東海道ルートガイド
御油宿〜赤坂宿

{左}若宮八幡社
しばらく行くと昭和10年(1935)竣工の御油橋(五井橋)で音羽川を渡る。延享2年(1745)芦橘堂適志の東海道巡覧記では橋名はまざいこ橋で35間(64m)の板橋で川は幾世川とある。橋を渡ると御油宿ですぐに八幡社がある。境内には昭和59年建立の神社名石柱、古い手水石、小さな祠と昭和60年狛犬、桜の木がある。御油宿は天保14年(1843)の記録で町の長さ9町32間(1298m)住人は男560女738と女が多くうち半分以上が飯盛女や遊女と言われる。姫街道の合流地点で賑わった御油は吉田、赤坂と並んで歓楽街としても栄え「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」などと謡われた。
御油宿   本陣4脇本陣0旅籠62家数316人口1298[天保14年(1843)]
名前の由来は持統天皇が近くに来た時に油を献上したことからと伝わる。江戸時代の文献には五位、五井との記述もある。次の赤坂宿と16町(1.7km)しか離れていないため客引きも盛んで広重の絵の題材にもなっている。慶長6年(1601)宿場を定める朱印状は御油と赤坂が併記されており当初は2宿で1宿の扱いで後に独立した。明治に鉄道が敷設される際には御油・赤坂・藤川・岡崎・知立の旧5宿が反対したため海岸に沿って蒲郡を通る経路となり御油には戦火の災いもなく昔の町並が残っているが江戸時代の建物は少ない。宿場の資料、ジオラマなどが御油の松並木資料館に展示されている。
{右}ベルツ花夫人のゆかりの地
道が狭くなり昔の茶屋町を進んで行くと十字路手前の植え込みの中に説明立札がある。江戸時代はこの地に旅籠戸田屋があった。12代目太郎太夫が趣味の飛行機発明に金を使い過ぎ没落したためその長男の熊吉は江戸に出て荒井家の養子になった。元治元年(1864)江戸神田で生まれた熊吉の娘はつは明治9年(1876)政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるエルヴィン・フォン・ベルツ博士と明治14年に結婚しベルツ花となり明治38年博士の任期終了とともにドイツに渡った。大正2年(1913)博士が没し大正11年日本に帰国。大正12年には岩屋観音の岩場に鉄の鎖を寄進、昭和5年(1930)には戸田屋に縁のある大寶山西明寺(八幡町寺前7)に博士の供養塔を建立し昭和12年74歳で没した。
{左}高札場跡
十字路の先左の御油保育園(御油町河原畑26-25)のグラウンド角に説明立札がある。正徳元年(1711)に布令された毒薬に関する高札板が御油の松並木資料館に展示されおり毒薬、偽薬、偽金の売買を禁じている。
{右}問屋場跡(人馬継所跡)
十字路を右折するのが東海道で昔の横町に入る。少し行くと空地に広重の御油宿の絵が高札風にありその先の空地角に問屋場の説明立札がある。慶長6年(1601)東海道制定当初は赤坂と2宿で1宿扱いととされていたため御油は馬36疋で下り伝馬を担当していた。下り伝馬は藤川宿から御油、吉田宿と継ぎ赤坂では継がず上り伝馬は吉田宿から赤坂、藤川宿と継ぎ御油では継がない仕組みだった。旅人の宿泊も一般的に江戸に向かう人が泊まり御油は下りの宿とも言われた。御油宿に補助の人馬を出す助郷村は25ヶ村だった。慶長6年発行の伝馬朱印状、御伝馬之定、伝馬継立之定、延宝4年(1676)発行の助郷に関する覚え書きなどの写しが御油の松並木資料館に展示されている。
