東海道ルートガイド
箱根東坂

箱根旧街道
三枚橋を渡ると箱根旧街道となる。江戸幕府は元和4年(1618)旧来の湯本から湯坂山、浅間山、鷹ノ巣山、芦ノ湯を経て元箱根に至る湯坂道(近古道)を廃し三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て元箱根に至る古い山路をひろげ新しい東海道とした。寛永12年(1635)参勤交代が始まると一層交通が盛んとなり小田原宿から三島宿の間が8里だったので箱根八里と呼ばれここからの上り坂を箱根東坂、箱根峠から三島宿に至る下り坂を箱根西坂と言う。石畳を中心に昭和35年東坂の一部が国史跡指定、平成16年に西坂の一部も追加され箱根旧街道の4分の1が国指定史跡になっている。箱根越えは他にも碓氷道(上古道)、足柄道(中古道)、新道(国道1号)、箱根新道がある。
{右・寄}箱根町立郷土資料館 湯本266
三枚橋渡ってしばらくして右折、箱根町役場への近道の階段を登ると役場の前にある。昭和58年開館で江戸から大正の箱根に関する資料を「道」をテーマに箱根八里、湯治の道、生活の道の3構成に分けて展示している。箱根宿の模型や東海道分間延絵図、江戸時代の旅道具や農工具、旅館の営業協定書、町重文の最初の箱根観光案内書「七湯の枝折」などもある。特別展やイベントなども行い約1万5千冊の参考図書を備えた図書室もある。一般200円(図書室は無料)9:00-16:30水曜休。
{右}辻村伊助邸の跡
急坂を登り湯本幼稚園の入口横に説明碑がある。大正2年(1913)園芸の研究とヨーロッパアルプスの登山のため渡欧し翌年日本人として初めて冬季アルプス踏破に成功した辻村伊助の邸宅があった場所。滞在中雪崩れに遭い知り合った看護婦ローザ・カレンと結婚し帰国、兄常助と農園(現辻村植物公園:小田原市荻窪4381)経営の傍ら大正10年(1921)高山植物の研究のため邸宅向かいに辻村高山園を開いていたが大正12年(1923)関東大震災の土砂崩れで妻子、女中、愛犬とともに埋没した。「スウィス日記」「ハイランド」「登山の朝」 など山岳文学も多く発表した。
{左}白山神社 湯本431
湯本小学校を過ぎたらある。祭神は白山媛大神、伊邪那岐命、伊邪那美命。享保年間から地元の鎮守として祀られ昭和53年の鳥居手前右の建物内に嘉永年間の作と伝わる幟枠がある。狛犬は大正5年(1916)作で親子になっている。境内左に稲荷社があり石狐は昭和15年。社殿左に昔から境内にわき出ているという白山ご神水と祠がある。湯本は箱根の中で最初に温泉が湧き出たところで国内で疱瘡が流行り関東に遣わされた加賀白山霊場の開祖泰澄の弟子浄定が天平10年(738)箱根に白山権現社を建て十一面観音を刻んだところ山から霊泉が湧き出し病を治したと言う伝承がある。この地は北西600mにある熊野神社(湯本614)横とされそこに箱根温泉発祥の地の碑がある。
{右}早雲寺 山門
白山神社隣のホテル花紋の向かいに山門がある。早雲寺は大永元年(1521)父早雲の遺言により北条二代城主氏綱が開基、大徳寺83世以天宗清が開山した。北条氏の菩提寺として七堂伽藍を備え栄えたが天正18年(1590)秀吉が小田原攻めで仮本陣にし後に石垣山一夜城に移る際に火を放ったため全焼、寛永4年(1627)17世菊径宗存が再興した。山門は再興の頃のもので掲げられている金湯山の扁額は寛永20年(1643)朝鮮通信使の写字官として来日した雪峰(金義信)の揮毫による。本尊は室町時代作の釈迦三尊仏。境内奥に北条氏5代の墓があり再興後に分家の狭山北条氏の5代氏治により寛文12年(1672)再建された。右から早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の順。
{右・寄}金湯山 早雲寺 [臨済宗] 湯本405
