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境橋 その先で平成6年竣工の境橋で境川を渡る。三河国今川村と尾張国東阿野村の境で欄干には説明プレートが嵌められている。境橋は慶長6年(1601)東海道制定時から間もなく架けられ中程より尾張側は木橋、三河側は土橋という継橋で長さ13間1尺5寸(24m)幅3間(5.4m)と川幅は今より狭かった。度々の洪水に流され修復される過程で一続きの土橋になり明治になって欄干付きになった。境川は延長24.2km流域面積264平方kmで三好カントリー倶楽部(西加茂郡三好町黒笹三ヶ峯1271)敷地内の溜池・長田池を水源とし衣浦湾に注ぐ。現在は橋を渡ると刈谷市から豊明市に入る。 |
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{右}烏丸光廣の歌碑 橋を渡るとある。江戸時代前期の歌人・烏丸光廣の自然石に刻まれた歌碑「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」で昭和60年建立。揮毫は外山駿平で横には説明板もある。「にかわ」は接着剤の「膠」と「三河」の掛詞で尾張側は木橋、三河側は土橋という継橋だった境橋を詠んだ。歌は寛文6年(1666)刊行の狂歌集・古今夷曲集に収録されている。光廣は公家の京都烏丸に邸宅を持つ烏丸家の当主でもあり藤原朝臣光廣とも称し正二位権大納言。号を圓月・烏有子などとも称し詠歌の他にも書、漢詩文、仮名草子、紀行文、随筆、茶道など多芸多才だった。道は下りになり右には若い松並木がある。その先を右にカーブするように道なりに進むと国道1号に出て右折する。 |
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{左}豊明駅 右折後すぐ伊勢湾岸自動車道の高架をくぐり国道1号を進み豊明駅前交差点で左折するとある。名鉄名古屋本線の駅で大正14年(1925)開業。当初は阿野駅と言っていたが昭和31年(1956)改称した。駅前には「花舞」と題された彫刻家・鷲見香治(すみ こうじ)による平成9年建立の像がある。駅のすぐ裏にある平成7年開設の愛知豊明花き地方卸売市場(阿野町三本木121)は敷地面積5万2千平方m建物面積2万4千平方m。国内最大規模の花き専門市場で国内で栽培された花や観賞用植物が集まり中でも鉢花、蘭鉢などの取扱量はアジア最大とも言われる。8:00-17:30土日祝休、無料。 |
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{右・寄}怡雲山 西蓮寺 [真宗大谷派] 阿野町林ノ内21 少し先右のむつみ保育園(阿野町西ノ海戸19-2)手前を右折していくと左。明応年間(1492-1500)了祐の開基で尊休寺と言い宝永8年(1631)5世了乘が改称した。平成15年に諸堂を改修、新築。改修された本堂は天明8年(1788)築で棟札も現存する。山門前左に昭和37年寺名柱があり入って右に幼少の親鸞像、その奥に手水石。入って左に昭和22年(1947)梵鐘がある鐘楼。昭和17年全国に寺院の梵鐘の強制供出令が出された際には市内の梵鐘はこの寺に集められ供養のあと豊明駅から四日市の軍需工場に運ばれた。本堂前の灯籠は昭和11年。本堂左には門徒会館。昭和24年に寺の境内に開設された豊明市初の私立保育園であるむつみ保育園の園舎は豊明小学校の木造校舎を移築したものだった。 |
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{右・寄}東屋治平の歌碑 しばらく進み昭和31年竣工の正戸橋手前の無舗装道を右折していくとある琵琶ヶ池の畔にある。知多郡半田(現:半田市)の歌人東屋治平の自然石に刻まれた歌碑「水鳥の 友呼つれて おもしろや 松か琴弾 ひわか池かな」で昭和60年建立。揮毫は近藤福雄で横には説明板と小さな松が1本ある。琵琶ヶ池は古くからある溜池で形が琵琶に似てるため名が付いた。その昔、琵琶を抱えた天女が池に写った自分の姿に驚き琵琶を落としたとも伝わる。広さ13.6haほどあったが明治35年(1902)昭和11年(1936)昭和22年と埋立耕地化され現在は2.2haで形も四角に近くなっている。寛永年間(1624-44)には改修工事、安政2年(1855)には大雨で堤防崩壊の記録がある。池には鯉、ブルーギルなどが生息している。 |
