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{左}一里山庚申道 道標 しばらく行くと昭和38年(1963)竣工の八王子橋で音羽川を渡る手前のガードレール前にある。昭和3年(1928)建立の小さな石柱で「一里山庚申道是ヨ」と刻まれており下部は埋まっている。橋を渡るとすぐに音羽蒲郡有料道路の高架をくぐる。有料道路は三河湾オレンジロードとも呼ばれ長沢町の東名音羽蒲郡ICから分岐し途中2本のトンネルを経て蒲郡市北部に通じる全長3kmで昭和61年に開通した。 |
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{左}長沢一里塚跡(77) 高架をくぐって少し行くと平成17年建立の「一里塚跡」茶色標柱がある。上面には東海道分間延絵図が付いている。享和2年(1802)の長沢村明細書上帳には「左の方の塚は松一本、右の方の塚は榎二本、松一本」とある。付近の街道には昭和50年頃までは90本近くの松があった。一里塚のすぐ先左には江戸時代には御料傍示杭もあった。すぐ先で左に分岐し音羽川を渡る道も江戸時代にあったもので現在は昭和48年竣工の土橋がかかっている。 |
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{右}長沢城跡 説明板 少し先の長沢小学校(長沢町午新88)グラウンド沿いに説明板があり元禄12年(1699)の城郭跡図も掲載されている。ここから北西一帯の東西200m南北250mが城跡で現在は国道1号で分断され南は小学校、長沢保育園(午新134-1)、北は住宅地となっている。築城年代は不詳だが松平宗家3代信光の子で長沢松平家の初代となる親則が長禄2年(1458)頃より居城した。主郭を土塁や堀で囲み南に出入口があり小学校グラウンド付近には寛永11年(1634)家光上洛時の休憩所として長沢御殿が建てられた。延宝8年(1680)廃止になったが説明板斜向かいの音羽川に架かる御殿橋にその名が残る。長沢は東西三河の境にあり戦略上重要な地域で東海道を挟んだ南西の御城山山頂には岩略寺城もあった。 |
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{右・寄}古城観音堂 小学校隣の長沢地区市民館(長沢町午新122)先を右折して行くと正面に石段があり登るとある。松平親則が長沢城を築いた際に恵心僧都作とされる11面観音菩薩を二の丸に安置したのが起こり。天正18年(1590)松平康直の武蔵国深谷への国替後も残されたが昭和33年に像は長沢松平家の子孫に返還され現在は別の観音像を安置している。境内左には寛政9年(1797)灯籠、大正11年(1922)石造千手観音像と灯籠がある。石段の途中右には正安2年(1300)建立の県下最古の在銘板碑で昭和52年市指定文化財の三尊種子板碑(高さ1.9m幅40cm)と説明板、横に石仏がある。雲母片岩質の自然石に20cm角程の書体で金剛界大日如来、釈迦如来、胎蔵界大日如来を表す梵字3字が縦に浅く彫られている。 |
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{右}古谷山 誓林寺 [浄土真宗本願寺派] 長沢町下市3 しばらく進むと右に「兒子神社」石柱があるが神社(長沢町古城60)は国道1号、名鉄名古屋本線、東名高速のさらに北300mの山麓にある。少し先の道が右にカーブする左に石仏がありカーブ後に寺がある。嘉禎元年(1235)親鸞が矢作の柳堂(のちの勝蓮寺)に立寄った時に弟子となった高梨高直が誓海坊となり建てた草庵が起こり。応仁年間(1467-69)8世信海が乙葉山誓林寺として開山し後に長沢城城主の長沢松平家から古谷山の山号を賜った。本尊は阿弥陀如来。山門手前左に雪見型灯籠、右に鬼瓦、山門入って左に「古谷山」手水石がある。寺から少し先で下谷下川を小さな橋で渡ると左に音羽川が接近するようになるが少し先で再び川は離れていく。 |
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{右}巓神社 石柱 しばらく進んでいくと近藤製材所(長沢町ハシカ24-1)手前に寛政10年(1798)建立の秋葉山常夜燈と大正2年(1913)建立の「村社巓神社」石柱がある。巓神社(長沢町栗原4)は国道1号、名鉄名古屋本線、東名高速のさらに北400mの山の中にある。神社の宝徳元年(1449)の棟札には当時長沢を所領としていた今川氏庶流の関口氏の6代教兼が大檀那として記載されており長沢村の旧名である乙葉村の表記もある。関口氏は長沢松平氏の出現で長沢を追われたが今川氏親の元で駿府の守りにつき9代親永の娘は今川氏の人質だった家康の正室となり築山殿となった。 |
