東海道ルートガイド
箱根宿

{右}箱根八里の歌碑(箱根馬子唄の碑)
旧街道を進むと石畳の解説板がありその先右に四阿がある箱根の森休憩広場への分岐がある。分岐を過ぎるとすぐに石畳が終わって平坦な道となり八町平と呼ばれる標高805mの地点に着く。そこから再び石畳が始まり下り坂となり少し行くと歌碑がある。馬子たちが歌った馬子唄「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」が刻まれており昭和47年の建立で碑文は箱根町長(当時)の亀井一郎。東海道の最も難所は山ではなく大井川で一度増水すれば一カ月も進めないことがあったため東海道より山が険しく長距離の中山道を選ぶ人も多かった。歌碑の横には二子山の解説板もある。
{右}興福院 お玉観音堂
坂を下って行くと「元箱根まで15分」の看板があり車道と交差しその角に入口がある。関所破りで処刑された娘お玉をはじめ多数の街道での死者(無縁仏)を供養するために興福院が建立したまだ新しい観音堂。お玉は伊豆大瀬村の農家の娘で江戸に女中奉公に出たが元禄15年(1702)逃れてきて関所裏山を越えようとして捕らえられ処刑された。首を洗ったとされるナズナヶ池は以降お玉ヶ池と呼ばれほとりには鎮魂碑もある。観音堂入口脇の街道沿いには江戸の米商が享保16年(1731)建てた六道地蔵への道標がある。鎌倉時代の湯坂道の分岐にあたり六道地蔵は精進池のほとりにあって付近の伝曽我兄弟の墓や他の鎌倉時代の石仏群と共に国史跡に指定され元賽の河原とも呼ばれる。
{右}権現坂標石
さらに進むともう一度車道と交差しそれを過ぎると標石と説明板がある。箱根権現への参道が分かれるので名が付いた。またこの下り坂が8町(0.9km)あることから八町(八丁)坂とも呼ばれる。権現坂は下り坂であるが箱根がカルデラ地形のための下り坂であり三島宿に下る箱根西坂ではない。碑の手前に赤い鳥居がありくぐって石段を登っていった先には老木の根元がそのまま祠になった神社がある。
ドンキン地区 杉並木
やがて石畳が終わり車道に出るが横断できないので直前の分岐で左に迂回し木製の杉並木歩道橋を渡る。分岐左には昭和46年建立の史跡箱根旧街道の石柱がある。歩道橋を渡ると右に箱根旧街道案内図がありここより街道の両側が杉並木となる。箱根は空中湿度が高く寒いため松より杉が適し東海道中唯一の杉並木だった。現在はドンキン地区、吾妻岳地区、新谷町地区、向坂地区の4つの地区に分かれて計419本の杉並木が残りここドンキン地区には76本がある。これらの杉は後に日光の杉並木も植えた川越藩主松平正綱が元和4年(1618)に植えたと伝わるが実際の樹齢はそれより40年程若い。
{右}ケンペル・バニー碑
少し杉並木を進むとある。現在の御殿公園に別荘を構えていたシリル・モンタギュー・バーニーが明治40年頃国道1号の工事費のため杉並木の一部が切られたことを聞きエンゲルベルト・ケンペル著の日本誌の序文を引用し大正11年(1922)建てた碑。ドイツ人医師ケンペルは元禄3年(1690)来日し日本の美しい自然を世界に紹介しておりバーニーはこの碑建立により自然保護精神を訴えた。碑は人知れず眠り続けていたが昭和34年(1959)全国レクリエーション大会で槙有恒が紹介し翌年日本自然保護協会機関誌「自然保護」創刊号にも紹介され有名になり昭和61年から毎年11月23日に2人の意思を継ぐべくケンペル・バーニー祭が開かれている。右に昭和61年建立の二人の写真入りの碑もある。
{右・寄}瑞龍山 興福院 [曹洞宗] 元箱根26