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阿野一里塚(86) (右塚)阿野町池下114、(左塚)阿野町長根4 少し先の左車線の上に一里塚の標示があり東海道は国道1号から左へ分岐ししばらく行くとある。左右とも塚が残り小公園になっており昭和11年(1936)国指定史跡だが塚は原形を留めておらず小さい。両側に「国指定史跡阿野一里塚」の白い標柱とベンチがある。右塚は縦4.5m横8.8mで入口左に小さな松、塚上に昭和31年建立「史蹟阿野一里塚」石柱と説明立札。左塚は縦横8mで前に豊明市ひまわりバス「一里塚」バス停、塚上に加藤繁市揮毫で昭和60年建立の森市雪の句碑「春風や 坂をのぼりに 馬の鈴」と説明板。一里塚の先の上り坂を詠ったもので嘉永元年(1848)刊の名区小景に収録。左塚の右下には文化5年(1808)石柱もあり「是より沓掛村」「南無阿弥陀沸」「南無地蔵菩薩」と刻まれている。 |
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{左}東海道松並木の名残松 一里塚の先はゆるやかな上り坂となり豊明小学校(阿野町茶屋浦29)前に大きな一本松と説明立札がある。この付近も江戸時代は松並木だった。池鯉鮒宿から間宿である有松までの間ではここに1本残るのみで有松から先の鳴海宿の間にも四本木の名残松が1本残るのみとなっている。 |
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{左}三田邸 その先の豊明郵便局(阿野町滑1-8)を過ぎるとある三田皮フ科クリニック(阿野町滑1-1)隣の建物。江戸時代から続く代々医者の名家で名古屋から移住してきた三田忠吉に始まる。貧血、疲労に効果があったという家伝の秘薬「仙寿散」が有名で尾張藩主の侍医もつとめていた。享和2年(1802)生まれの三田忠純は天保8年(1837)頃の大飢饉では私財を投じて庶民を救済したと言う。明治元年(1868)の明治天皇を始め明治期には天皇、皇后、皇族が9回休憩している。民家なので中には入れないが庭には「明治天皇東阿野御小休所跡」石柱がある。建物は平成16年修築。明治6年(1873)には豊明の小学校教育の始まりとされる文令学校も置かれ明治8年には東阿野学校と改称している。 |
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{右}坂部善光寺 [天台宗] 前後町鎗ヶ名1867 少し先の坂道の頂上あたり。右奥の坂部区公民館と同じ建物になっている。青山清順尼が近隣の者と善光寺に参詣する青山講を続け明治16年(1883)分身像を下賜され安置する堂を建てたのが起こり。善光寺堂と呼ばれ明治35年清順尼の没後は諸宗派の僧を招き維持していたが昭和22年廃寺となり後に大勧進末の坂部善光寺として再興された。本尊は釈迦如来。他に不動明王もある。建物左前に石仏の祠、手水石、「尾張三弘法第二番札所」石柱がある。この辺りの地名の前後は親村であった間米村(現:間米町)の南(前)に位置したため江戸初期から「前郷」と呼ばれ江戸末期に「前後」になったと言う。桶狭間の戦いで信長の雑兵が褒賞欲しさに敵兵の首を前と後に振分け担いだことに由来するとも伝わる。 |
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{右}上宮山 西雲寺 [真宗大谷派] 前後町善江1649 しばらく行くとある。天正10年(1582)慶伝の開山で現在の名古屋市緑区鳴海町平部に創建。本尊は阿弥陀如来。当初は中井山西蓮寺と言い真宗高田派だったが享保18年(1733)本願寺派になり元文3年(1738)高田派に戻り寛延元年(1748)大谷派になった。宝暦4年(1754)近くの五軒屋新田に移転し同8年に現在地へ再移転、同13年に西雲寺と改称した。明治36年(1903)本堂再建。平成16年に本堂、山門を修復。石段を登り山門をくぐった右に文政11年(1828)手水石、左に明治19年(1886)建立の鐘楼。明治6年(1873)から8年まで豊明の小学校教育の始まりとされる意正学校が設置された。寺を過ぎて前後駅前交差点を左折すると名鉄名古屋本線の前後駅があり大正12年(1923)開業。 |
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{右}さなげ道 道標 前後町善江1683 左はショッピングセンターのパルネス前後の建物が2号館(善江1737)、1号館(善江1735)と続き建物を過ぎた向かいにある。文化4年(1807)建立で「南無阿弥陀佛」「是よりくつかけ 祐福寺 ふくた 原 さなげ道」とある。道標を右折し北西方向に進むと沓掛(現:沓掛町)、玉松山祐福寺[浄土宗西山禅林寺派](愛知郡東郷町春木屋敷3417)、福田(現:西加茂郡美好町福田)、原(現:西加茂郡美好町原)を通り20km先の猿投山に通じていた。山麓には日本武尊の双子の兄・大碓命を祀る猿投神社(豊田市猿投町大城5)があり山嶽信仰が盛んだった。大碓命はこの山で毒蛇に咬まれ没したと伝わり山には陵墓もある。今川義元は桶狭間の戦い前日に沓掛城(沓掛町東本郷11)で軍議を開き祐福寺に宿泊したと伝わる。 |
