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{右}妙延山 寿量寺(壽量寺) [日蓮宗] 伝馬町49 少し先にある。今一色(現:今中町周辺)にあった天台宗の妙蓮寺が前身。後に身延山久遠寺12世となった日意が天台宗の僧・法鏡だった頃に住職だった。法鏡は比叡山延暦寺に入り学頭となった後に身延山久遠寺11世日朝の弟子となり妙蓮寺も文明年間(1469-87)に改宗し慶長の町割で現在地に移った。入ってすぐの参道左のブロック塀前に江戸城の障壁画を描き帰京途中の慶長13年(1608)桑名で没した絵師・狩野光信の小さな五輪塔(高さ60cm幅18.5cm)があり昭和45年市指定文化財。他にも全て昭和41年市指定文化財の寛正4年(1463)慶安2年(1649)銅磬2枚、弘安2年(1279)日蓮真筆とされる大曼荼羅も所蔵。本堂はコンクリート造。境内左に鐘楼、右に蔵。本堂前右には明治2年(1869)仏足石もある。 |
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{左・寄}自栄山境智堂 顕本寺 [日蓮宗] 萱町74 少し先の交差点で県道401号に出て左折し萱町交差点で県道613号線を渡ると右にある。身延山久遠寺12世日意の開山。現在の桑名城三之丸の地にあったが慶長の町割で現在地に移った。本堂前左に昭和14年(1939)建立の大きな日蓮像があり左右に弘化2年(1845)と3年の題目塔。その左には水子観音堂もある。福島正則の家臣で寛永20年(1643)から桑名藩主・松平定綱に仕え慶安3年(1650)に没した吉村又右衛門宣充、四日市代官や山田奉行(伊勢奉行)などをつとめ寛永7年(1630)没した水谷九左衛門光勝の墓があり共に昭和41年市指定史跡。他に文政8年(1825)没の服部正啓、慶応3年(1867)没の吉村宣浚(東里翠山)、明治19年(1886)に没した服部正義などの藩の重臣の墓もある。 |
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{左・寄}日輪山 真如寺 [曹洞宗] 新屋敷123 萱町交差点から県道401号線を進み歩道橋手前を右折すると右にある。顕本寺の裏。寛永12年(1635)松平定綱が桑名藩主となった際に既に隠居していた日輪山真如寺(掛川市仁藤87)の光山和尚を桑名に招き寺領を与え同じ山号・寺号で末寺として創建した。本尊は釈迦牟尼仏。父・定勝が掛川藩主だった9歳から15歳を掛川で過ごした定綱は兄の定吉、定行と共に光山和尚に書道を習っていたと言う。19歳で自害した定吉の墓所は掛川真如寺にあり定勝、定行は定綱の前の桑名藩主。境内左に出世地蔵を中心に地蔵石仏が数体ある。境内右に安政4年(1857)手水石。境内入口右に平成13年建立の聖感謝観世音菩薩石像。桑名西国33観音霊場第6番。 |
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{右}大悲山 長円寺(長圓寺) [浄土真宗本願寺派] 伝馬町105 横断歩道のない県道401号線を渡り(萱町交差点にて迂回)少し先にある。古くは真言宗の寺で南方300mほどの江場村にあったが明応5年(1496)に改宗し慶長の町割で慶長6年(1602)に現在地に移った。戦災で焼失し本堂はコンクリート建で再建。本尊は阿弥陀如来。江戸後期の11世魯縞庵義道は寛政10年(1798)「桑府名勝志」享和2年(1802)「久波奈名所図絵」を著しており現存する書は昭和34年市指定文化財。義道は1枚の紙で連続した2羽から97羽の鶴を折る「桑名の千羽鶴」の考案者でもあり49種の折り方は昭和51年市指定無形文化財となっており数種の折り鶴の例が桑名市博物館に展示されている。本堂左の墓地内には文化元年(1804)没の大坂相撲力士・千田川善太郎の墓もある。 |
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{右}謝徳山 報恩寺 [浄土真宗本願寺派] 伝馬町96 少し先。元は真言宗で江場村にあったが創建時期や移転時期は不明で室町時代の本願寺8世蓮如の頃に改宗し高龍山謝徳院報恩寺と称した。本尊は阿弥陀如来。元亀年間(1570-73)信長の手勢が付近にあった江場城を攻めた際に城主・佐藤杢之助の親族である南光坊に報恩寺の門徒が加勢し城の守りに加わって勝利したという記録がある。門柱は「大正御即位式記念」と刻まれている。境内には本堂、庫裏、灯籠が4基のみ。少し先で東海道は県道613号線に合流する。 |
