東海道ルートガイド
宮宿

{右}東海山 玉泉寺 [日蓮正宗] 南区呼続5-4-21
車の少ない道をしばらく行くと駐車場前に寺名柱がある。昭和37年(1962)に日蓮正宗総本山大石寺(静岡県富士宮市上条2057)第66世日達が開基した。駐車場を突っ切っると左に平成16年築のコンクリート3階建ての本堂がある。本堂前左には大石寺67世日顕が手植えしたしだれ紅梅の幼木がある。
塩付街道 交差点
少し先の交差点左に側面に「富部神社」「塩付街道」とある「東海道」石柱と右に側面に「桜神明社」「塩付街道」とある「東海道」石柱がある。塩付街道は富部神社が起点と言われ桜神明社横を通り北上する道で塩を馬の背に付けて運んだことから名付けられた。室町時代から江戸時代にかけて星崎一帯の星崎塩浜では塩の生産が盛んで「前浜塩」というブランド名で知られていた。塩は塩付街道から瀬戸街道、中山道を経て美濃、信州へと運ばれていた。塩田は後に水田となり現在は工業地帯となっている。
{左・寄}富部(とべ)神社 呼続4-13-38
左折して突当り右。慶長8年(1603)長楽寺の一角に津島神社の牛頭天王(建速須佐之男命)を勧請したのが起こりで戸部天王や毒蛇神天王とも呼ばれた。明治11年(1873)田心姫命、瑞津姫命、市杵島命、菊理姫命を合祀。清洲城主松平忠吉が病気平癒の祈願をし回復後の慶長11年(1606)社領百石を与え、本殿、回廊・祭文殿(拝殿)を建てた。赤塗りの本殿は一間社流造、桧皮葺で昭和32年(1957)指定国重要文化財。祭文殿、回廊は平成8年指定市文化財。入口右に嘉永7年(1854)大灯籠、大正2年(1913)「明治天皇御駐蹕之處」石柱、金毘羅社、左に秋葉社。参道の灯籠には享和3年(1803)文化4年(1807)のもある。参道右の山車庫内の享保12年(1727)建造の高砂山車は昭和48年指定市文化財。
{左・寄}呼続公園
富部神社の社殿左の細道を抜けるとある。昭和15年(1940)までは長楽寺の敷地だったが市に寄贈され昭和29年開園した。広さ4.35haで曽池と呼ばれる池や南ふれあい広場(野球場)があり椿や桜の名所としても知られる。曽池には大きな噴水があり西の丘上に展望台、南に岩の上で空を指差す少女像、東に頼朝が上洛する際に旗を掛けて休んだと伝わる旗掛けの松と根元に小さい石碑「源頼朝公旗掛松」もある。公園一帯からは縄文後期から中世までの遺跡が見つかっており曽池周辺からは土師器や山茶碗が、広場造成の際にも須恵器が出土した。他にも住居や井戸の遺構、漁具や船の一部も見つかり曽池遺跡と呼ばれている。広場の南には遊具がある。公園の北側は新郊中学校(呼続4-4-8)。
{右・寄}桜神明社 呼続4-28
塩付街道交差点を右折し道なりに行くとある。創建年は不明で祭神は天照皇大神。相殿に伊佐那岐大神、事解之男命、速玉之男命、応神天皇、木花咲耶姫命、倉魂命。大正5年(1916)現在の桜台1丁目と鯛取通1丁目の境にあった平安時代創建の熊野三社を合祀しており参道左に昭和40年建立の大きな合祀之碑がある。拝殿左に秋葉社。本殿は背後にある「ひめ塚」と呼ばれる桜神明社古墳の上にある。須恵器も出土した5世紀末頃の円墳で直径36m高さ4.5m。北西に幅3mの堀の一部も残る。昭和49年に拝殿、本殿の屋根葺替。境内左に津島社と神木のクロガネモチ。2つある鳥居と入口灯籠、狛犬は昭和12年(1937)、手水石は昭和8年、社殿前灯籠は昭和13年。天保年間(1830-43)作の馬具も所蔵。
{左・寄}清水稲荷神社
旧東海道に戻り少し先の名古屋養育院(呼続4-26-37 )斜め向かいに赤い鳥居。左に大正14年(1925)「名古屋十名所」石柱、大正5年「弘法大師奉安地」石柱。右には平成13年建立「東海道」と刻まれた宿駅制度制定四百年記念碑、平成14年「東海道宿駅制度制定四百年記念 タイムカプセル埋没の処」石柱。神仏混合の長楽寺の一部で弘仁12年(811)寺の前身の創建時に鎮守とした清水叱尼真天を祀る。社殿左前には弘法大師、不動明王、神変大菩薩を安置する行者堂。境内にはモアイのような行者石仏が多くある。2つめの赤鳥居をくぐった参道左には大正8年の百度石。社殿左には慶長11年(1606)銘の「徳川忠吉公平癒松」石柱。社殿左奥には88ヵ所巡りの石仏群もあり境内にも散らばっている。