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{右}磯丸「みほとけ」歌碑(観音堂跡) しばらく行くとある。石垣の上左に「磯丸「みほとけ」歌碑」と書かれた白いコンクリート柱、「観世音菩薩」と刻まれた石碑、馬頭観音石像がありその後ろに磯丸歌碑がある。敷地の奥には観世音菩薩石像もある。歌碑は弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の供養のため糟谷磯丸に歌を依頼し建てたもので裏には「一百萬遍供養塔」とある。磯丸は明和元年(1764)伊良湖村に生まれた漁師で伊良湖神社(田原市日出町骨山1407)に奉納された古歌を人が読むのを聞くうちに読み書きが出来ないまま歌を詠むようになり「無筆の歌詠み」「漁夫歌人」と呼ばれた。後に読み書きを覚え大垣新田藩の郡奉行で国学者の井本彦馬常蔭から糟谷磯丸と名付けられ多くの歌を残し嘉永元年(1848)没した。 |
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{右}秋葉山常夜燈 少し先の民家前にある。安政6年(1859)建立で隣には弁財天石像が安置された祠がある。その横の右に分岐する道を挟んだ角には石造地蔵立像が安置された祠もある。すぐ先で千束川を大榎橋で渡る。 |
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{左・寄}長寛山 慶忠院 [浄土宗西山深草派] 長沢町日焼18 少し先左に寺名碑があり左折し少し先の2叉路を右折して行き上谷下川を渡った先の左。 永禄4年(1561)に焼失したとされる長寛寺の跡地に天正2年(1574)門空善光が創建した。本尊は阿弥陀如来。大正8年(1919)に西山浄土宗から西山深草派となり国道1号の開通により昭和25年に長沢町大榎付近から現在地に移転した。本堂左前に石仏3体の祠、本堂左奥に古い墓石が並ぶ。明治6年(1873)赤坂郷学校の支学校として創立した長沢小学校(長沢町午新88)は長沢地区内の3寺(上級生は慶忠院、中級生は誓林寺、下級生は洞泉寺)を仮校舎として開校し住職が先生となった。 |
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国道左の旧道 東海道はその先で千束川を千両橋で渡りすぐ左折し国道1号の一本左の細道を進んでいく。少し先左の吉川塗装(長沢町関屋2)手前で左からの道が国道と合流する左に「登屋ヶ根城址「フロの下」猪垣入口」と書かれた白いコンクリート柱がある。左折し300m先左のラブホテル ザ・ミンクス(長沢町番場38)が城の主郭跡で周囲には堀、土塁なども残っている。左折したすぐ右には「赤石神社」寺名石柱もあるが神社(長沢町日焼53)は右奥の山にある。東海道は細道をまっすぐ進み少し先で国道1号と合流する。この先1.5kmほど国道の左歩道を歩き本宿町深田交差点で豊川市から岡崎市に入る。 |
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{左}本宿村入口 石碑&説明板 本宿町深田交差点を渡った左に「自然と歴史を育むまち 本宿」と刻まれた新しい石碑と若い松の木が1本ある。少し先には平成6年設置の「これより西 本宿村」と題した高札風説明板がある。本宿は法蔵寺門前町を中心に発展し古くは寺の裏山付近を通り鉢地を経て宮路山へと続く鎌倉街道も通っていた。江戸時代には赤坂宿と藤川宿の中間に位置する間宿で享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳では村内往還19町(2.1km)家数121、明治7年(1874)額田郡誌には135戸550人とある。古くから麻袋、麻縄(召縄)などの麻細工が盛んで東海道中膝栗毛にも書かれ広重の行書東海道の藤川宿も麻縄を売る家が描かれこの付近を描いたと言われる。法蔵寺前と四ツ谷と呼ばれたこの辺りには立場茶屋もあった。 |