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{左}七曲見附跡 県道向かいの日進小学校(新屋敷126)の駐車場左に説明プレート石柱がある。江戸時代には向かいの消防団第一分団車庫付近に番所(見附)があった。東海道は番所前を左折し七曲門(釘抜門)をくぐり右折し泡洲橋で堀を渡って右折していた。七里の渡し舟着場から7回曲がったことが七曲の由来。石柱右には昭和6年(1931)竣工の泡洲橋の親柱を利用したモニュメントがある。小学校の駐車場付近が門の跡地で小学校南側の細い道路が堀の跡。石柱後ろの植込みにはこの付近が貝塚として昭和17年県史跡に指定された記念の石柱があるが昭和59年に史跡指定は取消された。正確な東海道は小学校敷地内で消滅しているため県道少し先の日進小南交差点を右折する。角には矢印付「東海道」石柱もある。 |
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{右}広瀬鋳物工場跡 右折すると旧東海道は鍋屋町に入る。しばらく行くと民家の立派な石垣塀の前に説明プレート石柱がある。江戸初期に桑名藩主本多忠勝が員弁郡大泉村から鋳物師の廣瀬(広瀬)与左衛門を招きここを鋳物工場とした。文政9年(1826)にはシーボルトも工場見学している。工場では梵鐘の他に鍋などの日用品も作り付近は鍋屋町と呼ばれた。本統寺[真宗大谷派](北寺町47)にある親鸞聖人像を昭和12年(1937)に寄贈した大阪の実業家広瀬精一は広瀬鋳物の分家の子孫。聖人像は6体作られ桑名の他、京都、新潟、東京、大阪、広島に置かれ広島の像は原爆で被災後の昭和30年にニューヨーク本願寺に移された。鋳物製品は明治以降には桑名の特産品にもなり昭和16年には50社の鋳物工場があった。 |
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{右}天武天皇社 東鍋屋町89 少し先にある。入口右に明治35年(1902)松平定敬揮毫の「天武天皇御舊跡」石柱。壬申の乱(672)で大海人皇子と后の讃良皇女が桑名に駐泊した記念に後に創建された。皇子は桑名から美濃国不破(現:岐阜県不破郡)に向かい兵を集め近江の大友皇子に勝利し即位し天武天皇となり讃良皇女は後に持統天皇となった。祭神は天武天皇、持統天皇、第1皇子の高市皇子で天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。元は新屋敷にあり寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため鍋屋町南側に移り天和年間(1681-84)北側の現在地に移転。戦災で焼失し再建。灯籠は文政4年(1821)天保7年(1836)など。手水石は文化12年(1815)。昭和41年市指定文化財の嘉永7年(1854)「備前介藤原宗次」銘の刀を所蔵。 |
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{左}御影山 本願寺 [西山浄土宗] 東鍋屋町72 少し先の空地。入口右に梅花佛鑑塔の説明プレート石柱と鉄枠で補強された寛政12年(1800)建立「善光寺一躰分身如来」「世話人万屋嘉兵衛」石柱がある。室町初期創建で応永8年(1401)没の良円を1世としており善光寺分身如来を本尊としていた。承応・明暦年間(1652-58)天台宗から改宗し江戸時代には近くの地名が本願寺村と称する村名にもなっており大寺院だったとされるが戦災で建物を焼失したまま無住となり建物も再建されていない。入って右に地蔵堂、墓地が残る。奥の本堂があった付近は駐車場になっており左に寺の説明板が設置されている。桑名西国33観音霊場第10番。桑名24地蔵霊場第10番。 |
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{左}梅花佛鑑塔(各務支考分骨墓) 本願寺境内の左にある。芭蕉の弟子の俳人・各務支考(かがみしこう)は僧侶を目指していたが還俗し芭蕉の門人となり俳号を獅子庵、東華坊などと称した。蕉門十哲の1人で美濃派の創始者でもあり芭蕉の死床では遺書の代筆もした。享保16年(1731)故郷の美濃国北野村(現:岐阜市山県北野)で没すると桑名の美濃派の雲裡坊杉夫(うんりぼうさんぷ)が支考の墓に参詣しやすいよう分骨を貰い受け東海道沿いの本願寺に墓を建立した。北野村に支考本人が生前に建立した本墓と同じく名に因み石は丸い鏡の形をしている。左には大正12年(1923)建立の芭蕉句碑、周りに雲裡坊から続く桑名の俳句結社「間遠社(まとうしゃ)」歴代社長の句碑10基がある。計12基の石碑のうち8基が昭和52年市史跡に指定。 |
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{右}一目連(いちもくれん)神社 次の十字路の手前右角の網フェンスと電柱の間に鉄枠で補強された明治20年(1887)建立「左 東海道 渡船場道」「右 西京 伊勢道」道標があり道を挟んだ隣に神社がある。この辺りは鋳物の町であったことから多度大社(多度町多度1681)の別宮である一目連神社から製鉄、鍛冶、金属加工の神である天目一箇命を勧請し創建された。大社別宮では多度山に住んでいたとされる独眼竜も祀り一つ目竜が一目連の名に転訛したと言われる。鳥居は明治37年(1904)、石柱に祠が乗った灯籠は明治33年、社名石柱と狛犬は昭和40年。社殿は小さな祠。鳥居右に昭和7年(1932)建立の徐風庵句碑がある。美濃派再和派第9世の徐風庵は本名は多賀六右衛門で美濃国旗本加藤平内に仕えた代官。 |
