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{右}市場村 説明板 しばらく国道1号を進んで行くと市場町交差点の先で国道は線路越えのために上り坂となるが旧東海道は左へ分岐し県道327号線へ入る。左歩道を歩いていれば自然に分岐する。分岐点正面には藤川郵便局が設置した市場村の木製説明立札と「藤川宿」の木製矢印立札がある。市場村は元は現在の舞木町市場付近にあったが藤川宿の規模が小さく困窮したため慶安元年(1648)三河代官・鳥山牛之助がこの付近に68戸を移住させたため「加宿市場村」となった。 |
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東棒鼻跡 分岐してすぐ県道は右に逸れるが東海道はまっすぐ細い道に入る。入口には「従是西藤川宿 東海道五十三次之内」の傍示杭があり棒鼻(見付)が再現されている。東棒鼻は広重の藤川宿の絵の題材になっており平成4年に絵を参考に傍示杭のほか石垣、石垣の上の柵、2枚の立札、柳の木などが再現された。立札の1枚には「京へ四十六里二十七丁 岡崎へ一里半 赤坂へ二里九丁 江戸へ七十八里二十九丁」とある。地面にはその絵が嵌め込まれた石碑もある。石垣の右には宿内の見所の地図と案内を記した「是より西、藤川宿 岡崎宿へ一里二十五町〜藤川の歴史と文化を訪ねて〜」の説明板もある。棒鼻は棒端とも書き江戸時代の街道往還図には「宿囲石垣」とも書かれている。 |
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藤川宿 本陣1脇本陣1旅籠36家数302人口1213[天保14年(1843)] 鎌倉街道に存在した宿場町を天正18年(1590)岡崎城主・田中吉政が現在地に移転し整備した。かつては宇治川という地名だったこの地は藤の花が見事だったことから藤川と名が改められたと言われている。宿場開設当初は藤川村のみだったが慶安元年(1648)市場村から68戸が東側に移住し加宿市場村が出来た。江戸時代は塩の道である吉良道が分岐する交通の要所で最盛期には100軒ほどの旅籠や茶屋があり賑わったが安永元年(1772)疫病が流行し人口の1/3が病死した。明治に入ると通行人の減少で宿場業が衰退し代わってガラ紡績業に転じて戦後の最盛期には46もの工場があった。 |
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{左}市場改耕碑 少し先の突き当たりにある。大正10年(1921)建立で愛知県知事川口彦治の揮毫。裏には碑文があり愛知県産業部長眞船民伊の撰文、額田郡長山本武五郎の書。このあたりは土地に凸凹が多く道路も湾曲し灌漑も不利だったため数人が発起人となって土地改良を申請し明治28年(1895)認可が下りたが発起人たちが没し中止となった。大正7年再開し大正10年に完了した。ここから道は曲尺手(枡形)になっており突き当たりを右折し少し先で県道に出て左折する。慶安元年(1648)加宿市場村を作った際に道を曲げたとされ県道に出た右の民家生垣には「曲手」説明立札もある。その向かいには寛政7年(1795)秋葉山常夜燈もある。県道に出た角には道中記で書かれて有名になった茶屋かどや佐七があった。 |
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{右}津島神社入口 左折し一直線のゆるい下り勾配の県道327号線をしばらく進むと岡崎市藤川消防団第三部車庫警備室と市場公民館の間に共に大正6年(1917)の神社名石柱と灯籠がある。元文3年(1738)創建の津島神社(市場町町裏52)はここを右折し名鉄名古屋本線、山綱川、国道1号を越えた先にあるが線路は渡ることが出来ず迂回が必要。線路の向こうには大正6年鳥居と昭和15年灯籠がある。山綱川を渡る橋は昭和62年竣工の天王橋。国道も分離帯があるため渡れずに迂回が必要。国道に沿った数段の石段上にすぐ社殿があり社殿前には明治26年(1893)の灯籠が4基、境内右に嘉永7年(1854)の灯籠が2基ある。狛犬は昭和10年(1935)。 |
