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{左}葛川一里塚跡(58) しばらく行くと福井肥料店(葛川1030)のすぐ先の民家脇に昭和51年建立の秋葉山常夜燈がありさらに少し行くと逆川を昭和62年竣工の馬喰橋(全長50m幅16m)で渡る。橋柱には馬の顔がデザインされている。江戸時代は掛川誌稿によると土橋で長さ23間(41.8m)。現在は川の改修で当時よりやや北に架けられており東海道も真っ直ぐな街道となっている。渡ると松がある小公園に直径1mほど小さく盛土があり一里塚跡の石碑がある。石碑側面には「江戸より五十六里三丁余」「京都より六十九里一丁余」と刻まれている。隣には昭和33年建立の角柱のような形の秋葉山常夜燈や掛川宿の案内地図もある。 |
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{右}もちや 葛川228-1 一里塚跡向かいにある和菓子屋だが現在はスーパー形式で他の食材も扱っている。創業は200年以上前と言われ街道の茶店だった。名物の振袖餅は130年前からあり十辺舎一九も京に向かう途中で買い求めたと伝えられ名前の由来は女性の振袖のように長く大きいため。現在は澱粉をまぶした白い餅と黄な粉をまぶした蓬入りの餅の2種類がある。餅米100%に北海道十勝産つぶし餡を使用し無添加で日持ちしないため少量生産のため午前中で売切れることもある。1個105円。小さめの小振袖餅(3個210円)もある。他に新潟産米を使った馬喰だんご(餡・みたらし)もある。1本75円。9時-19時。水曜、第3日曜休。駐車場右には「掛川宿 名物 振袖餅」石碑や夢舞台道標掛川市 馬喰橋 一里塚跡もある。 |
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{左}七曲入口 歩道が整備された道を真っ直ぐ進んで行くと道が徐々に右に曲がるのが見え歩道がなくなる兼子酒店の先右に新町東伝寺入口バス停と「東海道七曲」の標識があり東海道は県道37号線から分岐し斜め左に入る。掛川宿は開設当初は表町として木町(喜町)・仁藤町・連雀町・中町・西町、裏町として塩町・肴町・紺屋町・研屋町、横町として瓦町の10町だったが元和6年(1620)新町が表町に加わりここにあった掘に架かる橋を渡って門を通り掛川宿新町に入るようになった。城下町であった掛川の東海道は敵の進入を防ぐために角を何度か曲がるように作られておりここから東番所までを新町七曲と呼んだ。宿場町は後に文化3年(1806)下俣町と十九首町も表町に加わり計13町となった。 |
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掛川宿 本陣2脇本陣0旅籠30家数960人口3443[天保14年(1843)] 古代には横尾驛があった辺りとされ古くから栄え吾妻鏡には「懸河」の名が登場する。中世になると豪族が館や砦を築き文明年間(1469-87)天王山に築かれた掛川古城(掛川1104)の頃から城下町が形成された。永正10年(1513)頃に今の掛川城の位置に新城が築かれ慶長2年(1597)頃の山内一豊による大整備でその城下に宿場町の原型が出来た。名物は秋の七草の一つでもある葛で葛の根からとれた澱粉を固めた丁葛(葛湯)の他に葛から織られた布である葛布(くずふ)は鎌倉時代から作られ江戸時代には袴、裃などの生地にも使われた。天保14年(1834)の記録で宿全長東西8町(872m)。 |
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{右}東海山 東伝寺 [曹洞宗] 掛川42 七曲に入ってしばらく行くと右にある。東海道はさらに先の進学予備校TAP(掛川10)の手前を右折するが右折した後にも右に寺の入口がありこちらが本来の入口。本堂左には王子稲荷がある。境内左に大弁財天と日限地蔵の祠、明治42年(1909)の三界万霊石仏、境内右に大正8年(1919)の三界万霊石仏2体がある。本来の入口の参道左には補修された年号不明の庚申塔がある。東海道は進学予備校TAPを右折したあと突き当りの昭和3年(1928)の秋葉常夜燈があるところを左折、その先の突き当たりの創業明治4年(1872)の製茶会社かねも(掛川70)を右折する。 |