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{右}瑞華山 明円寺(明圓寺) [真宗大谷派] 西鍋屋町16 その先の交差点を横断して少し行くとある。創建時期は不明で文禄・慶長年間(1593-1615)に伊藤孫右衛門が出家して常了となり中興した。孫右衛門は安田空明の家臣として天正12年(1584)小牧・長久手の戦いや天正18年(1590)小田原攻めで戦った。空明は長島一向一揆で信長と対峙した寺の1つである法泉寺(多度町香取180)の11世で長島落城後は大坂に逃れ石山合戦終結後は家康から寺領などを与えられ従っていた。本尊は阿弥陀如来。本堂は平成17年再建。境内には本堂、庫裏、墓地のみ。 |
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{右}松下山 教覚寺 [浄土真宗本願寺派] 東矢田町21 少し先で東矢田町に入り少し先にある。桑名最大の荘園・益田荘の地頭だった二階堂氏の一族の1人である紀伊介直行が本願寺8世蓮如の弟子となり文明3年(1471)出家し正幻となり益田荘町屋に開いた道場が起こり。明応3年(1494)本願寺9世実如より本尊の阿弥陀如来が下賜され後に6世覚正が現在地に移して寛永12年(1635)正式に寺となった。本堂左には石垣のみ残る鐘楼跡がある。庫裏前の手水石は天保6年(1835)のもの。 |
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{右}中川梵鐘 東矢田町15 3軒隣。江戸末期創業で福井県の大本山永平寺[曹洞宗]、愛知県新城市の煙厳山鳳来寺[真言宗]、名古屋市の覚王山日泰寺[単立]、伊勢市の勝峰山金剛證寺[臨済宗南禅寺派]、瀬戸内寂聴が住職をつとめた岩手県二戸市の八葉山天台寺[天台宗]、名古屋市の天長山久国寺[曹洞宗]の岡本太郎デザインの「歓喜の梵鐘」など全国の梵鐘を鋳造している。会社としては昭和22年(1947)設立。店先に並んでいる鐘は音色などの点で納得できず出荷しなかったもの。アメリカの寺向けに造ったものの現地が零下30度以下のため別の材質で納品し残ったものもある。寺の梵鐘だけでなく桑名城跡の本多忠勝像や日本の音風景100選に選ばれた北海道函館市のハリストス正教会(元町3-13)の鐘も鋳造している。 |
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{右・寄}走井山 善西寺 [浄土真宗本願寺派] 西矢田町27-2 少し先の矢田町交差点で国道1号を渡り少し先。山門前右の平成2年建立の寺名石柱側面に寺の由来が刻まれている。天平宝字年間(757-64)行基が開基した大観院蓮華寺が起こりだが永禄12年(1569)焼失。天正5年(1577)に滝川一益に攻められ落城し自害した矢田城主・矢田半左衛門勝英の法名の善西を寺号とし孫の空円が城があったとされる走井山の麓(北西700m付近)に復興し文禄元年(1592)に改宗。いつの頃か現在地に移された。戦災で本堂を焼失したが山門、塀と境内左の鐘楼は戦災を免れた。境内左の手水石は天保3年(1832)。本堂左の墓地の中央付近には桑名藩士で森陳明とともに新選組に入って函館で戦い明治以降は警視庁に入り明治42年(1909)没した関川代次郎の墓がある。 |
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{右}馬つなぎの輪 少し先の民家(竹内家)のコンクリートの基礎上部の土台木材に黒い金具が5つ付いておりそのうち4つに鉄の輪が付いている。江戸時代の矢田村は城下外の立場で鉄輪は旅人が休息するために馬をつないだ名残とされる。木造2階建で1階には格子になっている建物は明治初期の築で矢田地区は戦災を免れたため古い町並が残る。 |
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{右}立坂神社 鳥居 隣にある。鳥居左には神社名石柱がある。神社(新矢田2-24)は右折200m先正面。初代桑名藩主本多忠勝が創建したと伝わる矢田八幡宮が前身。現:桑陽保育所(東方1895-1)の地にあった延喜式内社の旧:立坂神社が明治41年(1908)に同じく延喜式内社の尾野神社(東方2194)に合祀されたため名を受け継いだ。主神は大日靈貴命(天照大神)で神功皇后、応神天皇、玉依姫を配祀。境内の国道1号側には青銅鳥居もある。昭和41年市指定文化財で江戸初期作の紙本淡彩本多忠勝画像(縦134.2cm横70.6cm)、昭和52年市指定文化財で室町時後期作の短刀村正(長さ30.4cm)を所蔵し忠勝画像は桑名城跡の本多忠勝像のモデルとなっている。 |