{右・寄}御油の松並木資料館 御油町美世賜183
少し先で右に御油郵便局(御油町美世賜185-3)がある十字路で県道374号線と交差する。東海道は左折するが右に進み新御油橋の手前を左に入ると左。昭和63年開館で御油ノ松並木と御油宿に関する資料が展示されており館内には御油・赤坂・国府地区のジオラマ(千分の1)や浮世絵、伝馬朱印状などの公文書、江戸時代の日用品、正徳元年(1711)毒薬に関する高札板、文政年間(1818-29)の町医者の駕籠、天保年間(1830-43)の旅装束や消火ポンプ、嘉永年間(1848-53)の火事場装束などがある。資料館外には門柱として明治23年(1890)の旧御油橋の橋柱が置かれ建物入口付近には亀甲型の木肌が特徴の三河黒松の樹齢380年の巨木の幹と根もある。10時-16時(12:30-13:30昼休)月休、無料。
{左}御油宿本陣跡
左折すると宿場の中心で昔の仲町(中町)となりしばらく行くとイチビキ手前に石碑と木杭、説明立札がある。天保14年(1843)の記録では御油宿には脇本陣はないが本陣は林五郎太夫、橘屋弥左衛門、鈴木半左衛門、中村谷十郎の4軒もありここは鈴木半左衛門本陣跡とされる。嘉永4年(1851)御油宿仲町家並図では半左衛門家と1軒おいた先の谷十郎の2軒が本陣となっており半左衛門家の5軒手前に元本陣として五郎太夫、その斜め向かいに大宿として橘屋弥左衛門の記述がある。弥左衛門の隣には定飛脚所の竹屋権左衛門があり谷十郎本陣の5軒先には脇本陣格大宿の末広屋為次もあった。
イチビキ第1工場 御油町美世賜210
その先は東海地方で最大手の味噌、醤油醸造会社であるイチビキの工場の間を進む。右には海鼠壁の蔵がありイチビキの通販関連会社大つやの看板が出ている。イチビキは江戸時代に少し手前右にあった大津屋を前身とし安永元年(1772)創業。明治時代に技術改革をして発展し大正8年(1919)大津屋株式会社となり昭和36年イチビキ株式会社に社名変更した。現在は名古屋に本社(熱田区新尾頭1-11-6)があり発祥地であるここは第1工場となっている。嘉永4年(1851)仲町家並図では旅籠大津屋弥助と1軒おいた隣に大津屋弥作とある。旅籠大津屋が嘉永元年(1848)の飯盛女4人(玉25歳、国22歳、ばい21歳、豊19歳)の入水自殺を期に転業したとも伝わり東林寺にはその飯盛女の墓がある。
{左・寄}招賢山 東林寺 [浄土宗] 御油町今斉28
少し先で昔の中上町に入り変形十字路を左折すると正面。永享年間(1429-41)に龍月日蔵が洞元庵として創建した。本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期作とされ浄瑠璃姫の持仏と伝わる。他に毘沙門天立像、青面金剛立像、阿弥陀三尊画像、来迎阿弥陀三尊画像も所蔵し市文化財指定。本堂左の墓地の奥、道路側の塀際にある墓5基のうち左の4基が嘉永元年(1848)溜池に入水自殺した飯盛女の墓で右の少し大きめの墓石側面には「大津屋内」とあり旅籠大津屋が建てた。山門前には安政5年(1858)角柱灯籠、左に昭和53年「ごゆ観音」石柱。山門入って右に稲荷神社、祠、鐘楼、左に地蔵の祠、石仏、手水石。三河国准四国88ヶ所霊場第50番、東三河四国88ヶ所霊場第70番、穂の国観音霊場第23番。
{左・寄}龍雲山 清海寺 (旧:慈雲山観音堂) [曹洞宗] 御油町河原畑15
