東海道ルートガイド
岡崎宿

{右}松並木の名残
国道1号の右側歩道も松並木の名残がある。しばらく松に沿って進み岡崎インター西交差点で県道26号線を横断すると歩道がほんの数十mほど両側若い松並木で整備されている。そのまま歩道を進むとコスモ石油セルフステーション岡崎ICSS(大平町欠下16-1)を左に見るようにして国道から右に分岐し松が数本ある川沿いを進む。松がなくなると歩道もなくなりすべり台や鉄棒がある児童公園の中を進むようになるが公園を出ると車道に合流する。その先の筋違橋で更沙川を渡ると道は上り坂となり右へカーブしていく。
{右・寄}壱澤山 法光寺 [真宗大谷派] 欠町中通31
道なりに行くと少し先にある。享禄年間(1528-31)に近くの一ノ澤に創建され後に移転した。江戸時代中期に豊根山法蔵寺[真宗大谷派](安城市尾崎町東屋敷42)の義照が中興したが後に焼失。天保5年(1834)に再建するが明治初期に再び焼失し再建された。本尊は阿弥陀如来立像で享禄5年(1529)の銘がある。他に親鸞、蓮如像も所蔵しともに寛政元年(1789)の銘がある。山門は上が鐘楼となっている。山門前の灯籠は昭和5年(1930)。山門入って右に井戸と手水石。しばらく進んだ右の駐車場に文政13年(1830)秋葉山常夜燈がある。
{左}冠木門
しばらく進むと大きな榎がある緑地帯にコンクリート製の冠木門がある。ここが岡崎宿の東の入口であり江戸時代にも冠木門があった。門の下には平成3年岡崎中央ライオンズクラブ建立の「岡崎城下二十七曲り」石碑もあり説明と地図が彫られている。岡崎城下を抜ける東海道は防衛目的のため曲折が多く作られ通称二十七曲りと呼ばれた。投町、両町、伝馬通から籠田町、連尺町、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋へと至る道筋で現在は一部が戦災復興の道路整備などで失われている。東海道は冠木門を左に過ぎたらすぐ正面にあるヤンマーディーゼルの看板がある山本農機(若宮町2-66)前を右折する。ここは江戸時代はゆるやかなカーブだったため曲がり角ではない。
岡崎宿   本陣3脇本陣3旅籠112家数1565人口6594[天保14年(1843)]
古くから街道の宿場として栄え江戸時代は家康の誕生地として岡崎城に譜代大名が配されるなど別格扱いで城下町と宿場町の両機能を持って繁栄した。矢作川と支流の乙川が合流する物資の輸送路の要として商業的にも発達し「その賑わいは駿府に次ぐべし」とも言われた。鍛冶物、木綿が名物で石製品や三河花火、八丁味噌は現在も有名。二十七曲りと呼ばれる曲折した宿内は約4kmあり大平一里塚勝蓮寺前にあった矢作一里塚の間の81里目の一里塚が宿内にあったとされるが特定されていない。昭和20年7月20日の大空襲で市街の大半が焼失し宿場の遺稿はほとんど残されていない。
{右}投町(なぐりちょう)のモニュメント
東海道は次の信号である若宮町二丁目交差点を左折する。ここが1曲り目。左折すぐ右の岡崎げんき館(若宮町2-1-1)角に薄い石のモニュメントがある。「岡崎城下二十七曲り」の説明石碑、金属製の草鞋が乗った木目調の案内鉄柱、ベンチもある。二十七曲がりの主要ポイントに昭和56年岡崎中央ライオンズクラブが設置した「岡崎城下二十七曲」と刻まれた石柱の最初のものもあり「欠町より投町角 岡崎城東入口」とある。この付近は地面を掘ると投げるのに良い石が出てきたのが町名の由来と言い根石、石ヶ崎など石に因む地名も残っている。投町には江戸時代は茶屋が多く葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた淡雪豆腐が名物で天保13年(1842)の記録では豆腐と茶飯にお新香で18文だった。
{右}根石寺(旧:根石原観音堂) [曹洞宗] 