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{右}矢田立場ポケットパーク しばらく行くと東海道は突き当たり左折する。その右角の黒壁の蔵を背景に火の見櫓、周辺地図付きの矢田村の説明板、矢印付き「東海道」石柱があり周りが花鉢などで飾られている。火の見櫓は平成3年に再建したもの。江戸時代の矢田村は城下外の立場で享和2年(1802)長円寺11世魯縞庵義道著の久波奈名所図会には「此立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とある。左折した福江町も立場の続きで現在は新しい町並だが江戸時代には茶店などが並び南端には旅籠の客引の詰所である宿引小屋もあった。西国からの大名などが通行の際には役人がこのあたりまで来て出迎えたと言う。 |
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{右}神戸岡(ごうどおか)神社 左折し少し行くとある小さな神社。創建時期は不詳だが昔この付近は伊勢神宮の支配地で桑名神戸(かんべ)と呼んだことに関係するとされる。古くは街道の反対側にあり明治29年(1896)に立坂神社に合祀されたが昭和35年(1960)現在地に再建された。鳥居左に合祀されてた間に旧地に置かれていた昭和2年(1927)建立の「神戸岡神社舊跡」石碑がある。社殿は小さな祠。木製鳥居は昭和60年。灯籠は昭和58年、狛犬は平成14年。境内左に昭和28年建立の戦没勇士碑がある。神社の手前の向かいには福江町祭車庫があり春日神社の石取祭の福江町祭車(昭和28年製作)を保管している。神社から少し先で地名が大福となる。 |
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{左}桑部山 了順寺 [浄土真宗本願寺派] 大福222 少し進むと蛤の形をした生姜風味の焼菓子「七里焼き」(1個126円)を売る戦後創業のつたや(大福180-2)が右にありその少し先に立派な構えの寺がある。永録11年(1568)信長に敗れた桑部城の守将・毛利氏の子孫・毛利秀久が出家し恵秀と称し元和7年(1621)創建した。山門は桑名城の城門を明治初期に移築したと伝わり本堂は明治35年(1902)12世恵霖の時の建立で戦災も免れた。山門入って左の鐘楼は重層で袴付き。鐘楼と本堂の間の墓地には文化8年(1811)没の桑名の俳句結社「間遠社(まとうしゃ)」3世春亭裏鏡の円筒形の墓がある。横に力士で文政6年(1823)に没した浪の音吉右衛門、安政4年(1857)に没した浪の音吉蔵の墓もある。 |
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{右}江場松原跡 少し先の十字路を過ぎると右は日立金属桑名工場(大福2)の敷地となり少し進むと説明プレート石柱がある。江戸時代には大福の先から江場、安永に至る192間(345m)は両側とも家がなく松並木となっており右には鈴鹿山脈、左には伊勢の海が遠望できたと言う。松並木は昭和34年(1959)伊勢湾台風で被害を受け現在は1本も残っていない。少し先右の工場敷地には松の若木を育成している場所がある。工場は後に日産コンツェルン(現:春光グループ)を発展させた鮎川義介により大正11年(1922)設立された木津川製作所が前身。義介が福岡県北九州市戸畑区に明治43年(1910)設立していた戸畑鋳物の継手製造と瓢箪印の商標を受け継ぎ現在も鉄管継手などの配管機器を製造している。 |
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{右}城南神社 安永816 工場敷地を過ぎるとある。古くは神明宮と称し明治41年(1908)近隣の神社を合祀し当時の村名(城南村)から城南神社となった。主祭神は天照大御神で豊受比賣命ほか5柱を配祀。伊勢神宮が創建される際に各地を転々とした倭姫命が伊勢に着く前にこの地に仮座したと伝わることから神宮と関係が深く古来より式年御遷宮には内宮一ノ鳥居や古殿舎の1部が下賜される。入口左の大正3年(1914)神社名石柱は神宮大宮司・三室戸和光揮毫。鳥居前右には昭和5年(1930)「皇大神宮一ノ鳥居御下賜」石碑、参道に平成6年「下賜記念」灯籠、社殿右に神宮少宮司・藤岡重孝揮毫の平成10年「天照大御神御遷幸旧蹟」石碑がある。境内右の手水石は嘉永4年(1851)。参道右の乙石稲荷前には嘉永6年灯籠。 |