東林寺山門前を左に進んでいくと左にある。本尊は釈迦牟尼仏。境内左に貞享2年(1685)の石仏を中心とした石仏群7基、弁財天の祠がある。寛文年間(1661-73)に成立した三河西国33観音の第9番札所。
{左}十王堂
宿場の町並を過ぎ松並木が始まる境にある。堂内のガラスのケースに冥府で死者を裁く十王が安置されおり左には33体の観音像もある。十王堂は西方浄土との関係で西の境に設置されることが多くここが御油宿の西の境となる。堂の右前には石仏1基がある。堂の左奥には西町集会所があり前に宝永8年(1711)浮彫石像付き西国巡礼碑、天明2年(1780)西国33観音巡礼文字碑、天明9年馬頭観音文字碑、大正15年(1926)十王堂再建記念碑など石仏石塔8基がある。
御油ノ松並木
松並木が始まる右には昭和55年「天然記念物 御油ノ松並木」石柱と案内碑、地図英文付き説明板がある。松並木は天正3年(1575)信長の家臣篠岡八右衛門が植樹し慶長9年(1604)家康が大久保長安に命じ整備させたもので当初600本以上あった。枯れたり倒れた際は役人が検分し御林帳(松並木台帳)に記載しており宝暦2年(1752)には498本、文久3年(1863)には276本に減少。昭和19年国天然記念物に指定され終戦直後には200本、昭和30年には167本、昭和34年伊勢湾台風を経て昭和39年には151本に減った。昭和50年に219本の幼木が植えられ昭和58年には日本の名松百選にも選ばれた。平成11年時点で600mに渡り約340本でうち古木70本。現在ある松は1本毎に番号札が付けられている。
{左}御油児童遊園
松並木を少し進み左に弥次喜多茶屋(御油町一ノ橋10-20)を過ぎるとある芝生公園。入口左に昭和59年設置の説明板があり東海道中膝栗毛に書かれた御油松並木での出来事を説明している。赤坂の宿を取るために一人で先に行った喜多八が暗い松並木が恐くて待っていると御油宿の茶店の婆さんから悪い狐が出て旅人を化かすと聞いていた弥次郎兵衛が喜多八を狐と思い込み突き倒し縛り上げたというもの。明治の初め頃まで松並木の両側は竹薮が続き付近の山々に棲息していた狐や狸が実際に餌を求めて街道へ出没していたと言う。先に進むと松並木左側に明治18年(1885)創業で「松並木」を商標登録しているシバタ(旧名:柴田織物工業株式会社)(御油町一町田18)の工場がある。
{右}赤坂宿東見附跡
天王川にかかる昭和47年竣工の一ノ橋の手前で松並木は終わり橋を渡ると豊川市御油町から豊川市赤坂町に入る。少し先で右から道が合流した先に説明板がある。東見附はこの辺りの両側にあった。平成15年市指定文化財の古文書「赤坂旧事記」(個人蔵)には寛政8年(1796)代官辻甚太郎のときにここから関川神社前に移築したと記述されているが慶応4年(1868)の町並図ではこの場所に記載されている。広重の狂歌入東海道の赤坂の絵は見附を描いており説明板にはこの絵も掲載されている。見附は明治7年(1874)に取り壊されたと言う。町並の長さは天保14年(1843)の記録で8町30間(約1km)。
赤坂宿   本陣3脇本陣1旅籠62家数349人口1304[天保14年(1843)]
御油宿との問屋場間の距離は16町(1.7km)で東海道で最も宿駅間が短かく御油宿出口から赤坂宿入口の間は900m。御油と同じく歓楽街で旅籠では管弦の音色が耐えることがなかったと言う。宝永6年(1709)大火災で大半が焼失し幕府の援助で復興され享保18年(1733)には家数400軒のうち83軒が旅籠だった。明治27年(1894)町制施行で宝飯郡赤坂町、昭和30年旧長沢村、旧萩村と合併し音羽町となり平成20年豊川市に合併編入され豊川市赤坂町となった。赤坂の地名は赤土の坂があったからとも花街から来ているともいう。中山道にも赤坂宿(現:岐阜県大垣市)があった。