{左・寄}稲荷山 長楽寺 [曹洞宗] 呼続4-13-18
少し先に大正13年(1924)伊藤萬蔵建立の「稲荷神社出現道場 四国八十八ヶ所 長楽寺」石柱があり左折していくとある。弘仁12年(811)弘法大師が夢のお告げにより呼続の浜に七堂伽藍を創建した真言宗の寛蔵寺が起こり。荒廃したのち文明2年(1470)頃に義山禅師が再興し永正5年(1508)今川氏が諸堂を再建、明谷禅師が寺号を長楽寺とした。本尊は十一面観世音菩薩。本堂右には尾張33観音霊場第4番札所、東海百観音になっている立木観世音菩薩がある。十一面観世音菩薩で寛政10年(1798)17世智海和尚が境内にあった樹齢600年の松の木の下に観音石像を安置して霊木とし百日祈願の後に立木のまま彫り上げたと言う。本堂前を左に行くと清水稲荷神社の境内に通じる。
{左・寄}長楽寺 盲導犬サーブの墓
本堂の裏にある。サーブは昭和57年に岐阜県の路上で主人を暴走車からかばい左前足を失ったシェパードの盲導犬でアメリカ・テキサス名誉州犬の称号や内閣総理大臣功労賞も受賞しており中区栄の久屋大通公園には銅像がある。昭和63年老衰で没し同年建立された墓は盲導犬慰霊碑にもなっており多くの盲導犬も一緒に供養され動物供養法要や動物健勝祈願も営まれる。横には手水石、天保4年(1833)宝篋印塔もある。長楽寺は動物供養でも有名で境内奥には動物専用火葬場、動物霊園、合同慰霊碑(動物守護観音、地蔵菩薩)がある。他に境内には立木観音堂右前に尾張四国88ヵ所第2番札所の目守弘法大師、その横には38体の石仏群、本堂左前に11石仏群もある。
{左}正覚山 誓願寺 [西山浄土宗] 呼続3-15-25
付近の東海道には柱に旧東海道の文字が見える街灯があり道をしばらく進むと右には明治31年(1898)創業の石材店石直(呼続4-18-20)がある。近隣の「東海道」石柱などを市の依頼で製作しており店前にも「東海道」石柱や路面用の東海道イラストタイルがある。少し先の呼続小学校前交差点で東海通(市道東海橋線)を渡り少し先に寺がある。弘治3年(1557)開山。門前に「東海道」石柱と平成4年建立の寺名柱があるが門は閉まり民家と変わらない造りの建物。文禄4年(1595)から慶長5年(1600)まで清洲城城主だった福島正則が境内地を寄進するなど加護したと伝わる。
{右・寄}海底山 地蔵院(湯浴地蔵)[真言宗醍醐派] 呼続3-11-27
少し先に側面に「鎌倉街道」とある「東海道」石柱があり東海道と鎌倉街道の交差点で右折して左に寺がある。鎌倉前期に本尊の地蔵大菩薩座像(高さ2.3m)が海から拾い上げられ北500mの井戸田村に安置されたが慶長年間(1596-1615)にこの地に移された。尾張6地蔵第3番で湯浴地蔵と言われ湯をかけて拝むと叶うと伝わる。鉄製で鉄地蔵とも呼ばれ空襲と伊勢湾台風で大破し頭と両手のみが残り現在はコンクリートで補修されている。本堂左側には不動明王を安置。本堂前にはカエル石像が置かれた石徳利が2つ置かれ大正10年(1921)伊藤萬蔵の寄進。境内には他に大正5年の百度石、手水石の隣に地蔵、本堂左に石仏石塔4基。名古屋21大師霊場第15番札所、名古屋四国88ヵ所霊場第42番札所。
{右・寄}梅林山 黄龍寺(黄竜寺)  呼続3-11-23 
地蔵院前の鎌倉街道をさらに進むと一軒挟んだ隣に秋葉神社の小祠とマハヤナ幼稚園がありその向こうに寺の入口がある。応仁2年(1468)大雲山龍源寺(龍玄寺)として創建された。菅原道真の御真筆画像を所蔵し慶長13年(1608)熱田の妙光山誓願寺[浄土宗西山派](熱田区白鳥2-10-12)から移されたと尾張恂行記に記されている。真筆の移転とともに山号を梅林山とし宝暦8年(1758)寺号を黄龍寺と改称した。現在の山門や寄棟造の本堂などの建物は明和4年(1767)の再建。名古屋四国88ヵ所霊場第41番札所。尾張四国88ヵ所第4番札所。境内は幼稚園と一緒になっており園庭には市保存樹のクロガネモチがある。
{左・寄}眉間山 白毫寺(びゃくごうじ) 岩戸町7-19
地蔵院入口の斜め向かいにも側面に「鎌倉街道」とある「東海道」石柱があり左折して行くとある。元亀2年(1571)創建。この地は頼朝が上洛中に休んだとされる場所で桟敷山とも言われ古くは幹周7.5mほどの巨松があって頼朝公物見の松と呼ばれていた。桶狭間の戦い後に現在の安泰寺(呼続元町16-22)の地にあった山崎城に居城した佐久間信盛が築いた山崎砦の跡地でもある。山門前左に立像石仏の祠。本堂前には寺なのに狛犬がある。本堂左には稲荷の祠がある。
