東海道ルートガイド
知立宿

{左}来迎寺公園
少し先に小山のような公園がある。日清戦争に向けて明治23年(1890)猿渡川で行われた陸海軍大演習を明治天皇、内閣総理大臣山縣有朋、海軍大臣西郷従道、文部大臣榎本武揚、司法大臣山田顕義など政府重鎮及び各国の公使や武官が観閲した地。公園中央には戊辰戦争の東征大総督で日清戦争では陸海軍の総司令官となった有栖川宮熾仁親王の揮毫による明治27年建立の大きな「錦旗千載駐餘光」石碑と説明石碑がある。この演習時に明治天皇は当時この近くにあった来迎寺小学校で昼食を食べた。休憩には知立古城址の明治用水事務所が使用され建物は昭和9年(1934)知立神社に移築され養正館となった。園内には他に「玉乃井」石柱がある井戸跡やすべり台などの遊具もある。
{右}御鍬神社 知立市来迎寺町西中畑16
少し先向かいに日清、日露戦争の従軍碑などが2つあり少し行くと神社入口がある。江戸時代に来迎寺、牛田、八橋、駒場、花園、里、今、大浜茶屋の八ヶ村が合同で伊勢より御鍬神を勧請し各村順番で御鍬祭を行い豊作を祈願していたが明和年間(1764-71)来迎寺村を最後に持ち回りが終わる事になったため社殿を造営し来迎寺村の氏神としたのが起こり。祭神は豊受比賣命。拝殿は明治6年(1873)築。本殿は大正3年(1914)神明造を忠実に守り伊勢神宮外宮の1/2の大きさで造営された。入口に木製鳥居と昭和57年神社名石柱。社殿左に明治6年に近隣から移された山神社、弁天社、秋葉社を祀る境内社があり前には元文元年(1736)寛政9年(1797)明治36年(1903)灯籠や明治35年鳥居がある。
{右}無量寿寺道標
少し先の来迎寺町交差点にある。元禄9年(1696)建立で渡る前と渡った後に2つあり手前には説明板もある。渡る前のには「八橋山無量寿寺」「天下和順」「従是四丁半北 八橋 業平作観音有」とある。渡った後のには「八橋山無量寿寺」「日月清明」とあり距離などは草書気味に刻まれている。無量寿寺[臨済宗妙心寺派](八橋町寺内61)は右折し650m先正面。慶雲元年(704)創建の慶雲寺が起こりで弘仁12年(821)現在地に移され無量寿寺となり荒廃後の文化9年(1812)方巌売茶により再建。本尊は聖観音で在原業平の作と伝わる。八橋は伊勢物語の東下りの段で業平がかきつばたの折句を詠んだ地で鎌倉街道が通り他にも在原寺、業平塚、落田中の一本松、業平池など業平ゆかりの地が多くある。
来迎寺一里塚(84)
しばらく行くとある。両側に塚が残っており左は道路沿いにあるが右は来迎寺町公民館(来迎寺町古城24-1)の裏にある。左塚には愛知県知事桑原幹根揮毫の昭和44年建立「来迎寺一里塚」石碑と説明板、来迎寺町公民館バス停、右塚には説明立札がある。昭和36年県指定文化財。江戸時代は両側とも松が植えられており現在は昭和34年の伊勢湾台風後に植えられた松がある。左塚は直径11m高さ3mで一部削られており右塚は東西10m南北9m高さ3.5m。
{右・寄}古城山 源心寺 [真宗大谷派] 来迎寺町古城28
すぐ先を右折していくと左にある。明治18年(1885)竹本忠吉らが説教所として建立した。真宗大谷派の寺院としては市内一の大寺の久平山浄教寺(八橋町神戸23-1)の末寺。本尊は阿弥陀如来。来迎寺教会とも呼ばれる。
{右・寄}紫雲山 来迎寺 [臨済宗妙心寺派] 来迎寺町古城31
源心寺の前の道をさらに進むと正面。創建時期は不明で来迎法印が創建したと言う。入って左に地蔵の祠。境内右に「今崎城址」碑と説明板がある。別名来迎寺城と言い桶狭間の頃に織田勢に加わり今川勢により永禄3年(1560)落城した。城の守護を受けていた寺はその後に衰退したが江戸時代に入り再興された。本堂左奥に土甕の中に360個余の経石が納められているという経塚があり明治末期に安城市内から移されたもの。寺の東の畑の中には今崎城落城時に戦死した織田勢の武士を埋葬したと伝わる古城塚(さむらい塚)がある。市指定文化財。塚上には「さむらい塚」碑もある。塚付近からは中国の唐・宋代の古銭が明治中期に30余貫(120kg)昭和元年(1926)に36貫(140kg)出土した。
{左・寄}吉田忠左衛門夫妻の墓