バーニー碑の先で旧街道は車道に合流するが右に砂利道もあってそこを進んで行くと寺の敷地内に出る。もとは箱根神社の別当寺であった金剛王院東福寺(明治の神仏分離で廃寺)の子院として創建され真言宗の寺だった。奥にある弘法堂には東福寺の寺宝だった永仁元年(1297)銘のある木造普賢菩薩座像(県重文)や平安時代の菩薩頭が安置されている。門の左には元徳4年(1332)の大きな宝篋印塔があり元は賽の河原にあったもの。その隣には箱根七福神の一つの布袋尊が祀られ手前には彫刻家・澤田政廣による箱根八里記念碑「天下の険」がある。他に門前に享保16年(1731)の三界万霊塔、門を入って右に多数の石仏・石塔がある。
{右}御殿公園(バーニー別邸跡碑)
分岐から杉並木の車道を行くとある。ケンペル・バーニー碑を建てたバーニーはオーストラリア生まれのイギリス人貿易商で明治20年(1887)頃来日し箱根を愛し大正7年(1918)にここに別荘を建てた。昭和35年(1960)に横浜で死去したあと別荘跡は箱根都市公園第1号として児童公園として整備され昭和56年建立の箱根町長(当時)勝俣茂の碑文によるバーニー邸跡の碑がある。園内にはすべり台、ブランコなどの遊具のほか四阿もある。
{左}吾妻山 日輪寺 [日蓮宗] 元箱根6
少し進むと国道1号に合流する手前に入口がある。入口右には平成14年建立の大きな題目碑がある。 建物はレンガ作りの洋風で右には観世音菩薩の石像がある。その向かいには元箱根七福神の大黒天が祀られている。
{右}箱根神社 一の鳥居
国道1号に合流する地点の国道にかかっている。東海道は左だが鳥居をくぐって右に行くと箱根神社(元箱根80-1)へ続く門前町が600mほど続く。箱根神社は天平宝字元年(757)萬巻(まんがん)上人の創建で祭神は瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、木花咲耶姫命。明治以前は箱根権現の名で知られ中世から近世に大きな勢力を持っていた。宝物殿(9時-16時無休300円)には関東では最古の木像(平安末期)である萬巻上人座像や曽我兄弟が仇討ちに使った刀などがあり境内にはかながわ名木100選の矢立の杉や国重文の鉄湯釜もあり社殿北には県天然記念物のヒメシャラの純林が広がる。このあたりの地名の元箱根は元和4年(1618)箱根宿が出来てかから以前からあった門前集落を元箱根と呼ぶようになった。
{右・寄}賽の河原
鳥居をくぐったすぐ左に石仏群がある。江戸時代には130基あったが今は約60基が並べられ興福院が管理している。江戸時代の石仏・石碑・墓石・灯籠などを中心に集められており天保9年(1838)の一番大きい題目碑や寛文12年(1672)の六字名号碑などがある。正和3年(1314)石塔や昭和10年(1935)の句碑など江戸時代以外のもある。賽の河原とは幼くして死んだ子供が父母のために小石を積んで孝行しようとする冥土の河原のことで地獄の鬼が邪魔するが地蔵菩薩が現れ子供たちを守ってくれるというもの。ここも地蔵信仰の霊地として有名になり東海道を挟んで山側には複数の地蔵堂があってそこでお札をもらい湖に沈め文字が薄くなれば地獄で苦しむ子供の罪が軽くなるとされた。
{右・寄}芦ノ湖
周囲20.1km最深部43.5m面積6.89平方kmの神奈川県最大の湖で湖面標高723mの陥没火口湖(カルデラ湖)の湖底には杉の大木が今でも立ったまま沈む。箱根観光船芦ノ湖遊覧船や貸ボートもありヒメマス、ブラックバス、ワカサギ、ニジマスなどの釣りスポットとしても知られる。寛文10年(1670)駿河国深良村(現:裾野市)の名主大庭源之丞が静岡側に引いた箱根用水(深良用水)の影響で湖の水利権は静岡県のものとなっている。賽の河原辺りから芦ノ湖を見ると晴れた日にはポスターなどでよく見る芦ノ湖の奥に富士山、対岸に箱根神社の赤い鳥居の風景が見える。