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{右}前後神明社 常夜燈 しばらく行くと皆瀬川に架かる落合橋の少し手前に明治43年(1910)建立の常夜燈と大正4年(1915)建立の神社名石柱がある。どちらも野村重助の寄進。神社(豊明市宮前1503)は右折した正面に見え国道1号を渡った先にある。途中左にはすべり台、ブランコがある児童公園の五軒屋公園もある。神社の祭神は天照大神。元和2年(1616)創建で延宝8年(1680)までは間米神明社と言った。天保2年(1831)に拝殿を再建しており弘化3年(1846)の棟札も残る。 |
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{右}寂応庵跡 新栄町1-54 落合橋を渡り少し先の落合公会堂前に昭和61年建立の「寂応庵跡」石碑がある。慶応元年(1865)北尾村(現:大府市北崎町)出身の浜島明道尼が建立した曹洞宗の小庵の跡で街道を行く旅人に茶を提供したたため「お茶所」とも呼ばれていた。昭和16年(1941)に落合教会と改称したが昭和42年7世龍峰没後は後継がおらず無住となり廃寺となった。本尊の十一面観音は清涼山曹源寺(栄町内山45)に移されている。碑には「初祖明道尼首座百回忌」とあり明道尼の子孫が建立したもの。 |
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{右}中京競馬場入口 しばらく進んで行くと国道1号と合流し少し進むと交差点右に競馬場入口を示すモニュメントがある。大きな馬蹄とレース案内用の縦一行の発光ダイオード標示の上に疾走するサラブレッド像がデザインされている。中京競馬場(間米町敷田1225)は交差点を右折し道なりにしばらく行くとある。昭和28年(1953)に完成し昭和45年、平成5年にスタンドを大改修した。交差点左には地蔵が2体安置された祠、交差点を右折しすぐ左折すると中京競馬場前駅がある。東海道は交差点をまっすぐ進み名鉄名古屋本線のガードをくぐる。 |
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{左・寄}桶狭間古戦場伝説地 少し先に高徳院の看板があり左折していくと左にある公園。国指定史跡で入口に昭和16年建立「史蹟 桶狭間古戦場」石柱。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が戦死した場所と伝わる。義元と本陣を守り討死した松井宗信らのものとされる7つの塚(土盛)が古くからあり明和8年(1711)鳴海下郷家の出資で尾張藩校明倫堂の藩士・人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之が碑を塚上に建て桶峡七石表ができた。園内を右から廻って行くと最初に七石表の一「今川上総介義元戦死所」があり義元の戦死場所を示す中では最古。後ろには明治9年(1876)有松の住人山口正義らが建てた義元の墓もあり「今川治部大輔義元墓」とある。公園内には「士隊将塚」「桶狭七石表之一」と刻まれた七石表が他に5つある。 |
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{左・寄}香川景樹歌碑 公園入って左の角には佐竹正吉揮毫で昭和60年建立の桂園派の巨匠・香川景樹歌碑「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松にこたふる 風のかなしさ」がある。己の歌風を広めようと江戸に行ったものの叶わず失意のまま帰途する文政元年(1818)桶狭間を通り自分と引き当て詠んだ歌で「尾張名所図会」にも載っている。公園奥には野邨素介揮毫で大正4年(1915)建立「桶狭間古戰場趾 愛知縣」石柱。その左には戦記を記した文化6年(1809)建立「桶峽弔古碑」がある。尾張儒官の秦鼎の撰文、大阪天満邸令中西融の書、石工は河内屋孫右衛門。松井宗信の子孫で津島神社神主の氷室豊長が建てた。豊長は歌人でもあり香川景樹の門人。その左には古戦場伝説地案内図。他に公園内には四阿もある。 |
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{左・寄}徳本名号碑 公園から道を隔てた反対側の高徳院の斜面に徳本名号碑と小さな石仏が16基が並ぶ。碑は円柱形で徳本上人が戦死者の霊を弔うために建てたと言う。細い石段を挟んでさらに右の竹林の中には万延元年(1860)今川義元三百忌に建てられ「天沢寺殿前四品礼部待郎秀峰哲公大居士」と義元の法名が刻まれた墓もある。「願主某」と建立者名が伏せられており「今川義元墓(その2)」と題された説明板もある。その奥には嶋田山遍照院[真言宗智山派](東京都墨田区吾妻橋1-3-5)から来て高徳院を高野山から現在地に移転し中興開山した諦念の墓がある。さらに奥には戦死者慰霊のため尾張藩士・伊奈正勝が建てたおばけ地蔵と呼ばれる石角柱に乗った立像もある。 |