若宮通りを進み若宮1丁目東の交差点を過ぎしばらく行くとある。天平宝字2年(758)圓珍が創建した菅生妙音寺が焼け本尊は若宮八幡宮(朝日町森畔12)に移され観音堂となったが神仏分離で現在地に移転、明治23年(1890)大泉寺(中町東丸根38)の説教場となった。本尊は行基が和銅元年(708)彫った聖観世音像6体のうちの2体で天正元年(1573)家康の嫡子信康が初陣時に祈願し軍功をあげたと言う。入口左に「岡崎西國第十番札所」、由来説明碑、昭和42年「太神宮」常夜燈。入口右の小祠の中には延命地蔵など3体があり岡崎36地蔵尊第4番札所。境内左には大正8年(1919)三界万霊地蔵、大正14年四国西国秩父板東納経塔の石仏、大正14年灯籠、恵の水(手水石)。本堂は若宮町公民館でもある。
{右}土呂山 法円寺(法圓寺) [真宗大谷派] 若宮町1-72
少し先にある。付近に住んでいた中根甚之助(箱柳城主中根氏の子孫)が出家し了圓となり宝暦年間(1751-63)に道場を建立したのが起こりで開基とされる。安政4年(1857)法圓寺となった。本尊は阿弥陀如来立像で慈覚大師の作とされ元は土呂殿本宗寺(美合町平地50)の本尊だった。永禄6年(1563)西三河に広がった一向一揆で同じく所蔵する宗祖影像とともに避難のため近隣の神社、寺へ預けられて転々とし中根甚之助の手に渡った。境内右に大正4年(1915)手水石。本堂右の庫裏前に年号不明の灯籠が1基ある。根石小学校(欠町石ヶ崎1-2 )の前身が明治5年(1872)5月にこの寺を仮校舎として開校した。 少し先の両町3丁目交差点手前右には木目調の案内鉄柱があり東海道はまっすぐ進む。
{左・寄}岡崎市郷土館(旧:額田郡公会堂) 朝日町3-36-1
次の角を左折していくと右。大正2年(1913)に建てられた額田郡公会堂は大正5年市制施行により岡崎市公会堂となり昭和42年新しい市民会館(六供町出崎15-1)の完成で昭和44年に岡崎市郷土館となった。建築面積532.6平方m、講堂、玄関ポーチ、貴賓室、控室3室から成る。館内は郷土関係の展示がされている。9時-5時(入館は16:30)月休、無料。同じ大正2年に北隣に建てられた額田郡物産陳列所は昭和36年勤労会館(現:せきれいホール)建設に伴い南隣に移され現在は収蔵庫となっており郷土館とともに平成11年国重要文化財に指定。郷土館右の緑地には大正2年と昭和58年の灯籠、門を挟んで紡績機械を発明した臥雲辰到を顕彰する大正10年建立の碑、その近くには木村資生銅像もある。
{右}両町常夜燈
両町2丁目交差点を過ぎ次の信号がない十字路手前右に「岡崎城下二十七曲」石柱「両町より伝馬町角」があり右折する。ここが2曲り目。少し先の両町公民館前に昭和47年設置の説明板と小祠があり中に寛政2年(1790)建立の秋葉山常夜燈の一部がある。昭和20年の空襲で破損したものの原型はとどめていたが昭和47年に破損が激しくなったため取り壊し宝珠の部分のみを祠に安置した。祠の中には取り壊し時の写真もある。東海道は少し先の昭和シェル石油マイカープラザ伝馬通SS(両町2-6)が正面に見える突き当りを左折する。この角左にも「岡崎城下二十七曲」石柱「両町より伝馬町角」石柱がある。ここが3曲り目。ここから先の伝馬町通りが宿場の中心地で伝馬町となる。
{左・寄}伝馬町常夜燈   伝馬通4-5-1
少し先の伝馬通5丁目交差点で大通り(太陽緑道)を渡り伝馬4丁目西交差点を左折しすぐ左折して少し先の左の伝馬町公民館前にある。享和3年(1803)石工の嘉兵衛が作り建立された秋葉山常夜燈で元は東海道に面したところにあったが昭和38年に移された。市内に残る最も大きな常夜燈。伝馬町には本陣、脇本陣、旅籠が並び旅籠は伝馬通5丁目から籠田惣門まで軒を連ねていた。正保・慶安年間(1644-51)からは飯盛女を置く旅籠があらわれ旅行者以外の遊客も訪れるようになり「岡崎女郎衆はよい女郎衆」と唄われる流行歌「岡崎女郎衆」や紀行文などで有名になった。