少し先に路面が水色に塗られた十字路があり左折していくと左の墓地内にある。この道をさらに進んだ先左にある泉蔵寺(牛田町宮本11)の管理で他にも20基ほどの墓石が並ぶ。夫妻の墓はコンクリート祠の中で隣には説明立札や昭和31年建立の顕彰碑もある。市指定文化財。吉田忠左衛門(兼亮)は赤穂浪士47士の1人で元禄16年(1703)切腹。妻りんは娘さんの婿の姫路藩士伊藤十郎太夫治興家に身を寄せていたが藩主本多家は越後村上藩を経て宝永7年(1710)三河刈谷藩に転封。りんも三河に来たが半年後に没し持っていた夫の形見の歯とともに葬られた。碧海郡志には妻りんは楞厳寺[曹洞宗](刈谷市天王町6-7)に住みそこで没し東海道沿いの牛田に葬られたとある。楞厳寺には娘さんの墓もある。
{左・寄}牽馬山東漸院 西教寺 [真宗大谷派] 牛田町西屋敷114
しばらく行くと杉田屋呉服店(牛田町東前31)がある変形十字路に案内標示があり左折すると右にある。元は大津市の西教寺の別院であったが寛正2年(1461)太子山上宮寺(岡崎市上佐々木町梅ノ木36)の末寺となり改宗した。文明16年(1484)三河巡錫中の本願寺8世蓮如上人に教化し得度した祐可(三井四郎左衛門宣好)が後に中興した。本尊は阿弥陀如来。入って左に平成元年修繕した鐘楼があり昭和22年鋳造の梵鐘がある。入って右には大正4年(1915)手水石。本堂前には昭和62年灯籠。本堂左前には平成2年改修時に降ろした享和3年(1803)本堂再建時から使用されていた鬼瓦が置かれている。室町時代と伝わる六字名号碑と十字名号碑を所蔵。江戸時代には大名の休憩所になることもあった。
{左}見返弘法大師への道標
しばらく行くと左に小道が分岐する角にある。「御室 御所 御直末」「重原村遍照院」などあるがブロック塀で1面は見えず下の方は埋まっている。見返弘法大師は南西1.5kmほど先にある弘法山遍照院[真言宗御室派](弘法町弘法山19)に安置されている弘法大師座像のことで弘仁年間(810-23)に知立に逗留した弘法大師が地元の要望により赤目樫の木から刻んだ3つの自像のうちの1つ。他の2つは大仙山西福寺(刈谷市一ツ木町大師27)の見送弘法大師と天目山密蔵院(刈谷市一里山町南弘法24)の流涕弘法大師で三河三弘法と呼ばれる。「御室 御所」とは真言宗御室派の総本山の仁和寺のこと。左折して少し先右には土台プレートに「1994.8.吉日」とある秋葉神社の小祠、少し先左には地蔵の祠もある。
{右}無量寿寺道標
少し進むと衣浦豊田道路の高架の手前にある。来迎寺町交差点の無量寿寺道標と同様だが元禄12年(1699)建立で「八橋山無量寿寺」「天下和順」「従是五丁北 八橋 業平作観音在」とある。東海道名所図会にも「ちりふより八丁ばかり東、牛田村の松原に道しるべあり」と記されている。道標横には暗渠の西井筋橋があり暗渠下には明治用水の西井筋が流れている。明治14年(1881)に完成した西井筋は現在は地下に埋められた導水菅を通っており直径150cmで農地灌漑に必要な水を送っている。橋を過ぎたすぐ先右には用水の地図付説明板もある。東海道は衣浦豊田道路の高架下の新田北交差点を渡るが横断歩道がないため東海道並木歩道橋で渡る。
知立松並木
東海道松並木歩道橋を渡ると並木八丁と呼ばれた東海道知立松並木が始まる。戦前までは老樹が昼なお暗いほど繁り牛田町から山町まで1km続いていたと伝わるが昭和34年伊勢湾台風により6〜7割が折れたり吹き倒され住宅化もあって450mほどに縮小した。昭和45年幼松158本を補植し松喰虫防除など整備保全を強化し今では170本が残る。昭和44年市指定文化財。松並木入口左に「旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒」「江戸日本橋 八拾四里拾七町」「京都三条 四拾壱里」と刻まれた平成7年建立の石柱。その少し先左には「東海道松並木」と刻まれた竜北中学校(山屋敷町東山2-2)への方向指示も兼ねた石柱がありその先には平成3年建立の童顔の双体道祖神もある。
{左}明治用水緑道
