東海道ルートガイド
白須賀宿

{左}松並木
しばらく行くと左歩道と車道の間に少し小さめの松並木が始まる。手前左には昭和50年建立の町営高師山圃場整備碑がある。江戸時代の東海道松並木は橋本村内で約1km大倉戸村で300mで昭和50年頃まであったが松喰虫で全滅し現在の松は昭和62年に植栽復元されたもの。この松喰虫の大発生により東海道以外も含めた新居町全体で4万5千本もの松が枯れたという。
{右}紅葉寺跡
松並木が始まって少し先左に夢舞台道標新居町 紅葉寺跡がありその向かいを右折すると古い石段の左に古い石柱と平成16年設置の木製立札説明板がある。建久元年(1190)高野山より毘沙門天立像を勧請して建立された寺が起こり。同年上洛途中に橋本宿に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘が後に出家し妙相と名乗り建立したとも言う。室町幕府6代将軍足利義教が永享4年(1432)富士下向の際にここで紅葉を鑑賞したとされその頃から紅葉寺が通称となった。荒廃後に本覚という僧が曹洞宗の紅葉山本学寺として再建したが再び荒廃し廃寺となった。現在は建物はなくベンチが置かれ石段を登った右に石仏3体の祠や明治31年(1898)歌碑、雌株の大銀杏、左奥には古い石塔、墓石などがある。
{右}検校ヶ谷(けんぎょうがや)石柱
松並木を進みゆるい上り坂を上りきった右の森自動車(新居町浜名1709)先の十字路に古い「検校ヶ谷」石柱と説明板がある。江戸時代に東国の座頭が検校の位を得るため京に向かう途中この付近で倒れ後に地名が検校ヶ谷となった。江戸時代の男性盲人の自治的互助組織である当道座は職業訓練を行ったり独自の裁判権を持つなど盲人社会の秩序維持と支配を確立し幕府からも公認され平曲(平家琵琶)及び三曲(筝、地唄三味線、胡弓)演奏や鍼灸、按摩などの職業はほぼ独占していた。座内の位は検校、別当、勾当、座頭となっており京にある本部(当道職屋敷)が認定し盲人は世襲とは関係ないため位の金銭売買もされた。最高位の検校は15万石の大名と同程度の権威と格式があったと言う。
{左}藤原為家と阿仏尼歌碑
十字路を渡りゆるい下り坂を少し進むと車道と歩道の間に車道側に向いて平成3年建立の歌碑と説明碑がある。為家と側室の阿佛尼が詠んだ歌が1つの歌碑に刻まれている。「風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 為家」「わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで 阿佛尼」。為家は鎌倉中期の歌人で定家の次男。承久の乱後に千首和歌で歌人として認められ続後撰和歌集や続古今和歌集を始め多くの歌集を編みこの歌も続古今和歌集巻第19に収録されている。阿佛尼は安嘉門院に仕え四条と称していた頃に初恋の失恋から10代で出家し尼となったが後に為家の側室になった。この歌は為家の没後、鎌倉下向の折に書いた十六夜日記に収録されている。
{左}大倉戸の立場跡
松並木が終わり少し先に槙の並木があり昭和59年建立の石柱と平成17年設置の木製立札説明板がある。新居宿と白須賀宿の中間にある立場で代々加藤家がつとめてきた。説明板には立場で旅人を見ると湯茶を勧める様子を「立場立場と 水飲め飲めと 鮒や金魚じゃあるまいに」という戯れ歌に詠んだ殿様がいたという話を紹介している。東海道はこの辺りから大倉戸の集落に入る。
{右・寄}松林山 東新寺 [臨済宗方広寺派] 新居町浜名2660