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{右・寄}白馬山 阿弥陀寺 [浄土宗西山深草派] 市場町町裏40・50 津島神社社殿の左にある。本尊は木造阿弥陀如来座像(高さ70cm)。創建は不明だが天保14年(1843)東海道宿村大概帳には禅宗の寺として掲載されており位置も災害や国道の改修等により変わっている。現在は無住で同じく国道沿いにある徳性寺が管理している。藤川教会とも呼ばれる。 |
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{左}藤川宿観光用駐車場 津島神社入口から少し先にある。入口には門柱代わりに平成13年建立の石柱があり右石柱には「藤川宿 駐車場」、左石柱には麦のイラストと裏に芭蕉句「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」が刻まれている。右石柱の右には駐車場利用の注意事項を書いた「定」札もある。駐車場内にはトイレやベンチ、右奥に宿内史跡地図の入った説明板があり「むらさき麦」についても説明されている。藤川宿はむらさき麦と藤の花が名物で道中記や古歌に多く詠まれた。むらさき麦の品種には紫裸(むらさきはだか)、妻町糯(つままちもち)、徳島糯(とくしまもち)、露(つゆ)、大公館(だいこうかん)があり説明板には写真も紹介されている。麦は一時途絶えたが西棒鼻跡手前の麦畑など宿内の数箇所で復刻栽培されている。 |
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{右}藤川郵便局跡 酒屋よしのや(市場町東町93)の先に藤川郵便局が設置した木製説明立札がある。郵便局は明治元年(1868)の東海道藤川宿飛脚屋に始まり明治4年藤川郵便取扱所となり明治8年藤川郵便局と改称した。大正14年(1925)向かい付近の市場町東町22番地へ移り平成9年には南西100mほどの現在地(市場町円光24)に移った。 |
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{右・寄}大コー山 徳性寺(とくしょうじ) [浄土宗西山深草派] 市場町町裏25 少し先の十字路を右折正面。途中名鉄、山綱川、国道1号を越える。慶長16年(1611)法蔵寺11世長翁教安が山中郷市場村に隠居寺として創建し弟子の教円に譲り初代住職とした。3世廓空倍山の代の慶安元年(1648)市場村の一部が藤川宿に移転する際に粟生又右衛門が所有農地(現在地)を寄付し翌年移転した。本尊は阿弥陀如来坐像。本堂内には聖観世音菩薩、善光寺如来三尊像、地蔵菩薩像などもある。本堂左奥の徳性寺稲荷は正徳4年(1714)宿場大火事を事前に知らせたと伝わる白狐を祀る。稲荷から背後に登る山は三洲88ヶ所山道で弘法と観音の88組の石仏がある。境内右に「延命の鐘」の鐘楼。三河33観音第10番札所。境内左には昭和58年鳥居、三界万霊塔、地蔵、百度石もある。 |
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{左・寄}法弘山 明星院(みょうじょういん) [真言宗醍醐派] 市場町元神山16 十字路少し先を左折正面。元は那智山青岸渡寺[天台宗]の末寺で舞木村にあったが慶安元年〜延宝3年(1648-75)に行者秀悦が現在地に移転し天和年間(1681-84)巧嶺寿徳の代に醍醐山醍醐寺三宝院末となった。本尊は不動明王立像で「片目の不動尊」と呼ばれる。永禄5年(1562)扇子山の戦いで敗走する家康を武士の姿となりかばい矢を受け片目となったと伝わる。所蔵の那智参詣曼荼羅は昭和63年、蔵王権現懸仏は昭和62年に市文化財指定。三河新四国88ヶ所霊場33番札所で本殿左の大聖殿は同34番札所にもなっており石造行者像を中心に右にも行者像、左に石仏3体がある。堂の左に明治34年(1901)建立昭和51年修復の宝篋印塔、右には卵型墓石。境内左には明星観世音菩薩もある。 |
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{左}粟生(あおう)人形店 市場町東町1 橋名のない小さな橋を渡ると旧市場村から旧藤川村となりすぐ先に3階建に櫓が付いたような白壁の建物がある。建物は昭和57年築と新しいが木造、土壁造りで昭和62年に第1回岡崎市都市景観環境賞を受賞している。人形店は昭和38年創業で雛人形、五月節句人形などの日本人形の他、鎧、兜、羽子板、破魔弓、鯉のぼり、武者幟なども製造販売している。10時-19時。11月〜5月5日まで無休、他は土日休。木で作られた胴に衣服の皺の筋彫りを入れ布の端を押し込んで衣装を着ているように仕上げる木目込人形の教室も開催している。