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{左・寄}香華山 高徳院 [高野山真言宗] 栄町南舘3-2 斜面から少し道を進むと石段と仁王像がある昭和62年築の山門がある。弘仁7年(816)高野山に金剛峯寺を開いて間もない弘法大師が神下山高貴寺(大阪府南河内郡河南町平石539)の高貴徳王菩薩を本尊として勧請して高野山に建立し弟子の智泉大徳に与えた一院が起こり。江戸時代も高野山にあったが明治になり廃寺の危機になったのを明治26年(1893)諦念が現在地に移し再興した。境内右に室町初期作の弥勒菩薩がある持仏堂、本堂手前左には義元の亡霊とされる白蛇の龍神を供養したのが起こりという昭和55年再建の徳親龍神堂。本堂には義元の衣冠束帯姿の木像もある。 本堂前の灯籠は昭和13年(1938)。本堂左にたくさんの小さな石仏が並ぶ。広い境内一帯は樹木に覆われている。
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{左・寄}高徳院 芭蕉句碑 山門入って左に行くとある円柱型の句碑。「あかあかと 日は津礼那くも(つれなくも) 秋乃風」。元禄2年(1689)奥の細道で奥州路から日本海沿いに南下し金沢から小松への間に詠んだ句とされる。隣に馬頭観音石像、六波羅密鐘の鐘楼、観音像がある。右には30基ほどの小さな石仏。山門を入って右にある「今川義元公本陣跡」碑は義元直系19代の芹沢二郎が建てたもの。その先の参道右には明治39年(1906)当時の皇太子(大正天皇)が訪れた際に記念に植えられた大きなタブの木、左にそれを記念して建立された陸軍大将奥保鞏揮毫の石柱もある。石柱横には新しい香川景樹歌碑。右手奥の墓地には「松井八郎塚或云五郎八」と刻まれた松井宗信の墓もあり桶狭間古戦場伝説地の七石表の一つ。 |
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旧道分岐 桶狭間古戦場伝説地へ向かう入口から先に進むとすぐ東海道は国道1号から左に分岐する。道なりに進んで行くと途中から右側は名古屋市緑区となり分岐から300mほどで再び国道1号と合流し両側とも名古屋市となる。東海道は国道を少し進み大将ヶ根交差点で今度は国道から右に分岐し県道222号線に入る。分岐する左には地蔵が安置されたコンクリート祠があり分岐後はアスファルトの色が黄土色になる。 |
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{右}鈴木朖(あきら)歌碑 しばらく行くとマンションLe abbollire前に平成18年建立の歌碑「たちならぶ 花にしきと 家ごとに かけ渡したる たくり染かな」と説明板がある。鈴木朖は宝暦14年(1764)春日井郡下小田井村(現:清須市西枇杷島町)の医者・山田重蔵の3男として生まれ幼くして丹羽謝庵、12歳で市川鶴鳴に漢学を学び18歳で儒医であった祖父の旧家を継ぎ鈴木姓を名乗った。のちに国学に傾倒し寛政4年(1792)29歳の時に本居宣長に入門。天保4年(1833)現在の那古野神社(中区丸ノ内2-3-17)にあった藩校明倫堂に国学の科が設けられると教授並に抜擢され天保8年74歳で没。文化2年(1805)から天保4年まで鍼医勝田三雪の離屋に住んでいたため「離屋」と号し通称常助、字は叙清。著書に「言語四種論」「離屋学訓」など。 |
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松野根橋 少し先で2叉路があり手前右には世界地蔵の祠があり中には石が安置されている。2叉路は左に進みすぐに千越川に架かる橋がある。欄干には絞の柄や地図、浮世絵が貼ってある。ここが江戸時代から絞を名産とする間宿・有松の入口であり橋を渡ると祇園寺までの約1kmの間に今も古い家並が残る。慶長13年(1608)尾張藩は知多郡阿久比村(現:阿久比町)から11戸を桶狭間村の有松に移住させ間宿とし寛永2年(1625)桶狭間村から分村した。耕地が少なく茶屋集落としての営みにも限界があったため竹田庄九郎が考案した有松絞に対し藩は元禄2年(1689)免税措置をし絞が新しい産業として育っていった。広重は東海道五十三次の鳴海宿として有松絞を売る店を描いている。 |