{左・寄}白毫寺 「年魚市潟勝景」碑
本堂左奥に大正9年(1920)建立の碑がある。約7千年前の縄文海進(海面上昇)により入江となったこの付近は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれ愛知県の名の由来とされる。知多の浦を望む勝景地だったが現在はここから海は見えず住宅地を見るのみ。碑の左奥には昭和47年建立の黒田清綱の万葉歌碑「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ」がある。万葉集には他にも年魚市潟を詠んだ歌として「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」が収録されている。碑の右には石造観音立像、右奥には市保存樹の楠もある。市保存樹の楠は山門前左にも2本ある。
{右}熊野三社 呼続2-6-33
少し先。永禄3年(1560)桶狭間の戦い後に信長家臣の佐久間信盛が現在の安泰寺(呼続元町16-22)の地にあった山崎城に居城した際に鎮守として城内に祀った熊野神社が起こり。廃城後も信仰され寛永4年(1627)村の守神として現在地に再建された。祭神は伊邪那岐尊、伊邪那美尊、事解之男神、熊野速玉命。社殿右前に浅間社、津島社、社殿右に八王子社、八幡社、社殿左に山崎稲荷社。鳥居は昭和63年、明治44年(1911)、昭和2年(1927)。灯籠は天保10年(1839)、明治44年など。社殿右に延享2年(1745)左に元文3年(1738)灯籠がある。狛犬は大正10年(1921)と社殿前に昭和2年。社殿右前にはおたすけ石がある。手水石は昭和10年。境内右には昭和10年松井石根揮毫の御誓文碑がある。
{右}熊野三社 「松巨嶋」手水石
境内左の柵内に明和3年(1766)の「松巨嶋」「願主 宮家徳左衛門年定」と刻まれた手水石があり小さな松と説明板がある。この一帯は古くは年魚市潟(あゆちがた)の東にあって四方を川と海に囲まれた浮島があり白砂に巨松が生い茂り松巨嶋(まつこじま)と呼ばれる景勝地だった。神社前右に清水稲荷神社前と同じ平成13年宿駅制度制定四百年記念碑がありここにも松巨嶋についての説明がある。現在の神社境内には巨松はないが欅、ムクノキ、イチョウ、榎、楠など多くの市保存樹があり社殿に向かう途中の1本(幹周囲4.45m樹高21m枝張15m)本殿左の1本(幹周囲4.81m樹高16m枝張16m)の楠2本は特に大きく御神木となっている。東海道はこの先下り坂となる。
{右・寄}龍雲山 法泉寺 [曹洞宗] 呼続2-1-21
左のうなぎ天ぷら泉玉(呼続2-13-9)を過ぎると側面に「山崎の長坂」とある「東海道」石柱、少し先に寺の看板と「東海道」石柱があり右折して坂を上ると寺。途中左には秋葉神社の小祠がある。行基が北500mの井戸田村(現:瑞穂区)に開基した真言宗の薬師寺が起こり。荒廃後に笑顔悦公が浜海道(現:南区)に龍雲山法泉寺として再興し寛永19年(1642)2世壽公が現在地に移した。寛政年間(1789-1801)大本山永平寺50世玄透即中が法地開山。本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩は弘法大師作と伝わる。 白毫寺のある岩戸町に通じる薬師通りの名はこの寺の薬師詣が由来とされる。新しい山門前左に地蔵が2体安置された祠。境内には手水石、大きな楠が2本ある。東海49薬師霊場第31番札所。
山崎橋
下り坂が終わりしばらく行くと山崎川を昭和39年竣工の山崎橋で渡る。右には昭和53年竣工の歩行者専用の山崎橋人道橋もある。手前の山崎の長坂は江戸時代には山崎の急坂と呼ばれもっと急な坂だった。坂には立場茶屋があったが今は住宅と商店が並ぶ。橋の手前右の菓子屋吾妻屋(呼続1-2-40)前には側面に「北 あつた」「南 よびつぎ」とある「東海道」石柱がある。その横には「山崎橋」と刻まれた風化した古い親柱もある。山崎橋は江戸時代は長さ13間(13.6m)幅3間(5.5m)の土橋だった。山崎川は千種区猫ケ洞付近が源流で江戸時代から昭和初期まで船着場として栄えた。