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{右}高札場跡 向かいに木製説明立札がある。ここにあった藤川宿の高札場は高さ1丈(3m)長さ2間半(4.5m)幅1間(1.8m)の大きさで8枚の高札が掲示され大きいものは横238�兔�53�僂△辰拭8渋犬垢觜盪イ�6枚ありいずれも正徳元年(1711)のもので昭和53年市文化財指定。その内の「きりしたん宗門」「駄賃並人足荷物次第」「親子兄弟夫婦」の3枚は藤川宿資料館に展示されており他の「藤川よりの駄賃並人足賃」「火付け用心」「毒薬にせ薬売買の事禁制」に関する3枚は岡崎城で保管し1枚は天守閣の郷土博物館内に展示されている。 |
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{左}田口屋 粟生人形店の3軒先にある千本格子の古い建物。屋号が書かかれた小さな木札が掲げられているが説明板などはない。藤川宿資料館に展示されている江戸時代の藤川宿の町並図には手前に小嶋屋、先に称名寺への小路を挟んで榊屋、向かいに常盤屋、山吹屋、川西屋があった。 |
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{左・寄}巌松山柳田院 称名寺(稱名寺) [浄土宗西山深草派] 藤川町中町南15 田口屋先の小路を左折正面。左折するところの右には寺名石柱がある。創建は法蔵寺7世の教翁洞恵と言われ創建時は山の上にあったが永禄11年(1568)現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。本堂内には雷除けの伝説がある十一面観世音菩薩像や法然上人像など12体の仏像も安置する。本堂右前の駐車場隅に武田信玄の弟・河窪信実から8世にあたる藤堂家の家臣・武田成信の墓があり没年は宝暦13年(1763)。その横には江戸時代の最強力士・雷電爲右衛門に文化7年(1810)最後の黒星を与えた江戸ヶ崎(嵜)源弥の墓もある。相模国大住郡四之宮村(現:平塚市四之宮)出身だが文化9年京都に向かう途中に藤川宿の旅籠竹屋で32歳で没しこの寺に埋葬された。その横には33観音+2石仏が並ぶ。 |
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{右}問屋場跡 少し先の小林商店(藤川町中町北32)隣に石柱と説明立札、背後に昭和27年(1952)小林邸として改築された問屋場建物がある。宿開設当初は問屋役の屋敷の1部を使用していたが江戸中期に現在地に専用建物を建てた。間口7間(12.7m)奥行20.5間(37.3m)敷地面積140坪(470平方m)で中庭があり部屋数も多く明治5年(1872)伝馬制廃止後は手習い所として使われた。藤川宿では問屋場は「御伝馬所」とも称し問屋役2人年寄5人帳付4人飛脚番6人などが詰めた。藤川宿は新居から宮までの11宿場から成る組合の取締役を赤坂宿とともにつとめ取締役は年に数回各宿場をまわり「人馬日締帳」を調べたり諸問題の解決にあたった。「藤川駅御伝馬所取締役」「藤川駅組合駅伝取締所」などの印が現存する。 |
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{左}商家 米屋 (現:野村薬局・野村邸) 藤川町中町南48 少し先にある。米屋は米を商い宿内では規模が大きい商家で米倉3棟と長屋を別棟に持っていた。千本格子と屋根の両端の軒卯建が特徴。軒卯建は隣家との境を示すとともに火災から類焼を防ぐためのもので後には装飾的な意味が強くなり財力をアピールする為の指標として関西を中心に競い合うように立派な卯建がつけられた。藤川宿資料館に展示されている江戸時代の藤川宿の町並図には手前に虎屋、向かいに桝屋、白木屋、上田屋があった。 |