山門は通れないので脇から敷地内に入ると通りを一本隔てて中門がある。中に入ると鐘楼があり元徳2年(1330)鋳造の梵鐘は三島の法華寺のものだったが秀吉が徴収し石垣山本陣の陣鐘として使用していた。現在の本堂は寛政年間に建立され昭和30年代に改修。本堂裏には北条幻庵作の枯山水香峯という名庭園がある。本堂前に連歌師飯尾宗祇の句碑があり碑の上に石の帽子を載せたような形で「世に婦るハ 更にしくれの やどりかな」とある。宗祇は文亀2年(1502)湯本で亡くなり北条氏墓所の右隣に弟子たちが建てた供養塔がある。他に徳川秀忠の侍医今大路道三の墓や秀吉に殺された茶人山上宗二の追善碑、巌谷小波の関東大震災追悼句碑などがある。
{右・寄}ヒメハルゼミ 案内板
早雲寺の山門と中門の間の道にある。町指定の天然記念物に指定されているセミで国内分布の北限、神奈川県では唯一の棲息場所が早雲寺と裏の早雲公園一帯となっている。この地で発見したのは昭和22年以降湯本に住んでいた歌人並木秋人で功績を称え昭和48年早雲寺境内に歌碑「あかときと 啼くひくらしに さきかけて 天に流らう 勤行蝉のこゑ」が建てられた。一匹が鳴き出すと群全体が揃って鳴くことから別名勤行蝉(御経蝉)とも呼ばれる。早雲公園はあずまやなどが整備された散策路があり松やスダジイ、タブノキ林は蝉保護の目的もあり県指定天然記念物となっており蝉に関する別の案内板もある。
{左}放光山 正眼寺(しょうげんじ) [臨済宗大徳寺派] 湯本562
しばらく進むとアーバン測量設計を過ぎた向かいとホテル楠家の向かいに1基ずつ稲荷型道祖神がありさらに行くと寺の石段がある。養和元年(1181)街道向かいに建てられた湯本地蔵堂の別当寺として鎌倉中期に勝源寺として建てられた。一時荒廃し寛永3年(1626)早雲寺17世菊径宗存の開山で正眼寺として再興したが山崎の戦いで敗走する遊撃隊の放火で地蔵堂も寺も焼失。昭和初期に再建され現在の本堂は明治37年築の今村繁三(今村銀行頭取)の別荘を昭和7年(1932)に移築した国文化財。入って左の高さ2.5mの地蔵石仏は稲葉正勝の一周忌に切腹殉死した家臣塚田杢助正家の供養に寛文10年(1670)造られ紹太寺から明治11年(1878)移された。その横の石灯籠の竿と台座は応永2年(1395)。
{左・寄}正眼寺 曽我堂
裏山の墓地を登るとある。曽我兄弟供養のための曽我堂はもとは東海道を挟んだ地蔵堂の手前にあり山崎の戦いの放火で阿弥陀三尊は堂と共に焼失したが脇の兄弟を写したという地蔵菩薩2体は難を逃れ大正3年(1914)松竹歌舞伎関係者により堂が現地に再建され安置された。俗称曽我五郎地蔵菩薩立像は県重文、同十郎地蔵菩薩立像は町重文で彼岸のみ公開。堂の右には宝篋印塔や不動明王立像など焼失前の寺の遺物が集められている。正眼寺には他に境内右に曽我兄弟の供養塔、境内左に江戸時代までは槍突沢にあって曽我五郎が病回復の証に槍で突いたとされる槍突石や江戸時代に曽我堂の横にあった明和4年(1767)芭蕉句碑「やま路来て なにやらゆかし すみれ草」もある。
{左}仲睦まじい道祖神
正眼寺を出るとすぐ先左の民家前に苔むした松の切り株がある。以前は松並木があったが明治37年宮ノ下から芦ノ湖まで人力車の通る道(現国道1号)を造った時に工事費捻出のためこのあたりの松が切られ売られた。すぐ先向かいの曽我堂上バス停横には稲荷型の道祖神がある。その先左には元箱根までの最後のコンビニ・デイリーヤマザキがある。しばらく行くとS字カーブとなり温泉旅館五月園(湯本540-2)の向かいに双体道祖神と稲荷型道祖神と説明板がある。江戸時代この辺りが湯本村と湯本茶屋村の境で村境を示す道祖神だった。双体道祖神は男女の神が頬を寄せ手を取り合いその睦まじさを示すことによって悪霊が村に入ってこないよう願いが込められていた。
{左}伊豆屋跡(現:あまゆ荘) 湯本茶屋36