{右・寄}「妙音院」道標
山崎橋人道橋で川を渡った右にある河岸どんぐり広場の隅にある。古い風化した道標で「妙音院」「師長」などの文字が見える。治承3年(1179)平清盛が朝廷を占拠し太政大臣・藤原師長は都を追放されここより少し北西の現在の土市町に移り住んだ。師長は琵琶の名手でも知られ出家し妙音院と名乗り後に都に帰った。住居跡は現在は嶋川稲荷となっており「藤原師長謫居跡」石柱がある。付近には妙音通や師長橋などの地名も残る。道標の横には明治21年(1888)竣工、明治38年修繕の銘がある山崎橋の親柱もある。広場には他にベンチや鉄棒など。橋を渡ると瑞穂区となり東海道は左折して川沿いを進む。川沿いの1段高い所には社殿が小さな祠2つの神社があり手水石、灯籠、狛犬もある。
{右}「東海道」石柱
少し先の交差点を渡ると東海道は県道222号線となりしばらく道なりに進んで行くとブラザー工業瑞穂工場(瑞穂区河岸1-1-1)前にある。南区より低い石柱で文字は「東海道」のみ。向かいは名四国道事務所(瑞穂区神穂町5-3)など国土交通省の施設がある。やがて正面に名古屋高速3号大高線の高架が見えてくる。高架下の松田橋交差点は歩道がなく直進する東海道は分断される。
{左・寄}東ノ宮神社  瑞穂区神穂町1
松田橋交差点に出たら左折しパチンコ店LUCKY PLAZA堀田店(神穂町1-22)を過ぎたら左折すると左。祭神は熱田大神。相殿に天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命。境内社は多賀社、秋葉社、津島社など。境内には中央の小さな祠の両脇に小祠が1つずつある。境内右に明治元年(1868)明治天皇休憩を記念し建立した大正2年(1913)徳川義親揮毫の大きな「明治天皇覧穫之所」石柱、大正7年徳川義親題字、阪本サソ之助撰文、大島徳書の「熱田神宮御供田奉献記念碑」、昭和9年(1934)「明治天皇八町畷御野立所」石柱がある。
{右}松田橋の親柱 八丁畷公園
松田橋交差点は歩道橋で横断する。左から来ている国道1号が交差点で左折して続くため旧東海道も歩道橋を渡ると国道1号を行くことになる。渡り終えた右の歩道橋下のスペースは八丁畷公園となっており大正14年(1925)竣工の松田橋の親柱を用いて再現した橋のモニュメントと平成5年設置の「八丁畷の由来と松田橋の遺構」説明板がある。ここには東海道を横切るように井戸田村から浜新開への用水が流れ東海道には松田橋が架けられていた。付近の東海道は元は信長が熱田神宮(熱田区神宮1-1-1)から笠覆寺まで整備した道でもあり江戸時代には山崎橋から裁断橋まで八丁あることから八丁畷と呼ばれ田と田の間を通る寂しい松並木で追い剥も出没したという。
{右・寄}浜神明社 
松田橋交差点から次の角を右折し県道221号を渡ったダイソー名古屋堀田店(塩入町14-8)の右裏にある。付近は古くは呼続の浜の湊だったが天正15年(1587)頃から水田となり五穀豊穣のため天照大神を祀ったのが起こり。明治41年(1908)に北東にある津賀田神社(津賀田町3-4)に一度合祀されたが昭和15年(1940)再び分祀された。玉垣で囲まれた一段高い社殿に3つの小祠。左下には慶長年間(1596-1615)に伊勢神宮に斗帳(小さな幔幕)を寄進した斗帳寄進碑があり元は一対だったが片方は津賀田神社に残してある。右下には天正17年(1589)の市内最古の月待供養碑があり昭和63年指定市有形民俗文化財。境内右に西行腰掛石があり西行の信奉者が寄進したもの。境内左に安政3年(1856)灯籠
{右}パロマ本社 瑞穂区桃園町6-23
しばらく行くと内浜交差点手前にある。ガス機器で有名なパロマの本社。明治44年(1911)小林由三郎が小林瓦斯電気器具製作所として現在の中区古渡町で創業し昭和13年(1938)桃園町24番地に工場を建設した。パロマ(Paloma)はスペイン語で鳩という意味。その先には昭和24年(1949)中村一治がここで豊臣工業として創業した石油ストーブで有名なトヨトミ本社もある。昭和22年(1947)同じ桃園町内で星崎電機として創業した冷却機器メーカーホシザキ電機は現在豊明市に本社がある。内浜交差点から国道1号は東海道線と新堀川を渡るための高架になるため上りとなるが旧道はそのまま左に沿う道に分岐し平坦な道を進む。道の右側は緑地帯になっており途中には「内浜街園」石碑がある。