左の松並木の外側の歩道は明治用水の西井筋の暗渠でもあり緑道として整備されている。少し先には用水と松並木の説明が書かれた説明板や四阿、歩道に沿って鯉が泳ぐ池などもある。松並木外側の道は江戸時代から側道としてあり馬市の際には馬の繋ぎ場にもなっていた。明治用水は水源を豊田市水源町の矢作川から取り本流、中井筋、東井筋、西井筋からなる幹線88kmに支線が342kmあり灌漑面積は7千ha。昭和46年から暗渠化が進められ歩道や自転車道になっているが現在も安城市を中心に岡崎、豊田、知立、刈谷、高浜、碧南、西尾の8つの市に流れ農業・工業用水として利用されている。福島県の安積疏水、栃木県の那須疏水とともに「明治時代の三大用水」としても知られる。
{左}小林一茶句碑
少し行くと平成2年建立の句碑「はつ雪や ちりうの市の 銭叺(かます)」があり横の松の木には手書き木製説明札もかけられている。文化10年(1813)一茶51歳の時に池鯉鮒の木綿市の繁昌を詠んだもの。池鯉鮒は馬市とともに三河木綿の市も有名で元禄年間(1688-1703)頃まで盛んに行われていた。三河木綿は厚地の白木綿で丈夫なことから印半纏、のれん、足袋底地などに使われ江戸では「三白木綿」「池付白」と呼ばれ大阪の泉州木綿(和泉木綿)と並び有名だった。芭蕉も元禄5年(1692)江戸深川で「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」と詠んでおり知立神社に句碑がある。三河木綿は今も蒲郡市を中心に受け継がれている。
{左}馬の彫像「やすらぎ」
しばらく左歩道を進むと喫茶店ミミ(山町御林1-83)前で明治用水緑道は左へ分岐していき分岐点には「やすらぎ」と題した平成10年建立の馬の彫像がある。隣には馬市を描いた広重の池鯉鮒の絵や四阿もある。三河は昔から良馬の産地で毎年4月25日から5月5日(陰暦)には知立で馬市が開かれ育った馬がこの辺りから慈眼寺にかけての引馬野に集まった。4〜500頭の馬が松に繋がれ馬の値を決める所を談合松と言った。明治になり市は慈眼寺境内に移り昭和初期までには馬から牛に代わったものの鯖市も兼ねて賑わったが昭和18年を最後に幕を閉じた。分岐点左には明治用水と馬市の跡と山屋敷用水開削碑の説明板もある。大正5年(1916)年建立の山屋敷用水開削碑は少し先の向かいにある。
{左}万葉歌碑&馬市之趾碑
少し行くと石碑2つと説明碑がある。車道側には知立松並木の説明板もある。昭和28年建立の万葉歌碑には万葉集巻1-57に収められている「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能知師爾」が刻まれている。大宝2年(701)持統天皇三河行幸の際に随行した長忌寸奥麻呂の歌でこの付近を引馬野と呼んだことから浜松市・宝飯郡御津町に並ぶ持統天皇行幸の推定地として建立したもの。裏の撰文・書は当時の知立町長加藤玉堂。昭和40年建立の「池鯉鮒宿 馬市之趾」碑の裏面は麦人の句「杜若 名に八ツ橋の なつかしく」「蝶乙鳥 馬市たてし あととめて」が刻まれている。星野麦人は疎開で昭和20年から6年間を知立で過ごしていた近代洋画家・和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。
御林交差点
少し先の御林交差点で松並木が終わる。松並木右側の終了点には地蔵の祠がある。交差点では国道1号と合流しその先は3叉路となるが東海道は一番左の細い道を行く。横断は右の結婚式場ヴェルサイユガーデン知立(山町茶碓山5-4)前にある地下道を使う。地下道から出た左には「東海道地鯉鮒宿」石柱があり地鯉鮒宿の入口となる。しばらく行くと名鉄三河線の線路を渡り商店街に入ってすぐ先で左後ろから県道285号が合流し少しの間は東海道も県道となる。ここの合流点左にも地蔵の祠がある。
池鯉鮒宿(知立宿)   本陣1脇本陣1旅籠35家数292人口1620[天保14年(1843)]
古くは知立と書き語源は「茅立」で茅の育つ湿地帯を意味する。御手洗池の鯉と鮒から江戸時代は池鯉鮒と書いたが明治2年(1869)再び知立が正式名となった。知立神社神主の館である知立古城があったため古くからの城下町的な村落で鎌倉街道の要衡としても栄え開かれていた木綿市や馬市は江戸時代には特に盛んだった。1.37kmの細長い宿で中心部は昔の面影を残していない。昭和30年代に知立団地が出来て以降、名古屋のベッドタウンとなっている。知立市歴史民俗資料館(南新地2-3-3)にジオラマ、旅籠の再現など宿場関係や浮世絵、古書の展示がある。月曜第4金曜休、9時-17時、無料。