少し平坦な場所になると湯本茶屋の集落に入り旅館あまゆ荘に入って左の駐車スペース脇に説明碑がある。湯本茶屋村は湯本より一段高い台地で別名台の茶屋とも呼ばれ伊豆屋定右衛門と米屋紋右衛門の2軒の茶屋があり参勤交代の大名も必ずどちらかの茶屋で休んだ。米屋は向かい(現:灯油スタンド)にあり江戸末期には伊豆屋を買収し両方とも米屋となった。茶屋では土産品として卵型の木製容器の中に次々に小さくなる同型容器が11個入っている箱根細工十二玉子も売っていた。天保15年(1844)頃に信濃屋亀吉が作り始めたもので名産品として有名になりロシア人が持ち帰りマトリョーシカの原型になったとされ江戸末期には職人が腕自慢に長さ20cm直径12cmの三十六玉子も作った。
{右}白川洗石生家跡・湯元茶屋一里塚跡(22)
福寿荘向かいに生家跡の説明碑と一里塚跡の石碑と説明板がある。明治4年(1871)この地にあった家で生まれた白川洗石(鶴之助)は箱根細工の指物職人の父・三代吉について技法を学んでいたが明治22年(1889)当時ドイツから輸入されはじめた裁縫用のミシンに糸鋸をとりつけた装置で原木を加工し機械による木象嵌を確立し先駆者として全国的に指導し普及に貢献した。一里塚は本来は60mほど先にあり幕末の頃は高さ5尺、双方に幹周り6尺5寸の榎が植えられていた。石碑は昭和45年の建立。
{右}馬の飲み水桶
湯本茶屋の集落が終わる辺りの中華料理新茶屋(湯本茶屋112)の向かいに右斜めへ分岐して下っていく歩道が旧東海道で左に旧街道入口の説明板がある。入ってすぐの湯本茶屋公会堂の壁際に縦74cm横123cm高さ83cmの石製桶と説明板がある。江戸時代この辺りは馬立場と呼ばれ馬子が一休みした場所で桶は当時は道の向かい側にあり山から引いた水が溜められ馬の飲み水となっていた。現在は水は入っておらず木製の蓋がかけられている。公会堂の裏には旅館山紫園がある。
猿沢石畳
水桶を過ぎるとすぐ箱根に入って初めて石畳となり箱根観音まで約255m続く。箱根旧街道は膝まで没する泥道で竹を敷いていたが延宝8年(1680)頃から断続的に石畳が敷かれ始めた。文久2年(1862)には翌年の和宮内親王(孝明天皇の妹)の14代家茂への降嫁に合わせ改修され平均道幅2間(3.6m)の中央幅1間に石が敷かれたが今切の渡し(浜名湖)の名称を嫌い内親王は結局中山道を通った。割石坂大澤坂西海子坂手前白水坂には江戸時代の石畳が残っている。 石畳道を進むと途中猿沢を猿橋で渡る。昔は土橋で長さ2間幅8尺(2.4m)だったが現在は木橋で上には箱根湯本ホテルの本館と別館をつなぐ連絡通路「渡月橋」が通っている。橋を渡ると登りの石畳となる。
{右}大慈悲山 福寿院 (箱根観音) [曹洞宗] 湯本茶屋182
石畳が終わる直前にある。昭和51年に開山し本尊は544年に中国から渡来したと言われる石造の出世慈母観音菩薩像で他に媽祖菩薩、清滝浄行観世音も祀る。江戸初期に山賊に襲われ身ぐるみ剥がされて谷底に落とされた旅人が観音菩薩を信仰していたおかげで途中の木にひっかかって助かりその時に霊泉も発見した由緒ある地で旅人はこの地を観音沢と名付け小庵を結び観音菩薩像を安置し後に観音沢上人と呼ばれた。霊泉は旅人の間で有名になり箱根随一の名湯「長命美人の湯」とまで言われた。本堂右には大理白光菩薩、本堂から少し石段を降りたところに跨ぎ撫で観音もある。
{右}觀音坂(観音坂)標石
石畳が終わる右にも旧街道の説明板があり県道と合流ししばらく進み右にカーブすると記念沢にかかる記念橋と観音沢にかかる観音橋を渡る。しばらくするとホテル南風荘からの道と合流する地点に標石がある。岩を割っただけのような石に「觀音坂 登リ二町餘リ」と刻まれており昭和58年に箱根町により建てられ坂ごとに設置された。観音坂は二町(218m)で付近に観音堂があったので坂の名がついた。またこの付近の古い地名を古堂と言い板橋地蔵尊の地蔵堂が永禄12年(1569)建てられている。南風荘からの道を渡った右に奥湯本入口バス停があり待合所が古堂(四阿)風になっている。
{右}葛原坂説明板
イエローハット保養所を過ぎしばらくすると少し左にカーブし駒沢にかかる駒沢橋と葛原沢にかかる葛原橋を渡りその先右に旅館桜庵へ行く分岐を過ぎると登り坂となり途中に説明板がある。須雲川村境手前の登り一町(109m)でこの辺りにクズの木が多いことから名がついた。