少し先に看板があり右折し坂を少し登った正面。正保2年(1645)東福寺中興3世春岳智栄が創建し慶安4年(1651)開山した。嘉永7年(1854)安政東海地震に遭遇した住職の真宗は体験等を「安政大地震並大津波記録」という手記にまとめ木版刷りにして村中に配布した。その中に「地震の時ハ火を消す事第一なり」とある。境内左に6地蔵と石仏が5体安置された祠、本堂の隣には稲荷神社がある。浜名湖岸88ヶ所霊場第64番札所。大倉戸の集落を先に進んでいくと右の一段高いところに屋形秋葉常夜燈、秋葉神社と金刀比羅宮が祀られる祠がある。
{左}明治天皇野立所阯
大倉戸の集落を出る手前に柵に囲まれて昭和11年(1936)建立の石碑と木製立札説明板がある。明治元年(1868)東京へ行幸した明治天皇が休憩した場所。明治天皇はその夜は新居宿飯田武兵衛本陣に宿泊した。
{右}火鎮(ほずめ)神社 湖西市白須賀5942
湖西市白須賀に入りしばらく行くとある。かつての白須賀宿の鎮守の社。祭神は火之迦具土神、品陀和気命、徳川家康。応永年間(1394-1428)の津波、安永年間(1772-81)の火災で古文書消失し創建詳細は不明。神社前左に夢舞台道標白須賀宿 火鎮神社、大きな白須賀宿マップ(案内板)がある。石段途中の明治44年(1911)の鳥居前にある灯籠は文政2年(1819)。石段を登りきるとある手水石と灯籠は天保4年(1833)で灯籠の火袋は昭和61年金属製となっている。社殿前の灯籠は昭和31年(1956)。社殿前から右へ40mほど山道を行くと孟宗竹の林の中に赤鳥居と祠(間口1.5m奥行1.8m瓦葺)がある。この地域の大漁祈願のために神奈川県葉山町から勧請した稲荷社でこの山も稲荷山と呼ばれる。
{右}白須賀元町一里塚跡(70)&高札建場跡
神社から15分ほど歩いた田中建築手前の民家前に2つの石柱と立札説明板がプランターに囲まれてある。石柱は右が風化した古いもので「一里山旧址」左が平成6年建立で「高札建場跡」と彫られている。この辺りでは一里塚のことを一里山と呼んでおり明治の始め頃までは松が植えられていたが今は塚も松もない。高札建場(高札場)は白須賀宿にはここと東長谷の2箇所、加宿の境宿村にも1箇所あった。元町は最初の白須賀宿があった場所で宝永4年(1707)大地震と津波で壊滅し現在の坂上に移転した。この大地震前日に白須賀宿に宿泊していた備前岡山藩主池田綱政は日頃から観世音を深く信仰していたため夢に現われた蔵法寺の潮見観音のお告げを聞きすぐに出発し難を逃れたと言う。
{右}内宮 神明神社 白須賀5451
少し先の十字路をを渡るとある。度重なる津波で古文書等が失われており創建は不明。延喜式神名帳記載の大神々社とする説もある。祭神は天照皇大御神、天手力雄命、萬幡姫命。古くはこの地は神森山と呼ばれた。潮見坂南西の海岸近くにある神明神社(白須賀848)を外宮と呼ぶのに対しこちらは内宮と呼ぶ。入口右の神社名石柱は明治43年(1910)建立。鳥居は木製。灯籠は元治元年(1864)明治2年(1869)昭和5年(1930)などがある。手水石も昭和5年。社殿左に境内社があり秋葉社、津島社、金刀比羅宮、八幡社がある。宝永8年(1711)以降の棟札や吉宗以降の幕府からの朱印状写しが現存する。境内地は白壁に囲まれており左隣には長屋門がある民家がある。
{右・寄}龍谷山 蔵法寺 [曹洞宗] 白須賀5350-1
左に中丁公会堂がある十字路右に看板があり右折し正面。奈良時代末から平安時代に真言宗の前身の寺が建立され「開基混山靈沌和尚」と記された古い位牌が残る。慶長3年(1598)琢翁宗眠和尚が曹洞宗として開山。本尊は前身の寺からの地蔵菩薩。慶長8年家康の朱印状により将軍家御小休所の指定を受けて以降将軍が代替わりすると住職は朱印状書替で江戸を往復しその際に乗った駕籠や家康ら9将軍の朱印状写しが現存する。承応3年(1654)漁師の網にかかった高さ1尺9寸(57.6cm)の木造観世音菩薩像は潮見観音と呼ばれ60年に1度開帳される秘仏で遠州33観音第22番札所。境内左には聖観音菩薩銅像(高さ169cm)、水子地蔵、本堂左には豊川稲荷、子安地蔵と33観音が並ぶ祠がある。