{右・寄}福聚山 慈眼寺 [曹洞宗] 山町桜馬場4
少し先左の丸西商店(山町山13-1)がある角を右折し山町交差点を渡った先。鎌倉時代に馬の供養や馬市の守り本尊として馬頭観世音菩薩を安置した観音堂が起こりで慶安3年(1650)楞厳寺[曹洞宗](刈谷市天王町6-7)の梅庵門が寺を建立し明暦4年(1658)高僧愚堂東寔が寺名を命名した。本尊は阿弥陀如来立像で鎌倉時代作とされ昭和40年市指定文化財。境内入口右に「馬市の跡」説明板と大正3年(1914)「馬頭観世音菩薩及家畜市場」石柱、その後ろに地蔵立像の祠、その右奥に刈谷馬車合資会社が建立した「馬之碑」境内左には薬師堂、石仏4体が安置された祠。社殿左の観音堂は三河西国33観音第28番札所。境内には他に彩色弘法大師像の祠、地蔵座像の祠、新山稲荷神社もある。
{右・寄}御手洗池跡
寺の裏側から横の道を横断した小さな公園に碑がある。池鯉鮒の名前の由来となった池の跡で市指定文化財。知立神社の神輿を洗ったり日照り続きの時には神社の神宝の木製蛙をここに移して幣を奉納し降雨を祈願するなど神事に使われる池であり殺生禁断だったため鯉や鮒が多くおり地名を「池鯉鮒」と書くようになったと言われる。慈眼寺の裏一帯に広がり面積は10167坪(33600平方m)あったが明治28年(1895)に埋め立てられて農地となった。昭和43年建立の石碑表面は宮司神山尊愛の揮毫で裏には沢庵禅師の書が原寸大で刻まれている。公園にはブランコ、シーソー、ジャングルジム、砂場などの遊具がある。
{右}地鯉鮒宿問屋場之跡
しばらく進むと学生衣料店かどや(中山町中山60)手前左に明治41年(1908)常夜燈。少し先の中町交差点では3本の道が交差しており正面の道を進む。その先左の呉服店丸八(中町中32)前に「旧東海道五十三次 池鯉鮒」石柱と店には広重の絵などが飾ってあり少し先の食品館美松(中町中90-2)駐車場前の電話ボックス前に昭和47年「地鯉鮒宿問屋場之跡」石碑がある。天保14年(1843)の記録では問屋1人馬差2人肝煎1人馬呼出1人飛脚4人小使1人が詰めていた。安政4年(1857)築の切妻平屋建平入桟瓦葺で間口8間半(15m)敷地135坪玄関付の建物が昭和46年まで残っていたが取り壊された。問屋場横には嘉永年間(1848-54)の大きな常夜燈があったが現在は知立神社の大鳥居右の林の中にある。
{左}都築屋菓子舗  本町本41
その先の十字路を渡ったところにある。明治8年(1875)創業。建物は江戸時代に建てられたもので隣の本町郵便局(本町本43)とともに旅籠柳屋の敷地だった。明治になって柳屋が廃業し都築屋の初代が建物半分と土地を購入し菓子屋を創業した。看板に「慶仏事贈答用和菓子 池鯉鮒銘菓 都築屋美廣」とある。昔は酒饅頭「池鯉鮒饅頭」が有名だったが昭和34年伊勢湾台風で饅頭を作るための器具を損失し途絶えた。現在は落雁、羊羹、柏餅、栗きんとんなどや神社仏閣などから注文される御紋菓を製造販売している。9:00-19:30火休。少し先向かいには江戸時代には木綿屋脇本陣があり天保14年(1843)記録で建坪191坪(631平方m)玄関付門構無し。玄関の唐破風屋根は小松寺(西町本田76-1)に残る。
{左・寄}池鯉鮒宿本陣跡
都築屋の少し先、脇本陣斜め向かいが永田本陣跡にあたる。本陣跡碑は東海道の1本南を平行する国道419号沿いにあり次の変形十字路を左折し国道に出た左の貯水槽奥にある。宿開設時は本陣は峯惣右衛門家の杉屋本陣だったが没落したため寛文2年(1662)から永田清兵衛家の永田本陣になった。宝永11年(1705)火災後の一時期、分家と推定される永田十右衛門家がつとめた時代もあったが後に永田清兵衛が復帰し明治まで続いた。敷地面積3千坪(9917平方m)建坪305坪(1008平方m)と広大なもので建物は明治8年(1875)に取り壊された。碑の横には説明板があり昭和4年(1929)永田清三郎寄進の灯籠2基に挟まれ昭和3年陸軍大将一戸兵衛揮毫の「明治天皇行在所聖蹟」石碑もある。
{左}弘法道 石仏
少し行くとT字路に突き当たる。左には僧形浮彫の石仏があり光背には「左一番弘法道 右三番弘法道」と刻まれ知立三弘法の道標にもなっている。この先すぐの了運寺が二番弘法。T字路を右折するのが東海道で右折したすぐ左には新しい石柱「東海道 池鯉鮒宿」があり上部に赤い三角で鳴海の方向標示もされている。