{右}箱根大天狗神社 別院天聖院 [神仏金剛宗]
堀木沢にかかる堀木橋を渡るとある。山門を始め絢爛豪華な本堂や七重塔など総て金箔で覆われており金ピカ寺とも言われる。箱根大天狗神社は昭和40年代に造られた新興の神社で東坂の東海道沿いにいくつもの土地・施設がある。さらに行くと須雲川IC入口信号の先で二之塔沢にかかる二の戸橋を渡る。二之塔沢は町指定天然記念物ハコネサンショウウオの箱根における最も低い分布地で江戸時代には湯本茶屋から畑宿にかけて薬用として乾燥して売られ小児の癇の虫や肺病、精力減退に効果があるとされていた。安永5年(1776)スウェーデンの博物学者ツンベルグが採取し世界に紹介し文政9年(1826)ドイツ人博物学者シーボルトも紹介した。現在は本州、四国、朝鮮北部などにも分布している。
{右}初花の滝碑
二の戸橋を渡って少し先の桜の木の下に「初花ノ瀑」と刻まれた箱根振興会の石碑がある。右側の少し開けたところから須雲川をはさんで対岸の山腹にわずかに滝が見える。夫唱婦随の仇討ちで知られる初花が夫の飯沼勝五郎の病の全快と仇討ちを祈願し毎夜打たれたと伝えられる滝。勝五郎は大阪で町道場を開いていた父の仇討ちのために妻と諸国を旅したが箱根に来ると足が不自由になり養生しながら機会を待ち慶長4年(1599)仇の佐藤郷助を討った。箱根霊験記として芝居や浄瑠璃、歌舞伎の箱根霊験躄仇討にもなっている。芝居では仇の名は滝口上野で勝五郎は兄を殺され、初花は父を殺され自分も殺され幽霊になって祈ったことになっている。
{左}駒形神社 須雲川105
左の文字だけの道祖神を過ぎると集落の案内板が左にあり須雲川集落に入る。しばらく進むと石段と鳥居がある。箱根の駒ヶ岳が神格化した山岳信仰が起源。大正15年(1926)の鳥居右に明治15年(1882)金毘羅講の八角石柱があり鳥居入って右に文政2年(1819)木食観正碑がある。石段途中右に五輪塔、三猿の庚申塔、宝暦2年(1752)享和2年(1802)の文字庚申塔2基が並ぶ。江戸時代には神社向かいに高札場があった。鳥居付近から対岸の山肌に普段は涸れている滝が見え江戸に向かう人にとっては水が見えると酒匂川が氾濫している目安になった。須雲川村は寛永11年(1634)に作られ幕末には2軒の立場を含む30軒ほどがあり農業の傍ら挽物細工やわらじなどの道中用品を商っていた。
{左}霊泉山 鎖雲寺 [臨済宗大徳寺派] 須雲川147
駒形神社すぐ先。江戸初期に早雲時の敷地にあった一庵を寛永7年(1630)ここに移し建立された禅寺。もとは下の須雲川沿いにあったが万治2年(1659)洪水で流失し現地に移された。入口に霊泉の滝と呼ばれる小さな滝がある。境内右に箱根霊験記の勝五郎と初花を祀った初花堂とその奥に2人の五輪塔の墓「比翼塚」がある。他に境内には古い石仏や石塔が多い。
{左}女轉シ坂(女転し坂 おんなころしざか)標石
鎖雲寺を過ぎると須雲川を渡る須雲川橋手前で昭和47年に整備された須雲川自然探勝歩道が左に分岐し横に歩道の案内図、「畑宿1700m元箱根6200m」の看板、坂の標石がある。坂は本来は橋を渡ってから右カーブする県道を直進する形で斜面を登る一町余りの坂だったが関東大震災で崩落し今は林の中に埋もれている。難所の一つの急坂で寛文12年(1672)には「馬に乗った婦人がこの附近で落馬し死んだ」と記録があり名の由来となった。本来の坂が埋もれているため県道を蛇行して迂回することになるが左の斜面を見ていると崩れた石畳が露出している箇所があり埋もれた坂が県道に合流したと思われるあたりには坂の説明板がある。
{右}弘法のいぼとり水