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冠木門 そのまま国道に沿った歩道を進むとある平成6年築の冠木門。手前左とくぐった右には角柱型の新しい常夜燈があり「東海道ルネッサンス」の文字も刻まれている。門をくぐり緩やかな下り坂の歩道を進むと国道の左に平行する車道と合流しその先の新箱根入口交差点を渡る。昭和9年(1934)鉢地坂トンネル(全長469.5m幅4.5m高さ4.7m)開通と共に完成した本宿と蒲郡を結ぶ県道は景色が箱根に似ていることから新箱根観光道路と命名され現在は国道473号となっている。古くは本宿から蒲郡へは山越えする鉢地村道があり応永15年(1408)楠林山安楽寺(蒲郡市清田町門前4)を開山するため法蔵寺中興開山の教空龍芸も通り慶応4年(1868)には蒲郡の竹谷松平氏も東海道警個のために手勢を率い通った。 |
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{左}薬師寺 [浄土宗西山深草派] 新箱根入口交差点から少し先にある。本尊は水分薬師如来。建物は本宿東町公民館にもなっている。左には行者石像が安置される祠がありその前の文政年間(1818-29)に建立された灯籠には「役行者大菩薩」と刻まれている。公民館前にも灯籠があり少し離れたところには秋葉山常夜燈もある。東海道は少し先で国道1号に平行した道から左に分岐する。分岐点には東海道ルネッサンス銘のある「右 国道一号 左 東海道」と刻まれた大きな道標、冠木門にもあった角柱型の新しい常夜燈、平成6年設置の高札風「本宿の歴史と文化をたずねて」説明板があり法蔵寺、七里役所跡、本宿陣屋跡、一里塚跡などが説明されている。 |
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{左}御草紙掛松 分岐点から少し進むと法蔵寺入口左に石柵に囲まれた松と平成18年設置の説明板がある。幼少の家康が寺で伯父(松平広忠の兄)である7世住職の教翁洞恵から手習いを学んだ際に草紙を掛けたと伝わる。家康手植えとも言われ御茶屋の松、御腰掛の松とも呼ばれる。昭和58年枯れたため何度か代替わりし平成18年に4代目が植えられた。石柵は文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進。横には家康も食べたと言われる法蔵寺団子の説明板もある。1本の串に指で押し平たくした団子5個を刺し醤油で焼いたもので門前の立場茶屋で売られ評判となり法蔵寺団子と呼ばれ広まった。団子を売る店は昭和初期まであったという。門前では寺で祈祷してもらった草履も法蔵寺草履として売られていた。 |
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{左}二村山国宝院 法蔵寺 [浄土宗西山深草派] 岡崎市本宿町寺山1 大宝元年(701)行基が法相宗の出生寺として創建したと伝わり至徳2年(1385)京都にあった圓福寺教空龍芸が法蔵寺と改め浄土宗とし嘉慶2年(1388)松平家初代親氏が本堂などを建立した。本尊は阿弥陀如来。御草紙掛松から参道を進み来迎橋を渡った先に山門がありくぐった左に慈光院、右に勝徳寺がある。その先の石段下左に家康が手習いの水を汲んだと言われ日本武尊伝説もある泉「賀勝水」があり石段を登ると鐘楼門がある。本堂は明治10年(1877)に改築。本堂右にはイヌマキと手前に桜がありともに市天然記念物。本堂左には観音堂があり三河33観音第12番札所、三河新四国88ヶ所第35番札所になっている。その左奥には弘法大師の建立と伝わり聖観音を安置している六角堂もある。 |
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{左}近藤勇の首塚 境内左の石段を登るとある。慶応4年(1868)東京板橋刑場で処刑された近藤勇の首は京都三条河原に晒されたが隊士が3晩目に盗み出し近藤が敬慕していた誓願寺の称空義天に頼み埋葬してもらおうとしたところ称空は法蔵寺39世住職となっておりここに運び埋葬されたと伝わる。昭和33年に石碑が発掘され横に近藤勇の胸像が建てられた。石碑の台座には土方歳三と10名の名前があるが歳三以外は新選組ではなく戊辰戦争で戦った伝習隊士などの名。胸像は三鷹市の龍源寺や京都の壬生寺の近藤勇像も造っている彫刻家・木村恵保の作。首塚の正面には家康の父・松平広忠(松平8代)、異母弟・忠政、異母妹・矢田姫などの五輪塔などが並ぶ。石段を更に登ると江戸後期建立の東照宮がある。 |