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{右}清浄山 晴雲寺 [真宗大谷派] 安永2-578 しばらく行くとある。永正10年(1513)桑名城の前身の東城を築城した伊藤武左衛門の一族の1人が出家し明西となり大永2年(1523)頃に創建した。桑名宿の西の手前にあるため西国の大名は参勤交代の際はこの寺で衣服を改め宿に入ったと伝わり江戸時代の駕籠も所蔵する。昭和9年(1934)築の山門入って左に明治27年(1894)現本堂建立時に製造された鬼瓦が昭和60年本堂修復時に取替られ展示されている。境内左に昭和24年の梵鐘がある鐘楼や蔵、手水石。本堂右前に昭和55年親鸞像。寺のすぐ先で国道258号の高架下に平行する道路を渡るが横断歩道がないため左に入口がある地下道で渡る。この辺りは安永(やすなが)立場跡で町屋川に舟運の舟積場があったため賑わっていた。 |
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{左}安永ふじの里 玉喜亭 安永362 少し上り坂になるとある。文政元年(1818)創業の料理旅館。江戸時代には茶店で戦後に料理旅館となった。玄関には樹齢200年以上の藤の藤棚が広がり安永の藤と呼ばれ災害避難時は近隣住民の集合場所だったと伝わる。昭和51年改装。客室数6。1泊2食8000円素泊4800円〜。向かいの母屋は創業時の築で道路より低い位置にあり江戸時代の東海道の高さを示している。昭和18年頃まで使用され「安永餅」看板、餅作りに使った竈、「御馬口御洗水」木札も残され桑員まちかど博物館登録のミニ博物館「安永餅の郷博物館」だったが現在は休館中。 安永餅は安永立場に並ぶ茶店の名物だった細長い餅で餡入りで焼き目が付いている。四日市のなが餅と似ているがなが餅よりも長く焼き方が濃い。
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{右}伊勢神宮常夜燈(安永の常夜燈)&里程標石柱 少し先で十字路を渡るとある。堤防の上に建てられ説明立札もあり堤防の道路側にはせぎ跡が3つある。常夜燈は文化元年(1818)建立で石工は石市(現:石市商会)こと根来市蔵藤原恭備、寄進人は桑名や岐阜の材木商の連名で伊勢神宮への祈願を兼ねたものになっている。昭和46年市指定史跡。里程標は明治26年(1893)建立で「従 町屋川中央 北桑名郡」「距 三重縣廰 拾一里丗甼餘」「距 桑名郡役所丗三町余」とあり鉄枠で補強されている。向かいの堤防上には「東海道入口」と橋の絵が描かれた看板と矢印付「東海道」石柱、若い1本松があり堤防の道路側にはせぎ跡が2つある。 |
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{左}すし清(すしせい) 安永1910 少し先で東海道が町屋川に突当たるとある。安政元年(1854)創業の料理旅館。江戸時代には茶店だった。庭には樹齢250年の五尺藤の藤棚が広がっている。五尺藤は日本古来の固有品種の長藤で色が濃く細身で1mほどの花房を付ける。入口左には楠(樹齢200年幹周3.5m樹高25m枝張20m)もある。1泊2食7000円〜。部屋数10室。東海道中膝栗毛には茶店が並ぶ付近の様子が「旅人を 茶屋の暖簾に 招かせて のぼりくだりを まち屋川かな」と詠まれている。茶屋の名物の安永餅は現在は安永の地では買えないが明治27年(1894)桑名駅開業に合わせて市街地に移転したと言う寛永11年(1634)創業の永餅屋老舗(有楽町35)と江戸中期創業の安永餅本舗柏屋(中央町1-74)が今も続いている。 |
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町屋橋跡 突当たりは安永第一公園となっており公園に入った左に付近の地図付説明板がある。寛永12年(1635)ここに初めて橋が架けられた。東海道では岡崎の矢作橋に次いで2番目に長い橋で架替え時により川の中洲を利用した2本の橋だったり1本の橋だったりした。説明板には享和2年(1802)長円寺11世魯縞庵義道著の久波奈名所図会の絵が転写されており橋の中央には馬の退避場が描かれている。明治8年(1875)には幅2間(3.6m)長さ120間半(220m)1本の木橋が架けられた。昭和8年(1933)国道1号に新しい町屋橋が架けられ旧東海道に架かる町屋橋は廃止された。公園内にはベンチ、ブランコ、鉄棒、すべり台もある。現在は旧東海道に橋はないため100m下流の国道1号の町屋橋で迂回する。 |
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{左・寄}町屋橋 伊勢神宮常夜燈がある十字路を左折すると国道1号に出ることができ右折すると橋。昭和8年(1933)国道に架けられた新しい町屋橋は近代的なコンクリート橋で昭和38年(1963)には両側に歩道用の橋が増設された。平成元年にさらに少し下流に現在の橋(長さ216m)が架替えられ平成17年に1.5mだった歩道幅を2倍に拡張するなどの整備工事が行われた。橋手前の右側袂を少し降りたところは平成17年に整備されたポケットパークとなっており藤棚の下のベンチ、平成17年設置の「町屋橋のうつりかわり」説明板があり昭和38年の歩道用橋の親柱も移設されている。昭和8年の橋の親柱を再現した現在の親柱手前にはベンチがあり橋の高欄の笠木には耐久性に強いアフリカ産の木材ドゥッシーが使われている。 |