須雲川橋を渡り右カーブに入る手前のガードレールの外側にある。大きな岩の上に弘法大師と刻まれた石碑があり岩には穴があって水が溜まっておりその水をつけるとイボが取れると言われる。岩は箱根火山の安山岩で保水性が高いため水は涸れないと言われ須雲川橋が新しく架けかえられる前は現在の橋の下にあって橋の工事で移転した。須雲川橋は幕末に板橋から土橋に変わり長さ6間(11m)幅2間半(4.5m)だった。橋を渡り女転し坂がないので迂回して県道を登っていくと途中右に箱根大天狗神社があり左の女転し坂の説明板を過ぎさらに進むと左に東京電力畑塾発電所があり発電所前バス停がある。
{右}割石坂標石
発電所前で須雲川橋手前で分岐した須雲川自然探勝歩道が県道に合流し探勝歩道はここから旧東海道と同じ道をたどる。すぐ先に坂の標石と説明板、探勝歩道看板(畑宿1000m奥湯本4000m)があり県道から右に分岐し石段を登る。坂は登り1町(109m)余りのゆるい坂で曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かうとき刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を切りつけると真二つに割れ片方は谷底に転落したという伝説が由来となっている。
割石坂石畳(須雲川自然探勝歩道)
割石坂に入りすぐ石畳が始まり杉林の山道となる。少し平坦になると江戸時代の石畳の標示が最初と終わりにあり短い距離ずつだが江戸時代の石畳が2区間ある。他の部分は小学校の通学路として明治以降に整備したもの。途中には探勝歩道の説明板があり石畳の解説が書いてある。細道と交差する地点に箱根路の変遷を示す解説板があり少し先の小さい橋で東京電力畑宿発電所の導水管を渡る。探勝歩道の案内図を過ぎると県道に合流する。
{右}接待茶屋跡
県道に合流する手前に説明碑があり藁屋根の茶屋の写真も載せられている。江戸後期、箱根神社の62代別当如実が箱根を往還する旅人や馬に個人的に湯茶や飼葉を施していたが資金が続かなくなり江戸呉服町の加勢屋与兵衛(與兵衛)らの協力を得て施行所としての再設置を幕府に願い出て文政7年(1824)許可されたが場所は畑宿と須雲川に希望したものの立場であるため許可されず東坂は割石坂のこの辺に西坂は施行平となった。施行所は加勢屋からの元金を尾張、紀州藩に借り上げてもらいその利息で維持していくはずだったがなかなかうまくいかず安政元年(1854)にまた資金が底をつき維持できなくなった。
{左}大澤坂標石
県道を200mほど進むと左に箱根旧街道の鉄柱がありガードレールの隙間から石段を降り下り坂の獣道に入り下りきると小さな沢(大沢川)を渡る。橋は現在は木橋だが江戸時代は土橋で寛政10年(1798)小田原藩の手で長さ幅とも2間(3.6m)の石橋に変わり千鳥橋と言った。橋を渡り登り坂となりしばらくすると大澤坂の石標と説明板がある。登り2町(218m)余りの大澤坂は幕末の下田奉行小笠原長保の甲申旅日記に「大沢坂又は坐頭転ばしともいうとぞ このあたりつつじ盛んにて趣殊によし」とある。地面を掘り下げ小石と土をつき固めた上に平らな石を並べ横に側溝(排水路)がある江戸時代の石畳が一番良く残っており構造の解説板も崩れているが置かれている。坂を進むと左右に新旧混在の墓地がある。
{右}畑宿枡形跡
大澤坂を登りきると左に史跡箱根旧街道の大きな石碑があり県道に合流する階段を登る。合流すると間の宿として栄えた畑宿の集落に出るが合流地点の民家の石垣に枡形の名残が見られる。畑宿の東西にあった枡形の東側で正徳元年(1711)に造られ高さ8尺(2.4m)長さ2間(3.6m)幅9尺(2.7m)の石垣があった。畑宿は東西2町余りで43軒あり茶屋が並び名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が売られていた。少し先左に風化した双体道祖神がある。畑宿西側の県道から分岐する地点にも枡形があったがそこは跡形もない。
{右}茶屋本陣 茗荷屋跡