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{左}塩の道分岐点 少し行くと左から線路をくぐってきた道が合流する。合流点左には小さなプレートで「秋葉道 塩の道」とある。塩の道はここから南に分岐し掛川市高瀬、菊川市下平川、御前崎市新野原を通り牧之原市相良の駿河湾まで続いていた。駿河湾から運ばれた塩は掛川宿に留まらず掛川宿を通過して北に向かい大池橋の先から秋葉街道を通り周智郡森町、浜松市天竜区の春野町、佐久間町、水窪を通って青崩峠を越え信州に通じさらに塩尻で愛知県岡崎方面から来た三州街道(伊那街道)と合流し北へ進み千国街道を通って糸魚川に抜けていた。総行程350km。東海道はその先の突き当たりを右折し少し先右には夢舞台道標のデザインと良く似た塩の道道標がある。 |
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{右}東番所跡 その先はクランク状になっており右に夢舞台道標掛川宿 東番所跡と「七曲り」説明板がある。この付近には東番所(東町口番所)があり木戸と番所が置かれ宿場に出入りする人を監視していた。東番所には捕縛三道具(刺股、突棒、袖がらみ)も備えられ防火用の水溜め桶もあった。東海道はこの後すぐに塩沢機械店(掛川133)のある角で七曲入口に入る前に歩いていた県道37号線と交差し左折する。少し進みヤマザキショップ浅井(塩町6-21)のある十字路を右折しその先で大正3年(1914)創業掛川名物の丁葛の桂花園(仁藤町10-1)がある十字路を左折する。ここは江戸時代には札の辻と呼ばれていた。左折後の東海道はまっすぐ掛川宿を進んでいく。 |
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{右・寄}泉洞山 天然寺 [浄土宗知恩院派] 仁藤5-5 仁藤町交差点を右折していくと左。明応3年(1494)創建で山内一豊の城下町整備時に現地に移転し広大な寺域を有し朝鮮使節の宿泊所にもなった。本堂は火災や安政地震で倒壊後再建されたが近年鉄筋コンクリートになっている。門を入って左に六地蔵、本堂前に享和4年(1804)手水石。門前を左に行くと石棺のようなケイズベルト・ヘンミィの墓がある。道路側に説明板、隣には大正14年(1925)建立の墓地修繕記念碑がある。寛政10年(1798)長崎のオランダ商館から江戸城に献上品を贈る使節の一員だったヘンミィは帰途中に掛川宿で病没しここに葬られた。享年51歳。オランダ人だが仏式での葬儀を行い通達法善居士の戒名を受けた。周りには古い墓石や寛延3年(1750)など約10基の石仏も並ぶ。 |
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{右・寄}仁藤大獅子保存小屋 天然寺よりさらに北に進むと逆川の手前左にある。3棟の蔵があり一番左の小さな蔵だけガラス張りになっており中が見える。丑・辰・未・戌年に行なわれる掛川祭(大祭)の三大余興の一つとして登場する獅子頭で縦横2m耳の長さ1.2m眉毛の長さ85cm目玉の大きさ60cm。頭に円周1mの金の宝珠が付き総重量300kgで日本最大。頭を14人がかりで支え胴体部分として670平方mの母衣を竹竿を持った百余人が内部から張って尾引きと呼ばれる4、50人が引き回す。安政5年(1858)から明治5年(1873)まで天然寺の住職だった帆誉覚在上人が伊勢国白子町(現:三重県鈴鹿市)で2m四方余りの大獅子頭を車に載せ短い母衣をつけ町中を引廻していたのを見て考案したと言われる。 |
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{右・寄}大手門 仁藤町交差点から東海道を進むとアーケードの商店街(仁藤共栄会、連雀名店街)が続き右に掛川信用金庫連雀支店(連雀3-11)がある交差点を右折していくと左にある。山内一豊が大手郭の正門として設置した楼門造二層式の櫓門。安政地震で倒壊し安政6年(1859)に再建され明治の廃城後に民間に払下げられたが焼失し平成7年復元された。間口7間(12.7m)奥行3間(5.5m)棟高38尺5寸(11.6m)。乗馬のまま通行出来るよう冠木下の高さが14尺6寸(4.4m)ある。元の位置は50m手前の横地酒店(城下5-1)前付近で路傍に小さな碑があり位置関係が刻まれ車道と歩道の舗装色を変えて一部の礎石位置を示している。平成5年の調査で発掘された礎石根固石の一つが門の内側に移設展示されている。 |
