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{右}四本木の名残松 しばらく進み四本木交差点の少し先にある。有松と鳴海宿の間に1本のみ残る名残松で四本木の名残松と呼ばれる。四本木交差点を左折していくと昭和17年(1942)開業の名鉄名古屋本線の左京山駅。松の手前向かいには昭和2年(1927)建立の「正一位仁位殿社」石柱がある。二位殿社(にいどのしゃ)は石柱を左折して行くと手越川沿いにあり「二位殿塚」石碑が祀られている。創建は不明だが延享2年(1745)や寛政6年(1794)の古文書に記録があり触ると災いがふりかかると言われていた。 | |
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{右}神明社 緑区曽根2-211 少し進むと左には若い松並木が植えられており向かいに「神名社」石柱がある。境内は石段を登った先にある。室町時代に伊勢神宮を分祀して創建された。この辺りは大昔は鳴海潟が展望できた景勝の地で神宮遥拝には最適地だった。鳥居や灯籠は昭和57年。境内左に祠、右に宝暦6年(1756)の手水石。社殿手前左と左に黒松、社殿の裏に榎など市保存樹がある。昭和27年(1952)から南西400mの諏訪山(平部山)にある諏訪社(鳴海町諏訪山159)の飛地境内社となっている。諏訪山は応永2年(1395)瑞泉寺が創建された場所で諏訪社はその頃から存在していた古社。 | |
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{左}平部町常夜燈 しばらく進み平部北交差点を渡ると秋葉山常夜燈と説明立札がある。文化3年(1806)鳴海宿の東入口である平部町に旅人の目印として建立。宿と道中の安全祈願も兼ねている。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」とある。ここからアスファルトの色が有松と同じ黄土色に変わり雰囲気のある家並が続く。 | |
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鳴海宿 本陣1脇本陣2旅籠68家数847人口3643[天保14年(1843)] 古くは「遠くなり 近くなるみの 浜千鳥 鳴く音に汐の みちひをぞ知る」と詠まれたように海に近く成海と呼ばれ歌枕の地として多くの歌人に詠まれた。鎌倉時代は鎌倉街道が通り戦国時代は織田と今川の境界で今川は鳴海城を織田は中島砦、善照寺砦、丹下砦を築いた。宿の中心は根古屋町だったが宝暦5年(1755)文化8年(1811)の火事で当時の建物や記録はほとんど焼失。文化8年は「扇屋の火事」と呼び本陣、脇本陣、問屋場も焼失した。現在は道幅のみが往時を偲ばせ名古屋市緑区の中心地となっている。有松絞の有松と同じく鳴海絞を名産とする。天保14年の町並の長さは15町18間(1.6km)。 | |
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{左}猩々発祥の地 看板 少し進むと小林畳店(鳴海町平部42)前の電柱に看板がある。猩々とはオランウータンがモデルとされる中国から伝わった想像上の動物で酒が好きでいつも真っ赤な顔をしている。鳴海宿を中心とした東海地区で行われる祭りには高さ2m以上のかぶり物の猩々が現われ子供たちを追いかけ猩々に叩かれた子供は病気にならないと伝わる。この猩々の発祥が鳴海町とされこの先の電柱にも近清商店、中部ケーブルネットワーク、福井新聞店などいろいろな企業の名で「猩々発祥の地」看板がある。鳴海商工会には猩々というよさこい鳴子踊りのチームもあり代表は畳店の小林多加志氏がつとめている。 | |
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{右}紫雲山 金剛寺 [曹洞宗] 鳴海町平部41 向かい。宝暦10年(1760)瑞泉寺20世呑舟透鱗が建立した行者堂が起こりで本尊は行者菩薩。昭和17年(1942)瑞泉寺31世道本蜜成が開山し本尊が持っている金剛杖や金剛般若経から金剛寺と命名した。薬師如来像や明治期に作られた鳴海焼の十六羅漢像も所蔵する。境内左の観音堂には33観音の石像が並ぶ。境内右には「西国三十三観世音菩薩」「南無長寿弘法大師」と刻まれた昭和58年建立の石柱や天保12年(1841)の手水石、昭和56年の寺名石柱がある。鳴海宿周辺の寺を巡る東海道鳴海の宿11ヶ寺巡り第10番。まっすぐな道を進んだ先で右にカーブすると左歩道の緑地には小さな黒松とともに平成5年建立の飛脚と女旅人が浮彫された石碑がある。 | |