畑宿内の県道を進むとある。茗荷屋畑右衛門の茶屋本陣跡で山間の水を引いた滝と沢山の鯉がいる池を持つ庭園が評判だった。安政4年(1857)江戸入りの途中に箱根関所で起きたトラブルで機嫌が悪かった米国初代総領事ハリス・タウゼントが休息し庭園を見たら機嫌が良くなった。建物は大正元年(1912)の全村火災で焼失したが庭園は残っており園内には大名に出した米を挽いた風車用石臼や稲荷社がある。山崎の戦いで敗走してきた伊庭八郎はここで切られた片腕の応急処置をした。明治元年(1868)東京遷都時と京都還幸時、翌年東京再幸時に明治天皇も休息し敷地少し先に明治天皇御駐蹄之趾の石碑がある。
{右}駒形神社  畑宿102
創立の年代は不明だが須雲川や芦川の駒形神社と同じく駒ヶ岳の山岳信仰が起源で北条氏時代に集落が出来た時には創建されていたとされ宝暦7年(1757)別当寺だった守源寺により再建されたとの記録がある。明治44年(1911)に愛宕神社と山神神社を合祀。祭神は天御中主大神・素盞鳴尊・大山祗命。境内左に菅原道真を祀る天神社(菅原神社)と工匠の祖・聖徳太子を祀る太子堂、右に照心明神の境内社がある。銅造の男女立像と童子が脇に立つ神体を祀る照心明神は隣に石祠と石碑もあり明和3年(1766)疱瘡が蔓延したとき村民平吉の子三次郎に神託があり祀ったのが最初で天明3年(1783)に再度流行った時も同様の神託があった。狛犬と灯籠は平成2年のもの。
{右}畑宿寄木会館 畑宿103
駒形神社の社殿隣。街道からは石段を登るとある。伝統手工芸の箱根寄木細工の作り方や作品の展示、実演、即売を行う施設。9:00-17:00(12月-3月中旬-16:30)年末年始休、無料。畑宿は天然木を幾何学模様に組み合わせて特殊なカンナで一枚ずつ薄く削り箱や引き出しなどに張りつける箱根寄木細工の発祥の地であり街道沿いにもたくさんの寄木細工の店がある。会館裏の駐車場から県道に出る右側に自然石に「これよりあしのゆ江の道」と刻まれた道標が半分埋まっている。現在「飛龍の滝自然探勝歩道」として整備されている畑宿の裏山を抜け芦之湯に通じる道は昔は畑宿で焼いた炭を芦之湯の宿まで運ぶなどの生活道路だった。
{右}高栄山 守源寺 [日蓮宗]畑宿167
左の畑宿バス停に休憩所(四阿)や箱根の案内図があり県道は右にカーブするが旧道は分岐し直進する。その分岐右に寺の石段がある。寛文元年(1661)乗善院日連が創建した平賀本工寺の末寺。何度も災害で失われたが昭和5年(1930)の豆相地震後に再建され現在に至る。石段を少し登ると右に明治13年(1880)の題目碑、本堂左にも文化6年(1809)の題目碑がある。本堂右に大黒天堂があり箱根七福神の一つで他は興福院(布袋尊)山王神社(小涌園内・福禄寿)阿字ケ池弁天(芦の湯・弁財天)箱根神社(恵比寿)本還寺(箱根223・寿老人)駒形神社(毘沙門天)。石段左の旧道に入ると石畳となり右に一里塚まで30mの白杭、箱根路東海道の碑、旧街道の解説板がある。
{左}箱根八里記念碑
少し行くと旧道から左へ分岐する砂利道があり少し入った左にある。「巴里に死す」「人間の運命」などの沼津出身の小説家・芹沢光治良が揮毫した「箱根路や 往時をもとめ 登りしに 未来の展けて たのしかりけり」が刻まれている。昭和60年(1985)三島青年会議所歴史史跡特別委員会が現代一流の文化人8人に揮毫してもらい箱根八里の要所に設置したものの1つで他に見晴し茶屋(小沢征爾)興福院(澤田政廣)茨ヶ平(井上靖)施行平(東山魁夷)山中城(司馬遼太郎)笹原一里塚(大岡信)錦田一里塚(鈴木宗忠)がある。旧道から外れそのまま砂利道を行くと畑宿清流マス釣場を併設する弁天山清流公園がある。
畑宿一里塚(23)
分岐からすぐに円形の塚が石畳道の両側にある。塚は左側が戦争時に畑として切り開かれかなり崩れていたが平成10年箱根町が発掘調査し昔のままの形に復元した。山の斜面にあるため周囲を盛土、切土と石貼で平坦面を作り幕府の命令通り直径5間(9m)の円型で裾廻りを石垣で固め中に礫を積み上げ表層に高さ1丈5尺(4.5m)に土を盛っている。木は右が樅(モミ)左は欅(ケヤキ)になっている。右の塚を過ぎた所に昭和46年建立の石碑がある。