{左・寄}亀岳山 宝蔵寺 [曹洞宗] 宝町刈谷道56
T字路を右折せずに左折し刈屋道交差点で国道419号を渡り少し先右。嘉祥3年(850)慈覚大師が創建し正徳5年(1715)江水春澄が中興開基。本尊は延命地蔵菩薩。境内左に石仏が80基ほど並ぶ長屋がありその手前に美濃国猪鼻城主加賀井重望(弥八郎)の墓と昭和28年建立の説明碑、説明板がある。慶長5年(1600)重望は池鯉鮒の杉屋で刈谷城主水野忠重や浜松城主堀尾吉晴と酒宴中に忠重を斬殺しその場で吉晴に斬られた。墓は岡崎城主田中吉政の建立で高さ45cmの宝篋印塔だったが戦時中に破損し相輪、塔身が無い。長屋の反対側には責任をとって切腹した忠重の家臣2人を供養した追腹塚があり宝町石亀から移されたもの。本堂左奥には「新四国八十八カ所」石柱、弘法大師像などもある。
{左}知立古城址(現:西町児童遊園) 西町西10
T字路を右折して少し先。入口に説明立札、東海道案内図、城周辺の古絵図がある。知立神社神主で豪族の永見氏の居館でもあり13代貞春は保元・平治の乱(1156-59)に従軍。29代貞英のときの永禄3年(1560)信長に攻められ落城した。城跡は天正9年(1581)頃に刈谷城主水野忠重が信長を接待するため御殿を建て江戸初期に子の勝成が増築して将軍や藩主の休息所としたが元禄12年(1699)大地震で倒壊。明治期には碧海郡役場や明治用水事務所などが置かれた。現在は児童公園となっており奥には大楠がある。園内には左に丸い石柱「知立古城址」、右に昭和28年「御殿址」碑、昭和15年「明治天皇御小休所阯」碑。入口右の石垣上には大正2年(1913)「明治天皇驛蹕址」銅柱と横に松がある。
{右}神前山浄林院 了運寺 [浄土宗鎮西派] 西町西84-1
すぐ先の突き当たりにある。知立神社の別当寺である神宮寺の一坊で天台宗だったが明応2年(1493)浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し寺名も改めた。本尊は阿弥陀如来。上に鐘楼がある山門前左には「タイ国渡来 釈迦如来像安置」の石柱、くぐって左に手水石、庚申像の祠がある。境内左には三十三観音が並び本堂前左には延命地蔵もある。本堂前には松と灯籠。明治6年(1873)知立小学校(中町花山1)の前身である第七番中学区第二十三番小学知立学校が庫裡に置かれた。江戸時代に描かれた法然上人絵伝を所蔵する。入口左の弘法堂前には「知立三弘法第二番札所」石柱。東海道は門前を左折し西町に入る。
{右}小松屋本家  西町西83
左折して了運寺弘法堂を過ぎるとある。かつては知立神社参道入口に店が並び繁盛し現在は市内に数軒残るのみという知立名物「あんまき」の元祖の店。明治22年(1889)当時25歳の当主・神谷為吉が考案しあんまき屋としての創業年をこの年としている。それ以前は小麦粉ダネを焼き2つに折り重ねただけの「二つ折り」という菓子を出す茶店だった。あんまきは白餡と黒餡の2種類で1本140円。小麦粉と少量のふくらし粉を加えて砂糖などで甘味をつけた生地を鉄板の上に流し手焼きで焼いて餡を乗せて一巻きする。店では釣り具や猟銃、火薬も売っており釣具店と銃砲店の顔もある。8:30-20:00火休。店の左前には「池鯉鮒大明神」「神主永井左京」と彫られた屋根のある弘化4年(1847)常夜燈がある。
{右}総持寺跡
道は下り坂になり国道155号を右の地下道(知立1号地下横断歩道)でくぐるが地下道の入口右に「総持寺跡大イチョウ」説明立札がある。この付近が総持寺の旧地にあたり右の脇道を奥に進んだ右に境内にあったイチョウが残る。樹齢200年以上の雌木で昭和40年市指定天然記念物。知立神社の別当寺である神宮寺が天文16年(1547)焼失したため一坊だった玉泉坊を元和2年(1616)再建し継承させ承応2年(1653)上野の東叡山寛永寺の末寺になり貞享3年(1686)総持寺と改称した。天保年間(1830-43)頃に住職神山亮円が開いた寺小屋は明治5年(1872)廃寺となるまで続いた。廃寺後、境内は民間の手に移り仏像は了運寺に保管されていたが大正15年(1926)西町新川に再建された。