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{右}松本淡々(たんたん)句碑 橋を渡り海鼠壁の古美術絞里堂(有松町橋東北78-3)の建物と川の間にある。平成16年株式会社近喜(鳴海町境松2-1)の近藤好彦が建立で「有松や 家の中なる ふぢのは那」。淡々は延宝2年(1674)大坂西横掘に生まれ幼名は熊之助、のち伝七と言った。元禄6年(1693)頃に江戸で芭蕉から呂国の号を受けたとも言われるが江戸に出たのは芭蕉没後の元禄13年頃で芭蕉の弟子の不角や其角の元で因角や渭北と称し其角の没後に淡々と改めた。正徳5年(1715)京都に移り享保元年(1716)頃鷲峰山に半時庵を構え晩年は大坂の江戸堀に聴槿庵を結び百川朝水と号した。境にも移ったが再び大坂に戻り宝暦11年(1761)88歳で没。伝授書を乱発し点料(指導料)を取るなど商才にも長け豪奢な生活だったという。 |
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{左}名古屋有松郵便局 緑区有松町橋東南75-1 少し先。手前には延命地蔵が安置された祠がある。平成10年まで昭和初期築のレトロな2階建て木造建物だったが町並に合わせる形で建替えられた。郵便局入口前には丸型ポストがある。鋳鉄製の丸型ポストは昭和25年(1950)に登場し昭和40年代(1965-75)に最も利用された。名古屋市内に残る丸型ポストは覚王山日泰寺(名古屋市千種区法王町1-1)参道などわずかしかない。ここから先には間口の広い立派な古い商家が並び各戸には「ありまつ」と絞りで染め抜かれた暖簾がかかる。 |
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{右}有松山車会館 有松町橋東北92-2 しばらく進むとある。海鼠壁と白壁の背の高い建物で昭和63年開館。祭り文化を紹介する施設で毎年10月に行われる有松天満社祭礼の有松山車祭りで曳き廻される3輌の山車のうち1輌を祭の終了時から1年交代で展示している。有松には布袋車、唐子車、神功皇后車の3輌の山車があり共に昭和48年市有形民俗文化財指定。それぞれ24人が乗り込み15人ほどで綱で引っ張る。1階の座敷では祭りの様子をビデオ鑑賞できるほか階段を上がると山車上のからくり人形が見れる。10時-16時、水休、200円。有松・鳴海絞会館と共通券450円。建物の右横には指矢印付きの「東海道」「大府行縣道」道標。左隣には明治中期の旧家を改造して昭和59年創業したうどん屋寿限無茶屋(橋東北91-2)がある。 |
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{左}東町の山車庫(布袋車) 斜め向かいの有松商工会手前に説明板があり少し入った奥。東町の山車は奥にある人形が七福神の布袋で布袋車と呼ばれる。明治24年(1891)下玉屋町(現:中区錦2丁目)から譲られたもので製作年は不明だが延宝3年(1675)から若宮八幡社(中区栄3-35-30)若宮祭に参加した記録がある。大幕は文化9年(1812)作で猩々緋に山本梅逸画の四神(龍、亀、麒麟、鳳凰)を刺繍。水引幕は明治25年作で白羅紗に雲鶴の刺繍。高欄下の宝尽くしの彫刻は寛政6年(1794)。布袋人形は年不明だが文化9年頭の塗替え、文政7年(1824)修理の記録がある。前方には明和5年(1768)2代目玉屋庄兵衛作とされるどんな文字も書ける文字書きからくり人形と唐子人形。前方下には天明8年(1788)作の采振り人形がある。 |
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{左}有松絞開祖 竹田庄九郎碑 少し先の碧海信用金庫有松支店横の駐車場奥にある。有松絞の祖・竹田庄九郎武則を称え徳川義親揮毫で昭和8年(1933)御大典記念に建立。右には昭和7年建立の頌徳碑もある。知多郡阿久比村出身で有松に移住した庄九郎は慶長15年(1610)開始の名古屋城築城で九州豊後から来た工夫の手拭を参考に豊後絞から絞り染めの新技法を考案した。寛永18年(1641)通行した尾張藩嫡子(後の2代藩主)徳川光友に絞の手綱を献上。正保元年(1644)頃には有松に来た豊後の医師・三浦玄忠の妻が後に三浦絞と呼ばれる技法を伝え2代庄九郎直治の時に有松絞に取入れられた。万治元年(1658)5代将軍綱吉就任時の尾張藩からの献上品には絞の手綱が採用された。初代庄九郎は寛文2年(1662)没。 |