{右}西海子坂(さいかちざか)標石
一里塚を過ぎると薄暗い森の中へ入る。江戸時代の石畳も残り排水溝の解説板がある。やがて県道に出る石段の手前に登り2町(218m)余りの西海子坂の標石と説明板がある。西海子とは馬の薬になる刺の多い樹木で坂は「山中第一の嶮にして壁立するが如く 岩角をよじて上る。一歩を誤れば千仞の谷底に落つ」と言われ天明6年(1786)には早飛脚が落馬して死んでいる。東海道名所日記には「あまたの人 みな馬よりおりて 歩にてゆくもの 術ながりてあせをながし とち涙をこぼすもの多し」とある。しかし現在は最も急な部分は震災で崩壊したため歩けず県道に出て迂回することになる。他に橿木坂猿滑坂など東坂きっての急だった部分も全て震災で崩壊している。
{左}橿木坂(かしのきざか)標石
県道に出ると七曲りと呼ばれるヘアピンカーブで急坂を登っていく。1つ目の左カーブの先には石段があり近道できるがその次は左、右、左、右と車道と同じ道を行く。橿の木坂バス停を過ぎるとまた石段があり登り口に登り5町(545m)余りの橿木坂の標石と説明板がある。カシの木が多かったのが由来で東海道名所日記には「けわしきこと 道中一番の難所なり。男、かくぞよみける。『橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる』」とある。
{右・寄}見晴し茶屋 畑宿392
石段を登っていくと一旦10mくらい県道に合流するものの石段が続きさらに行くと途中で道が分岐する。左に行くのが旧東海道(自然探勝歩道)だが右にそのまま石段を登ると県道に出て左に少し行った左に見晴し茶屋がある。平日11:00-15:00土日祝10:00-16:00火曜休。このあたりが馬子唄に「ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」と歌われた樫の木平で駐車場の脇に樫の木平の説明板と小沢征爾による箱根八里記念碑「貴方は 今 歌ってますか」がある。横には神奈川県知事津田文吾の揮毫による箱根旧街道県道湯本元箱根線道路完成記念碑もある。
{右}猿滑坂(さるすべりざか)標石
分岐から旧東海道を行くと石畳となりすぐ右に雲助についての解説板がある。向かいにはベンチが3つあり休憩ができる。進むと右に須雲川自然探勝歩道の解説板と山根橋の標柱がある木橋を渡りしばらくして甘酒橋の標柱がある木橋を渡る。さらに進むと石畳道は急激に上って県道に出るがその手前に登り1町(109m)余りの猿滑坂の標石と説明板、向かいに石畳歩道の解説板がある。猿でもたやすく登れないということから名が付いた急坂であるが県道で分断され横断歩道を渡るとその先は石段となっている。県道沿いには猿すべり坂のバス停もある。
{右}追込坂(ふっこみざか)標石
横断歩道を渡り石段を登り県道から一段高い歩道をしばらく進む。少し先で石段を降りるとまた県道と合流ししばらく進むと登り2町(218m)余りの追込坂の標石と説明板、自然探勝歩道の案内図がある。そこから階段を登り探勝歩道が分岐していくが近年になって遊歩道として作られたもので旧東海道はそのまま県道を行く。このあたりの左は昔は高い岩壁だったが採石で取り除かれた。
{右}親鸞上人御聖蹟
追込坂標石から探勝歩道を挟んで隣に説明板と句碑がありその横の少し奥に大きな石碑がある。このあたりを笈ノ平(おいのだいら)と言い文暦元年(1234)親鸞上人が東国の教化を終え真楽寺から4人の弟子と京都に向かう時に上人はここで背負っていた笈を一旦降ろし弟子の性信房と蓮位房に向かい東国の門徒を導くため戻ってもらいたいと伝え別れた場所と伝わる。句は上人が別れ際に詠んだもので「やむ子をばあづけてかえる旅の空 こころはここに残しこそすれ」とあり震災で崩壊した道路復旧記念に昭和2年(1927)建てられた。石碑は大正10年(1921)のもの。石碑の横には休憩所(四阿)もある。