{右・寄}佛現山善徳院 随念寺  [浄土宗] 門前町91-1
伝馬4丁目西交差点を右折して隋念寺小路を行くと正面。永禄5年(1562)家康が祖父である清康とその妹のお久の菩提を弔うために建立した。家康が2歳の時に生母・於大が父・広忠に離縁されて以降、6歳で人質に出されるまでお久は家康を養育したとされる。本尊は阿弥陀如来、千手観世音菩薩。書院と庫裏は明治6年(1873)から現在の梅園小学校の前身である額田郡第一番小学校岡崎学校として使用された。明治32年に梅園小が移転した後も愛知教育大学付属岡崎小学校(明治34-35)、岡崎商業高校(35-37)、岡崎北高校(40-41)の前身が建物を使用した。鐘楼がある山門をくぐり左に三界万霊碑を中心に12石仏と大きな座像石仏。その横には聖徳太子堂がある。三河33観音第2番札所。
{右・寄}身延山 円頓寺(圓頓寺) [日蓮宗] 久右エ門町1-16
伝馬通4丁目西交差点から少し先に大きな門柱のような看板があり右折正面。正保2年(1945)玄樹院日惣が創建。下総国山川藩に住んでいた日惣は藩主水野忠善に請われ駿河田中藩、三河国吉田藩、岡崎藩と転封に従ってきた。寺は水野家、明和6年(1769)から藩主の本多家に信奉され繁栄したが元治元年(1864)焼失。境内も縮小し明治10年(1877)仮本堂を建て大正13年(1924)に本堂を再建した。本尊は木造法華経題目宝塔。唐風の門と二重塔が目立つ。門の下右に水かけ水子地蔵尊、左に小さな石仏がある。塔の前には東本陣にあった三光稲荷があり大正11年鳥居と祠がある。その左には文化4年(1807)灯籠、動物供養地蔵、文政13年(1830)の題目碑2基がある。門右にも題目碑がある。
{左}中根仏壇店本店  伝馬通3-27
少し先の伝馬交差点手前にある。嘉永元年(1848)創業。瓦屋根の軒がある5階建の建物で店舗は平成17年に改装。国産仏壇を中心に常時200本が展示され高級金仏壇から黒檀・紫檀等の銘木唐木仏壇、現代仏壇、仏具、念珠まで販売し仏壇の修理・修復もしている。3階では伝統工芸品に指定された三河仏壇や名古屋仏壇も販売。三河仏壇は元禄17年(1704)仏壇師庄八家により始まったとされ台の引出しが三杯引き出しで花子彫の中障子や蒔絵板付きの障子腰などの特徴がある。八職と称される職人が仕上げた各部品を組み合わせる名古屋仏壇は元禄8年(1695)高木仁右衛門から始まったとされている。手前には総坪数125坪半(415平方m)建坪105坪(347平方m)の桔梗屋脇本陣があった。
{右}東本陣跡
石柱などの標示はないが向かいの花屋・花一生(伝馬通3-1)あたりには東本陣があった。岡崎宿の本陣は最初は中根甚太郎と浜嶋久右衛門の2軒が隣合ってあったが宝永3年(1706)浜嶋本陣が借金のため没落し伝馬町裏にあった磯貝久右衛門が本陣となった。磯貝本陣が後に現在地に移転し中根本陣が西本陣、ここが東本陣と呼ばれるようになった。寛政・享和年間(1789-1803)頃からは服部專(伝)左衛門が磯貝本陣を土地ごと引継ぎ東本陣となった。文政5年(1822)には中根本陣斜め向かいの大津勘助も本陣となり本陣は3軒となった。服部本陣は間口13間(23.6m)建坪209坪半(693平方m)畳数245畳半で敷地内に祀られていた三光稲荷は明治28年(1895)円頓寺に移されている。
{左}信州道道標
伝馬交差点でモダン通りを渡った備前屋前に道標と説明立札、付近の地図がある。道標は備前屋が平成18年に復元したもので高さ1.3m25cm角の花崗岩に「左 信州道」「左 京みち」「右 江戸道」とある。花崗岩(御影石)は岡崎の名産でもあり道標近くの備前屋の外壁も岡崎産花崗岩で文政9年(1826)の家並図である「伝馬町家順間口書」が刻まれている。家並図は店内で現代語訳したものを配布している。江戸時代は現在地は旅籠木瓜屋吉三郎で向かいには高札場と自身番があった。