潮見坂(汐見坂)
中丁公会堂から少し進んで右折するのが東海道。分岐点に大正13年(1924)建立の道標「左新道 右旧道」と夢舞台道標湖西市 白須賀宿 潮見坂下がある。ここから500mほどの潮見坂を登っていく。京から江戸への旅では初めて太平洋の大海原や富士山が見える場所で東海道有数の景勝地だった。元禄4年(1691)オランダ商館長に随行して江戸参府したドイツ人医師ケンプェルの江戸参府旅行日記には「ここより初めて驚くにたえたる高嶺にして世界の最も美しい山たる富士山を仰ぎ得たり」東海道中膝栗毛には「北は山つづきにして南に蒼海漫々と見へ絶景まことにいふばかりなし」とある。広重も保栄堂版をはじめ白須賀宿の絵として潮見坂を描き大正期には今村紫紅、昭和期には山下清も描いている。
{右・寄}うないの松(うなひの松)
坂を登っていくと道が左にカーブした少し先で右から蔵法寺から通じる道が合流する。この道に入り少し先右の奥に説明板とロープで囲まれて直径120cmほどの切株がある。文明8年(1476)南遠小笠郡南村(現:菊川市小笠町)塩買坂で横地四郎兵衛の残党に襲われ没した駿河今川家6代当主今川義忠の胴を葬ったと伝わる場所。うないとはうなじの意味で潮見坂のうなじの位置であるため名が付いたと言われる。ここにあった松は昔から枝一本折ってもオコリ(多くはマラリアのこと)になると恐れられていたが昭和54年に枯れ平成元年に切株の隣に小さな2代目が植えられた。敷地には松の由来を記した昭和52年建立「うないの松あと」石碑、蔵法寺第16世嘯雲光均でもある久内和光の歌碑、小さな石塔も残る。
{左}おんやど白須賀 白須賀900
坂を登りきった所にある。東海道400年を記念して平成13年に開館した散策者のための無料休憩所。休憩室の他に展示室があり白須賀宿に関する展示のほか街道を行き交う庶民の旅模様を和紙人形で表現したナレーション付きジオラマや近隣の史跡のパネル、宝永4年(1707)大地震と津波の記録、江戸時代の鎧や道具、南西の海岸沿い(現:道の駅潮見坂付近)の長谷元屋敷遺跡から出土した内耳鍋、陶磁器などの土器、古銭、貝類、砂層などがある。10時-16時、無料、月休。長谷元屋敷遺跡は16世紀と17世紀の集落跡で宝永4年の災害後に台地上に移転したという長谷村の旧地と推察され国道1号潮見バイパス建設前の昭和59年と道の駅用地造成時の平成13年の2度に渡り発掘調査が行なわれた。
{左}石碑群
すぐ先の湖西市白須賀行政無線局の小さな建物がある広場にある。昭和49年建立の県営圃場整備の碑(県知事竹山祐太郎書)大正13年(1924)の4つの顕彰碑(義僕平八郎、藤屋五平、夏目甕麿加納諸平)大正4年の元白須賀町長・山本庄次郎顕彰碑(犬飼毅題字撰文、伊藤豊書)昭和13年の地域文化振興に尽くした医師・石川榮五郎顕彰碑(頼母木桂吉題字、横光吉規撰文、石田正一郎書)がある。義僕平八郎は問屋治右衛門の下僕で主人が田地没収され投獄されたため江戸に出て20余年に渡り金を主人宅に送り田地を買い戻した。藤屋五平は旅籠主人で財布を忘れた客苦労して探し出し返したと言い碑にはこれを讃え詠まれた歌が刻まれている。他にベンチや白須賀マップ、広重の絵もある。
{左・寄}潮見坂公園石柱
やがて道は左にカーブしていくが江戸時代の東海道はまっすぐで現在の白須賀中学校(白須賀986)と白須賀小学校(白須賀5030)の敷地を通っていた。左カーブ後に右にカーブするところに昭和5年建立の「潮見坂公園」石柱、立札説明板、すぐ先に夢舞台道標湖西市 白須賀宿 潮見坂公園跡がある。遠州灘が一望に出来て旅人が一休みする絶景地で大正13年(1924)町民の手により公園が造られたが昭和23年に中学校校舎が建てられ現在はほとんどの敷地が中学校となっている。天正10年(1582)武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る信長を家康が茶亭を新築しもてなした所とも言われる。