{左}関川神社 豊川市赤坂町関川111
しばらく行くとある。長保3年(1001)三河国司大江定基の命をうけた赤坂長者の宮道弥太次郎長富が関川の楠の元に市杵島姫命を祀ったのが起こりで弁財天として崇敬された。狭い境内右には芭蕉句碑がある。芭蕉36歳の帰郷時に短い御油・赤坂間を踏まえ短い夏の夜の月を詠んだもの。宝暦元年(1751)建立の最初の句碑が破損したため芭蕉200年祭を記念し明治26年(1893)に再建された。境内左には彩色された馬頭観音の祠と秋葉神社の祠。社殿左に昭和56年市指定天然記念物の楠(幹周7.29m高さ25.7m樹齢800年)があり根元のえぐれている部分は慶長14年(1609)赤坂十王堂付近から出火した火災時に焼けたものと伝わる。文化6年(1809)鳥居の左前には大正7年(1918)秋葉山常夜燈がある。
{左・寄}三頭山妙寿院 長福寺 [浄土宗] 赤坂町西裏99
右の音羽郵便局(紅里74)を過ぎて少し先左のうなぎ屋手前を左折正面。任期が終わって都へ帰る三河国司大江定基との別れを悲しんで自害したという力寿姫の菩提を弔うために父親の赤坂長者・宮道弥太次郎長富が創建し大永2年(1522)善誉慶印が再興した。本尊は阿弥陀如来。定基が寄進した恵心僧都作と伝わる木造聖観世音立像(高さ190cm)も所蔵し昭和30年県指定文化財。山門入って左に昭和55年市指定天然記念物の山桜(目通2.82m樹齢300年)があり幕末の頃の赤坂代官所の役人の手紙にこの桜のことが記載されている。山門前右に「信州善光寺出張所」石柱、境内には鐘楼や昭和3年(1928)の手水石もある。三河国准四国88ヶ所霊場第48番札所、三河西国33観音第10番札所。
{左・寄}新四国88ヶ所霊場 ・力寿姫の墓
長福寺境内左の明治7年(1874)灯籠がある石段から上は明治39年に造られた新四国88ヶ所霊場巡りの道になっており弘法大師と観音の石像がセットで1番から並び辿っていくと山道を抜けて浄泉寺に通じ88番となる。1番から石段を少し登った右には弘法大師堂、明治5年の灯籠と可睡斎の札を祀る秋葉社がある。さらに上の石段途中には平安末期〜鎌倉前期の作とされる昭和53年市指定文化財の木造観音立像(高さ106cm)を安置する観音堂がある。石段から山道に入り39番と40番の間の右奥には「力寿姫の墓」茶色標柱、墓と伝えられる「上臈石」、五輪塔の1部がある。力寿姫は赤坂長者の娘で自害したとされるが今昔物語では大江定基が都から連れて来た後妻で三河で病で死んだとある。
{右}問屋場跡(伝馬所)
長福寺入口から少し先の民家に鉄柱から下げられている小さな説明板がある。問屋場は間口6間(10.9m)奥行30間(56.4m)瓦葺の建物で人足30人馬10頭を用意していた。問屋役は本陣の彦十郎が兼務していたが文化年間(1804-17)より弥一左衛門に代わり幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の2人がつとめていた。
{左}彦十郎本陣跡