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{左}有松絞中興の祖 鈴木金蔵碑 庄九郎碑の左奥にある。明治29年(1896)に祇園寺に建立されたもので題字「鈴木金蔵君紀功埜碑」は徳川義禮、撰文は小室重弘、書は水谷彰。天保8年(1837)生まれの金蔵は嘉永6年(1853)16歳で養老影絞の技法を発明し明治9年には精米機を応用して新筋絞を発明し2年後には新製社を設立、明治28年日本錦と日本桜(嵐絞)の技法を発明した。明治34年(1901)没。今日では有松絞の技法は100種類にも及びその数は世界一と言われている。碑がある一角の入口には鳴海村出身で長寿で話題となった双子姉妹、きんさんぎんさんが平成10年有松・鳴海絞会館に来館した際に手植えした「うこん桜」が1本ずつある。桜の後ろには新しい灯籠もある。駐車場内には他に広重の保永堂版鳴海宿の絵もある。 |
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{左}有松・鳴海絞会館 有松町橋東南60-1 駐車場の隣。昭和59年開館で1階は絞製品の即売場となっており反物、浴衣、着物、ハンカチ、ネクタイ、スカーフ、エプロン、テーブルクロス、袋物などを販売している。2階は絞関連資料展示や職人による絞の実演、絞についてのビデオ上映。絞の体験実習も可能(要予約)。9:30-17:00、水休、入館無料(2階は300円)。建物入口左には昭和61年に皇太子殿下と皇太子妃が訪れた行啓記念碑があり鈴木礼治県知事揮毫。入口右には江戸後期の漢詩人・頼山陽の平成14年建立の詩文碑があり案内板には現代語訳もある。井桁屋に泊まった際に町の風景に心打たれ扇面に書いたもの。 その右には「旧知多郡有松町役場跡地」碑がありここには昭和39年名古屋市に併合されるまで有松町役場があった。
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{右}服部家住宅(井桁屋) 有松町橋東北100 向かいに連なる絞問屋の代表的な建物群。屋号を井桁屋と言い服部孫兵衛が寛政2年(1790)創業。建築年代は不明だが江戸末期から明治初期と言われる。店舗兼居住部1棟、井戸屋形1棟、客室部1棟、土蔵・絞倉・藍倉6棟、門並門長屋2棟が昭和39年県指定有形文化財。現在も絞製品の卸・小売店として続いており瓦葺に塗籠造で2階には虫籠窓、両側に卯建がある店舗部は絞を中心にした和雑貨店となっている。店内には太い梁から嫁入りに使われたと言う駕籠が吊るされている。9:00-17:30水休。向かいの有松・鳴海絞会館や江戸後期の建物とされる棚橋邸は元:大井桁屋の敷地で井桁屋は大井桁屋の分家にあたる。棚橋邸の隣の焼物ギャラリー「碧水」がある建物は元:枡屋で江戸後期の建物。 |
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{右}中濱商店 有松町往還北103 小さな中川橋を越えると右に三菱東京UFJ銀行有松出張所(鳴海町有松裏46-5)の駐車場がありその隣にある。江戸後期から明治の建物である山田邸を再生して利用している絞の店。店の右には平成16年建立の加茂(賀茂)季鷹の歌碑「上代より 千世に契りや 有松の 千しほ八千しほ くくり染けむ」がある。季鷹は山本右膳とも称し宝暦4年(1754)京都生まれで有栖川宮職仁親王に和歌を学び19歳で江戸に出て八丁堀・紺屋町に住んで加藤千蔭、村田春海らと交流を持った。寛政3年(1791)38歳で京都に帰り上賀茂神社の祠官をつとめ天保12年(1841)88歳で没。通称寅之助、号を生山・雲錦。著書に「万葉集類句」「枕詞一言抄」「詠歌概言」「富士日記」など。和歌のほか狂歌や書道にも秀でていた。 |
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{右}神半邸 (旧:神谷商店) 有松町往還北106 隣にある。寛永年間(1624-43)創業で13代続いたという神谷半次郎の絞問屋・神谷商店の建物で大正から昭和初期に建てられた純和風建築。平成15年有松再生プロジェクトの一環で神半邸として改修され現在は和雑貨店「品」、うなぎ料理「うなさく」、パン工房「ダーシェンカ・藏 名古屋有松店」がテナントとして入っている。うなさくは三河一色産のうなぎを使ったひつまぶしが名物。旧家の蔵にそのまま石窯を設置して手作りパンを焼いているパン工房の売場横からは趣のある中庭にも出入りできる。 |
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{右}中町の山車庫(唐子車) 県道237号と交差する十字路を渡り少し行くとある。平成17年再建。唐木造の山車は乗せている3体の人形が全て唐子であるため唐子車と呼ばれる。天保年間(1830-43)に知多・内海の豪商前野小平治が20年余りをかけて製作したと伝わり青貝をちりばめた輪掛けや珊瑚の房など細かな飾りがある。明治8年(1875)に譲られた。大幕は猩々緋に旧町名の「清安町」の文字、水引幕は白羅紗に金糸で左右それぞれ2匹、後ろに1匹の鯉が波間を跳ねている刺繍。後方には長い毛鎗が2本建てられ冷泉家の書と伝わる和文を記した弘化4年(1847)作の追幕(見送幕)がある。前方の采振り人形は弘化4年(1847)真守(2代目隅田仁兵衛)の作。後方の2体による文字書き人形は作者年代共に不明で平成7年に修理された。 |