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町屋川(員弁川) 橋の親柱には「町屋川」とあるが現在の正式名称は員弁川で鈴鹿山脈を水源とし長さ37km流域面積265平方kmで伊勢湾に注ぐ。町屋川は上流の旧:員弁郡と桑名の境(現:坂井橋付近)より下流の通称。周辺の河原では春日神社の石取祭の川原祓式が行われる。橋の中間地点で桑名市から三重郡朝日町に入り川を渡ると右にベンチと平成17年設置の「文学のなかの町屋川と橋」説明板があり江戸時代の作品が紹介されている。右折し町屋橋跡の対岸から東海道の続きに左折する角には「みえ歴史街道 東海道」標示板がありこの先も至る所にある。少し先で小さな橋を渡ると堤防跡の石垣があり道路両側にはせぎ跡が2つある。ここからの道はやや上りで江戸時代にはだらだら坂と呼ばれた。 |
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{右}雨宝山 金光寺 [高野山真言宗] 三重郡朝日町縄生736 少し先右に昭和13年(1938)建立「十一面観世音菩薩」石柱があり右折していくと正面。天平12年(740)聖武天皇が行基に命じて現在地より北西の地蔵谷(現:桑名市東金井)に創建したという天台宗の金光明寺が起こり。弘仁2年(811)縄生に移り転々とし永禄10年(1567)頃に兵火で焼失。延宝元年(1673)現在の町役場公民館縄生分館(縄生714-1)の地に再興され金光寺となり寛政年間(1789-1800)に現在地に移転した。本尊は11面観世音菩薩座像。明治3年(1870)浄海を最後に無住となる。堂裏に貞享2年(1685)没の中興開山良算律師の墓、本堂左に4地蔵が安置された堂と6地蔵が安置された堂。町指定文化財の釈迦16善神画像も所蔵する。桑名西国33観音霊場第25番。桑名24地蔵霊場第11番。 |
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{右}桔梗山 真光寺 [浄土真宗本願寺派] 縄生729 少し先。大同2年(807)伝教大師が現在地より北西の天神山の北西(お坊ヶ谷)に天台精舎として創建。興国元年/暦応3年(1340)本願寺第3世覚如の教化を受け天台宗から浄土真宗に改宗し権律師祐正が興国3年/康永元年(1342)この地に移した。永禄10年(1567)頃に兵火で焼失し正保4年(1647)再建。明暦3年(1657)桑名藩主松平定良が京都で没し搬送される帰途、町屋川が大雨で足止めとなったため遺体を3日間安置した。本堂前左にある久松松平家の星梅鉢紋が入った大きな手水鉢は定良の跡を継いだ藩主定重が礼として万冶3年(1660)に寄進したもの。山門入って左の鐘楼も久松松平家の子孫の白河藩主定賢が寄進した。本堂右前には昭和59年本堂建立百年記念の親鸞聖人像がある。 |
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{左}山口誓子句碑 縄生805 少し先の水谷タバコ店(みずたに建具)前に昭和25年(1950)建立の句碑「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ」があり誓子自身の揮毫。京都市出身の誓子は肋膜炎を患い昭和16年に療養のため四日市市富田に移住し昭和21年に天カ須賀海岸、昭和23年に鈴鹿市白子町鼓ヶ浦と昭和28年まで伊勢湾沿いの地を転々と移住し時々周辺を散策し句作したと言う。ここから3km南の天カ須賀の旧居跡にも昭和40年建立の句碑「かの雪嶺 信濃の国の 遠さもて」がある。昭和21年出版の句集「星恋」は全264句のうち192句が四日市や白子など三重で詠まれたもの。昭和41年から48年にかけても四日市に住み地元の愛好家に俳句を指導したと言い伊勢周辺には多くの誓子句碑が残されている。 |
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{左}縄生(なお)一里塚跡(97) 古い家並みが続きしばらく行くと民家の板壁前に「一里塚跡」石柱がある。江戸時代に縄生村にあった一里塚で両側とも榎が植えられていたが現在は塚はなく石柱のみがある。少し先右には「みえ歴史街道 東海道」標示があり右折すると北東700mにある平成19年県指定史跡の縄生廃寺へ向かう道となる。白鳳時代創建とされる寺院跡の縄生廃寺は昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになり朝日町歴史博物館にも関連展示があり塔心礎から出土した舎利容器は平成元年に国重要文化財に指定されている。 |