{左・寄}明治天皇御遺蹟地記念碑
少し先に大正13年(1924)の潮見坂公園開園時に園内に建てられたという大きな碑が移設されている。潮見坂公園の場所は明治元年(1868)明治天皇が東京へ行幸する際に休憩した場所でもあり碑の揮毫は後に文部大臣、厚生大臣、内務大臣、内大臣を歴任した木戸幸一で木戸孝允の妹の孫にあたる。この行幸には当時の新政府参与・木戸孝允も随従しており日記に「潮見坂の上に鳳輦を駐めさせられ初めて大洋をご覧になられた」と書いており碑の土台には日記の一部がプレートとして嵌められている。右隣には大正14年建立の説明碑、左隣には昭和27年建立の忠魂碑(元海軍大将百武源吾書)がある。その左には展望台として四阿風の休憩場所もある。
{左・寄}白須賀十王堂
白須賀小学校(白須賀5030)を過ぎると右の民家前に祠がありこの辺りから江戸時代の東海道に戻る。しばらく進むと丸丁佐原商店(白須賀3856)手前で右から県道173号が交差しここから県道となり少し先のホワイト急便渥美屋店(白須賀3862)向かいを左折すると正面に集会所風の建物の十王堂がある。創建年代不明だが宿場移転の宝永5年(1708)に他の諸寺院と共に元町から移転したと伝えられる。堂内には閻魔像が安置されている。境内入って右に稲荷社の祠が2つあり境内左には昭和24年(1949)の梵鐘がある鐘楼、地蔵の祠、古い石碑、墓石群11基もある。無住となって数10年が経ち現在は蔵法寺が管理している。
{左・寄}海隣山 禮雲寺 [曹洞宗] 白須賀1282
十王堂境内の駐車場を左奥に抜けるとある。正保元年(1644)神明神社西隣に蔵法寺6世天山尭存が開いた禮雲庵が起こり。本尊は地蔵菩薩。享保19年(1734)津波被害により現在地に移転し大正4年(1595)蔵法寺18世聖山恵超法地開山、昭和2年(1927)庵号を寺号に改めた。本堂左に山弘法大師と遠州33観音第23番札所である十一面観世音を安置する観音堂がある。境内左には水琴窟、慈母観音の祠、石仏3体の祠、三界万霊地蔵を中心とした石仏5体の祠、6地蔵もある。本四国88ヶ所弘法大師霊場もあり境内南の林の中を一周するルートになっている。寺には本四国、西国33ヶ所のお砂踏とお姿がありお砂踏は明治から本四国、西国をはじめ坂東、秩父等百観音を巡拝し砂を加持した。
白須賀宿東枡形 曲尺手(かねんて)
十王堂入口から少し先で道が枡形になっており道なりに左折してすぐ右折する。右折する角の右には曲尺手の立札説明板もある。枡形に入る手前で右から交差する狭い道の角には「鷲津停車場往還」道標もある。明治21年(1888)開業の鷲津停車場(現:JR鷲津駅)へ通じる道で道標には明治45年(1912)起工、大正4年(1915)竣工と刻まれている。鉄道が新居町から北へ大きく曲がり浜名湖南西岸を通るようになったのは黒い煙を吐き大きな音で走る蒸気機関車が漁業に影響を与えると白須賀の漁民が反対したためと言われ鷲津停車場は開業当初は田圃の中にあって周りには何もなく鉄道資材置場になっていたが鉄道利用が増えるに従い駅前が開発されていった。
白須賀宿   本陣1脇本陣1旅籠27家数613人口2704[天保14年(1843)]
白須賀という名前は白い砂州に開けた集落という意味で海沿いの町の意。設置当初はその名の通り潮見坂下の海辺に近い元町にあったが宝永4年(1707)大地震と津波で壊滅したため翌年坂上の現在地に移転した。しかし小規模な宿場だった為に多くの大名はここを素通りして舞坂、浜松、西であれば御油、赤坂に宿泊したという。天保14年(1843)の記録で東西14町19間(1.5km)。現在も主要交通から外れているため旧宿場の雰囲気が残っている町になっており江戸時代の屋号を書いた看板が各家に掲げられている。