{左}備前屋 伝馬通2-17
天明2年(1782)に少し先向かいの現在の市川メガネ(伝馬通2-30)付近に創業し文政9年(1826)の記録では備前屋藤右衛門で間口5間(9m)。昭和20年の空襲後に現在地に移転した。郷土に伝わる「へぎ餅」からヒントを得て初代が創作したきさらぎ(小箱32g157円)は寛政12年(1800)から作っている。卵白に精糖を加えて泡立て寒天で固めたあわ雪(1本525円)が有名で明治初めに江戸時代の名物・淡雪豆腐が消えるのは寂しいと考案したという。豆乳で作り淡雪豆腐により近くなったあわ雪豆腐(1個210円)もある。他にも七つの曲がりがあるワッフル風の焼菓子「岡崎二十七曲り」1枚105円、餅を煎餅ではさんだ「駒牽朱印」4個袋入336円、葵紋の大型カステラ焼き「やわらか葵」2枚袋入315円などがある。
{左}岡崎宿伝馬歴史プロムナード
備前屋の前に「岡崎宿伝馬歴史プロムナード」と浮彫りされた石柱がありここから伝馬通り1丁目交差点までの街道の両側歩道に岡崎宿に関する説明プレートとその内容に因むデザインの石のモニュメントがセットで20組設置されている。街道左にお茶壷道中、朝鮮通信使、助郷、飯盛女、田中吉政、人馬継立、三度飛脚、塩座、御馳走屋敷、籠田惣門、街道右に旅篭屋、市隠亭、一里塚、往来手形、作法触れ、あわ雪茶屋、矢作橋、二十七曲、駒牽朱印、本陣・脇本陣
{左}糸惣
備前屋の数軒先に商家の建物がある。伝馬通りのこの辺は戦災を受けず古い家並みが残っている。江戸時代は糸屋惣兵衛家で糸惣の屋号で小間物類を商い天保14年(1843)から紙を扱い酒を造ったり薬を取り扱うなど多角経営を行っていた。惣兵衛や惣七郎を世襲名とし文政9年(1826)伝馬町家順間口書には糸屋惣兵衛とある。嘉永年間(1848-54)からは岡崎宿の問屋役もつとめ藩の30人組御用聞の一人にもなった。建物の軒には「紙」と大きく刻字された看板があり最近まで糸惣洋紙店と営業していたが平成16年閉店し現在もそのまま閉まっている。
{左}永田屋 伝馬通2-10
糸惣の隣。「永田屋精肉問屋」の大きな看板がある。天保14年(1843)創業者永田重吉が南の祐金町で商いを始め現在地に店を構えた。遊郭の建物を買い取ったと言われている。
{右}大黒屋 伝馬通2-27
向かい。江戸初期に岡崎に来て元禄年間(1688-1703)にはこの地に居住しており大黒屋権右衛門として薬種・質商で財を成し庄屋をつとめ文化3年(1806)には町年寄格・苗字帯刀を許され小野権右衛門を世襲した。文政6年(1823)には御用聞頭取となった。手前右の駐車場奥には昭和2年建立の「小野権右衛門屋敷跡」碑と中庭にあったという一本松がある。碑の裏には系図が書かれている。現在、街道沿いにある漢方薬の大黒屋は明治時代に小野家より薬種業を譲り受けた須藤家が営んでいる。小野家は駐車場の北側で鉄砲・火薬を商う大黒屋(伝馬通2-26)を営んでいる。江戸時代には大黒屋の1軒おいた先が備前屋でその隣が天保14年(1843)から脇本陣になった旅籠の鍵屋だった。
{左}「岡崎宿東海道二十七曲り」説明碑
永田屋の少し先。岡崎宿伝馬歴史プロムナードの「御馳走屋敷」と「籠田惣門」のモニュメントの間にある。石碑正面左に「岡崎宿東海道二十七曲り」文字プレート、その右に地図付きの説明プレート、下に葛飾北斎の「岡崎宿 其二」浮世絵プレートが貼られている。二十七曲りは天正18年(1590)から慶長5年(1600)まで岡崎城主だった田中吉政が城郭大整備を行った際にそれまで乙川の南を通っていた東海道を城下に移し屈折を作ったのが起こり。初代岡崎藩主本多康重は榎町(現:祐金町)の人々や慶長12年(1607)の矢作川洪水で被災した八帖村の人々を移住させ慶長14年伝馬町を創設しその後に連尺町、籠田町、両町も作られると道筋がほぼ確定し「岡崎宿三十六町二十七曲り」と言われるようになった。