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{右}安達本家酒造 縄生2107-1 しばらく行くとある。明治43年(1910)創業。現在地に移住し農業、薬販売をしていた安達常右衛門が味噌やたまり醤油の醸造を始め清酒醸造に転じた。縁起物の「一富士 二鷹 三なすび」から「富士の光」「清鷹」を主要銘柄として醸造している。冬に「鈴鹿おろし」と呼ばれる寒風に恵まれる環境で員弁川の伏流水と山田錦、夢錦、福の花など米を用いて但馬の杜氏が醸造している。
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{右}朝日町説明板 少し先で近鉄名古屋線の踏切となり左には昭和4年(1929)開業の伊勢朝日駅がある。右はロータリーとなっており「古萬古発祥の地 朝日町」地図付説明板がある。右には町の木である白梅も植えられている。明治22年(1889)縄生村と埋縄村、柿村、小向村が合併して誕生した朝日村(現:朝日町)の名は壬申の乱(672)で大海人皇子(後の天武天皇)がこの辺りで朝日を拝んだという故事に由来する。町には縄生廃寺など弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在し日本書紀には「朝明駅」と記述されているなど歴史は古い。踏切を渡ると右には昭和13年(1938)誘致された東芝三重工場(縄生2121)がある。 |
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{左}語らいの広場 少し先にある。平成の一里塚をイメージして平成10年にボランティア400名が参加して施工された公園で自転車置場にもなっている。公園内には小さな松や町の木である白梅、一里塚風に盛られた塚などもあり壁や地面には石や再利用した瓦で鈴鹿山脈や町屋川が描かれている。入口には朝日町史跡案内図と平成13年建立「旧東海道」石柱がありその左には東海道中膝栗毛の一節と蛤を焼く挿絵付の説明碑が瓦に刻んだものと金属板の2種類ある。小向村(現:朝日町小向)には桑名やこの先の富田と同じく焼蛤を商う茶店が並び村はずれには松並木が続いていた。すぐ先左の民家の前に1本ある榎の古木(樹齢300年)は松並木の中に混じっていた木とされ根元には同じく瓦と金属板による説明碑がある。 |
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{左・寄}朝日町資料館(旧:朝日村役場) 小向872 しばらく進み右に「みえ歴史街道 東海道」標示と「御厨 小向神社」石柱がある変形十字路を左折して行くと左にある。大正5年(1916)村役場として建てられ昭和29年(1954)町制施行後は町役場として昭和39年まで使われた。建坪64坪(211平方m)で建築費は1866円。木造2階建桟瓦葺寄棟造で懸魚付切妻造の玄関、1階に事務室、2階に議場があった。現在は建築面積135平方mで昭和53年から農具や日常品など民俗資料の展示館となり平成12年に国登録有形文化財となった。庭には「右 こうさく道 左 豊田一色」など服部泰次郎建立の道標3基がある。開館は水土のみ。10時-16時、無料。小向(おぶけ)神社(小向1573-3)は石柱を右折し300m先の近鉄名古屋線を渡り少し先を右折して行くとある。 |
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{左}橘守部(たちばな もりべ)誕生地 変形十字路の少し先に説明板がある。昭和14年(1939)県指定史跡。守部は天明元年(1781)大庄屋格であった飯田長十郎元親の長男としてこの地で生まれ元服後は飯田元輔と称したが父が一揆に加担した嫌疑を受け家が離散し17歳で江戸に出て学問を志した。29歳から日光街道沿いの内国府間村(現:埼玉県幸手市)に住み49歳で江戸へ戻り嘉永2年(1849)69歳で没。本居宣長を批判し古事記よりも日本書紀を重視して伝説と史実の区分の必要性を説き香川景樹、平田篤胤、伴信友と共に天保の国学4大家と呼ばれた。地庵、椎本、生薬園とも号し「稜威道別」「難古事記伝」など多数の著書がある。朝日町資料館向かいの朝日町役場(小向893)入口右には昭和27年建立「橘守部翁生誕之地」石碑もある。 |
