 [浄土真宗本願寺派] 茂福町31-34 しばらく行くとある。天文7年(1538)釈法導が天台宗の寺として開山し寛文年間(1661-73)浄土真宗に改宗した。本堂は明治42年(1909)再建。山門と入った左にある鐘楼は共に明治末期の築。平成7年本堂、鐘楼の屋根を改修した。山門入って右に鬼瓦、手水石。梵鐘は昭和23年(1948)鋳造で昭和27年の四日市大博覧会の展示品「平和の鐘」を譲り受けたもので鐘面に歌人・常口の短歌「一筋に 世界の平和 祈りつつ つくやこの鐘 永久にひびけと」が刻まれている。本堂前右には親鸞像、平成8年建立句碑「大寺の 甍の反りや 秋の雲」。境内左の小堂には明治18年(1885)茂福町内会(矯風会)から預かった千手観音を安置している。 |
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{右}力石&新設用水道碑 東海道はすぐにT字路となり正面に大石が1つと小石が数個と説明板、明治37年(1904)建立の碑がある。明治中期にこの村の二ヵ寺の堂を再建するにあたり土台石の奉納と近隣より奉仕の人々が集まった。休憩時に土台石の中より手頃な石を選び体力を試さんと持ち上げ競い合ったのが力石とされその後も大正末期まで茂福地区の青年達が石で力比べをするのが恒例となったと言う。大石は「三十二メ」と刻まれ32貫(120kg)で肩越しまで担ぎ揚げた人は少なかったと言う。小石は5貫(19kg)で子供用と考えられる。新設用水道碑は右面に「水源地是ヨリ七町」と刻まれている。東海道はここを左折する。 |
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{右}林光山 證圓寺(証円寺)[浄土真宗本願寺派] 茂福町18-26 少し行くと右に横入口がありその先で東海道が右折した右に正門(山門)がある。元は天台宗で天文年間(1532-55)本願寺10世證如に帰依して改宗。平成19年本堂を解体修理。本堂右に書院、庫裏。山門入って右には一切経などが収蔵された開法蔵、その前には仏足跡、鬼瓦、親鸞聖人像もある。境内左に鐘楼。江戸時代の住職は茂福城主・朝倉氏の子孫の林氏がつとめた。元亀2年(1571)城主朝倉盈豊が離反の疑いをかけられ滝川一益に呼び出され謀殺され茂福城も攻められ落城した。盈豊の2歳の嫡子は家臣の林玄證に連れられ落ち延び長じて玄證の娘と結婚し林三郎左衛門盈景となり桑名藩に仕えたが元和3年(1617)藩主本多家が姫路転封になると同行せず茂福に戻りこの寺に入ったと言う。 |
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{右}いかるが道標 すぐ先にある。高さ49cmの小さな道標で服部泰次郎の建立。正面に「右 いかるが」右面に「左 四日市」とある。いかるがはここより北方にあった鵤村(いかるがむら)のことで地名は法隆寺の寺領だったことに由来するとされ南北朝時代には伊勢神宮の荘園である鵤御厨があった。寛永年間(1624-43)に南北に分かれ北鵤村は桑名藩領、南鵤村は武蔵忍藩領となり鎮守である伊賀留我神社も2社(茂福483、羽津戊523)に分かれた。両村は明治22年(1889)に周辺の複数の村と合併し羽津村となり現在は別に南いかるが町の地名が残っている。道標の斜め向かいには連子格子の民家がありしばらく進むと昭和37年竣工の前川橋を渡る。 |
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{右}茂福(もちぶく)神社入口 少し先に明治28年(1895)神社名石柱と説明立札がある。神社(茂福町27-36)は右折して200m先正面。祭神は建速須佐男命ほか8柱。越前から来た摂津守政平が応永28年(1421)に創建し天王社と呼ばれていた。西100mにあった茂福城の守護神として城主朝倉氏に保護され落城後も朝倉氏の子孫により守られてきた。明治28年茂福神社と称するようになり明治40年に近隣の稲荷社、神明社、住吉社、山之神を合祀したが明治44年(1909)鳥出神社に合祀された。合祀後も祭礼は御神霊を神輿で旧境内地に迎えて続けられ昭和25年(1950)に分祀され再建。参道途中には太鼓橋がある。茂福城跡は近鉄名古屋線の線路脇に主郭北西隅の土塁の一部が現存し昭和49年市指定史跡になっている。 |
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{右}八田の常夜燈(羽津の常夜燈)・米洗川 少し先で県道64号線(旧:富田山城有料道路)の高架をくぐると自動車販売店や金属工場地帯となり四日市自動車検査場(八田3-7-41)を過ぎるとある。明治35年(1902)建立で竿の部分には「大神宮」と刻まれている。常夜燈のすぐ先には米洗川(よないがわ)が流れる。朝明川や十四川と同じく米洗川にも壬申の乱(672)での大海人皇子(後の天武天皇)の伊勢神宮遥拝の伝説があり戦勝祈願に供える米を洗った、或いは供える酒を造るための米を洗ったと伝わる。八田は江戸時代は八幡村と言い明治22年(1889)に他の周辺の複数の村と合併し羽津(はづ)村となった。米洗川に架かった米洗橋を渡ると工場地帯が終わる。 |