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{右・寄}大手門番所 大手門をくぐるとある。大手門の内側にあって城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所だった。嘉永7年(1854)安政大地震で倒壊後に安政6年(1859)再建されたもの。明治の廃城後に元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け移築されていたが昭和53年谷家より市へ寄贈され平成7年本来の位置から約50m北に大手門を復元することに合わせて番所も移築された。大手門番所が現存するのは全国的にも珍しく昭和55年市文化財に指定された。 |
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{右・寄}三光稲荷 城下6-4 番所の裏にある。祭神は宇迦之御魂神。山内一豊が伏見桃山城の築城に加わった縁で京都の伏見稲荷大社を掛川城の大手郭と大手厩の鎮守として勧請した。元は大手厩があったとされる現在の大手門駐車場(城下8-1)の位置にあったが平成5年の駐車場建設時に現在地に移転した。三光稲荷の名は延元元年(1336)京都を脱出し大江影繁の手引きで吉野へ向かう後醍醐天皇が夜道に迷い伏見稲荷大社の前で詠んだ歌「むは玉の くらき闇路に 迷ふなり われにかさなむ 三つのともしび」に由来する。天皇がこの歌を詠むと明るい雲が現れ道を照らし 無事に吉野へ導いたと言う伝説から掛川城主をはじめ旅に出る人々が道中の安全祈願に訪れた。
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{右}沢野本陣跡 商店街を少し進むと連雀パーキングに説明立札がある。沢野本陣跡で沢野弥三左衛門家が寛永年間(1624-43)初期から幕末までつとめていた。規模は総坪457坪(1508平方m)間口16間3尺3寸(31m)。手前の掛川信用金庫連雀支店(連雀3-11)付近には本陣に宿泊する大名を役人や宿場の代表が出迎えるための御馳走場があった。その先の中町に入ると左に問屋場、その先には浅羽本陣があった。 |
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{右・寄}掛川城 天守閣 掛川1138-24 連雀西交差点を右折し緑橋で逆川を渡るとある。左に四脚門、くぐって右に縮尺150分の1の有田磁器製の城主要部模型、その先左に太鼓櫓、右に天守閣、御殿がある。掛川城は掛川古城を築城した朝比奈泰煕の子の泰能が永正10年(1513)頃築城した城が起こりで永禄12年(1569)家康が奪取し石川家成、康通を城代とした。天正18年(1590)家康関東移封で山内一豊が城主となり拡張整備し慶長元年(1596)天守閣を築いた。現在の天守閣は平成6年高知城を参考に復元。3層4階の本格的木造で最上階は海抜約56mで屋根の鯱は重量200kg。天守閣内部には鯱の原寸大複製や江戸時代の鎧兜などを展示。天守閣入口前には霧吹き井戸もある。9時-17時(11月〜2月-16:30)300円(御殿と共通)無休。 |
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{右・寄}掛川城 御殿 掛川城は一豊の土佐転封後は掛川藩の政庁として譜代大名を中心に11家26名の藩主が城主となった。嘉永7年(1854)安政大地震で城の建物は倒壊し太鼓櫓、蕗の門、御殿が後に再建された。藩の公的式典の場、藩主の公邸、政務を行う役所という3機能を持った御殿は文久元年(1861)までに二の丸に再建。7棟からなる書院造で明治2年(1869)廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され廃藩置県後は聚学校として使われた。その後も女学校、掛川町役場、市庁舎、農協、消防署などに使用され昭和47年から3年間整備工事を実施。昭和55年国重要文化財指定。玄関には元は太鼓櫓にあった城下に時を知らせる太鼓が置かれている。三の丸にあった太鼓櫓は昭和30年に現在地に移築された。 |