{左}成川美術館 元箱根570
国道合流地点の左にある。正面の屋外エスカレーターで一段高い場所に出ると正面に杉の巨木がある。箱根杉並木よりも古い木で日本樹木保護協会の初代樹医・山野忠彦は樹齢3000年と称し長寿の樹「大王杉」と命名した。昭和63年開館の美術館は平山郁夫、東山魁夷、加山又造、山本丘人など館主成川實が収集した現代日本画を常設展示している。収蔵作品は4000点以上で年4回の展示替えがある。他に芦ノ湖と富士山が一望できる大展望ラウンジとカフェがあり大展望ラウンジには万華鏡展示コーナーもある。9時-17時、無休、1200円。
{左}身替わり地蔵
成川美術館の入口からすぐ。石窟の下に高さ110cmの石造阿弥陀如来座像が安置されており地蔵菩薩ではないが身替わり地蔵と呼ばれている。宇治川の先陣争いで名高い梶原景季が箱根を通りかかった時に父の景時と間違えられ切りつけれたが石仏が身替わりになって命が助かったという伝説がある。赤い前掛けで見にくいが肩から胸にかけて割れ目がある。他にも周りには延宝6年(1679)の小さな石仏をはじめとする石仏・石塔がたくさんある。  
{左}葭原(よしはら)久保の一里塚(24)
左にあるセブンイレブンを過ぎしばらく国道を進むと元箱根歩道橋手前の土手に石碑と説明板がある。幕末には塚は両側にあり高さ5尺8寸(175cm)幅2丈2尺(6.7m)と敷幅に比べ低いものだった。塚上には一里塚の木としては珍しい檀(まゆみ)が植えられていた。檀は真弓とも書きニシキギ科の落葉小高木で秋には淡紅色の実をつけ枝は細やかで粘りがあってしなやかなため弓の材料となった。
吾妻岳地区杉並木
元箱根歩道橋の下で旧東海道は左に分岐する。ここからが吾妻岳地区の杉並木で入口両側に杉並木の石碑がある。この地区には一番高い高さ38mや一番太い幹周5.5mの木もあり約650mに渡って計258本の杉がこの地区にある。途中箱根小学校(箱根561)に入る車道が50mほど交わっているがその他は車が入って来ない歩行者専用で砂利道になっている。砂利は樹木保護のためで昭和61年から他にも土壌改良や保護施策が長年行われ一時期は10年で枯れると言われていた杉が養生されている。並木道途中には杉並木の解説板や箱根支所前バス停の待合所兼の四阿、戦没者慰霊碑、国有林保護のPR看板、杉の保護の解説板などもあり右に杉並木の石碑が再びあると国道に出る。
{右}新屋町(新谷町)跡 (現:恩賜箱根公園駐車場)
国道に合流すると向かいの恩賜箱根公園の駐車場に入りそのまま歩道を通っていくと杉並木と東海道の続きが見える。駐車場のあたりに江戸時代には新屋町(新谷町)があり十数軒の茶屋が並んでおり旅人は茶屋の主人に手形の下見をしてもらうなどしていた。不十分な手形はいくらか払うと主人がなじみの番人に話を通してくれた。関所の手形チェックは厳重で通常の通行手形の他に御三家と旗本以外は箱根関所だけに宛てた関所手形が必要だった。駐車場の奥の角には箱根八里歌碑がある。鳥居忱作詞・滝廉太郎作曲により明治34年(1901)に作られた唱歌「箱根八里」の歌詞を刻んだ碑で昭和41年に建立された。
{右・寄}県立恩賜箱根公園