斜め向かいに新しい門と説明板がある。門の表札には平松とあるが塀に囲まれた内側は更地で建物はない。赤坂宿で最初から最後まで本陣をつとめた彦十郎本陣跡で姓は平松と松平の記録が存在する。文化年間(1804-17)までは問屋役も兼ねていた。宝永8年(1711)の間取図によると間口17間半(32m)奥行28間(51m)部屋数22畳数422で玄関門構付。赤坂宿の本陣は初め彦十郎本陣1軒だったが宝永8年の間取図には東の向かいに弥兵衛本陣、又左衛門本陣、西に1軒おいて庄左衛門本陣があり4本陣があった。天保14年(1843)には彦十郎本陣、弥一左衛門本陣、伊藤本陣の3本陣、慶応4年(1868)町並図では彦十郎本陣、長崎屋、桜屋の3本陣と輪違屋の1脇本陣とある。
{右}赤坂宿公園
すぐ先の赤坂紅里交差点で右に分岐する道の手前と渡った後の両角にある。角地の民家2軒が空地となったため合わせて200平方mを旧:音羽町が購入し平成19年完成した。交差点手前には復元された高札場、木製常夜燈、宝永8年(1711)赤坂宿町並の図の高札風掲示板があり、渡った所には瓦屋根の四阿、「藤川宿←赤坂宿→御油宿」の石に乗った小さな駕籠モニュメント、赤坂地区の祭事「大名行列」「雨乞いまつり」をカラー写真で紹介した大きな掲示板、座石がある。
{右}尾崎屋 赤坂町紅里54
赤坂宿公園の隣にある連子格子の古い建物。明治元年(1868)創業で現在は民芸品を製造直売するおみやげ屋。軒先に行灯型の看板があり正面に「曲輪 民芸品 製造卸問屋」側面には「東海道五十三次 赤坂宿」とある。曲輪(まげわっぱ)とは檜・杉などの薄い板を円形に曲げ底を取り付けた食物容器や盆などのことで桧を使った曲輪は40年以上持つとも言われる。
{左・寄}玉清山医王院 浄泉寺 [浄土宗西山深草派] 赤坂町西裏88
斜め向かいを左折すると正面。天正16年(1588)教山善誉の創建で本尊は阿弥陀如来。安永5年(1776)再建の本堂前左には明治20年(1887)頃の道路拡張の際に江戸時代の旅籠清須屋の庭から移植された蘇鉄(高さ3m幹周4.6m樹齢260年)があり広重の赤坂宿の絵の中に描かれているものと言われる。横には昭和25年建立の供養塔もある。境内右に嘉永2年(1849)灯籠、祠2つ、赤坂薬師と呼ばれる薬師堂、鐘楼がある。境内左には石造百観音が並び山門に近いところには虚空菩薩や地蔵、長福寺から続く新四国88ヶ所霊場の終点の88番の弘法大師と観音の石像がある。鎌倉時代の木造薬師如来坐像、室町時代の阿弥陀三尊来迎之図、寛文9年(1669)の鰐口も所蔵しともに昭和53年市指定文化財。
{左}旅籠 大橋屋 (現:大橋屋旅館) 赤坂町紅里127
少し先にある。旧屋号を鯉屋伊右衛門と言い慶安2年(1649)創業とされる大旅籠。明治期に酒を販売するようになって大橋屋の屋号に変わったが東海道唯一の江戸時代の建物を残し今も続く旅館。昭和52年市指定文化財の建物は間口9間(16m)奥行23間(42m)で奥の方は新改築されているが街道側の外観と入口の見世間、黒光りした階段、2階の通りに面し襖で仕切られた3部屋は正徳6年(1716)頃に建てられた時の様子を留めており街道から見て左の部屋には芭蕉も泊まったと言う。中庭には三河最古と言われる南北朝時代の花崗岩製石灯籠がある。明治11年(1878)には明治天皇が東海北陸御巡幸の折に休憩した。宿泊費は1泊2食で1万円。風呂は平成13年に改装した上湯殿風。火曜日定休。
{左}赤坂陣屋(神木屋敷)入口跡