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{右・寄}掛川市二の丸美術館 掛川1142-1 御殿の横にある純和風造りの美術館。平成10年開館。たばこ道具、刀装具、金工品などの江戸・明治期の細密工芸品を主とする木下コレクションと横山大観や東山魁夷などの近代日本画を主とする鈴木コレクションを中心に収蔵しており企画展(展覧会)も行っている。9:00-16:30月曜祝日翌休200円(天守閣・御殿と共通400円)。隣には二の丸茶室(掛川1138-24)があり広間(十畳)、小間「桔梗庵」(四畳半)、立礼席を備え茶会利用のほか誰でも掛川茶が飲める。9:30-17:00第4月休500円(茶、菓子付)。二の丸と本丸跡一帯は現在は掛川城公園となっており他にも三日月堀、十露盤堀、本丸門跡があり東には三の丸跡(三の丸広場)、はす池、北に竹の丸跡(竹の丸錬成館)、武器庫(城内公民館)もある。 |
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{右}清水銀行掛川支店 中町2-5 連雀西交差点を左折するとJR掛川駅へ通じる。駅から掛川城へ続く街並は白壁に黒瓦屋根で城下町らしく整備され「掛川城と城下町風街づくり」として平成6年県都市景観賞優秀賞を受賞した。交差点手前右に受賞プレートがある。交差点手前左のビル壁には「東海道五十三次掛川宿大祭壁画」があり大獅子が描かれている。交差点をまっすぐ進むと中町商店街となり次の交差点である中町交差点に清水銀行の建物がある。ここも白壁と黒瓦葺きの城下町風の作りで「両替商」の屋号札もかかっている。建物正面には乗馬姿の山内一豊と妻の千代の木彫のレリーフと説明板。若き日の一豊が名馬を欲したところ妻の千代が秘かに蓄えた金を使い馬を買ったという内助の功の逸話を描いている。 |
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{右}法輪山 円満寺 [真宗大谷派] 掛川459 アーケードがなくなり西町に入るとある。元は南西郷久保村にあり天正年間(1573-91)には掛川城下にあったが一豊による掛川城大改修で現在地に移った。本尊の阿弥陀如来は一豊が一度土佐に運び戻ってきたもの。一豊の位牌も所蔵する。現在の本堂は近代的な建物。茶匠山田宗偏の茶室や茶道具を所蔵していたが享保20年(1735)明願寺(岡崎市伊賀町西郷中114)に譲渡した。山門は掛川城二の丸東南隅の内堀(はす池)畔にあった蕗(富貴)の門を明治5年(1872)買受け柱の下を2尺5寸(76cm)切取り移築したもの。構造は梁行2間(3.6m)桁行1間4尺(3.1m)の薬医門形式で本瓦葺。両開きの扉があり軒瓦には幕末の藩主太田氏の家紋の桔梗紋がある。桔梗は掛川市の市章や市の花にもなっている。 |
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{左}紅玉山 徳雲寺 [曹洞宗] 南西郷8 少し行くとある。参道を進み境内入って左に楊柳観音の祠があり隣に享保4年(1719)などの石仏2体がある。その先左には境内社があり鳥居は大正8年(1919)。本堂右には聖観音を安置する観音堂がある。文政8年(1825)ごろ菊池良貞がこの寺にて心学を講義したと伝わる。 徳雲寺を過ぎると新知川を十王橋で渡る。この橋には掛川宿の西番所があった。 |
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{左・寄}菩薩院十王堂 十王橋を渡って左折しすぐ右折すると左の十王区公会堂(中央2-3-4)の裏にある。重厚な入母屋造の堂で屋根上には小さな狛犬像がある。慶安元年(1648)掛川藩主になった北条氏重が同年に建立。本尊は子安延命地蔵菩薩で右に閻魔大王、左に弘法大師が祀られている。嘉永7年(1854)安政大地震で倒壊して以降は1間(1.8m)四方程度の建物だったが大正10年(1921)に現在の堂が建てられた。堂の前には古い石仏が7体ある。 |