{右}知立神社入口
地下道の先の緩い下り坂を行くと右の民家の角に明治24年(1891)「延喜式内知立神社」石柱がある。この付近には宿の西入口の土塁があった。角を右折し少し先の両側に安永7年(1778)「池鯉鮒大明神」常夜燈。その道をそのまま進むと正面が参河国二宮である知立神社となる。西三河一の名社で江戸時代以降は池鯉鮒大明神とも呼ばれた。日本武尊が東国平定に行く途中祈願を行った場所に帰りに建国の祖神四柱を祀ったのが起こり。創建時は現在地の東1kmの山町の北にあったが天文16年(1547)戸田宜光の兵火で焼失し南西2kmの上重原に移り再度焼失し天正元年(1573)に現在地に移った。嘉祥3年(850)慈覚大師が蝮に咬まれ当社に参拝し治ったと伝わり蝮蛇避けの御札が有名だった。
{右・寄}知立花菖蒲苑(知立公園) 土御前社
知立神社境内に入る手前左にある。入口に昭和54年「土御前社」石柱があり左折正面奥に社殿。参道両側が花菖蒲畑となっており入口左には説明板や昭和51年「知立花菖蒲苑」碑もある。花菖蒲は昭和30年、32年、35年の3回に渡り明治神宮から明治天皇並、昭憲皇太后御遺愛の品種約60種が下賜されたもので現在は3万株があり6月上旬が見頃で毎年花菖蒲祭が行なわれる。土御前社は吉備武彦命を祀り社殿右横には昭和50年建立の大きな明治天皇の歌碑「ありとある 人をつとへて 春ことに 花のうたけを ひらきてしかな」がある。鳥居と灯籠、手水石もある。園内には四阿、灯籠、「平成の門出」と題された平成元年建立の日時計もある。
{右・寄}知立神社 トネリコの木
公園と神社境内の間にある。西三河で最古木とされるサトトネリコの木で高さ6m枝張南北8.3m根周3.4m幹周1.95mで昭和57年指定市天然記念物。サトトリネコは日本原産種のトネリコで本州中部以北の山地に自生するモクセイ科の落葉樹。雌雄異株で4-5月頃に淡緑色の細花をつける。木材は堅く弾性があり建築、家具、漆器木地、野球のバットに用いられる。トネリコの樹皮は漢方薬では秦皮と称し神経痛、リウマチ、下痢などに効く。木の近くには知立の俳人井村祖風ら16名が寛政5年(1793)建立した芭蕉句碑があり詠まれて百年目を記念したもの。他に近くには二宮金次郎像、慶応2年(1866)「知立神社」石柱、知立古城址から移築した養正館(旧:明治用水事務所)、昭和31年養正館説明碑もある。
{右・寄}知立神社 西町神田12
祭神は鶿草葺不合尊、彦火火出見尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊。後に聖徳太子を合祀し相殿に青海首命を祀る。本殿は天保元年(1830)築の流造。社殿右には親母神社、弘化4年(1847)「金毘羅大権現」灯籠、天照皇大神など11神の合祀殿、小山天神社。境内右には神馬堂、秋葉神社、境内左にはさざれ石。境内中央に柵で囲われた市指定文化財の太鼓橋(全長6.6m幅2.4m水面高1.7m)があり享保17年(1732)建立で厚さ12cmの花崗岩の橋板19枚から成る。橋下の池には身代りとなり娘を救った片目の魚がいたと伝わる。狛犬は明治39年(1906)。正安3年(1301)神額、舞楽面、能面は県指定、獅子頭面他9点は市指定文化財。知立まつりの山車からくりと山車文楽は国重要無形民俗文化財。
{右・寄}知立神社 多宝塔
境内右にある。嘉祥3年(850)天台宗の僧・円仁(慈覚大師)が後に知立神社の別当寺となる神宮寺を創建した際に建立した塔で現存するのは永正6年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建したもの。明治40年(1907)国指定重要文化財。3間2層高さ10mで正面に桟唐戸を配し左右は連子窓で他は篏板張り。明治の神仏分離令では取壊しを逃れるため知立文庫と名を変え相輪を取り外し柿葺を瓦葺に替えた。塔内に祀られていた円仁作の愛染明王座像もこの時に移され現在は総持寺愛染堂にある。相輪と柿葺は大正9年(1920)元に戻された。塔左には戦前の「千人燈」常夜燈。神社正面入口の大鳥居を入って左には井村祖風句碑「行戻り 小川に暮る 小鴨かな」があり他にも従軍碑などの石碑が並ぶ。
{左}神路山不動院 総持寺 [天台寺門宗] 西町新川48