大橋屋隣に昭和60年建立の白いコンクリート柱「赤坂陣屋入口址」がある。今はここに道はないが左奥の現在の赤坂保育園(赤坂町西裏74)付近にあった赤坂陣屋(三河代官所)へ通じる入口にあたる。陣屋は元禄2年(1689)代官野田三郎左衛門が大薮の旧赤坂陣屋から移転したもので神木屋敷と呼ばれ上段の間、玄関、書院、土蔵などを有していた。寛政12年(1800)野田三郎左衛門信利の頃からは中泉代官所の支所となり慶応4年(1868)の三河県成立に伴い三河県役所となり明治2年(1869)6月三河県が伊那県に編入され消滅すると静岡藩の赤坂郡代役所として使われ同年9月には手狭になったため再び大薮の元の位置へ新築移転した。
{左・寄}太子山上宮院 正法寺 [真宗大谷派]  赤坂町西裏69
少し先の角に「見真大師 聖徳太子 御舊跡」石碑があり左折正面。聖徳太子作の像を推古天皇の時代(592-628)に安置し太子堂と呼んだのが起こり。箱根神社を創建した萬巻上人が上京した帰りにこの堂で療養したが弘仁7年(816)に没し弟子が萬巻を開基として寺とした。貞永元年(1232)親鸞が寄り天台宗から改宗し宝徳年間(1449-51)に現在地に移転。本尊は阿弥陀如来。境内入って右に織田有楽斎が茶席の花として愛好したワビスケ(樹齢400年)があり有楽椿と呼ばれる。左には雌雄2本のイヌマキ(共に樹齢500年)と鐘楼がある。鎌倉時代の絹本著色釈迦如来画像を所蔵し昭和56年県指定文化財。他にも木造観音立像、木造聖徳太子立像、十三仏唐画、家康寄進の網代団扇など多くの寺宝を所蔵。
{右}高札場跡
少し先の小さな川の横に茶色の標柱がある。上面には高札を見る庶民の絵が付いている。江戸時代初期に建てられ明治元年(1868)に廃止になった間口と高さ共に2間(3.6m)奥行1間(1.8m)の瓦葺の高札場があった場所。平成19年に復元された高札場が赤坂宿公園にある。現存する正徳元年(1711)に布令された高札板(幅236.5cm)1枚がよらまいかんの裏にある音羽生涯学習会館(赤坂町西裏47-1)2階の資料室に展示されており親孝行の奨励や賭博・喧嘩の禁止などが書かれている。資料館には他にも浮世絵、宿場の説明パネル、音羽赤坂人形の頭部、赤坂の舞台と郷土芸能の紹介、宮路山の紹介、昆虫標本なども展示されている。
{右}御休処 よらまいかん(よらまい館)
斜め向かい。正法寺入口からは赤坂広場を隔てて隣。平成14年オープンした連子窓のある古い町屋を模した無人休憩所でテーブル、イス、自販機、パンフ置き場、文化財などの写真展示がある。2階は企画スペース。9時-17時、月休。建物の左前には赤坂町道路元標、広重の赤坂宿の絵がある。正面には「東海道赤坂宿 京江四十九里十六町 江戸江七十六里二十六町」と刻まれた石柱が立ち裏面に「東海道宿駅・伝馬制度制定四〇〇年記念事業 平成十三年 音羽町」とある。建物左のトイレ前には陣屋の牢にあったという小便石がある。横に溝があり牢の中で小便をすると外に流れるというもの。建物左の赤坂広場は運動広場で端にはすべり台、ブランコなど遊具もある。
{右}赤坂陣屋跡(静岡藩赤坂郡代役所跡)
その先の東海理化赤坂クラブ駐車場前に説明板がある。ここから少し右に入った大藪の地に慶長6年(1601)家康が三河支配の拠点の一つとして築いた陣屋があった。天和2年(1682)には豊川市牛久保にあった三河代官所が代官国領半兵衛重次によりこの陣屋に移されたが大薮の地は土地が低く度々浸水したため元禄2年(1689)に神木屋敷に移転し幕末を迎えた。陣屋は明治2年(1869)9月には静岡藩赤坂郡代役所としてこの地に新築移転したが廃藩置県後の明治5年に廃止となった。郡代役所の敷地内には役人の住居、稲荷などもあり説明板には敷地図も掲載されている。白鳥山地蔵院法雲寺[浄土宗](白鳥町下郷中73)の山門は赤坂陣屋の門を移築したものとされる。