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{右}不動院 法蔵寺入口からすぐ先で大正9年(1920)竣工の法蔵寺橋で鉢地川を渡り少し歩くとある。建物は本宿町中集会所になっている。建物左に石仏3体(立像、座像、地蔵)や元禄3年(1690)西国三十三観音巡礼碑などの石仏、石塔群がある。 |
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{左}「本宿陣屋跡と代官屋敷」説明板 少し先に簡単な地図付きの立札説明板がある。ここを左折し坂道を登るとある冨田病院(本宿町南中町26)が本宿陣屋跡。旗本柴田出雲守勝門は元禄11年(1698)関東から三河に知行替えとなったが江戸在勤だったため本宿に代官陣屋を設置した。陣屋は明治まで存続し陣屋隣の文政10年(1827)築の代官屋敷は現在も病院右の駐車場の一角に居宅として現存している。代官は冨田家が世襲し冨田牧太は荻野流、高島流の砲術家でもあり近くの平五沢で砲術稽古をしたと言われる。作曲家でシンセサイザー奏者の冨田勲の父親の実家でもあり冨田勲も戦時中の小・中学時代はここで過ごしていた。近隣の本宿小学校、藤川小学校の校歌、東海中学校の応援歌なども冨田勲が作曲している。 |
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{右}本宿村道路元標 少し先右には一本松があり向かいには味噌醤油醸造業・神谷合名會社と日本レトルトフーズ株式会社が同居した古い木造2階建の建物(本宿町南中町45)があり平成13年に岡崎市都市景観環境賞を受賞している。松の先には火の見櫓があり根元には本宿村道路元標と説明プレート碑がある。大正11年(1922)道路法施行令で各市町村ごとに1つ設置が義務付けられたもので道路の起終点を示したり里程の基準になった。隣には寛政13年(1801)秋葉山常夜燈もある。 |
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{左・寄}林光山 欣浄寺(ごんじょうじ)[浄土宗西山深草派] 本宿町東木竹16 少し先左に十王堂跡の立札説明板があり手前を左折し坂を登ると正面。天正7年(1579)洞文が開基した法蔵寺の末寺。本尊は阿弥陀如来。街道沿いにあった十王堂は昭和30年に境内の本堂右に移されており安置されている桧寄木造・玉眼嵌入の地蔵菩薩坐像(高さ34.9cm)は昭和62年市指定文化財。鎌倉末期〜室町初期の作とされ弘化3年(1846)に29世禎空上人により修理されている。境内入って右には3座像と1立像の石仏が安置された祠。その横には石祠、西国八十八所巡礼碑もある。境内手前右にはブランコ、すべり台などもある。 |
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{右・寄}本宿駅 少し先を右折すると名鉄名古屋本線の本宿駅に通じる。国道1号を横断する際は栄地下道を通るが地下道の両側壁面には文化3年(1806)東海道分間延絵図(御油〜藤川)と享和2年(1802)三州額田郡本宿村絵図が掲示されている。大正15年(1926)開業の本宿駅は木造平屋建だったが昭和9年(1934)蒲郡ホテル(現:蒲郡プリンスホテル)の建物を似せて主屋に八角屋根、銅板葺の塔楼をのせた建物に改装された。現在の駅舎は平成4年の国道拡張に伴い新築されたもので駅前には旧駅舎の3分の1模型が置かれている。駅前の国道沿いには平成6年設置の「本宿駅の由来と歴史」説明碑、「本宿 江戸より七十七里」石柱、平成6年設置の「自然と歴史を育むまち本宿」高札風説明板などもある。 |
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{右}本宿一里塚跡(78) 少し先の薬局本多薬品(本宿町一里山12)の3軒先の民家前に昭和58年建立「東海道 一里塚跡」石柱がある。昔は左右とも榎が植えられ左塚は明治初期に取り壊されたが右塚は昭和20年頃まであったと言う。 |
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{左}薬王山 揚珠院 [単立] 本宿町上ノ山19 しばらく行くとある。普通の民家っぽい新しい建物に「薬王山」扁額が架かっている。享保18年(1733)創建で本尊は地蔵菩薩。道路側に平成20年建立寺名石柱、石仏の祠、「薬師如来」と刻まれた古い石柱、手水石、灯籠がある。以前は藤川宿の橘屋脇本陣の建物が本堂として移築されていた。 |