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{左}商家 銭屋(よろず屋)(現:平岡邸) 一軒おいた隣。岡崎警察署藤川駐在所(藤川町中町北10-1)の向かい。間口、奥行き共に6間(11m)。連子格子や格子戸、軒卯建が特徴。現在は雨樋があるが古くは米屋も銭屋も樋がなく雨水は前に出た大屋根から直接下の溝へ落ちるようになっていた。藤川宿資料館に展示されている江戸時代の藤川宿の町並図には手前の米屋との間には山崎屋があり先の紅屋との間には小銭屋があった。 |
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{右}本陣跡 藤川宿第二資料館 銭屋斜め向かいにある。駐在所の隣。森川本陣跡で森川家は菅原家の子孫で久斉の時に御油に移住し孫八郎は家康に仕えた。喜太郎のときに藤川に移り本陣役となり敷地1反(千平方m)を有した。江戸時代後期の久左衛門の時は建坪194坪(641平方m)門構玄関付と記録がある。本陣としては珍しい桧皮葺の建物は昭和中期まで残っていたが現在の敷地は森川家所有の民家と駐在所に分かれ民家は市が借り受け「藤川宿第二資料館」となっており浮世絵などが展示されている。前庭には「本陣跡」石柱と広重の絵が高札風に掲示してある。向かいには紅屋の木札がかったトタン壁の家がある。藤川宿の本陣は2軒あった時期もあった。 |
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{右}脇本陣跡 藤川宿資料館 藤川町中町北6-1 少し先にある。関ヶ原の戦い後に藤川へ居住したと言われる大西三家のうち大西喜太夫がつとめた橘屋脇本陣跡。唯一現存する門は享保4年(1719)築を改修したもので現在残る敷地(99.17平方m)は昭和53年市指定史跡。当時の敷地はその4倍の130坪(450平方m)あり明治初期には明治天皇も休憩した。昭和30年岡崎市と合併する前まで藤川村役場がありその後は岡崎市藤川連絡所、公民館などを経て平成2年に資料館となった。資料館は無人(自分で電気をつけて見学)で500分の1の宿場の模型や本陣文書、代官覚書、伝馬朱印状などの古文書の複製、古地図、古民具、高札、陶器製の関山神社の狛犬等が展示されている。無料、9時-17時、月休。庭には「藤川宿脇本陣跡」石碑と説明板がある。 |
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{右・寄}森川本陣の石垣 脇本陣の門左には藤川村道路元標がありその角の小路を右折していき本陣の裏手に回ると石垣がある。家康に仕え御油に住んでいた本陣森川家の先祖の孫八は御油から岡崎まで4里半(18km)の間に早鐘9つを吊し敵の襲来時に叩いて知らせるなど功績を残した。この石垣も先祖の功績に習い敵の襲来に備えて築かれたものと言われ赤味を帯びた石を丁寧に積み上げている。石垣の前には麻に似たイラクサ科の多年草の苧(からむし)が群生している。茎の皮からは布を織る繊維が採れ木綿以前の代表的繊維だった。藤川宿では苧細工が名物だったが現在は日本で唯一、福島県昭和村で作られている。付近の畑ではむらさき麦も栽培されている。 |
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{左}ポケットパーク 脇本陣跡の少し先で左に道が分岐する角にある休憩用の小公園。平成12年建立の「東海道 藤川宿 江戸まで七十八里 京まで四十八里」石柱、平成11年岡崎市都市景観環境賞の受賞プレート、ベンチ、藤川宿説明板「歴史の息づく住みよいまち 藤川」がある。 |
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{右}関山神社の灯籠 少し先に進むとある。明治44年(1911)建立の灯籠2基と右に明治38年(1905)建立の神社名石柱、左に「東海道」石柱がある。灯籠の間が参道になっており先には名鉄名古屋本線の踏切が見えるが神社には直線では行けない。神社は北東300m先の山麓に里宮(藤川町王子ヶ入13)があり奥宮は山頂にある。藤川の鎮守として崇敬されてきた神社で所有する昭和53年市指定文化財の慶長6年(1601)藤川宿駒牽朱印状は岡崎市美術博物館(高隆寺町峠1)に保管されている。岡崎城の郷土博物館に展示されている御伝馬所取締役印や高札も関山神社の所有品の一つ。 |