{右・寄}向称寺 [浄土宗] 赤坂町東裏264
しばらく進み細い道を右折していくと左にある。正保3年(1646)松平清太夫正次の開基、正次の妻の春也尼の開山で当初は正次の法名の光松院から光松庵と言った。本尊は阿弥陀如来。宝永2年(1705)黄金を混ぜて鋳造したと言う梵鐘は赤坂宿が夜遅くまで騒がしい歓楽街だったため騒ぎをやめる合図として使われていたが戦争供出され現存しない。民家のような本堂右には菊無延命地蔵の看板がある祠があり石地蔵、石観音、六地蔵が安置されている。春也尼木像、赤坂十王堂にあった地蔵菩薩像、文化10年(1813)石川喜平直頼が十王堂に奉納した算額(平成2年複製)も所蔵する。算額とは数学の問題が解けたことを神仏に感謝しさらなる勉学成就のため寺社に奉納した数学の絵馬のこと
{右}杉森八幡社 赤坂町西縄手3
やがて緩やかな上り坂となり上りきると昭和3年(1928)鳥居と明治44年(1911)豊川市出身の力士・錦戸春吉の名が刻まれた神社名石柱がある。大宝2年(702)持統上皇が東国巡幸の際に伊勢神宮領御厨跡に大神宮を勧請し神鏡を納めたと伝わり八幡社はその時に行在所だった場所に創建された。祭神は天照皇大神、仁徳天皇、應神天皇、神功皇后。寛和2年(986)の棟礼が現存する。大神宮はその後焼失し正徳年間(1711-15)八幡社に合祀された。鳥居をくぐって正面の境内入口にも大正4年(1915)鳥居。社殿左前には2本の楠が成長し根株が一本化した夫婦楠(高さ20m目通6m樹齢千年)と説明板。社殿前の昭和58年の玉垣の外側に天保11年(1840)内側に昭和29年の灯籠。狛犬は大正元年(1912)。
{右}赤坂の舞台
杉森八幡社の社殿右にあり左前には説明板もある。この辺りは昔から浄瑠璃や歌舞伎が盛んで御油町にあった舞台が風災により倒壊したため芝居好きな人たちの手により明治5年(1872)に造られ明治時代には歌舞伎が盛んに演じられた。心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台で奈落はなく舞台上で回した。間口10.4間(19m)奥行7間(13m)棟高8m建築面積244平方m。平成10年登録の市有形民俗文化財で平成12年に改修復元され現在も毎年秋には歌舞伎等の公演がある。舞台の正面の神社境内隅には稲荷社などの境内社の4つの祠がある。街道に面した神社の鳥居左には舞台の写真付きの「赤坂の舞台」茶色標柱もある。
{右}赤坂宿西見附跡
すぐ先に「見附跡」茶色標柱がある。上面には東見附跡の説明板にもあった広重の狂歌入東海道の絵が付いている。
{左}赤坂十王堂跡 ・宮路山登山口
斜め向かいに「十王堂跡」茶色標柱がある。標柱上面には廃堂になり明治25年(1892)に向称寺に移された地蔵菩薩の写真が付いている。標柱の後ろには「宮路山周辺案内」のオレンジ色の地図付き説明板がありここから左に分岐する道は宮路山(362m)に通じる。道を渡った角には大正5年(1916)の石仏を安置した祠もある。宮路山は御油宿の名前の由来になった山で古道でもあり平安時代の更科日記にも山を通ったと書かれている。山越えルートは後に鎌倉街道になり十六夜日記には「紅葉の中に常緑樹が交じりまるで青地の錦のよう」と書かれている。鎌倉街道の詳細道筋は不明だが現在はハイキングコースが整備され山頂には持統天皇行幸を記念した大正6年(1917)建立の「宮路山聖跡」碑がある。