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{右}醫王山 東光寺[曹洞宗]& 成田山不動堂 下俣228 道路が右に大きくカーブすると右にある。元は養老年間(717-23)行基により開基された真言宗の草庵。本尊の薬師如来は平将門の念持仏で将門らの首をこの地に葬った時に草庵に安置し寺は平将寺と改称。天文年間(1532-54)永江院(和光3-12-2)の4世雪窓鳳積が曹洞宗に改宗し東光寺とした。後に焼失したが慶応3年(1867)玉澗観嶺が再建。本堂右に成田山不動堂がある。将門を祀る寺の本拠地である成田山新勝寺から明治10年(1877)勧請し堂を建立し大正時代に遠州唯一の遥拝所と認可された。入口右に明治44年(1911)建立「成田山遥拝所」石碑、昭和5年(1930)秋葉常夜燈、左には明治20年建立伊藤嵐牛の句碑がある。境内右には豊川稲荷、明治42年三界万霊石仏などの石仏2体もある。 |
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{右・寄}十九首塚 東光寺本堂左の墓地の奥が整備され小公園になっておりその中にある。天慶3年(940)平将門の乱を平定した藤原秀郷は将門と家臣18人の首級を持って京に向かうが賊徒の首を都に近付けてはならないという朝廷からの勅使とこの地で出会い小川(血洗川)で首を洗って橋に掛け首実検を行った。首実検ののち秀郷は首をこの地に埋葬し19箇所に塚を作った。塚は時代を経て減り将門のものと思われる大きな1基だけが残されていたが平成13年に家臣18人の供養塔が周りに建立された。この辺の地名は十九所(じゅうくしょ)と呼んでいたがいつの頃からか読みはそのままで「十九首」となった。橋の欄干に首を掛けたことに掛川の地名が由来するとも言う。小公園内にはベンチや健康石つぼ遊歩道もある。 |
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大池橋 先に進むと昭和56年竣工の逆川橋で逆川を渡り二瀬川交差点で左折して国道1号に合流する。国道をしばらく行くと今度は昭和36年竣工の大池橋で倉真川を渡る。文化2年(1805)頃の掛川誌稿には長さ29間(52m)幅3間1尺(5.7m)土橋とある。橋を渡ると左に夢舞台道標掛川市 大池橋と「大池橋と秋葉街道」説明板があり5叉路がある。ここは秋葉街道(塩の道)と東海道の追分で安永9年(1780)には正面に青銅製大鳥居、明和6年(1769)には両側に常夜燈が建てられた。広重の狂歌入東海道の掛川は大池橋とこの鳥居と常夜燈が描かれている。嘉永7年(1854)安政大地震で倒壊し鳥居は木造で再建されたが現在は鳥居も常夜燈もない。広重の保栄堂版53次の掛川も鳥居はないが大池橋と言われる。 |
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{右・寄}秋葉山遙拝所 東海道は5叉路を左折し国道1号から分岐して県道253号を進むが5叉路の右から2本目の通り(秋葉通り)に入るとすぐ右に秋葉山遙拝所がある。道に面した赤鳥居の右には「右あきは社 大池村」と刻まれた自然石の道標と明治22年(1889)の神社名石柱。明治31年(1898)の手水石がある大きな瓦葺屋根の手水舎の奥に小さな社殿がある。手水石手前の火袋がない灯籠も明治31年。社殿右の小屋には追分にあった大鳥居の扁額が保管されており小屋の中には大鳥居の写真も貼られている。秋葉街道はこの道の少し先を右折し北にある源ヶ池に向けて進みその先は周智郡森町、浜松市天竜区春野町を通り秋葉山に通じる9里(35km)の道のり。さらにはその先もっと北の信州に通じる塩の道でもあった。 |
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{左・寄}芭蕉天神 県道253号をしばらく進むと左の小路入口に芭蕉天神の小さな石柱があり左折していくと右にある。昭和44年の鳥居をくぐって境内に入ると右に子育延命地蔵尊ともう一体の石仏が安置された祠がある。社殿前には昭和12年(1937)灯籠と昭和63年の狛犬もある。小路入口手前右の付近には日本左衛門が延享3年(1746)一味40人と押し入り金千両衣服60点を奪ったという長者惣右衛門宅があった。今は何も残っていないが掛川誌稿に明和元年(1764)頃大きな柱跡が見つかったとある。惣右衛門の妻の父の三右衛門が江戸の公儀に訴え幕府が指名手配することとなり翌年左衛門は自主し処刑された。左衛門の首塚が宅円庵にある。この事件で掛川藩主小笠原長恭(当時6歳)は奥州棚倉に転封された。 |