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{右}八幡地蔵堂 しばらく歩くと八田第一自治会集会所の隣に「地蔵尊」の扁額が掛かった小さな堂がある。右前に明治39年(1906)建立「真誉法願上座」と刻まれた石柱、左に平成13年東海道400年記念建立「東海道」の茶色石柱もある。堂内には石造八幡地蔵尊が安置されている。八幡の地蔵さんと呼ばれ金場町の延命地蔵と共に近隣の守り神だったと伝わる。左はすべり台や鉄棒がある小公園になっており奥には明治18年(1885)建立の「伊勢国八幡神社」石柱がある。八幡神社は明治40年に志氐神社に合祀されておりここが跡地で石柱の「神社」の文字の下には「舊跡」と後から小さく刻まれている。 |
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{左}かわらづの松 しばらく行くと大きな松が1本あり平成19年設置の説明立札もある。横には距離付「東海道」標示板もある。この辺りは「川原津」と呼ばれており松も「かわらづの松」と呼ばれている。樹齢200年。この付近は昭和13年(1938)ごろまで松並木が残っていたが道路拡幅や松喰虫の被害で徐々に姿を消した。近年までは手前の山田歯科(八田1-1-10)前にも松が1本あった。現在では四日市市内に残る旧東海道松並木の名残松はここと日永の東海道名残りの一本松の2本のみ。 |
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{右}志氐神社(しでじんじゃ)入口 少し先右の瀬古製粉(羽津町21-21)を過ぎ小さな昭和32年竣工の堀切橋を渡ってしばらく行くと享保18年(1733)石鳥居がある。鳥居の右には明治21年(1888)と昭和6年(1931)の神社名石柱2基がある。さらに右に天保11年(1840)建立で「天下泰平」と刻まれた常夜燈と文政元年(1818)建立で「五穀成就」と刻まれた常夜燈がある。「天下泰平」常夜燈は八幡神社にあったものを移転した。「五穀成就」常夜燈と隣の民家との間にある自然石は「東海道夫婦石」(みょうといし)と呼ばれ東海道を挟んで向かいの民家前にある同色の少し低めの石と対になっている。伊勢市二見町の夫婦岩の分身とも伝えられ古くは道中安全、縁結び、夫婦円満などを願う旅人や村人が撫でて信仰したと言う。 |
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{右・寄}志氐神社 大宮町14-6 入口を右折し近鉄名古屋線を渡りさらに先が境内。垂仁天皇の代の創建で高野御前、江戸時代は高御前社と称した。祭神は気吹戸主神ほか11柱。 明治40年(1907)近隣の白須賀の神明杜と住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神杜と荒神社、各字の山之神神杜を合祀。境内は昭和30年市指定史跡の4世紀末の前方後円墳でもあり現在は社殿左に後円部の1部が残るのみで昭和30年「志氐神社境内古墳」石柱、昭和48年説明碑がある。境内中央の昭和3年(1928)万葉歌碑は丹比屋主真人が天平12年(740)聖武天皇に随行しここに詣でた際に詠んだ歌。他に妻恋稲荷神社、橿原神宮遥拝所、皇大神宮遥拝所、明治神宮遥拝所、戦艦陸奥砲台破片、参集殿(結婚式場)、傍示石「従是北桑名領」など。 |
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{右}初野山摂護殿 光明寺 [浄土真宗本願寺派] 羽津町7-26 神社入口から少し先。元は真言宗で大矢知にあったが出家した羽津城主・赤堀宗昌(盛義)が住職となり享禄年間(1528-31)現在地に移転し天正年間(1573-93)改宗した。平成8年本堂、山門、鐘楼、書院を改修し境内左に文久3年(1863)鬼瓦がある。境内入って左に鐘楼があり供出を拒んだ明治43年(1910)鋳造の梵鐘が現存する。鐘楼前には昭和59年親鸞聖人立像、境内左には蔵もある。入口右には昭和3年(1928)建立「八十宮御遺跡」石柱がある。八十宮(やそのみや)は生後1ヵ月で7代将軍家継の婚約者となった霊元天皇の第13皇女・吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称。明治維新で敗れ裁きを待つ桑名藩士たちを書いた菊池寛の短編小説「乱世」はこの寺が舞台となっている。 |
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{左}延命地蔵堂 しばらく行くと変形十字路となり東海道は道なりに左カーブ(左折)し少し先で右にカーブして国道1号に合流する。しばらく国道を歩くと左の中尾歯科(金場町1-7)の先に地蔵堂がある。堂前右に「交通安全 延命地蔵尊」石碑があり堂内には石像地蔵尊が安置されている。元は別の場所にあったが国道改修で現在地に移された。右後ろには金場町集会所がある。金場町(かねばちょう)の地名は江戸時代に鍛冶屋が多く住んでいたことに由来する。 |