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{右・寄}磯丸歌碑 山車庫の先を右折したすぐ右に平成17年建立の歌碑「そめそめて あけも美とりも 有松の 里の栄は 色にても知れ」と説明板がある。磯丸は明和元年(1764)渥美郡伊良湖村(現:田原市伊良湖町)に生まれた漁師で伊良湖神社(田原市日出町骨山1407)に奉納された古歌を人が読むのを聞くうちに読み書きが出来ないまま歌を詠むようになり「無筆の歌詠み」「漁夫歌人」と呼ばれた。後に読み書きを覚え大垣新田藩の郡奉行で国学者の井本彦馬常蔭から糟谷磯丸と名付けられ数万首もの多くの歌を残し嘉永元年(1848)没した。 |
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{右}「有松町並み保存地区」説明板 少し先の有松しぼり久田中町店前に「名古屋市有松町並み保存地区」木杭と周辺案内図、その奥に平成7年設置の高札風説明板がある。説明板には広重の保永堂版鳴海宿の絵や保存区の地図もある。町並は江戸時代から昭和初期までが最盛期で建物や店先の装飾も豪華に競い合っていた。天明4年(1784)大火で全戸が焼失したことから現在も残る建物には白壁に海鼠壁の土蔵造、塗籠造、卯建、主に2階の窓にある虫かごの様な縦格子をつけた虫籠窓などの耐火構造が見られる。商家の建物1階の土庇の下は現在は格子となっているが昔は販売の為に大きく開かれていた。有松は昭和49年全国町並み保存連盟の発祥地でもあり昭和59年には市の町並み保存地区の第1号に指定された。 |
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{左}竹田家住宅(竹田嘉兵衛商店) 有松町往還南175 少し先にある。有松絞の祖である竹田庄九郎の子孫の家。庄九郎は屋号を竹屋と言っていたが宝暦年間(1751-63)分家の竹田嘉七が屋号を笹加として独立し明治5年(1872)竹田商店、昭和13年(1938)竹田嘉兵衛商店となった。江戸時代の築とされる塗籠造の主屋を中心として明治から大正に建てられた建物群がある。主屋、書院棟、茶席、宝蔵、1番蔵、2番蔵、縄蔵、西門、長屋門、味噌蔵が平成7年市指定有形文化財。主屋屋根にはガス灯が乗っている。今でも絞問屋をやっており有松絞の高級着物を竹田庄九郎ブランドとして販売。 絞りの皺を活かした独特の洋服はPOCKETEEブランドで海外にも販売しており平成14年にはニューヨークのパシフィック・デザイナーコレクションにも出品した。
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{左}岡家住宅 少し先。江戸時代末期築の主屋は木造2階建で主屋1棟としては有松で一番大きく昭和62年市指定有形文化財。切妻造桟瓦葺で正面に土庇がつき2階は縦格子が美しい虫籠窓。絞問屋の典型的な建物の中でも古いものの一つで幕末当時の間取を現在もほぼそのまま残しており台所の釜場の壁は柱を塗り籠めて波型に仕上げており防火に優れた現存唯一の意匠。江戸時代は絞問屋・丸屋丈助とされ14代家茂上洛の際の「御進発之節御成方々御泊可相成家取調図面」の間取や明治初期に小田切春江が描いた錦絵の外観とも一致している。広重の保永堂版鳴海宿の絵の手前の店は丸屋との説もある。斜め向かいの建物の屋根はトタンで覆われているが有松の街道沿いでは唯一の茅葺屋根。 |
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{左}小塚家住宅 1軒おいた隣。主屋、表蔵、南蔵から成る。主屋は切妻造桟瓦葺で正面に土庇が付き1階は格子窓で2階は塗籠造で建物の境に卯建がある。街道沿いの左端の柱には馬を繋いだという金属製の馬留の輪が付いている。塗籠造の中でも古いものの一つで平成4年市指定有形文化財。江戸時代は小塚善兵衛家で屋号を山形屋と言い明治期まで絞問屋を営んでいた。明治13年(1880)には山形屋内に郵便役所が置かれ小塚助三郎が取扱人になった。向かいには大正から昭和に大工が住んでいた木造2階建の民家を改装し平成15年オープンしたクリエーターズこらぼ(有松町往還北148-2)その横には屋根にガス灯が乗った古い建物の安藤来助商店(往還北148-3)がある。 |