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{左・寄}松音山 伝誓寺 [真宗大谷派] 藤川町西町南51 少し先で百田川を昭和54年竣工の宿場橋で渡り少し先を左折すると正面にある。古くは別の場所にあり大蓮坊と称し天台宗の寺だったが室町時代中期に改宗し江戸時代に現在地に移った。本尊は阿弥陀如来で本堂内には親鸞聖人画像、彰如上人画像、仏頭もある。仏頭は泥棒が別の寺から盗んだもので追われていたため額の水晶だけ取ってあとはこの寺に置いていったという言い伝えがある。本堂欄間には左甚五郎が彫ったという竜の彫刻があり飛び出して田畑を荒らしたと言う伝説もある。他に寺の中興に尽くした村井三十郎の位牌もある。現在の建物は昭和45年の改築。境内左には昭和55年鋳造の梵鐘がある鐘楼、多くの無縁墓石と地蔵などがある。 |
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{左}むらさき麦 麦畑 しばらく先の藤川小学校前に松並木が現われるとその向かいに畑と説明立札がある。茎や葉、穂がほのかな紫色に染まるむらさき麦は食用のほかに染料としての用途もあり藤川宿が名物で東海道名所図会などの文献でも紹介され芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と詠んだ。収益性が悪く戦後に栽培が途絶えたが芭蕉300回忌にあたる平成6年から愛知県農業総合試験場の協力により栽培を再開した。平成19年には藤川で栽培されたむらさき麦の品種「大公館」を原料にして合同酒精が製造した高級麦焼酎「大公館」が限定で商品化された。麦の色素「アントシアニン」が一般的な麦焼酎の10倍あると言い岡崎商工会議所の「おかざき地産地消セレクション」に初のアルコール類として認定された。 |
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{右}西棒鼻跡 斜め向かいの松並木の合間にある。東棒鼻跡と同じ「従是東藤川宿 東海道五十三次之内」と書かれた傍示杭や「江戸へ七十八里二十九丁 赤坂へ二里九丁 岡崎へ一里半 京へ四十六里二十七丁」と書かれた立札などがある。片側だけだが石垣も再現されており新しい灯籠や東海道往還図も高札風に設置されている。広重の師匠である歌川豊広が描いた浮世絵の中に書かれた狂歌歌碑「藤川の しゅくの棒はな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」もある。 |
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{左}十王堂 (一里山閻魔堂) 藤川町一里山南25 藤川小学校を過ぎるとすぐ向かい。街道に面して閻魔堂があり奥に本堂がある。十王が座る台座の裏に記されている宝永7年(1710)が創建と推定されている。境内右には芭蕉が藤川で詠んだ句「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた」の句碑が2つある。高さ90cm幅50cmの小さな方が古いが建立年月不明。高さ1.65m幅1.6m厚さ20cmの大きな方は「当国雪門月亭其雄并連中」「以高隆山川之石再建」とあり芭蕉の百回忌の寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したもので東海道中で最大サイズとも言われる。堂には忠臣蔵の神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎の伝説も伝わる。境内右には大きな座石仏が安置されたコンクリート製祠や石仏がある。 |
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{左}藤川一里塚跡(79) 少し先左の民家前に白い「一里塚跡」木札と説明立札がある。両側に榎が植えられた塚は天保年間(1830-43)頃にはすでに左塚はなくなっており右塚は昭和初期頃に榎が枯れ戦後には土盛りもなくなったという。街道を挟んで地名が一里山北、一里山南と言う。一里塚跡を過ぎると右に松が現れ先に進むにつれて数が増えていく。左にも松が現われる手前で県道327号線は吉良道として左に分岐していくが東海道は右にまっすぐ進む。 |