駐車場の湖側に広がる公園。芦ノ湖に突出した半島で神亀5年(728)吉備大臣が観音堂を建てたと言われ古くから堂ヶ島と呼ばれていた。明治19年(1886)当時の内務卿伊藤博文の計画により箱根離宮が造られ皇太子時代の大正、昭和天皇をはじめ英国、オーストラリア、ルーマニアの王族が訪れた。木造2階建洋館(1800平方m)和風御殿(1100平方m)の2つの宮殿があり関東大震災で倒壊し和風御殿のみ昭和4年(1929)に再建されたが翌年の豆相地震で大破、以後使用されず昭和20年に神奈川県に払い下げられ翌年より公園として一般開放された。現在は洋館を模した平成4年築の湖畔展望館(無料)や展望台などがある。
{右・寄}箱根関所資料館 箱根1
箱根八里歌碑の右に降りる階段があり正面にある。9時-17時(12月〜2月-16時30分)無休300円(箱根御番所と共通)。関所に関する手形、道具、関所破りなどの資料を展示している。箱根の関所は元和2年(1616)に大阪夏の陣の浪人が江戸へ潜入することを防止するために箱根神社一の鳥居あたりに設置されたのが始まりで箱根宿開設の翌年の元和5年(1619)移転し明治2年(1869)廃止され建物は壊されたが大正11年(1922)に国史跡に指定された。当初は江戸防衛のため入鉄砲と出女を取り締まったが寛永10年(1633)新居関所が強化され箱根は女改めが主体となった。関所破りは死罪となったが実際に処刑されたのは6人で他は管理責任を問われるのを恐れ道に迷ったとして追い返した。
新谷町地区杉並木
関所資料館の右から関所跡に抜ける近道があるが恩賜箱根公園の駐車場から箱根八里歌碑の左の杉並木の間を進むのが東海道。この地区の杉は26本が残っている。杉並木が終わるころの右にある杉は爪かきの杉と呼ばれ関所の千人溜まり(待合所)で待つ旅人が待ちくたびれて杉の木に爪を立て時間を潰したと言われており今も手が届く高さの木皮が痛んでいる。その先には関所跡の江戸口御門が見え手前右には休憩・軽食施設の御番所茶屋がある。箱根関所は平成11年から発掘調査が行われ平成19年完成予定で関所全体を復元する工事をしており建物はほぼ完成し公開されている。
{左}箱根関所跡
江戸口御門手前が千人溜まりでただの広い道端だが旅人は呼び出しがあるまでここで待機し午前6時から午後6時の間だけ通行できた。門を入ると右には大番所・上休息所、その向かいに足軽番所があるほか厩、井戸、雪隠が復元されている。各番所にはシルエット(無着色)人形が置かれ宿場の業務の様子を再現している。大番所は65坪で通行者の手形の確認を行い足軽番所は23坪で足軽が詰め罪人を捕らえる役目をし牢も併設されていた。関所業務は小田原藩が担当し士分10名、足軽17名、人見女2名が一組で11組編成され交替で勤め非常時は非番の者も駆けつけた。
{左・寄}箱根関所 遠見番所
足軽番所の裏から石段を登ると20mほど上の高台に復元された遠見番所がある。中は入れないが眼下に関所全体と芦ノ湖が見渡せる。建物は平面積6平方m高さ4.5mの2階建てで1階が土間2階は畳敷きになっており柱は太く建物の四方には控え丸太があり強風に備えて頑丈な造りになっている。ここには足軽が詰めて湖を泳ぐ者や船で渡る者を監視し非常時には拍子木で下の番所に合図を送った。関所の出口には京口御門があり門の外には江戸側と同じく千人溜まりがあった。門を出ると箱根宿に入り現在はお土産屋などの商店街になっている。
箱根宿   本陣6脇本陣1旅籠72家数197人口844[天保14年(1843)]