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{左}宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡と長屋門 しばらく行くと右の味処通りゃんせ(本宿町城屋敷5-1)斜め向かいに長屋門と説明板がある。宇都野家は古部村(現:古部町)の出身で宝暦年間(1751-63)3代目立碩が当地で開業し代々医者の家系だった。7代目の龍碩は蘭方医で安政年間(1854-59)から当時この辺りでは珍しい植疱瘡(種痘)を施したことで知られたが文久2年(1862)江戸に出かけたまま同年没した。龍碩が蘭方医学を師事したという周防国萩藩の藩医・青木周弼は文政7年(1824)シーボルトが長崎郊外に設けた鳴滝塾の門人でもあり藩中に植疱瘡を広めている。ドイツ人医師シーボルトは文政9年のオランダ商館長の江戸参府に随行した記録「江戸参府紀行」にこの辺りの山中で植物採集をしたと記述しており法蔵寺にも立寄っている。 |
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{右}本宿村出口 道標&説明板 少し先右に松が8本、左に1本ありその先の本宿町沢渡交差点で国道1号に合流する。合流地点右の三角地帯には松2本があり国道側に向いて平成6年設置の「これより東 本宿村」高札風説明板、薬師寺先の分岐点にもあった大きな道標「左 国道一号 右 東海道」、角柱型の新しい常夜燈がある。この辺りは山綱村、市場村との村境で古くは駅家(宿場)もあったと言われ本宿(元宿)の名の由来となった。江戸時代の絵図では街道両側とも家はなく松並木が続いていた。この辺りからは衣文観音で知られる黄梅山渭信寺[曹洞宗](上衣文町神五鞍30)へ向かう参道も分岐していた。 |
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{左・寄}神明社 山綱町中柴61 国道に合流し左歩道をしばらく歩いていくと国道を横断する山中地下道の入口がありこの先の旧東海道を辿るためには地下道をくぐって右歩道に行く。地下道をくぐらずすぐ先を左折して行くと右に神社がある。入口右の神社名石柱は明治38年(1905)建立、入口の灯籠は明治31年、数段の石段途中にある鳥居は明治38年。境内右に中柴公民館、中柴稲荷、柵で囲まれた灯籠がある。狛犬は平成20年。入口手前右にはすべり台がある。 |
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{右・寄}名電山中駅 国道の右歩道を進むと名鉄名古屋本線の線路が右に沿うようになり少し先で国道から右に降りていく下り坂の細道が分岐する。旧東海道はこの分岐を降りて山中の集落を進む。しばらく進んだ右の小林日進堂(舞木町山中町62-1)手前の小道を右に少し入ると駅がある。大正15年(1926)開業。当時は愛知電気鉄道の路線だったため愛電山中駅と称したが昭和10年(1935)名岐鉄道との合併により名古屋鉄道が誕生し名電山中駅に改称した。 |
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{右}相馬稲荷 少し先で緩やかな下り坂となりしばらく進むと左の岡崎警察署舞木駐在所(舞木町山中町123-3)を少し過ぎた向かいにある。昭和53年建立の鳥居をくぐると右には延命地蔵尊など石仏2体を安置する祠があり左には大黒天と恵比寿の石像を安置する祠がある。社殿には御嶽大神と猿田彦大神も祀っている。 |
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{右}大雄山 興円寺 [曹洞宗] 舞木町小井沢31 少し先の民家前に寺名石柱と「額田郡新四國三十七番札所」石柱、地蔵の祠がある。民家横に参道や石段が続くが名鉄名古屋本線の線路で分断され閉鎖されており境内に行くには迂回する必要がある。元禄14年(1701)年創建で本尊は聖観音菩薩。境内には山門入って右に享保17年(1732)の地蔵や嘉永5年(1852)の手水石があり本堂左奥の墓地前には大きな地蔵が3つある。街道沿いの札所石柱には「山中村」とあり古くはこの辺りは山中村だった。慶安元年(1648)三河代官が市場村の一部68戸を藤川宿の加宿として移転させた際に残りの市場村と山中村が併合して舞木村となった。舞木の地名は山中八幡宮の古書に書かれた「雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる」の一節に由来する。 |