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{左}吉良道道標 分岐点の三角地帯に文化11年(1814)建立の道標(高さ143cm幅20cm)と説明立札、新しい灯籠がある。道標は正面に「西尾 平坂 土呂」その下にやや大きく「吉良道」と彫られ左面に「東都小石川住」とある。ここから左に分岐して西尾市、吉良町を通り三河湾沿岸に出る吉良道は海産物を運ぶ重要な道であり西尾藩の藩主も参勤交代でこの道を使った。吉良町は忠臣蔵の吉良上野介の高家旗本・吉良家の領地4200石の中の1つでもあり吉良の名は西尾市八ツ面町の八ツ面山(標高67m)に産する雲母(きらら)に由来し道標の石の中にも雲母が混じっている。分岐点左には「きらみち」「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造観音の祠があり右には藤川郵便局設置の「吉良道」の説明立札もある。 |
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藤川の松並木 すぐに両側が松並木となり少し先で名鉄名古屋本線を踏切で渡りゆるい下り勾配で松並木が続く。1kmの間に幹周2m樹高30mのものなど90本の黒松が残っており昭和38年市天然記念物指定。平成11年には並木間に白御影石製の角柱常夜燈が14個設置され夜には灯がともりライトアップされる。松並木左はレッドバロン本社(藤川町境松西1)の敷地が続く。途中左に「藤川宿 東海道」石柱、「藤川のまつ並木」説明立札、「東海道」石柱があり並木がなくなると右に大きなキノコ型常夜燈がありすぐに藤川町西交差点で国道1号に合流する。合流地点右には宿内の見所の地図と案内を記した東棒鼻跡のものと対になる「是より東、藤川宿 赤坂宿へ二里九町〜藤川の歴史と文化を訪ねて〜」の説明板がある。 |
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{左}異香山 阿弥陀寺 [浄土宗] 西神馬崎南側2 国道を進み岡崎神馬崎交差点左にある。貞享2年(1685)創建で当初は阿弥陀堂と言った。本尊は阿弥陀如来の立像と座像で恵心僧都の作と伝わる。他に弘法大師と興教大師の両祖大師木像や釈迦如来像も所蔵する。石段上の山門手前左にコンクリート製の祠があり馬頭観音と座像石仏、立像石仏が安置されている。山門入った左には文久2年(1862)手水石がある。山門手前右の寺名石柱は平成3年建立。交差点を渡ると車道は下り坂になるが歩道はそのまま進み車道より上を歩く。 |
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旧道分岐 しばらく行くと車道の高さは元に戻るが歩道は自然に国道から左に分岐する道に合流する。ここで分岐する道が旧東海道で左には「愛知産業大学 留学生会館 美合寮」と壁面に表示されたマンション風建物がある。分岐後しばらく先で昭和52年竣工の坂下橋で竜泉寺川を渡ると左には枯れた松が3本並びその先の信号がない交差点手前左にも枯れた松があり高札風に設置された東海道分間延絵図とベンチがある。 |
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美合松並木(美合新町郷土の名木) 交差点を渡ると道がカーブし左右が松並木となる。しばらく行くと左に半分破損した説明立札があり「高さ10米太さ2.0米」とある。少し先の美合新町交差点手前で松並木は終わり交差点を渡ると少し先で2車線から1車線になり道幅が細くなって住宅街の中を進む。住宅街を抜けると横断歩道が無い交差点で県道48号線と交差する。 渡って少し先で山綱川を昭和57年竣工の高橋で渡り少し先右に「東海道」石柱がありさらに先右に一本松がある。 |
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乙川 分断された東海道 少し先で乙川に突き当たる。この川にはかつて大平橋があった。東海道はまっすぐ続くが現在は渡る手段がないので右100mにかかる国道1号の現在の大平橋を渡り迂回する。または少し左に幅の広い堰があり渇水期の時はそこから渡れる時もある。川には古くから橋がかけられており橋幅は2間(3.6m)で欄干の無い板橋だったが度々流出した際は渡船も行なわれていた。乙川はこの辺りでは大平川、岡崎城址辺りでは菅生川とも呼ばれている。 |