元和4年(1618)湯坂道を廃し箱根旧街道を整備した際に年貢免除など優遇措置をして小田原、三島の両宿から各50軒ずつ強制的に移住させて作った宿で宿内は小田原町、三島町に分かれ小田原藩と幕府代官が別に支配する相給の宿だった。本陣数は東海道最多であったが大名との関わりを避けたいと敬遠した一般の旅人は三島か小田原に泊まったので旅籠は衰退した。「宿の様鄙びて湯本、畑の立場には及ばず」という記録もある。昭和5年(1930)豆相地震で名残のある建物は全壊し箱根ホテルに街路樹だった楓が一本残るのみ。箱根は旧東海道で唯一国立公園に指定されている地域。
国道に合流
商店街を過ぎると国道1号に合流する。合流地点の左奥の昭和シェルのあたりに高札場があった。右折すると箱根宿の中心街だったことろ。少し行くと箱根ホテル手前で左側が暗渠なっている流川を小田原橋を渡る。江戸時代は石橋で手前左の食事・喫茶やまきの場所に小田原町問屋場があった。箱根ホテル向かいのお食事処明日伽と裏の月極駐車場、夕霧荘(箱根138)にかけては又原弥五左衛門本陣だった。
{右}箱根ホテル 箱根65
江戸時代は旅籠はふや(壬生屋)四郎右衛門や川田覚右衛門本陣など数軒の家屋が並んでいた土地で明治になってはふやの高瀬四郎右衛門がいち早く外国人相手にホテルを始め「ホテルはふや」として業務拡大し明治31年頃野村洋三(後のホテルニューグランド社長)に譲り大正11年(1922)富士屋ホテルに買収されて箱根ホテルとなった。現在の正式名称は富士屋ホテルレイクビューアネックス箱根ホテルで平成4年に改築された。ホテル前の駐車場には樹齢400年直径1mの楓の木が1本植わっている。箱根宿は街路樹として楓が植えられていたが明治中期に道路拡張のため切られこの1本のみ残存する。
{右・寄}箱根駅伝記念碑 箱根167
すぐ先の雲助だんご本舗(箱根81)を過ぎ駐車場に入った奥にある。昭和36年の建立で「東京箱根間大学駅伝競争記念碑」とある。両側に新しい碑もあり右は昭和59年60回大会記念に建立され「駅伝を讃えて」の題で勝承夫による詩が刻まれている。左は平成6年70回大会記念に建立され銅像の下に「若き力を賛えて」と刻まれ歴代優勝校、タイムなどの金属プレートがはめ込んである。箱根ホテルからレストランノアまでのこの辺りには江戸時代には2軒の本陣があって手前から駒佐五右衛門、石内太郎左衛門だった。海側は箱根苑地と言い砂浜を埋め立てた所でミニ公園やボート乗り場になっており街道側の駐車場は毎年1月2日3日には駅伝の箱根側のゴール、及び復路のスタート地点となる。
{右}パウル・シュミットの碑
すぐ先のレストランノア(箱根159)の裏(湖側)にある。明治28年(1895)24歳で来日し湖畔に赤門と呼ばれた別荘を建て40年間住んでいたドイツ人を偲び建立されたもの。ライカで有名なライツ光学社の日本代理店を経営し箱根の美しさを世界に紹介した先駆者で優しい人柄で箱根の人々から親しまれていた。昭和10年(1935)出張先の台湾で63歳で死亡。碑の奥は箱根観光船の海賊船・外輪船の箱根町乗場でレストランを挟んで街道側には湯本・小田原方面の始発となる箱根町バス停もある。このあたりは天野平左衛門本陣があった場所で向かいの交番は白井三郎左衛門の脇本陣がありここを過ぎると旧三島町になる。
{右}箱根駅伝ミュージアム 箱根167
少し先の箱根関所南交差点手前にある。大正9年(1920)に始まり東京箱根間往復218kmを大学対抗で走る箱根駅伝に関する博物館で富士屋ホテルの運営で平成17年開館。駅伝グッズの販売や軽食コーナーもある。10:00-17:00、500円、無休。交差点向かいには駅伝広場と名付けられた小広場があり中央に石碑と壁には写真付き説明板がある。交差点を渡り少し先右にある駐車場付近が天野又左衛門本陣跡。すぐに大明神川を明神橋で渡るが渡って右の湖畔にあった蓑笠大明神(現:駒形神社境内社)が名の由来。湖に出て左奥の湖面には白衣観音像の石塔があり湖の観音さんと呼ばれている。