{右}西本陣跡
伝馬通1丁目交差点手前のミニストップ岡崎伝馬通店(伝馬通2-35)前に昭和58年建立の「西本陣跡」石柱がある。中根甚太郎本陣で間口12間(22m)建坪約210坪(694平方m)畳数241畳。中根本陣は岡崎宿開設当初の慶長14年(1609)から幕末まで本陣をつとめた家で東本陣に対し西本陣と呼ばれた。先祖は箱柳城主の中根氏の家系で家康に従っていたが文禄年間(1592-95)頃に病のため三河に戻った。岡崎城の郷土博物館に中根本陣の絵図(間取図)が展示されている。向かいには「岡崎城下二十七曲」石柱「西本陣前角」があり東海道はこの交差点を左折する。ここが4曲り目。石柱手前の時計・宝石エンドー(伝馬通2-2)付近には文政5年(1822)に脇本陣から本陣となった大津勘助本陣があった。
{左}吉良道・西京伊勢道 道標
すぐ先の次の十字路で右折し総門通りに入る。ここが5曲り目。右折する手前左に「交通安全」と刻まれた擬宝珠型の新しい石柱、右折した左に明治2年(1869)建立の道標がある。3面にそれぞれ「きらみち」「西京いせ道」「東京みち」と道標上部に指矢印が刻まれている。横には道標の文字内容を示した金属プレートもある。吉良道は幡豆郡吉良町へ通じる。
{右}岡崎信用金庫資料館 (旧:商工会議所) 伝馬通1-58
少し先にある。松坂屋名古屋本店など手がけた鈴木禎次が設計し大正6年(1917)岡崎銀行本店として建てられた煉瓦と花崗岩を使用したルネッサンス様式の建物。鉄筋コンクリート2階(一部3階)建で面積627平方m。空襲で外壁を残して焼失したが戦後修復され岡崎商工会議所となり伊勢湾台風でも被災したが修復された。昭和52年取壊されるのを惜しんで岡崎信用金庫が買取り昭和57年に資料館とした。平成19年国登録文化財。平成11年岡崎市景観環境賞受賞。1階は市民ギャラリーとして無料開放され2階は江戸時代の人々の「くらしとあきない」の紹介や「両替商」の再現、世界の貨幣、記念コインなどの展示をしている。10時-17時、月祝休、無料。向かいには江戸時代は御馳走屋敷があった。
{右}籠田惣門跡碑
少し先で大きな分離帯のある大きな通りを渡る。分離帯中央に門をデザインした昭和57年建立の石碑がある。江戸時代には御馳走屋敷を過ぎるとすぐ外堀(総堀)があり渡ったところに城郭内への江戸側の入口である籠田惣門(総門)があった。門は承久3年(1654)か寛文10年(1670)頃に建てられたとされる。門をくぐると右折、左折、右折の枡形になっており街道は右に向かっていた。ここが6曲り目、7曲り目、8曲り目となる。現在はこの大きな通りを渡り右折し籠田公園に向かう。東海道の城郭内への出入口として京側には松葉総門があった。
{左・寄}無量山 西岸寺 [浄土宗] 康生町南3-48
惣門跡碑を右折せず左折すると右にある。慶長16年(1611)桑名藩主・本多忠政が照譽了學を開山として招き父・忠勝の菩提寺として創建した。寺名は忠勝の戒名の西岸寺殿前中書長誉良信大居士に由来。以降本多家の菩提寺として播磨姫路、大和郡山、越後村上、下総古河など本多家の転封ごとに移転し本多忠粛が浜田藩主から岡崎藩主になった翌年の明和7年(1770)現在地に移転した。昭和20年に本堂、庫裏、観音堂、鐘楼などを焼失し再興、平成10年に正面にステンドグラスも付いたコンクリート造の本堂を新築した。本堂左には観音堂がありその前左には地蔵の祠があり岡崎36地蔵尊36番札所。
{右・寄}籠田公園 常夜燈
東海道は籠田公園に突き当たるとそのまま公園を北に向かい突切る。公園入口正面には昭和33年建立の県知事桑原幹根揮毫による戦災復興之碑がある。公園内右端には石工七左衛門により寛政10年(1798)籠田惣門付近に建立された城下で3番目の秋葉山常夜燈と説明板がある。大正時代に市役所があった現在のNTT岡崎ビル(康生通南3-39)の北に移転したが昭和25年籠田公園の整備とともに公園内に移転、昭和56年公園地下駐車場新設により現在地に移された。公園内には遊具の他、野外ステージもある。公園を北に抜けたら左折する。ここが9曲り目。歩道には方向を示したタイルも埋め込まれている。