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{左}大平川水神社 乙川(大平川)を渡ったところにある。堰で渡った場合は右奥にある。大岡越前守が築いたという寄洲を継いだ掻寄堰堤の守護神として川の中洲に祀られたのが起こり。その後、3回ほど移転し昭和56年に岡崎市、愛知県岡崎土木事務所、日清紡績株式会社美合工場(美合町入込45)、大平下町町内会の協力で現在地に移された。生垣に囲まれた石垣の手前右に説明板、石垣上の小さな境内に石祠と昭和56年の灯籠が1組がある。左には昭和30年建立の竣功記念碑があり昭和25年の水害で大破した堰堤の復旧を記念し建てられたもの。神社の右側の小道が東海道の続きとなる。 |
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{右}旧東海道と五十三次の画 少し先で小さな川を昭和45年竣工の弁天橋で渡る。橋名は昔、近くあった弁天宮に由来する。弁天宮には立派な松もあったが近くの寺の改築用材として切られたと言われる。その後、道なりに進むと大平町東交差点で旧街道は国道1号と交差する。交差点右には「旧東海道と五十三次の画」と題した高札風案内板があり付近と岡崎宿内の地図が藤川、岡崎、地鯉鮒宿の広重の絵付である。国道1号を横断するとゆるやかな上り坂となる。 |
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{右}東光山 薬師寺 [浄土宗西山深草派] 岡崎市大平町上下り18 すぐ右に石垣と「東海道」石柱があり石垣の先に門がある。本尊は瑠璃光薬師如来。砂利が敷き詰められた境内左には地蔵がありその後ろに石仏2体と銅像が安置された祠がある。境内の道路側には延命地蔵を中心に97体の石仏と石碑が2つ並ぶ。寺の東側の街道には根元の太さが4かかえあったと言う松の大木があり地上2丈(6m)余りのところで2叉に分かれ唐臼のやり木の形に似ていたため「やり木松」と呼ばれていたが昭和20年代に幹が空洞化し倒木の危機が増し交通の妨げにもなりつつあったため伐採された。白蛇が住むと伝えてられており伐採時には空洞内から蛇の卵が多数発見され白蛇の卵と噂された。古くは周辺も松並木であったとされる。 |
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{右}つくて道 道標 少し歩くと右の大平上町公民館と岡崎市男川消防団第一部車庫警備室が一緒になった建物の先に文化13年(1816)秋葉山常夜燈とその奥に火の見櫓がある。その少し先の男川小学校西交差点手前角に街灯に隠れて古い道標がある。「東海道」「つくて道」とある。「つくて」は愛知県北東部の南設楽郡作手村(現:新城市)のことで戦国時代は今川氏、織田氏、武田氏などに仕えた奥平氏が治めていた。武田信玄の死後に奥平貞能は家康に仕えるようになり嫡男の信昌は家康の長女・亀姫を妻とした。その四男である忠明は家康の養子となり松平姓を許され慶長7年(1602)作手藩を立藩したが慶長15年に伊勢亀山藩に移封となり作手藩は廃藩となった。 |
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{右・寄}大岡越前守陣屋(西大平藩陣屋)跡 大平町西上野95 少し先右の大平郵便局前に標示があり右折していくと右。8代将軍吉宗の下で江戸町奉行をつとめた旗本・大岡忠相は寛延元年(1748)72歳の時にそれまでの相模国など関東各地に散っていた所領に加え三河国宝飯・渥美・額田郡内の4080石を加増され1万石の大名となった。この地に藩庁である陣屋が置かれ西大平藩主となったがこの地に来ることはなく宝暦元年(1751)に没し藩は次男忠宣が継ぎ明治まで7代続いた。家臣の大部分は江戸藩邸に住んでおり陣屋には多い時期でも郡代1人郡奉行1人代官2人手代3人郷足軽4、5人程度だった。陣屋は明治に廃止されたが建物は東京に住む大岡家の別邸として残された。現在は建物は無く門と塀が復元され中は公園として整備され豊川稲荷、井戸もある。 |