{左}橋向町 山の神
しばらく行くと左に毘沙門天駒形神社の大きな矢印看板がありその横に小祠があり中には天保12年(1841)石造馬頭観音と天保9年(1838)地蔵座像がある。地蔵はこのあたりの人が毎年行っていた日金山東光寺参りに病気やけがで行けない人向けに祀られたもので「かどのお地蔵さん」と呼ばれる。手前を左に入る小道は天正18年(1590)秀吉が小田原城攻略の時に開いた関白道の跡で小田原の海蔵寺(早川766)裏手から石垣山一夜城を経てここで東海道に合流していた。堂の左に関白道の碑がある。ここで箱根宿は終わり東海道は国道から分岐し右に入る。旧道に入ると右のアスファルト上に角が丸い長方形の道標が埋めてあり箱根旧街道と刻まれ箱根関所と三島宿までの距離が示されている。
{左}駒形神社 箱根290
旧道を進んでいくと赤い鳥居がある。創建は不明だが箱根神社の末社で荒場駒形権現とも言う。祭神は天御中主大神、大山祇命、素戔鳴尊。昭和3年明神橋付近の事代主神を祀る蓑笠神社が合祀されたが平成4年境内左に小社に移された。境内右に犬塚明神がありその左には風化した狛犬もある。箱根宿開設のころ人々を悩ました狼を退治するため贈られて来た唐犬2頭を祀ったもので付近の巨石の下は石棺と祠があったという。箱根七福神の毘沙門天が本殿右にある。大きな宝暦12年(1762)の庚申塔が石段下右に文化13年(1816)の常夜燈が鳥居前右にある。この辺りの芦川(蘆川)は箱根神社参拝用の杓子を作ってた人が多く杓子町とも呼ばれ江戸時代には箱根宿に加えられ宿場の仕事もした。
芦川の石仏群
すぐ先で道は右に曲がるが直進する散策道が旧東海道。入口右に芦ノ湖西岸歩道の地図案内板と左に少し入った場所に頭部の風化した地蔵が7つある。さらに進むと右に12基の石仏群がある。前列の8基のうち右2基は墓石で他の6基は宝暦4年(1754)から寛政10年(1798)にかけての西国、坂東、秩父などの巡礼記念塔、後列の山側にある3基は右が万治元年(1658)笠付庚申塔、左2基は馬頭観音、少し離れて念仏塔。さらに先に進むと石畳が始まり左にある昭和48年建立の史跡箱根旧街道の石柱の後ろの土手に元禄14年(1701)の大きな石碑があり表に「南無観世音菩薩」裏に「南無阿弥陀仏」と彫られている。これらの石塔・石仏は江戸時代に駒形神社の隣にあった念仏堂のものと伝わる。
{左}向坂(むこうざか)標石
石仏群の先から登り坂となり杉が所々に残っており釜石坂あたりまでに59本の杉が残っている。少し行くと坂の標石と説明板がある。石畳は戦後に復旧されたもので石が丸くて敷幅は狭く最初は左側に平らな歩道も付いているがすぐに石畳だけの道になる。
{右}赤石坂(あかしいざか)説明板
旧街道は途中で国道と交差し国道下のトンネルを通ることになる。左の脇道から国道に出ることもでき国道を左に行くとパール下中記念館(箱根408-1)がある。昭和21年(1946)極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事で「日本無罪論」を展開し法の公正を護る態度を示したラダビノード・パール博士と博士に共感を覚え親交を深めた平凡社の創業者下中彌三郎の功績を記念し昭和49年(1974)建てられたもの。トンネルを出た先に赤石坂の説明板がありほぼ直線の登りとなる。ここからは江戸時代の石畳も残り石は丸みをおびた石から角張った石になる。