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{右}有松天満社入口 少し先に「文章嶺天満宮」社名石柱と天保13年(1842)建立の一対の灯籠がある。天満社(鳴海町米塚10)は右折すると正面に見えるが名鉄名古屋本線の線路を渡った先にある。江戸中期の創建で当初は祇園寺境内にあったが寛政10年(1798)現在地に移転した。祭神は菅原道真。毎年10月第1日曜日には祭礼の有松山車祭りが行われ布袋車、唐子車、神功皇后車の3輌の山車が有松の街道一帯で曳き廻される。 |
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{左}西町の山車庫(神功皇后車) 斜め向かい。神功皇后のからくり人形が乗っているため神功皇后車と呼ばれる。明治6年(1873)西町が久屋町(現:東区)の御車大工久七に依頼して作ったもので山車の中では一番新しいが一番古くから有松で曳かれている。土井新七の作とされるからくり人形は明治27年日清戦争勝利を祝って造られ朝鮮に出陣する神功皇后が鮎を釣って神意を占った故事を模しており皇后が立ち上がって武内宿禰と一舞した後に鮎を釣るもの。前方には神官の采振り人形もある。関羽を中心とする旧からくり人形3体の部品は有松山車会館に展示されている。大幕は平成6年新調で猩々緋に福田一穂の書で旧町名の「金龍町」を金糸刺繍。4面の水引幕には白羅紗に渡辺小華画の4つの花(芙蓉、水仙、牡丹、杜若)を刺繍。 |
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{右}東海道の名残松(2代目) 向かいの一段高い建物前に松と昭和56年建立の説明碑がある。碑には「東海道五十三次二代目松」とある。樹齢300年の東海道の名残松が1本ここにあったが昭和55年枯れたためその松から採取した種から育ったという2代目が翌年に植えられ碑も建立された。このあたりは松がたくさんあったので「有松」という地名となったという説もあるほど昔は松が多くあった。 |
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{右}大雄山 祇園寺 [曹洞宗] 有松町往還北152 少し先に石段と山門がある。文禄年間(1592-95)瑞泉寺11世仁甫良義の開山、貞昌院智山妙寿大姉の開基で当初は鳴海にあり宝永3年(1706)猿堂寺と改称し宝暦5年(1755)瑞泉寺20世呑舟透鱗が現在地に移転し祇園寺と改めた。現在地は疱瘡をまじないで治すと評判だった僧・苔巌の草庵跡だった。本尊は釈迦牟尼仏。本堂には他にも加葉尊者、阿難尊者、達磨大師、大権修理菩薩、十六羅漢などを安置。昭和43年再建の山門右前に「不許葷酒入山門」碑。山門入った右には地蔵、薬師如来、不動明王や33観音の石像が並ぶ。尾張四国88ヵ所第78番札所。嘉永2年(1849)寺子屋が開設され明治15年(1882)まで続いた。境内右は有松幼稚園(往還北151)で境内にはすべり台、砂場、鉄棒などもある。 |
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{右}祇園寺 仏足石&仏足石歌碑 本堂と左の墓地入口との間の木戸を開けた中庭にある。仏足石は奈良の薬師寺の国宝仏足石を模したもの。その前には同寺の国宝仏足石歌碑の1番歌「美阿止都久留 伊志乃比鼻伎波 阿米尓伊多利都 知佐閉由須礼 知々波々賀多米尓 毛呂比止乃多米尓(御跡作る 石の響きは 天に至りつ 地さえ揺すれ 父母がために 諸人のために)」を豪潮寛海律師が揮毫し刻んだ歌碑がある。文政11年(1828)建立で「光明皇后恭仏跡」ともあり当時は光明皇后が詠んだ歌とされていたが現在では違うとされている。豪潮は比叡山で修行後、故郷の肥後に戻っていたが尾張藩に招かれ文政6年洞松山長栄寺(北区柳原2-17-11)を再興し天保6年(1835)尾張で没した。歌碑の手前には天保11年の宝篋印塔もある。 |
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{右}有松一里塚(87)復元予定地 古い町並もなくなり国道302号(名古屋環状2号線)の高架をくぐる手前右に説明板がある。名古屋環状2号線の高針JCT〜名古屋南IC・JCT間は平成22年の開通を目指して工事中でここに建設予定の有松ICに合わせて街道両側に塚の復元が計画されている。説明板には復元イメージイラストも描かれている。江戸時代の有松一里塚は5間(9.1m)四方で榎が植えられていたが大正13年(1924)に民間に払い下げられて以降姿を消した。高架をくぐると名鉄名古屋本線の踏切を渡りその先で昭和48年竣工の鎌研橋で手越川を渡る。踏切と鎌研橋の間付近が本来一里塚があった場所で東海道分間延絵図には祇園寺と鎌研川の間に描かれている。鎌研橋一里塚とも呼ばれた。 |
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