{左・寄}熱田橋
その先の東海道線を踏切で渡る手前左には石造地蔵立像や木像3体、小石仏が安置された地蔵堂があり灯籠や手水石もある。踏切を渡ると4叉路になっており喫茶しんげつ(浮島町2-13)を左に見るようにそのまま国道に沿う道を直進すると少し先で新堀川に突き当たる。右に平行する国道1号は高架(熱田伝馬橋)がそのまま新熱田橋となって川を渡っているが旧道は渡る手段がないため30mほど下流に架かる昭和57年竣工の小さな熱田橋を渡り迂回する。新堀川は江戸時代にはなく上流150mの東海道線をくぐったあたりから北西に流れていた精進川を明治43年(1910)流路変更して新堀川が出来た。川を渡ると熱田区に入る。古くは川を渡ると宮縄手と呼ばれ松並木だったが今は1本も残っていない。
{左}神明社(宮神明社・伝馬神明社) 熱田区伝馬3-3-7
新堀川を渡った左にある。永禄2年(1559)創建。祭神は天照大神で天道社とも言い境内右に昭和50年建立の「天道社」と刻まれた石碑があり社務所には「天道社社務所」とある。以前は境内にあった文禄5年(1596)日待供養碑は現在は神体として社殿の下に埋められている。境内右に明治21年(1888)建立の「右 知多郡新道」、その手前に「左 江戸道」と刻まれた2基の道標があり伝馬町一里塚付近の知多郡新道分岐点から移されたもの。社殿は玉垣で囲まれた一段上に大小2つの祠がある。その右前の手水石は名古屋城築城時の石垣用の石が運ぶ途中で落ちたものと伝わり穴を開けた跡がある。神社名柱、鳥居、社殿前の灯籠は大正3年(1914)。入って左に昭和33年建立の創建400年祭記念碑。
{左}伝馬町一里塚跡(89)
少し先で名鉄常滑線の高架をくぐり左折する。本来は高架手前を左折し現在駐車場となっている高架下を通り抜けるのが東海道。ここは曲尺手になっておりその先の突き当りを右折する。右折する手前左には一里塚を模したような一本木が植えられた緑地帯がある。「水と緑と歴史のまち 宮地区」と題した地図付き説明板もあり現在地が一里塚と記載されている。実際の一里塚は曲尺手の手前にあった。緑地の周りには木目調の車止めがあり「東海道」の文字も刻まれこの先の東海道にもいくつかある。常滑線は知多半島の西側を走り中部国際空港連絡鉄道に乗り入れ中部国際空港へも通じている。
宮宿   本陣2脇本陣1旅籠248家数2924人口10342[天保14年(1843)]
宮とは熱田神宮のことで熱田宿とも言う。神社の門前町であり名古屋城城下町への表玄関でもあり尾張藩では熱田奉行所を置いていた。七里の渡し舟着場があり渡しを迂回する脇街道の佐屋街道、中山道垂井宿へ通じる美濃路への分岐点でもある。旅籠数は東海道最多で飯盛女も数百人居り宿内人口も1万人を越えていた。中山道と共通の大津宿を除けば東海道中最大規模を誇る賑わいだったが鉄道が出来て以降は名古屋駅前が中心となり寂れ町並は昭和20年の空襲や昭和34年の伊勢湾台風で被災した。熱田には「犬も歩けば寺に当たる」と言われるほど寺が多く熱田百ヶ寺とも言われる。
{左}姥堂
少し先にある2階建コンクリート建物。延文3年(1358)法順上人が亀井山圓福寺[時宗](神戸町301)の巌阿上人に帰依し末寺としてここに創建した。本尊だった高さ8尺(242cm)の姥座像は昔から安産、子育て、家内安全を成就するとされ「おんばこさん」と呼ばれて親しまれその大きさから江戸時代には奈良の大仏を婿にとると里謡にも歌われたが空襲で堂ごと焼失した。現在は平成5年に焼失前の写真を元に4尺(121cm)の大きさで復元したものを本尊として2階に安置している。衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれているため元は神宮にあったものと伝えられ両手に童顔の御像を捧持していることなどから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかという説もあった。容姿から奪衣婆とする説もある。
{左}裁断橋(さんだ橋)跡