{左}釜石坂(かまいしざか)説明板
やがて大きく右に曲がるあたりで釜石坂になり説明板がある。ハコネダケと呼ぶ背の高い細い竹も繁っており東海道名所図絵のこのあたりの記述として紹介されている。箱根全体に生育しており京都へ持って行き小筆の軸や煙管の羅宇の材料として重宝され近年は民芸品にしか使われていないが関東大地震後の家屋の復興には土壁の下地として大量に使われた。また箱根に石畳が敷かれる延宝8年(1680)以前はぬかるみの対策としてハコネダケの束が敷かれいた。
{右}風越坂(かざこしざか)説明板
次に大きく左に曲がるあたりに説明板がある。このあたりから石畳の石が再び丸くなる。この付近には風越台と呼ばれる芦ノ湖を見下ろす風光明媚な場所もあった。やがて石畳が終わり木の階段になって急坂を登り国道に出る。
{右}挟石坂(はさみいしざか) 標石
国道に出る所に坂の標石と説明板、箱根旧街道の白い木杭がある。箱根新道のインターチェンジが左にあるため歩道も横断歩道もないが横断し左に向かうのが旧東海道。右に行くと平成7年オープンの神奈川県内第1号の道の駅である道の駅箱根峠(箱根381-22)。歩道がなく深い側溝がある国道のゆるやかな上り坂を登っていくと箱根くらかけゴルフ場の看板があり右にカーブしていく国道から分岐し旧東海道は直進する。さらに行くと再び分岐があり右に行き少し下るとファミリーマートが正面に見え国道に合流する。
{右・寄}国道箱根坂路改築記念碑
国道に合流する箱根峠交差点からそのまま右折しUターンするように国道を少し戻ると右の土手に大正12年(1923)建立の碑がある。現在の神奈川県と静岡県の境にあり大正10年(1921)静岡県による箱根峠から錦田村川原ヶ谷まで8800余間(1万6029.6m)の国道改築を記念して建てられた。江戸時代は箱根峠は石や草が生い茂る荒涼たる峠だったが相模国と伊豆国の境であり小田原藩領と三島代官支配の幕府領との境でもあり境木とも呼ばれ境を示す傍示杭があった。
{左・寄}親知らず子知らずの碑(脚気地蔵)
合流地点から左折すると少し先に伊豆箱根バスの箱根峠バス停がありそこに説明板と左に階段があり上に碑がある。江戸中期に大坂の呉服商堺屋十郎兵衛は勘当した息子の喜六を探しに江戸に行く途中、脚気のためこの地で動けなくなり最初は助けようとした通り掛かりの雲助に大金を持っていることを悟られ短刀で殺されてしまう。この雲助こそ喜六で財布の中身から実父と気付き嘆いて自害したが死に切れず翌朝山中城下の宗閑寺までたどり着き息絶えたという。碑は親知らず地蔵、脚気地蔵とも呼んでいるが土地の人々が哀れな親子に同情し供養碑として建てたもので地蔵ではない。交差点を渡る途中の三角地帯に標高846mの標柱がある。
{右}新箱根八里記念碑(峠の地蔵)
交差点を渡り国道を進み箱根エコパーキング(愛称ハコP)の歩道入口に箱根旧街道と書かれた冠木門がありここをくぐって歩道を進むとある。三島青年会議所箱根八里記念碑に続き平成15年に国交省、三島市、函南町の協力で建てた8人の女性による詩碑がまとめて置いてある。橋田寿賀子「おしん辛抱」穐吉敏子「道は段々険しく」向井千秋「夢に向かってもう一歩」橋本聖子「細心大胆」桜井よしこ「花は色なり人は心なり勇気なり」の他、黒柳徹子、宮城まり子、杉本苑子がある。同年に駐車対策として整備されたハコPは緑化ブロック舗装や間伐材歩道舗装、発電用風車など緑化と環境を目指したパーキングで四阿やベンチもある。工事中に発見された石畳跡はそのまま地中に保存された。