{左・寄}安立山 妙泰寺 [日蓮宗] 白須賀1393
少し先を左折すると小路が4つに分かれ右から2番目の道を行くと左にある。慶長元年(1596)本妙院日安大徳が開山し宝永5年(1708)第8世感応院日意の時に元町から現在地に移転した。当時この辺りは未開の山だったたため古くからこの地に住んでいた狸も多く日意は自分の食事を減らしても狸に餌をやっていたところ多くの狸が寺に住むようになり狸寺と呼ばれた。明治以降、近辺に住宅が増えると狸も減り現在は姿もないが境内左の番神堂の跡地に昭和58年建立の狸塚の碑がある。隣には映画監督の松尾昭典と宝塚歌劇の劇作家・演出家の柴田侑宏兄弟の顕彰碑がある。昭和・平成期の地元の俳人・仁中庵義風の句碑と師である雪中庵二松の句碑も並んである。本堂左前には身代地蔵がある。
{右}大村庄左衛門本陣跡
先を行くと白須賀美容院(白須賀3895-2-1)と隣の大きな屋敷の間に平成6年建立の「本陣跡」石柱と立札説明板がある。元治元年(1864)の記録には間口22間(40m)奥行23間半(43m)総坪517坪(1706平方m)建坪183坪(604平方m)畳敷231畳板敷51畳とあり玄関門構付だった。享和3年(1803)には伊能忠敬率いる第4次測量隊が宿泊している。寛延元年(1748)から幕末までの丹波亀山藩主・形原松平家の文書には亀山藩の参勤交代時の休憩所として「白須賀 大村庄兵衛」とある。
{右}三浦惣次郎脇本陣跡
すぐ先の自動販売機が置かれているたばこ店前に平成6年建立の「脇本陣跡」石柱がある。三浦惣次郎脇本陣は桐屋と称し元治元年(1864)の記録には間口10間(18m)奥行17間半(32m)建坪93坪(307平方m)畳敷164畳板敷29畳とあり玄関付きだが門構はなかった。
{右}問屋場(人馬会所)跡
そのまた隣の白須賀公民館(白須賀3898-1)前の湖西市自主運行バス(遠鉄バス受託)白須賀バス停後ろに夢舞台道標湖西市白須賀宿 問屋場跡がある。江戸時代は脇本陣とは小路を挟んで隣だった。その先の十字路で左折するのが県道173号だが東海道はそのまままっすぐいく。
{右}夏目甕麿(みかまろ)邸址 加納諸平(もろひら)生誕地
十字路を渡ったブロック塀に昭和40年の石碑と昭和47年の説明板。家業の酒造を営む傍ら内山真龍に国学を学び寛政10年(1798)26才で本居宣長に入門した甕麿は通称嘉右衛門、萩園と号し宣長没後は子の本居春庭に学び42歳で隠居して学業・執筆に専念、文政4年(1822)49歳の時に関西へ旅に出たが翌年摂津(兵庫県伊丹市)の昆陽池で酔って水死した。賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」等を出版し著書には「古野の若菜家集」等がある。甕麿の長男の諸平は柿園と号し紀州の本居大平(宣長の養子)の許で国学を学び同時に紀州藩医・加納伊竹に医学を学び18歳で加納家の養子となる。安政3年(1856)紀州藩国学所総裁となり翌年53歳で没した。「当代類題和歌選集」等の多くの著作を残した。
{右}神明宮  白須賀4167
少し先にある。入口の灯籠とその先の鳥居は昭和5年(1930)の建立。石段を上がった境内の灯籠6基は明治43年(1910)。狛犬は平成元年。本殿の右に稲荷社、天神社、東照宮、左に火木社ほか3社の境内社がある。
火防樹のマキ