{左}「岡崎宿東海道27曲り」案内碑
すぐに籠田公園北西交差点に出ると手前左に「岡崎城下二十七曲」石柱「篭田町より連尺町角」と説明立札があり交差点を渡って大竹呉服店(連尺通3-12)右の連尺通りを進む。しばらく進んでいくと三菱東京UFJ銀行岡崎支店(本町通1-7)前に案内碑がある。石碑に黒色の地図石板を嵌めこんだもので裏面には「連尺通」とある。東海道はすぐ先の本町1丁目交差点で県道56号線を横断しデパート岡崎シビコ(康生通西2-20-2)に沿って50mほど進むと右の赤いレンガの建物の角に「岡崎城下二十七曲」石柱「岡崎城対面所前角」がありここを右折する。ここが10曲り目。
{左}岡崎藩校 允文・允武館跡
右折せずにまっすぐ行くとすぐ左に昭和52年建立の碑がある。明治2年(1869)岡崎藩知事本多忠直が新しい時代の要求に対応できる人材を育成するために学問履習を授ける允文館と武術鍛錬を授ける允武館をここに開校した。明治4年閉鎖され後に県立額田郡小学校となった。江戸時代にはこの付近には外来使節を応対したり領民の公事・評定を行った場所である藩の対面所があった。文政5年(1822)建立された連尺町常夜燈もあり天保2年(1831)大火で損傷して修復されたが戦災により破損した。昭和53年に原型のまま縮小復元された常夜燈が岡崎シビコ西側の小公園にある。
{左・寄}浄瑠璃山 光明院(浄瑠璃寺)
さらにそのまままっすぐ行くと突き当たり。もとは岡崎城の浄瑠璃曲輪付近にあった浄瑠璃姫の庵跡である瑠璃光山安西寺で義経画像、浄瑠璃姫画像、姫守本尊薬師如来を所蔵する。江戸時代にはこの付近は内堀で南にあった橋を渡ると大手門が東向きにあった。境内右には堂がありその前に明治37年(1904)灯籠。その右には地蔵菩薩座像や手水石。門前を左に200mほど進み国道を公園前歩道橋で渡って左に下りて交番を過ぎたところに浄瑠璃姫の墓(供養塔)がある。乙川に身を投げた姫の遺体が見つかった川岸に建てられ後にここに移されたものでここが光明院の旧地とも言われる。供養塔前には灯籠や大正15年(1926)「浄瑠璃姫之墳」八角石柱、右前には昭和18年(1943)初代市川團蔵碑もある。
{左・寄}岡崎城 大手門
浄瑠璃姫の墓(供養塔)に行く途中の公園前歩道橋を右に下りると現在の大手門(高さ11m幅16.4m)がある。江戸時代の大手門は幅10間(18m)奥行2間4尺(4.8m)高さは不明で現在の光明院付近にあった。平成5年に建てられた現在の門は石垣には花崗岩を使用し入母屋造の屋根には江戸物本瓦が敷かれている。門の前左の植込みには一本松と岡崎中央ライオンズクラブが平成13年に25周年記念として建立した「岡崎城下東海道二十七曲り」の大きな石碑があり「岡崎城郭と東海道」の地図が刻まれた石板や東海道分間延絵図が嵌められている。その両脇には元文元年(1736)の「従是西岡崎領」「従是東岡崎領」石柱も復元されている。
{左・寄}岡崎城址(岡崎公園) 康生町561
大手門をくぐると公園となる。康正元年(1455)西郷稠頼(頼嗣)が乙川南岸の明大寺の地に築城し松平清康(家康の祖父)が享禄3年(1530)現在の場所に移した。天文11年(1542)家康が生まれた場所として知られ元亀元年(1570)浜松城に移るまで居城とした。その後は嫡男信康を城主とし信康自刃後は石川数正、本多重次を城代とした。家康の関東移封で秀吉家臣田中吉政が城主となり城郭が大拡張された。明治4年(1871)から岡崎県、額田県の県庁が置かれていたが愛知県に併合されると明治6年から城郭は取り壊され明治8年に本丸跡は城址公園となり大正8年(1919)には二の丸跡なども公園となった。昭和37年市史跡指定。園内には三河武士のやかた家康館、二の丸能楽堂などがある。