姥堂の1階に3分の1縮尺で橋が再現されており左に昭和6年(1931)「裁断橋址」碑、説明板、地蔵、「旧裁断橋桁石」と立札がある横長の石がある。姥堂の手前に流れていた精進川に架かっていた橋で江戸時代は宿の入口になっていた。罪を犯した熱田神宮の社人がこの場所で裁断されたのが名の由来とされる。天正18年(1590)堀尾吉晴の長男で18歳の金助は小田原攻めに出兵したが病死し菩提を弔うため母が出陣の見送りをしたこの橋を架替え33回忌に再び架替えを志したが没したため養子が元和8年(1622)に完成させた。擬宝珠には母が子を思う銘文が彫られ旅人に感銘を与え有名になった。昭和48年市指定文化財の擬宝珠平成4年から名古屋市博物館に保管されておりここには複製がある。
{左}都々逸(どどいつ)発祥之地
姥堂の右階段の奥に昭和38年建立の碑がある。前に灯籠、右の壁には姥堂と裁断橋の説明板もある。都々逸は主に男女相愛の情を雅言を用いず口語で作った七・七・七・五の二十六文字からなる流行俗謡。寛政12年(1800)頃この地に鶏飯にしじみ汁を売る鶏飯屋という茶店があり茶店の女中お仲とお亀が面白い歌を唄って客をもてなしたのが始まり。関東の潮来節に似せた神戸節(ごうどぶし)を原型とし歌の終わりの囃子ことば「どいつじゃ」「どいつじゃ」が熱田らしい訛りによって「ドドイツ・ドイドイ」と変わり「どどいつ」と呼ばれるようになった。宮宿で遊んだ旅人たちによって江戸に伝わりそれから30余年のうちに全国へ広がっていった。
{左・寄}徳川家康幽閉地
次の十字路を左折し2つ目の十字路を右折した左側の白いブロック塀の上に説明板がある。代々加藤図書助を名乗る熱田の豪商・加藤家本家(東加藤家)の屋敷跡。家康は天文16年(1547)6歳の時に今川義元へ人質に出される途中立ち寄った田原城の城主・戸田康光の裏切により敵対する織田信秀(信長の父)の元に送られ加藤図書助順盛に預けられてここに幽閉された。後に幼少の信長が城主をつとめる那古屋城内に送られ天文18年(1549)信秀の側室の子・信広が今川に捕えられたため人質交換で家康が駿府に送られた。屋敷の建物は空襲で焼け現在は民家の塀の上に説明板があるだけ。順盛の次男の弥三郎は信長の小姓衆の1人だったが後に家康に仕え三方ヶ原の戦いで討死している。
{左}鈴之御前社(れいのみまえしゃ)
少し先。祭神は天鈿女命で熱田神宮の末社。昔は姥堂の向かい付近にあり戦後に現在地に移転した。東海道を通って神宮に参拝する者はまずこの神社で身を清め鈴の御祓いを受ける慣習になっており「鈴の宮(れいのみや)」とも言われた。毎年7月31日には夏越しの祓(なごしのはらい)と呼ばれる例祭があり参拝者らが茅輪くぐりをして夏バテ防止を願う。鳥居は木製。境内右に小祠、その左に熱田神宮の周囲にあった8つの鳥居 「八橿の鳥居」(下馬鳥居、中鳥居、東鳥居、西鳥居、浜鳥居、築出鳥居、二鳥居、一鳥居)の1つである築出鳥居の根元の一部がある。築出鳥居は裁断橋の東にあったもので人々はこの鳥居をくぐり宮宿に出入りした。
分断された東海道
少し先で県道225号線(大津通)と交差する。手前左には標示はないが江戸時代には白本陣があった。宮宿には森田八郎衛門の白本陣(東本陣)と南部新五左衛門の赤本陣(西本陣)の2軒の本陣があり天保年間(1830-43)の白本陣は178坪(558平方m)だった。交差点には横断歩道がなく中央分離帯があって渡れないため右50m先の伝馬町交差点で迂回する。渡ると「伝馬町」の大きなアーチがあり「旧東海道」とも書かれている。すぐ先左には七里の渡し(5個650円)有松絞(1個110円)あつたの杜(1個120円)などの史跡銘菓を売る昭和24年(1949)創業の亀屋芳広本店(伝馬1-4-7)がある。熱田神宮の二十五丁橋をモデルにした最中(1個160円)は皮と餡が別々の小袋に分けられており自分で挟んで食べる。
{左}三叉の道標
しばらく行くとT字路に突き当り左の民家の片隅に寛政2年(1790)建立の風化した古い道標と説明立札がある。この道標は建立時から同じ位置にあり「北 さやつしま」「同 みのち」「東 江戸かいとう」「北 なこやきそ道」「南 京いせ七里の渡し」「是より北あつた御本社貮丁」などと刻まれている。向かいのT字路右角には宝暦8年(1758)建立のほぼ同内容の別の道標もあったが戦災と風化でかなり破損しており少し手前の民家前に移されている。東海道はこのT字路を左折し七里の渡し舟着場へ向かったが欠航時や船旅に弱い人々は右折し美濃路へ入り途中で佐屋街道に分岐して木曽川左岸の佐屋宿から「三里の渡し」で桑名宿に行くかそのまま美濃路を進み中山道の垂井宿に出て京に向かった。