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{右}白山神社 大池850 鳥居町交差点を渡ると少し先で天竜浜名湖鉄道のガードをくぐる。左には天竜浜名湖鉄道西掛川駅もありガードをくぐった右には小公園がある。しばらく進んで行くと神社入口があり右折正面に境内がある。創建は不明だが大化元年(645)との伝承がある。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理比売尊。一間社流造のこけら葺の本殿は安政5年(1858)築。狛犬は昭和63年。灯籠は昭和24年、鳥居は昭和36年と大正2年(1913)。社殿左後ろには石祠がある。掛川祭は掛川市の41ヶ町が参加し龍尾神社、神明宮、利神社、池辺神社、津島神社、貴船神社と白山神社の7社合同の祭りで毎年10月に行なわれ丑・辰・未・戌年の大祭、それ以外の年の小祭とがある。 |
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{右}大光山 宗心寺 [日蓮宗]大池896 少し先にある。もとは他宗の寺だったが京都の大光山本圀寺から来た僧と法論した住職が改宗し同じ山号の大光山に改めた。山門左に明治14年(1881)の題目塔、右にも年号不明の題目塔がある。境内左に出世稲荷、七面堂、4体の浄行菩薩がある祠。境内右に昭和6年(1931)題目塔、昭和56年建立の宝塔。本堂は昭和46年、庫裏は昭和54年の築。 |
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{右・寄}津島神社 大池773-3 しばらく進み民家の間を右折すると左にある。創建年代は不明。祭神は建速須佐之男命、櫛稲田比売命。愛知県津島市の津島神社の末社。鳥居は明治35年(1902)と昭和50年、灯籠は昭和24年、狛犬は昭和50年。掛川祭は掛川市の41ヶ町が参加し龍尾神社、神明宮、利神社、池辺神社、白山神社、貴船神社と津島神社の7社合同の祭りで毎年10月に行なわれ丑・辰・未・戌年の大祭、それ以外の年の小祭とがある。津島神社の氏子町は末広町で掛川祭参加町では最西端の町。大祭では白山神社の橘町と貴船神社の長谷と第12ブロックに入っている。 |
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{左}大池一里塚跡(59) 少し先の交差点の渡ると夢舞台道標掛川市 大池一里塚跡がある。右が大池村、左は長谷村にあり両方とも松が植えられていたが明治10年(1877)に松は伐採された。塚も宅地化により跡形もない。10mほど先の蓮祐寺の門右にある昭和25年(1950)建立の題目碑の裏にも「一里塚」の文字が見れる。 |
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{左}一乗山 蓮祐寺 [日蓮宗] 長谷225-1 一里塚跡すぐ隣。境内には明治14年(1881)、昭和62年の題目塔、昭和22年(1947)、昭和27年の題目碑などがある。灯籠は昭和13年(1938)。境内右に浄行菩薩の祠、境内社もある。蓮祐寺からしばらく進むと静岡ガスセンター(長谷42)前に5本(右3左2)の大きな松の木がある。その先左には和光橋に分岐する坂道があるが東海道は右へ進む。 |
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分断された東海道 しばらく行くと国道1号バイパスの高架前の沢田IC南交差点に出る。交差点手前右には高松神社と細沢公民館。旧東海道は本来ならば高架の向こうの道にまっすぐ続いているはずが道は曲げられているため交差点を渡り高架をくぐってから突き当りの沢田IC北交差点を左折して少し先で斜め右に分岐し県道253号線に入る。この道が旧東海道の続きとなる。県道253号線を進み今度は東名高速の高架をくぐると左に松がありその先右にも松が4本ある。さらに進むと垂木川に出る。県道には昭和48年竣工の善光寺橋が架かっているが歩道がないため左に昭和55年竣工の善光寺歩道橋がある。 |