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{右}上野山 専光寺(專光寺) [真宗大谷派] 大平町西上野74 陣屋へ行く途中左にも入口があるが大平郵便局の先の東海道沿いにも入口がある。大治2年(1127)大平の領主・本多治部少輔吉信が先祖伝来の薬師如来を安置して建立し出家した第2子・信順を住職としたのが起こり。当初は天台宗で長福寺と言ったが建暦2年(1212)禅宗に改宗しそれから12世の專光が浄土真宗に改宗し願了となり大永元年(1521)寺名も改称した。本尊は阿弥陀如来。本願寺第9世実如が三河に来た際には親鸞真筆紺地金泥の九字名号を賜り寺宝としている。延宝元年(1673)赤坂代官鳥山牛之助精元が寄進した現在地に移転。山門くぐって左に昭和23年の梵鐘がある鐘楼、右に鬼瓦が置かれている。境内左には寛政3年(1791)手水石。灯籠は昭和8年(1933)。 |
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{左}大平一里塚(80) 少し先の次の十字路にある。左右の塚のうち左のみが現存し「東海道」石柱、昭和15年(1940)建立の一里塚碑、昭和13年と昭和15年設置の2枚の説明板がある。左塚は売りに出されものを個人が買取り後に村に寄付され昭和12年に国史跡に指定された。高さ2.4m底部は縦7.3m横8.5mの菱形で塚の中央には目通3mの巨木の榎があったが昭和28年の台風で東の大枝が折れ後に枯れたため現在は若榎が植えられている。岡崎名物の花火練り込み唄には「人の見上げる一里塚」と唄われている。右の塚は昭和3年洞町からの県道工事の際に壊された。斜め向かいには昭和9年秋葉山常夜燈と小さな祠と児童遊具がある。祠には馬頭観音、子安地蔵、風化した石像1体が安置されている。 |
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{右}大平八幡宮 大平町天神前42-1 横断歩道のない交差点を渡り少し先で国道1号に合流する手前にある。創建時はここより東南(現:大平町八幡)にあったが安永6年(1777)天神社の境内だった現在地に移転し明治20年(1887)頃に立派な社殿が建てられたた。八幡宮が天神社境内に移り天神社よりも立派な社殿が造られたため大平町では養子が栄えると言われる。祭神は応神天王、白山姫命、豊受姫命、日枝七所神。社殿は空襲で消失し昭和29年再建。鳥居は明治29年など3つある。狛犬は大正5年(1916)と平成12年。参道の途中右には昭和50年建立更沙川改修記念碑、平成5年建立第61回式年遷宮記念碑。社殿左奥に境内社の三姫社、筆神社、神明社、大森社、天神社。神明社前には文久3年(1863)と文化5年(1808)の灯籠がある。 |
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{右}大平八幡宮 御神木の榊(2代目) 拝殿前右に竹垣に囲まれてある。安永6年(1777)旧地から八幡宮が移転する際に御神体が途中で重く動かなくなった。その夜に神主と庄屋の夢枕に旧地の榊も一緒に移せばよいとのお告げがありその通りにすると動いたと言う。移転後は御神木とされ信仰を得ていたが昭和20年の岡崎大空襲で社殿と共に焼失し後に根元より芽が発生したが主幹は枯れたため平成元年に2代目が植えられた。他に境内左には大正12年(1923)百度石、右に昭和4年(1929)神宮遥拝所石柱、昭和3年皇居遥拝所石柱がある。現在地一帯は天文11年(1542)頃から多門越中守重信、伝十郎重正父子が居城したとされる大平西城(多門氏城)跡でもあり多門氏は本多忠勝に従い元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いで滅亡したとされる。 |
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岡崎インターチェンジ迂回路 すぐにファミリーマートのロゴがある名阪急配岡崎センター(大平町藪下72)が正面に見えるところで国道1号に合流するが少し進んだダイソー&アオヤマ100YEN PLAZA岡崎インター店(大平町天神前5-1)横の道で国道から右に分岐する。この先は東名高速道路岡崎インターチェンジのため東海道は消滅したりしており複雑な道をたどる。少し先のラブホテル伍萬石(大平町天神前8-1)の前で下り坂の道に入り地下道でインターチェンジをくぐる。計3つの道路下をくぐって右に松が数本ある更沙川沿いを進むと国道1号に合流する。 |
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