知立神社入口から少し先。旧:総持寺が廃寺後了運寺に預けられていた不動明王を本尊として大正初期に不動院が建立され大正15年(1926)寺として再建された。本尊の不動明王像は弘法大師作とされ流汗不動と呼ばれ三河三不動1番札所。竜宮門の山門入って左に不動明王石仏、座像石仏の祠、弘法大師像、観音堂、留翠微笑観音(石造立像)祠、一願出世不動と周りに23石仏、愛染堂(六角堂)。境内右に開山堂、微笑地蔵、水子地蔵、水掛け不動。本堂前右には白寿観音があり三河白寿観音霊場7番札所。本堂左に地蔵堂があり三河新四国88ヶ所霊場1番札所で堂内手前にはおもかる抱き地蔵、堂左には四国お砂踏霊場がある。敷地は家康側室・於万の方(長勝院)誕生地で入口に立札もある。
逢妻(あいづま)橋 (旧:池鯉鮒大橋)
道なりに左へカーブして行くと土手下の右に稲荷の祠がありそのまま左へ進むと逢妻橋の手前で広い自動車道に出て右折し逢妻川を渡る。橋は平成8年竣工で親柱は常夜燈の形をしており欄干には杜若や知立神社 多宝塔がデザインされている。川は500mほど上流で逢妻男川と逢妻女川が合流して逢妻川となっておりこれらの名は在原業平を慕って京から追ってきた杜若姫が業平に再会したことに由来すると言われ八橋山無量寿寺(八橋町寺内61)には杜若姫供養塔がある。昔話では幼馴染みで両想いだったが親の反対で離れ離れとなり悲しみのうちに没した地元の裕福な家の娘と小作人の男が流した涙が川となり交わったと伝わる。逢妻川を渡り下り坂を進むと逢妻町交差点で国道1号に合流する。
{左}刈谷一里塚(一ツ木一里塚)跡(85)
少し先左の活魚宇和海(西町妻向14-1)を過ぎると左側は知立市から刈谷市に入る。しばらく進むと「一里山歩道橋 刈谷市一里山町」と書かれた刈谷歩道橋の根元に平成14年建立の説明碑がある。左塚は一ツ木村に、右塚は泉田村にあり両側とも松が植えられていた。現在は何もないが明治18年(1885)の地籍図には両側とも記載されている。碑の説明文の下には付近の地図も付いている。この歩道橋を過ぎたら右側も刈谷市となる。東海道はこの先右に分岐するのでこの歩道橋か次の右にびっくりドンキー刈谷店(一里山町一里山21-3)がある一里山町新屋敷交差点の歩道橋で右に渡っておくと良い。
国道から分岐
一里山町新屋敷交差点の少し先右に「夢」と彫られた石碑がありその先左のアスカ株式会社第一配送センターの向かいで右に分岐する細道に入る。そのまま道なりに進み交差する道路を渡ったところの2叉路は左に行く。しばらく進むと再び国道1号に合流し東海道は国道1号と斜めに交差するように反対側の細道に入るが渡る手段がないので正面に見える「刈谷市 今岡町」とある今岡歩道橋で迂回する。
{右}十王堂 
細道に入りすぐ先にある民家風の建物。建物の左には銀色のアルミサッシの中に馬頭観世音など4体の石仏が安置されている。その先左には長屋門がある民家がありその先の十字路を左折した吹戸川に架かる平成6年竣工吹戸橋は昔は船渡しが行なわれ枝の渡しと呼ばれていた。この先は古い家が点在する。  
{左}今岡山 洞隣寺 [曹洞宗] 刈谷市今岡町日向14
しばらく行くとある。天正8年(1580)刈谷城主水野忠重が開基し清涼山曹源寺(豊明市栄町内山45)3世雪山受盛が開山。本尊は阿弥陀如来。安政3年(1856)混山祐峯が中興開山。入口左に大正2年(1913)「弘法大師御自作 子安観音尊霊場」石碑、寛政8年(1796)常夜燈、平成14年の寺の説明碑。境内は玉砂利が敷かれ松が点在し本堂右前には石像3体と手水石。本堂左には地蔵堂、秋葉堂、行者堂が並びその前には達磨像がある。愛知梅花33観音第6番札所。境内左奥の墓地奥には寛保2年(1742)帰国途中に今岡村付近で斬り合った豊前国中津藩士の渡辺友五郎と牟礼清五郎の墓がある。その右隣には恋の恨みから青白い炎と「めったいくやしい」の声が聞こえるという寺の下女の小さな墓もある。
{右}いもかわうどん(ひもかわうどん)発祥地