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{右}夏涼山 仲道寺&善光寺 [曹洞宗] 岡津331 少し先にある。石段を登ると左が善光寺、右が仲道寺。延暦9年(790)賊徒討伐のため坂上田村麻呂と百済王が奥州に向かう途中この村にて兵が難病にかかったため持参していた延暦7年伝教大師が3体彫ったうちの1つという阿弥陀仏に祈願すると治癒したためここに善光寺を建立し阿弥陀仏を安置した。天正9年(1581)に落城した高天神城の残兵がこの寺に篭もり狼藉を働いて以降荒廃し享保18年(1733)曾我山正法寺(高御所1312)から和尚を招き境内に仲道寺が建立された。寺名は江戸から京まで測量した際にちょうど真ん中にあたったため付けられた。享和2年(1802)焼失、翌年復興し伽藍が落成。石段下の街道脇には地蔵の祠、説明板2枚、平成6年建立榛村純一市長揮毫の「仲道寺」石柱がある。 |
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{右}椎の木茶屋 領家1495 隣にある割烹料理店。元は幕末の掛川藩主太田氏の御休息所として建てられ後に下附されたという茶屋で屋号は原野谷川に架かる同心橋のたもとにあった大きな椎の木にちなむ。明治元年(1868)明治天皇の東京行幸の際は伊藤又左衛門が営む椎の木屋で小休したことが記録に残っている。現在は宴会場や会席用個室11部屋も備え食事処のほか各種宴席などに利用される。懐石料理の他、釜飯、刺身、天ぷらが主で釜飯は客席で炊きあげる。11時-14時、17時-21時、水休。街道側の長い塀には常葉学園菊川高校の美術デザイン科の生徒により「東海道400年祭記念」の壁画が描かれている。
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原川松並木 茶屋前から両側に松並木が始まり岡津から原川にかけて続く。大きな松はないが若木が補植され左側の松の外側には歩道も作られるなど整備されている。松並木が終わるころの左に説明板、右に夢舞台道標掛川市 原川松並木もある。原川は原川薬師の参拝者で賑わった間宿であり供物用の薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねた。掛川宿まで1里18町(6km)袋井宿まで33町(3.6km)で文化2年(1805)頃に編纂された掛川誌稿には戸数46軒とある。その先すぐ右には自然石に「従是北和田岡村」と刻まれた道標もある。大正4年(1915)久津部青年会による建立で同じ形式による道標がこの後もいくつか建てられている。 |
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{左}南泉山 金西寺(原川薬師) 領家1572 松並木が終わるとある。本尊の薬師瑠璃光如来は元禄年間(1688-1703)に岡津の三ツ池の畔で発見されたが半ば土中に埋っていたため動かせず雨が降った時に地元民が笠をかぶせたことから笠薬師と呼ばれていたもの。後に苦心の末、引き上げられ街道の松並木の根元に安置された。ある日伊予藩主の供の鎗持ち平太がいたずらで像の肩を鎗で突いたところ血が流れ出し平太は逃げたが名栗の西で悶え苦しみ死んだという。この噂が広まり霊験あらたかと遠くから参拝者が訪れるようになった。本堂は屋根が銅板張りで窓がアルミサッシ、壁を波鋼板張りの建物。境内右には13の石仏が並ぶ昭和59年建立の十三仏堂や地蔵菩薩の祠2つなど石仏石碑群がある。門右には間宿原川の説明板もある。 |
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同心橋 しばらく進み十字路を渡った右に自然石に「是従 和田岡村 原谷村 経森町通」と刻んだ大正4年(1915)建立の道標がある。森町は森の石松で有名な遠州森町(周智郡森町)のこと。先に進むと原野谷川に出る。川の手前で左から合流する国道1号に架かる平成4年竣工の同心橋で渡るが渡った後すぐ国道1号から左に分岐するため渡る前に川の土手まで進み国道1号をくぐり国道の左歩道に出て橋を渡った方が良い。橋を渡って左に分岐するとすぐ右に夢舞台道標袋井市 名栗がありここから袋井市になる。 |
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