少し先の両側の民家の敷地内に土塁が築かれ槙の木が並んでいる。左の民家前には昭和59年設置の説明立札もある。宝永5年(1708)元町から移転した白須賀宿は津波の心配は無くなったが高台の上では冬季に西風が強く吹き火災に悩まされるようになった。火災時の類焼を防ぐため宿内3箇所の街道両側に間口2間(3.6m)奥行4間半(8.2m)の防火樹林が築かれた。ここは残存する1箇所で両側に樹齢200年以上の槙が残り湖西市文化財に指定されている。左は3本で他に2つの切株があり右は4本だが1本が根元で2本で分かれており5本に見える。槙は火に強く成長が遅いため樹高がほぼ一定しているので防火樹としては最適だった。
{右}庚申堂
しばらく行くと立派な鬼瓦が付いた入母屋屋根の堂がある。天和元年(1681)建立された蔵法寺末寺。建物は天保12年(1841)再建されたもので三河・遠江両国内ではもっとも大きい庚申堂とされる。参道右には「見ざる」左に「聞かざる」「言わざる」の猿の像がありその奥左にも猿の像が4基ある。灯籠は文政13年(1830)。他に境内右に石仏が1基安置された祠もある。東海道を先に進むと道幅がやや広くなり少し先右の電柱の横に平成6年建立の「火除け地跡」石柱がある。
{右}夢舞台道標 湖西市 境宿 白須賀宿加宿
しばらく先左の境宿公会堂向かいに夢舞台道標湖西市 境宿 白須賀宿加宿と白須賀宿マップがある。静岡県内約200kmに渡り設置されていた夢舞台道標はこれが最後となる。境宿は秀吉が小田原攻めに向かう途中に命名したとされる勝和餅(柏餅)が名物でこの辺りにあった猿ヶ馬場(猿の番場)と呼ばれた立場で出されていた。餡は蘇鉄の実の皮入りで皮はもろこし粉が主原料だったため旅人の道中記などで味が悪いと書かれたが逆に話のネタにと売れ有名だった。包む葉も柏ではなく地元で「じゃんかるば」と呼ばれる猿捕茨山帰来というツル植物の葉を使っていた。現在は和田屋(白須賀3760)が3-5月末限定で復刻している。1個105円。猿ヶ馬場は広重の二川宿の絵の題材にもなっている。
{右}谷川道道標
その先で右に分岐する道が谷川道で右に道標がある。旧谷川村は二川宿へ行く途中に見える岩山の立山や湖西連峰の麓のあたりで付近には頼朝も訪れた船形山普門寺[高野山真言宗](豊橋市雲谷町ナベ山下7)がある。道標から谷川道を挟んだ反対側には平成6年建立の「高札建場跡」石柱もある。
{左}久松山 成林寺 [法華宗] 湖西市境宿22
向かいにある。入口右に題目塔。参道左は銀杏が4本続きすべり台や鉄棒、ブランコもある。境内左に平成7年建立の境宿村開祖の内藤又右エ門 久兵衛之碑がある。
{左}笠子神社 湖西市境宿49
少し先で問屋場先で分岐した県道173号(旧国道1号)が左後方より合流する。合流地点すぐ先に神社入口がある。祭神は大己貴命、塩土翁命。古来から笠子大明神として祀られていたが貞元元年(976)明応8年(1499)と災害で転々とし元和2年(1616)現在地に移された。入口の灯籠、鳥居は大正13年(1924)建立。石段を上がりUターンするように進んでいくと社殿がある。境内の灯籠は明治35年(1902)昭和15年(1940)など。狛犬は大正13年。社殿左奥の方に鉄鳥居がありくぐって右に秋葉神社の祠と文化10年(1813)の秋葉山常夜燈がある。そのまま奥に行くと奥宮もある。
境川
東海道は県道を少し進むと右に分岐するが100mほどでまた県道に合流する。しばらく行くと三河国と遠江国の国境だった境川を境橋で渡る。小さな川だが現在も静岡県と愛知県の県境でありここから豊橋市になる。渡ってしばらく行くと左下の畑の中に等身大くらいの石仏があり東海道はさらに先の一里山東交差点で国道1号(潮見バイパス)に合流する。車道は少し左にカーブして合流するが右の歩道はバス停のロータリーとして自然に合流している。その三角地帯には平成12年東海道ネットワークの会により7本の小さな松が植えられ「一里山七本松植樹」標示や常夜燈が建てられている。