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{左}舞木町ポケットパーク しばらく行くとAZ house岡崎営業所(舞木町阿形26-11)前にある。平成15年設置の東海道と舞木町の由来の高札風説明板、ベンチ、大きな松、冠木門がある。竹垣には山中城址の説明板と山中八幡宮の説明板も設置されている。山中城はここから南西1kmほどにあった山城で東西400m南北200mに主郭・二の郭を中心とした帯状の曲輪が囲んでいた。岡崎を拠点とする大草松平家の城だったが3代昌安(信貞)の頃の大永4年(1524)安城松平家の4代清康(家康の祖父)が攻略。天文4年(1535)清康の没後は今川氏が占拠し永禄3年(1560)桶狭間の戦い後に家康が奪取、永禄7年からは家康家臣の酒井忠次の所有となった。 |
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{右・寄}専稱山 永證寺(永証寺) [浄土宗] 舞木町堂山29 斜め向かいの株式会社ダッド(舞木町堂山13)を過ぎると両側に松が1本ずつあり少し先の平成10年竣工の舞木橋手前右に昭和60年建立の寺名石柱と古い「額田郡新四國第三拾八番」石柱がある。右折し道なりに行き名鉄山中変電所の鉄塔の裏あたりに寺がある。明和2年(1765)創建で本尊は阿弥陀如来。境内左奥には「大聖弁財尊天 堂山白龍尊天」の祠がある。平成10年竣工の舞木橋で山綱川を渡ると左に松が4本あり3本目の松の根元には「東海道」石柱がある。少し先の舞木町西交差点で東海道は国道1号に合流する。 |
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{左・寄}山中八幡宮 舞木町宮下8 交差点を横断すると文政4年(1821)「御開運御身隠山」石碑がありその手前を左折して行くと正面に天保4年(1833)の大きな常夜燈があり右折すると正面。祭神は誉田別尊。文武天皇の代(697-707)にこの地に居た山中光重の創建とされ天文年間(1532-55)に焼失したが松平広忠(家康の父)が再建した。赤鳥居をくぐり御神橋を渡ると大きな昭和10年(1935)灯籠、右後ろには市指定天然記念物の楠(根周10.8m樹高21m樹齢650年)。その先の石段には灯籠が並び登りきると左に昭和15年百度石、その先左には神主竹尾正胤が京都御所の紫宸殿の庭より貰い受けた種から育ったという楓「雲居乃錦」があり昭和15年建立石碑もある。正面の社殿の両脇奥には境内社、右奥を進むと奥宮がある。 |
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{左・寄}山中八幡宮 鳩ヶ窟 石段を登りきる手前を左折していくと右にある。永禄6年(1563)三河一向一揆が起こり追われた家康が身を隠した洞窟と伝わる。追手が洞窟を探そうとすると中から2羽の白鳩が飛び立ち「人のいる所に鳩がいるはずがない」と思った追手はそのまま立ち去ったと言う。神社は他にも家康に縁があり天文11年(1542)家康誕生時に際し神主竹尾安信は岡崎城まで呼ばれ祈願した。永禄元年(1558)には初陣の寺部城攻めに際し家康が戦勝祈願に訪れ社殿左前にはこの時に地面に挿した矢から芽吹いたという「出世竹」がある。慶長2年(1597)には石川数正、酒井寿四郎に命じ衡門(冠木門)を建て社殿を造営、寛永11年(1634)には3代将軍家光が上洛途中に参拝し東照宮を合祀し葵の紋の使用を許可した。 |
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{右・寄}山中八幡宮 裏鳥居 舞木町西交差点から国道1号を進み左にENEOS一畑SS(舞木町松下7-3)とHOTEL Gr.Picaso(舞木町松下8-1)を過ぎると少し先左に石段と鳥居が見える。鳥居は昭和10年(1935)建立で手前には灯籠と左に文化12年(1815)「御開運御身隠山」石柱もある。石段を登ると山中八幡宮の奥宮、境内に続く。神社一帯の常緑樹が群生する森はヒメハルゼミの生息地として昭和57年に市天然記念物に指定され県の環境指標地にもなっている。神社には室町時代から五穀豊穣を祈る田植神事「デンデンガッサリ」も伝わり昭和47年市無形民俗文化財に指定されている。正月3日に行われ前歌・後歌・科白・所作の4部構成で牛に扮した氏子が直径70cm重さ80kgの鏡餅を背負って運び倒れ最後に餅を切り投げて配る。 |
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