{左・寄}岡崎城 天守閣
公園内の家康、本多忠勝を祭神とする龍城神社の社殿左に天守閣入口がある。元和3年(1617)藩主本多康紀が3層3階地下1階建て東に井戸櫓、南に附櫓をもつ天守閣を建てた。明治6年(1873)から翌年にかけて取り壊され現在の天守閣は昭和34年に復元された。1階は旧天守の心柱の礎石、2〜4階は郷土博物館、5階は展望室。博物館には城と城下町の模型、鎧、兜、武器、藤川宿などの展示がある。9時-17時(入館16:30)200円(三河武士のやかた家康館との共通券500円)年末年始休。入口前右には家康公遺言碑、東照公遺訓の高札風板もある。天守閣の付近には巽閣、山岡荘八文学碑、家康胞衣塚があり赤い橋を渡り左には茶室の城南亭と葵松庵、乙川沿いに御城下舟寄場(船着場)跡もある。
材木町口木戸前 消滅した東海道
東海道は岡崎シビコ横の岡崎城対面所前角を右折し少し先の前川内科医院(本町通3-67)前に突き当たる。医院前には「岡崎城下二十七曲」石柱「材木町口木戸前」があり江戸時代の東海道は北西(左斜め前)の方向に斜めに少し進みそれから右折し北上していた。それが11曲り目と12曲り目となる。しかし現在は道が消滅しているため石柱を左折し100m先右の藤和シティホームズ岡崎公園を過ぎたら右折して北上するか左折しすぐ先で右折、すぐ左折して少し先右の居酒屋一休(材木町2-66-1)がある十字路を右折して北上する。
材木町 木まち通り
少し進むと右にファミリーマート材木町店(材木町2-60)、左の歩道の植込みに「岡崎城下二十七曲」石柱「材木町角」がある十字路を左折し木まち通りに入る。ここが13曲り目。材木町の町名は材木が蓄えられた場所というのが由来。江戸時代以前にはこの付近には天神山と呼ばれた小山があり文禄元年(1592)頃に城郭の整備拡張を行った田中吉政が城の西側の沼地埋立用土にするため山を崩したと言い山の跡地に材木が蓄えられた。材木町3丁目交差点を渡った右のあたりには江戸時代には問屋場があり伝馬町と交代で5日毎に伝馬継立を行っていた。道はこの交差点の少し先から緩やかな下り坂となる。
{右}唐弓弦(とうゆみづる)の商家 森家
しばらく行くと唐弓弦を製造販売していた森権治郎家があり軒下には「唐弓弦」木製看板がある。唐弓弦は木弓に弦を張ったもので綿打ち弓とも言い種を除いた綿花に弦を弾いてほぐして紡ぎやすくする道具。森家では弦を大坂から仕入れてたと言い白山神社には森家と取引があった大坂弦問屋が明治2年(1869)奉納した石灯籠2基がある。付近には木綿業者や職人が多く住み岡崎は三河木綿の特産地でもあった。日本に綿が伝わったのは延暦18年(799)矢作川河口(現:西尾市天竹町)に漂着した天竺から来た崑崙人からだったとされ綿種と栽培法を伝授しこの時に唐弓弦も伝えたとされる。しかしこの綿種は日本の気候に合わず90年ほどで絶え文明9年(1482)頃に中国から伝わった綿種が日本中に広まった。
柿田橋
東海道は乙川の支流の伊賀川に架かる昭和48年竣工の柿田橋に出る。江戸時代には川はここには無く橋もなく現在川になっている部分が東海道の位置とされておりここを左折していた。14曲り目。橋を渡った右には十王寺[浄土宗]がある。橋を渡らずに左折して川沿いの道に入ると右に「岡崎城下二十七曲」石柱「材木町より下肴町角」がある。肴町は魚を専売する権利を有していた魚座商人が住んだ町で遠くは信州まで売りに行ったと言う。岡崎宿には他に塩座、茶座、煙草株などの専売権があり商いをする者は座銭を収めその金は町の開発や宿の助成などに使われた。
{左}白山神社(白山宮) 魚町16