{右}ほうろく地蔵
T字路の突き当たりにある。三河国重原村(現:知立市)の野原に倒れていた地蔵を焙烙(ほうろく)売りが天秤の荷物の片方の重石として運んできて帰りに海辺の葦原に捨てて行ったのを地元民が安置したのが起こりと伝わる。安置しようとした時に動かないので下を掘ってみると台座の角石が見つかり一緒に安置したと言う。昭和40年に現在地に移され堂が建立された。現在の本尊は最初に安置した地元民の6代後の子孫が寄進したもの。天保12年(1841)の尾張名所図会にはこの地には源太夫社(上知我麻神社)が描かれており右には高札場もあった。社は戦災で焼け昭和24年(1949)都市計画整備で熱田神宮の境内に再建された。焙烙とは食物を炒ったり蒸焼きにするのに使う素焼の平たい土鍋のこと。
{右・寄}赤本陣跡
左折していくと国道247号と交差するが直接渡れないため左の宮の渡し歩道橋で迂回する。渡ってすぐ東海道から右に分岐し須賀商店街に少し入った左にあるあつた蓬莱軒駐車場に説明立札がある。南部新五左衛門の赤本陣(西本陣)跡で戦災で遺構はない。南部家は南部光行を始祖とし甲斐、信州から移り伊勢・富田城主となった家系。信長の伊勢侵攻で落城し子孫は離散したが江戸初期に伊勢国菰野藩に仕えていた新左衛門の弟・新五左衛門が熱田に移り本陣を始めた。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には建坪236坪(780平方m)とあり名古屋市博物館所蔵の南部家資料では間口16間(29m)奥行21間(38m)。赤本陣の南には熱田奉行所(陣屋)があった。脇本陣は七里の渡し舟着場手前にあった
{右}あつた蓬莱軒  神戸町503
宮の渡し歩道橋を渡ってすぐ先。吉田(豊橋)の出身という鈴木家がここに越して来て遊廓だったという一軒家を買い取って明治6年(1873)料亭を始めた。店名は海に近く風光明媚な熱田の別名である蓬莱島や蓬莱が由来。明治20年(1887)頃2代目甚三郎の時にひつまぶしを考案しひつまぶしの発祥の店とされる。昭和62年には「ひつまぶし」の登録商標を取得した。食べ方は櫃に入った御飯と刻んだ鰻蒲焼を4分割し茶碗1杯目はそのまま、2杯目は薬味を乗せて、3杯目は出汁をかけて茶漬風に、4杯目は気に入った食べ方で食べる。ひつまぶし2730円(税込・薬味、出汁、吸い物、香の物付)。11:30-14:00、16:30-20:30月休。熱田神宮前に神宮店、松坂屋名古屋店内に松坂屋店、松坂屋地下店もある。
{右}逢寿山 宝勝院 [西山浄土宗] 神戸町508
すぐ先にある。本尊の木造阿弥陀如来立像は昭和58年指定国重要文化財で昭和27年近くの高仙寺を合併した際に移されたもので市内を巡る阿弥陀如来48願所第46番。胎内から菩薩などを木版刷りした摺仏や写経などが多数発見され写経の一部に僧・永厳が貞永元年(1232)仏道成就を願って像を造立したとある。江戸時代初期に熱田湊常夜燈を管理していた亀腹山聖徳寺(大瀬子町702)の後を継ぎ承応3年(1654)から明治24年(1891)まで管理した。寺の建物はモダンなコンクリート建築。市中心部の寺には戦災後の再建が多くマンションのような建物もあり市政策により墓地は東山の平和公園(千種区、名東区)に集めているため墓地のない寺が多い。建物の左には宝玉烏枢沙摩明王堂がある。
{右・寄}西浜御殿跡 神戸町802
次の十字路を右折し少し先左の白鳥消防団詰所前に説明板がある。尾張藩が他の大名、公家、幕府使節を接待する施設として造営した東西2つの御殿の1つ。承応3年(1654)2代藩主光友が造営したもので東西65m南北59mだった。正殿は安政年間(1854-59)に売却され成岩常楽寺(半田市東郷町2-54)に移され、残りの建物も明治6年(1873)に売却された。門は現在春日井市中央公民館(柏原町1-97-1)にある。向かいには内田町神社の小祠がある。東浜御殿は寛永元年(1624)初代藩主義直が造営し東海道を隔てた向かい側の海岸を埋立てた出島にあった。隅に櫓があって前面の海が寝覚めの里という景勝地だったため寝覚楼と呼ばれ広重の隷書版東海道にも描かれいる。
{左}宮の渡し公園