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{右}小向山 浄泉坊 [浄土宗本願寺派] 小向955 少し先にある。正治元年(1199)正治寺として創建され延元4年/暦応2年(1339)には地頭・愛州宗実の菩提寺、室町時代には幕府の祈願所にもなったが寛正6年(1465)住僧玄永が殺害される事件が起き永禄10年(1567)には兵火で焼失、荒廃した。慶長8年(1603)伊勢慶昭が再興し小向山浄泉坊と改称。徳川家に縁のある妻女の菩提寺になっていたとされ山門や瓦に葵紋が見られ参勤交代の大名は門前で駕籠から降りて一礼したとも伝わる。山門前右には旧本堂の鬼瓦を使って寺の由来に葵紋と左三巴紋を配した平成3年設置の説明碑もある。山門入って左に鐘楼。本堂右の書院は明治初期に取壊された桑名城三之丸の御殿にあった対面所と伝わる。本堂左には日清、日露などの戦役碑が3基ある。 |
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{右・寄}朝日町歴史博物館 朝日町柿2278 少し先の交差点を渡りしばらく進み右の電柱に稲垣酒造(柿2174)や若松園(柿2198-1)の広告がある角を右折して近鉄名古屋線を渡り少し行くと右にある。朝日町教育文化施設として平成9年開館。縄生廃寺や東海道など町の歴史に関する展示をしている。床面には縄生廃寺の瓦の出土状況がレプリカで立体展示されており三重塔の縮小復元模型もある。江戸後期の国学者橘守部、江戸末期〜明治に萬古焼を再興した森有節、明治〜大正の日本画家の栗田真秀や水谷立仙、大正〜昭和の俳人中村古松といった町出身者に関する作品や資料もある。建物内には郷土資料もある図書館(あさひライブラリー)、隣接して卓球台やアスレチックなどの遊具がある朝日児童館もある。9時-17時、月祝休、無料。 |
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{右}朝明山 西光寺 [真宗大谷派] 柿2116 少し先にある。所蔵する絵像御本尊の裏書「明應五年丙辰年六月二日 願主釋念正 本願寺釋実如(第九世)判」にある明応5年(1496)を浄土真宗としての開基の年としている。貞享2年(1685)大谷派となった。本尊は寛永15年(1638)下附された阿弥陀如来立像。同じ寛永15年に下附された絹本宗祖聖人御影、安永6年(1777)桑名の広瀬九郎兵衛道次作の半鐘も所蔵する。山門入って左に昭和22年(1947)の梵鐘がある鐘楼。現在の建物は明治10年(1877)から23年にかけて建立された。敷地は石垣の上に白い壁で覆われており入口右の塀の内側にある松は街道の松並木の名残とも伝わる。寺から少し先の十字路を右折100mで昭和58年開業したJR朝日駅がある。 |
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柿の2叉路 しばらく進み右に雑貨屋・柳屋(柿2000)があるところで2叉路となり東海道は左折するように左に行く。この付近は柿と言う珍しい地名で明治時代から農業地帯として栄え大正11年(1922)に矢野タオル(現:アサヒタオル)が創業してからは朝明川の良質の水を利用したタオル製造も盛んとなった。しばらく行くと右にカーブし少し先で両側に水路が沿うようになる。ゆるやかな上り坂になると両側が桜並木となり途中左右のガードレール外に砂利が敷かれ木製ベンチが3つ置かれた休憩場所がある。 |
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{右・寄}多賀大社常夜燈 並木を抜け伊勢湾岸道の高架手前の柿交差点を右折すると右にある。朝明川の堤に弘化3年(1846)に建立されたが昭和6年(1931)にここに移された。「多賀大社常夜燈」「壽命長久」「五穀成就」と刻まれている。横には小さな昭和46年建立「交通安全道路改修記念」石柱もある。多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町多賀604)は室町時代から広く庶民にも信仰され「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」などと言われた。江戸時代には常夜燈付近に3軒の茶店があり間宿・富田の客引きがここまで来ていたと言う。 |
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朝明川(あさけがわ) 高架をくぐると東海道は県道66号線となりすぐ朝明川(あさけがわ)を朝明橋で渡る。672年に起きた壬申の乱の際に吉野(現:奈良県)から伊勢を通り美濃(現:岐阜県)に向かう大海人皇子が朝明郡の迹太川(とほがわ)の川辺で伊勢神宮を遥拝し戦勝祈願したと伝えられておりこの先にある十四川や米洗川と共に朝明川もその迹太川であるとの説がある。川を渡ると四日市市となり道は下り坂となり右にカーブすると2叉路があり東海道は左を行く。2叉路正面には現在位置がわかるように距離や道程がイラスト付きで記載された「東海道」標示があり四日市市内の東海道には所々に同様の標示が設置されている。 |
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