{右}開運毘沙門天王尊 石柱
少し先左には昭和15年(1940)建立の秋葉山常夜燈がありしばらく進むと右の音羽中学校(赤坂町西縄手66)横の歩道植込みに平成11年東海道ネットワークの会が植樹した若い黒松3本がある。中学校を過ぎて少し行くと右に分岐する細道に昭和8年(1933)開山300年記念に建立された石柱がある。毘沙門堂は右折して突き当たりを左折、昭和46年竣工明ヶ沢橋で音羽川を渡り国道1号を渡り名鉄名古屋本線の線路をくぐると舗装道は3叉路になるがそのどれでもない正面の未舗装の山道を登るとある。民家のような堂と墓地があるのみ。
{左・寄}大永山 栄善寺(榮善寺) [浄土宗西山深草派] 長沢町御城山5
道が左にカーブし左のまごころ薬局(長沢町向谷28)の少し先に「弘法大師自作大日如来」と刻まれた昭和6年(1931)寺名石柱があり左折し正面。文永9年(1272)円空立信の創建で本尊の大日如来は弘法大師がこの村に立寄った際に刻み村の盲目の男を治したと伝わる。寺は享禄3年(1530)山崩れで埋没したが光が発する場所を掘ると大日如来像が現れ寺も再建された。平安様式の石段下右には石祠、役行者の石仏などがある。少し登った左には石仏2体が安置された祠。石段左には境内に通じるコンクリート道もある。石段を登りきった左右に石仏があり右の台座には寛延元年(1748)の銘。境内左には梵鐘がない鐘楼。本堂右には享保12年(1727)安永4年(1775)などの墓石やさらに古い五輪塔が並ぶ。
{左・寄}月愛山願王院 洞泉寺 [浄土宗西山深草派] 
しばらく行くと左に寛政12年(1800)秋葉山常夜燈、「善光寺分身如来道」道標、昭和9年(1934)「八王子神社」石柱があり左折していくと正面。岡崎市岩津町にあった妙心寺(現:圓福寺)を開山した教然の弟子の玉山が寛正年間(1460-65)長沢に庵を建て洞泉庵としたのが起こりで永正元年(1504)顕恵宗学が開山、後に妙心寺5世空翁が洞泉寺とし中興開山した。桶狭間で戦死した長沢城城主松平政忠の妻・薄井姫が永禄年間(1558-69)に移転再建し長沢松平家の菩提寺とし大正3年(1914)に現在地に移転した。本尊は善光寺如来で延久年間(1069-73)三井寺の行尊が鋳造した48体のうちの1体で妙心寺から移された。本堂左の堂に元禄12年(1699)6地蔵などの石仏、境内左に嘉永元年(1848)手水石がある。
{左・寄}八王子神社 長沢町御城山10
洞泉寺前をそのまま道なりに右にカーブすると右に明治12年(1879)神社名石柱、安政4年(1857)灯籠、明治21年鳥居がある。創建は不明だが「長沢里氏子」の表記がある応永10年(1403)の棟札が確認されている。祭神は天照大神と素戔鳴尊の誓約により生まれた御子8神で大正9年(1920)岡前の若宮社を合祀。相殿に若一王子大権現。鳥居をくぐり緩やかな石段を登って行くかくぐらず左の車道を登って行くと境内。石段途中に明治22年鳥居、車道途中右に寛保4年(1744)文字庚申塔、左に3石仏の岩窟がある。境内の玉垣は昭和15年(1940)、手水石は明治25年、狛犬は昭和14年、社殿前灯籠は明治44年。社殿左に八幡社、社殿左奥に白山社、鍬神社、稲荷社の祠がある。