まっすぐに進むと新堀川に突き当たり東海道は右折するが道路と川との間が公園となっている。江戸時代には右折してすぐ左折したところに熱田神宮の周囲にあった8つの鳥居 「八橿の鳥居」(下馬鳥居、中鳥居、東鳥居、西鳥居、浜鳥居、築出鳥居、二鳥居、一鳥居)の1つである浜鳥居がありその先が海岸(船着場)になっていた。鳥居の西には船番所、船会所もあった。公園は昭和58年に整備され園内には時の鐘熱田湊常夜燈七里の渡し舟着場、四阿、東山ガーデンの遊覧船、屋形船の発着場がある。時の鐘に近い入口には土塀の裏に「七里の渡し舟着場跡」説明板があり右側は広重の隷書版東海道が描かれている。さらに先の冠木門がある入口近くには森高雅の尾張名所図会の船着場の絵もある。
{右}丹羽家住宅
公園の時の鐘に近い入口の斜め向かいにある。前に説明立札もある。木造2階建切妻造・桟瓦葺平入りで正面には唐破風付玄関がある。昭和59年市指定文化財。丹羽家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠で屋号は伊勢久と称しており古くは西国屋とも言っていた。西国各藩の名のある提灯箱などが残されている。屋根上にあった卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみが残る。天保12年(1841)森高雅の尾張名所図会の船着場の絵には丹羽家と推定される破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。
{右・寄}熱田荘  熱田区神戸町914
丹羽家住宅の数軒先にある。前に説明立札もある。木造2階建切妻造・桟瓦葺平入りの建物。昭和60年市指定文化財。明治29年(1896)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭で戦争中に三菱重工業の社員寮となり以降も同社が所有していたが現在は売却されグループホームあつた荘として利用されている。グループホームとは認知症高齢者などの要介護者が専門スタッフ等の援助を受けながら地域に溶け込み共同生活する住居(福祉施設)のこと。敷地は217坪(717平方m)。正面の大戸と出格子は失われているが構造材はすべて残っている。
{左}時の鐘
宮の渡し公園内にある。慶安4年(1651)慶安の変が起こりその影響で七里の渡しの渡船は朝6時から夕方6時までに制限された。時間を広く伝えるよう延宝4年(1676)尾張藩2代藩主徳川光友の命により宝亀山蔵福寺[浄土宗西山禅林寺派](神宮2-11-12)に渡船時刻を知らせる鐘が設置された。昭和20年の戦災で鐘楼は焼失したが梵鐘は損傷を免れ今も寺に保管されている。昭和58年公園整備時に鐘楼と鐘をこの地に復刻再現し今でも午前8時と正午、午後6時の1日3回時を知らせている。
{左}熱田湊常夜燈
その横にある。寛永2年(1625)犬山城主で尾張藩家老の成瀬正房(正虎)が父・正成の遺命で亀腹山聖徳寺[浄土宗西山禅林寺派](大瀬子町702)隣地に建立し聖徳寺が管理した。風害で破損したため承応3年(1654)に現在地に再建し明治24年(1891)まで宝勝院が管理した。灯台としても使用され日本初の灯台とも言われる。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失し同年に成瀬正典によって再建されたが再び荒廃し昭和30年にほぼ原位置に復元された。横には「七里の渡し」石柱もある。
七里の渡し舟着場跡 宮宿側
「七里の渡し」石柱の先に舟着場が再現されている。新堀川が堀川に合流する地点で東海道はここから船で堀川を下り海に出て伊勢湾を渡って桑名宿へ向かった。陸路が水害が多い木曽3川(木曽川、長良川、揖斐川)を通るため慶長6年(1601)東海道制定時から海路が正式な東海道と定められており船に弱い人々や欠航時は三叉の道標から北上する陸路を進んだ。宝永4年(1707)の船賃は45文、文化年間(1804-17)は54文。所要時間は2-7時間で潮の干満や天候により5コースを使い分けた。3-5人乗りの小船で沖まで行き40-50人乗りの1枚帆の和船(本船)に乗り換えており天保14年(1843)の記録では本船は75隻、小船42隻があったと言う。現在は渡船もなく地形も変わっており海路を辿るのは難しい。