{右}箱根旧街道資料館 畑宿395
しばらく県道を進むとある。昭和47年開館の古い農家を移築した茅葺き屋根の建物で中は無料休憩所と展示室がある。展示室には江戸時代の庶民の旅をテーマに旅道具や男の旅、女の旅など資料が展示されている。この付近は赤穂浪士の一人の神崎与五郎が江戸に向かう途中に馬子にいいがかりをつけられ詫証文を書いて穏便に済ませたと講談、戯曲の舞台になっているが実際は三島宿での話で書いたのは大高源吾で馬子の名は国蔵だった。三島宿の世古本陣に残されていた証文の移しと茶屋での源吾と国蔵の様子が人形で展示され外には馬つなぎ用の木が再現されている。9:00-17:00(12月〜2月は-16:30)年末年始休、展示室70円。
{右}甘酒茶屋 畑宿395-1
資料館の隣。江戸時代初期から続く茶店で当時から代々受け継いできた麹を使った甘酒が飲める。今は酒粕に砂糖を加えて水でのばす甘酒が一般的だがここでは昔どおり麹の発酵のみで甘みを出している。江戸期には甘酒を出す茶屋が箱根八里間で13軒ありこの付近にも4軒あったが残るのはここのみ。昔は道の左にあり昭和5年(1930)豆相地震で倒壊し現地に移転した。昭和48年にはハイカーのタバコのポイ捨てで全焼し現在の建物は同じ間取で再建したもの。甘酒400円力餅(あべ川・いそべ)各450円など。7:00-17:30日曜休。資料館との間に明治2年(1869)に明治天皇が休息した記念の御駐蹕之蹟碑や大正8年(1919)建立の甘酒茶屋の説明石碑などがある。
{右・寄}於玉坂標石
甘酒茶屋を過ぎると旧東海道は当時のルートでは残っておらずほぼ県道に沿っているものの実際は微妙にずれている。県道をしばらく行くとわずかに左に逸れ右にカーブするが本来は斜め右に進み追込坂標石で分岐した自然探勝歩道に途中で合流する。本来の道がなくなっているためそのまま県道を進むしかない。しばらくすると左に旧街道分岐があり右からは探勝歩道が交差する十字路があるが探勝歩道を少し戻ると左に登り2町半(272m)の於玉坂の標石がある。北西300mの県道ほとりにあるお玉ヶ池に由来しておりお玉は関所破りで処刑された娘の名前でこの先のお玉観音に祀られている。
{右}白水坂(しろみずさか)標石
県道から分岐する所には分岐点に右に「元箱根まで40分」の看板、左に史跡箱根旧街道の石柱と旧街道の解説板がある。ここから再び石畳が始まる。少し先で登り坂となり急坂の12間(22m)の部分を白水坂と呼んだ。途中右に標石がある。秀吉の小田原攻めで北条方が双子山中腹から石を落とし撃退した故事から城を見ずに引き返したということで「城見ず坂」になったと伝わる。江戸時代の石畳が残り端には大きな長方形が並び排水路の縁石になっている。
{右}天ヶ石坂(てんがいしざか)標石
石畳の構造の解説板を過ぎてしばらくするとある7間(13m)の急坂を天ヶ石坂と言った。道の右に坂名の由来となった天蓋石と呼ばれる8尺(2.4m)四方の巨石がありその前に天ヶ石坂の標石がある。この石は畑宿と箱根宿の境の目印にもされていた。
{右・寄}箱根の森 展望広場
すぐ右に分岐があり旧街道からそれて脇道に入ると箱根の森展望広場がありベンチや箱根の森の案内図がある。箱根町が昭和61年町制30周年記念に整備しお玉ヶ池を中心に広がる箱根の森の一部。広場からは目の前に二子山が四ツ子のように見える。左が上二子山(1090m)右が下二子山(1064m)で駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに箱根の中央火口丘の一つで火山活動の最後に出来た。頂上付近には富士火山帯特有のハコネコメツツジを始めサンショウイバラやコイワザクラ、ヒメイワカガミなどが生え現在は保護のため有刺鉄線が張られ入山禁止。上二子山のレーダーは富士山気象観測所から移設されたもの。左には駒ヶ岳(1357m)が見え広大な芝生がある頂上まではロープウェイで登る事が出来る。