柿田橋手前を左折して行くと左に上って行くコンクリート道と赤い幟がある。天文16年(1547)松平広忠が兜の中に納めていた守護神を祀った社が起こりとされる。祭神は白山姫命、須佐之男命、猿田彦命、水波乃女命、迦具土命。入口左に天保4年(1833)秋葉山常夜燈があり元は柿田橋付近の角に建てられたもの。境内右に天文16年創建時の鬼瓦が展示されている。手水石は安政4年(1857)。狛犬は大正10年(1921)。鉄棒、ブランコなどの遊具もある。社殿右から出る道の角にも天保4年(1833)の小さめの秋葉山常夜燈がある。境内には白山地区集会所もあり前には大ムク(幹周5.3m樹高14m)がある。集会所の脇から川沿いへの石段を下りると昭和53年再建の白山大慈悲観世音菩薩の祠がある。
三清橋
川沿いの道を進んで行くとある柿田橋の一つ下流の橋で昭和52年竣工。ここを右折するのが東海道で橋を渡る。15曲り目。橋を渡って2つ目の茶色のフェンスがある民家前の小道を左折する。16曲り目。江戸時代はこの先に内堀と稗田門があり東海道はその手前を右折してすぐ左折し門をかわしていた。それが17曲り目と18曲り目となる。しかし現在はその道は消滅しているためこのまままっすぐ進んで国道1号に出て右折するか戻って三清橋を渡り3つ目の道を左折して国道1号に出るかのルートで迂回する。
国道1号を横断
国道1号に出たら右折する。これが19曲り目。本来は国道を横断して右折が正しいが国道はフェンス付の中央分離帯があって渡れないため左の龍城橋西交差点の横断歩道か右の八帖交差点の八帖歩道橋で迂回して渡る。八帖歩道橋の四隅には本多忠勝、榊原康政、井伊直政、酒井忠次の徳川四天王の金属パネルが嵌められている。龍城橋西交差点からは150m先のめん飯店夢家(田町78)がある角で左折するのが東海道で板屋町に入る。20曲り目。八帖歩道橋からは50mほど戻って右折する。
{左}「板屋町角」石柱
しばらく進むと右の杉山理髪店(板屋町100)のところで道幅も狭くなり古い家並みの残る通りとなる。その先左の社会福祉法人あおい(板屋町37)がある角の左に平成3年建立の「岡崎城下二十七曲り」石柱「板屋町角」があり右折する。ここが21曲り目。石柱は他の角にあるものより新しく「二十七曲」が「二十七曲り」となっている。板屋町は材木町に蓄えられた木材を使い家々の屋根が全て板葺きで造られたのが町名の由来。文化年間(1804-18)に茶屋女と称する下女を置いたところ大繁盛し天保13年(1842)には茶屋(遊郭)34軒を数える色街になった。そのため隣の藤川宿の茶屋が衰退したと言う。
{左・寄}板屋稲荷神社 板屋町43
右折せずに直進すると少し先の右にある。文化2年(1805)創建。祭神は宇気母智命、伊勢大神。元は稲荷神社と称していたが明治43年(1910)町内にあった天保元年(1830)創建の神名社を合祀し板屋稲荷神社となった。大正2年(1913)田町にあった明和年間(1764-71)創建の稲荷神社も合祀した。社殿右前にある石柱に火袋と屋根を乗せた秋葉山常夜燈は手前の板屋町角にあったもので寛政9年(1797)の建立。社殿は板屋町公民館でもある。石鳥居は大正2年で赤い木製鳥居は平成5年。灯籠は大正4年と文化元年。玉垣は大正4年。境内右に百度石、左に手水石もある。左隣は岡崎市連尺消防団第三部車庫警備室。
{左}松葉総門跡
右折後しばらく行くと中岡崎町交差点で国道248号を渡る。左の横断歩道を渡った右に平成6年建立の石柱「東海道岡崎城下西出入口 松葉総門跡」があり裏側には説明も刻まれている。籠田惣門跡碑では「惣門」だったがこの石柱では「総門」と記述されている。松葉総門は城郭への西の出入口で承応3年(1654)に建てられた。東海道は現在の国道付近で枡形になっており門手前で右折し門をくぐって左折していたが現在はほぼ直線になっている。ここが22曲り目と23曲り目だった。その先には古い伊賀川である松葉川があり長さ32間(58m)の土橋である松葉橋が架かっていたが明治末期から大正の河川改修により現在は川も橋も無い。