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{右}大矢知道標 斜め向かいのENEOSセルフ四日市北店(城山町7-48)の先で右後方から大矢知方面に続く県道9号線が合流するところに小さな道標がある。国道側の面には「右 桑名」「左 四日市」と並べ下に大きく「道」左面には「右 四日市」「左 大矢知」に「道」とある。大正12年(1923)建立で右面には「羽津四区除雪記念」とあり同年の大雪で鉄道(関西本線)の除雪作業を行った羽津四区の住民への支給金で道標を建てた。志氐神社の東南角にも同年北陸地方で除雪作業にあたった羽津村在郷軍人会、羽津村消防組、羽津村青年団、鵤保安会の名が刻まれた円柱型の除雪記念碑がある。大矢知へ向かう道は新濃州道とも呼ばれ富田から近江へ向かう八風道や桑名から美濃へ向かう濃州道と合流する道でもあった。 |
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{右}垂坂山観音寺道標 しばらく先の三ツ谷町交差点右には笹井屋三ツ谷店(三ツ谷町12-26)があり少し先左の伝丸1国四日市三ツ谷店(三ツ谷町1828)先で東海道は国道1号から左に分岐する。分岐点に鉄枠で補強されている道標(高さ145cm)がある。多度神社の現社地も寄進した三ツ谷町の森太吉が大正4年(1915)に建立し「國寶元三大師道」「垂阪山観音寺是より二十三丁」とある。北西2.5kmにある観音寺(垂坂町1266)への道標で寺は延長7年(929)元三大師とも呼ばれる慈恵大師の創建で観応2年(1351)作の木造慈恵大師座像は大正2年に国宝(現:重要文化財)に指定された。慈恵大師は比叡山延暦寺を中興した良源のことで厄除大師、角大師、豆大師のほか正月3日に没したため元三大師とも呼ばれるようになった。 |
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{左}多度神社 三ツ谷町7-5 分岐した少し先。明治18年(1885)多度大社(桑名市多度町多度1681)を勧請し創建され明治42年(1907)海蔵神社(東阿倉川540)に合祀されたが昭和10年(1935)に分祀され再興された。戦災で焼失し昭和26年(1951)に再建。現在の境内敷地は垂坂山観音寺道標も建立した森太吉が寄進したもので社殿右には平成8年建立の森太吉翁顕彰碑がある。その横には昭和40年建立の戦没者慰霊碑。神社名柱は昭和43年建立。鳥居と7基ある灯籠は昭和10年建立で狛犬の土台は平成17年の再建。境内の奥には三ツ谷町公会所がある。三ツ谷の地名は羽津村から3軒の家が移転して出来たのが由来で元は東阿倉川村の1部だった。 |
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{左}三ツ谷一里塚跡(99) 少し先で海蔵川の土手に出る。土手の石段を数段登った左に小公園があり平成13年建立石碑がある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右に榎1本と松2本、左に松が複数あったと記録されており石段を登りきった左には絵図を掲載した平成13年設置の説明板もある。一里塚手前右には茶屋も描かれているが塚の実際の場所は少し先で昭和20年代に海蔵川が拡幅されたため現在は川となっている。小公園は八田藩の郷倉跡でその北西隣には陣屋もあった。八田藩は8代将軍吉宗に仕えた加納久通がこの地に千石の所領を得たのが起こりで享保11年(1726)に1万石を越えて藩となり文政9年(1826)藩庁が上総一宮(千葉県長生郡一宮町)に移転し一宮藩となった。小公園にはすべり台、鉄棒もある。 |
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{右・寄}海蔵橋 石段を登りきった海蔵川の土手に出ると対岸に旧東海道が続いているのが見えるが橋がないため20m右の国道1号にかかる海蔵橋で迂回する。橋の両側にある歩道部分は昭和39年竣工。海蔵川は現在は「かいぞうがわ」と読むが昔は「あくらがわ」と読んだ。江戸時代には河原には刑場があり両岸には水害を防ぐため堤となっておりその上は近隣の村への道として利用されていた。川沿いの道は現在は桜並木となっており昭和31年に林時治郎が自宅前の土手に1本の桜を植えたのが起こりで3年後には近隣も協力し49本が植えられ桜並木として整備されていった。川を渡り旧東海道に戻り少し先で橋北発展会の商店街に入ってしばらく進むと道路が茶色舗装となる。 |
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