道が少し右にカーブすると少し先に木柱と平成14年説明碑がある。横には津島神社の小祠と常夜燈もある。この付近の立場で旅人に出され好評だった平打うどん「いもかわうどん」は三河国芋川(現:一ツ木町芋川、今岡町、今川町)の名産で天保元年(1830)喜多村信節の「嬉遊笑覧」には江戸の「紐革うどん」は芋川うどんのなまったものであろうと記されている。万治4年(1661)頃の東海道名所記には「伊毛川 うどん そば切あり 道中第一の塩梅よき所也」とあり他にも東海道中膝栗毛や井原西鶴「好色一代男」にも登場する。名古屋名物のきしめんの源流とも言われる。木柱には「「いい旅日本」"三河尾張うどん街道" うどん博士加藤有次ほか建立 平成2年2月8日放送 TBS・CBC系テレビ」とも書かれている。
{左}乗願寺 [真宗木辺派] 今岡町西畑61
しばらく行くとある。山門前右に平成14年説明碑。天正15年(1587)創建で当時は一向宗に対する弾圧が厳しかったため地蔵寺と言い表向きは浄土宗となっていた。木辺派本山の遍照山錦織寺(滋賀県野洲市木部826)14世良慈上人の時代に表向きも真宗となった。本尊は阿弥陀如来。享保9年(1724)から享保11年(1726)まで刈谷藩主だった三浦明喬や延享4年(1747)から明和4年(1767)まで刈谷藩主だった土井利信の位牌が祀られている。本堂は平成20年現在新築工事中。
{左}一ツ木弘法道標
少し先で左に道が分岐する左の民家の塀前にある。「一ツ木こうぼうみち」「早川信保」とあり指差しの絵もわずかに確認できる。弘法大師が赤目樫の木から刻んだ3つの自像を安置する三河三弘法の2番札所である通称「見送弘法大師」の大仙山西福寺[曹洞宗](一ツ木町大師27)へ向かう道で縁日には道行く人で賑わった。三河三弘法の他の2つは弘法山遍照院(知立市弘法町弘法山19)の通称「見返弘法大師」と天目山密蔵院(一里山町南弘法24)の通称「流涕弘法大師」。東海道はその後も所々に古い家がある町並が続く。
{右}今川山 乗蓮寺 [真宗大谷派] 今川町2-602
しばらく行くとある。江戸時代前期の創建。入口右には昭和48年寺名柱、平成14年説明碑、石仏のコンクリート製祠がある。山門入って右には托鉢姿の僧の人形、左には昭和28年の梵鐘がある鐘楼と天明元年(1781)手水石。現在の本堂は昭和59年に改修された。境内左にシイノキ(幹周6m高さ10m)があり樹齢850年と推定され昭和33年市指定天然記念物。根元に空洞があり狸が住んでいたと伝わるが昭和34年伊勢湾台風で大きな損傷を受けた。現在は回復し2本の木に見える。本堂前の灯籠は昭和56年。寺の西方300mにある花池は安政5年(1858)本堂再建のために必要な土を掘り起こした際にできたとされる。
{左・寄}富士松駅 今川町1-805
少し先左のスーパー今銀(今川町1-152)を過ぎた十字路を左折していくとある名鉄名古屋本線の駅。大正12年(1923)開業。当初は今川駅と言っていたが昭和27年(1952)改称した。駅前のロータリーの噴水にはサッカーする人たちの像。駅舎前には「お富士松」の3代目と説明碑がある。桶狭間の戦い後に信長の間者と間違われ今川残党に斬殺された旅人を村人が埋葬した場所に植えた松と言い最初の場所は南東200mにあり天然記念物にもなっていたが昭和34年伊勢湾台風で枯れたため今の場所に2代目が植えられ後に3代目となった。旧地名の富士松村や駅名もこの松が由来になっている。
今川歩道橋
駅へ通じる十字路を渡った左の緑地には自然石に彫った新しい道祖神がある。少し進むと東海道は県道282号線と交差する。県道は名鉄名古屋本線を越えるためのトンネルに入っていくところで東海道よりも低い位置にあり横断には左にある今川歩道橋を使う。歩道橋を渡ると道は右にカーブし少し歩くと下り坂になって国道1号が見えてくる。国道1号に出る手前左には地蔵2体が安置された白屋根の祠がある。
国道地下道
今川町交差点で国道1号に出る。東海道は国道と斜めに交差するように反対側の道に入るが渡れないため一旦左折し国道を少し歩いところにある新矢戸橋の下を流れる矢戸川に沿った歩道で国道をくぐり迂回する。橋の下の歩道には「水がたまっていたら、通行しないでください。」と書かれている。国道をくぐり少し進むと用水路にかかる古い橋を渡りその先で発抗川を別の橋で渡る。さらに小さな橋を渡ると右に敷島製パン(Pasco)刈谷工場(西境町広見24)、左にサンヘルス境川健康センター(今川町阿野前11-1)の大きな建物の間を抜けていく。その先は上り坂となり右には東海道宿駅設置400年の記念植樹の若い松並木がある。