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{左・寄}中島砦跡 少し先で扇川に架かる昭和52年竣工の中島橋を渡る。橋の手前を左折し次の手越川に架かる下中橋の手前を左折していくと左の民家の柵に標示がある。柵には「所有者のご好意により自由に見学できます」とあり敷地奥に昭和2年(1927)建立の第三師団長 安満欽一揮毫の大きな「中島城址」碑がある。裏の撰文は鳴海町長 久野寿彦。扇川と手越川が合流する地点にあたり古くは泥の深い湿地帯だったが永禄2年(1559)信長が今川義元の侵攻に備えて砦を築いた。規模は東西27m南北36mほどの狭いもので翌年の桶狭間の戦いでは梶川平左衛門尉一秀が守将となり今川勢と戦った。地理的に信長勢の最前線であり桶狭間正面攻撃説ではこの砦から信長が出陣し桶狭間に突撃したとされている。 | |
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{右}龍蟠山 瑞泉寺 [曹洞宗] 鳴海町相原町4 扇川を渡るとある。応永11年(1404)鳴海城城主安原宗範(法名:瑞松)が大徹禅師を開山とし諏訪山に瑞松寺として創建。文亀元年(1501)現在地に移るが明暦2年(1656)焼失し再建、正徳年間(1711-16)瑞泉寺とした。本尊は釈迦牟尼仏。宝暦6年(1756)築の山門は黄檗山萬福寺総門を模しており昭和33年県有形文化財指定。山門右には寛延元年(1748)鐘楼「醒暁楼」、山門入って正面に宝暦5年(1765)法堂(本堂)、右に文化年間(1804-18)庫裏、左に慶応3年(1867)僧堂があり山門と合わせて平成5年市都市景観重要建築物等に指定。境内左に天保11年(1840)手水石。山門手前右には宝永3年(1706)宝篋印塔、その右に秋葉堂。四國直傳弘法大師尾張88ヶ所霊場第1番。鳴海の宿11ヶ寺巡り第9番。 | |
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{右・寄}下郷(下里)家の本家・千代倉家 しばらく進み菊屋茂富手前を右折すると右にある板壁に囲まれた屋敷。慶長年間(1596-1615)に下里弥兵衛が桑名から鳴海に移り海面を埋立て水田にし作った米と硬水の井戸水で「玉ノ井(玉の井)」という酒を造った。船で江戸に送り繁盛し大地主となり最盛期には一族で7軒の酒造が建ち並ぶほどだったが嘉永年間(1848-1854)に廃業した。本家の屋号を千代倉と言い江戸後期に本陣をつとめた下郷家は分家にあたる。芭蕉門下の鳴海の六俳仙の1人でもある下里知足は本家2代当主の勘兵衛吉親のことで芭蕉は鳴海来訪時にいつもここに逗留した。以降の一族は皆俳諧を嗜み3世季雄(俳号:蝶羽)、4代元雄(亀世)、5代昌雄(常和)、玄雄(蝶羅)、6代寛(學海)などがいる。3代季雄の頃に下里を下郷と改めた。 | |
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{右・寄}三井山 萬福寺(万福寺) [真宗高田派] 鳴海町本町5 千代倉家の板塀や玄関前の道を通過すると正面。永享年間(1429-41)尾張守護斯波氏の家臣であったという三井右近大夫高行の創建。永禄3年(1560)兵火で焼失したが再建され江戸時代末期に再々建された。石段を登り2つめの山門手前に昭和15年(1940)灯籠。本堂前の灯籠は大正8年(1919)。境内左の手水石は文久2年(1862)。本堂左には明治16年(1883)建立の「浄暁院師碑」。境内左には鐘楼もある。本堂内の欄間彫物は鳴海の山車に関わった彫師瀬川治助一族の作。明治6年(1873)には鳴海小学校(鳴海町矢切98)の前身となる広道学校の仮校舎が置かれた。現在は児童養護施設・那爛陀学苑(鳴海町本町3)を設置し運営している。境内には市保存樹のスダジイ、イチョウ、ムクノキもある。 | |
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{右・寄}木林山 浄泉寺 [真宗高田派] 鳴海町上中町9 萬福寺入口前を右に行くと右に寺名石柱と石段がある。永享4年(1432)鳴海庄名主の森山左近三郎吉勝(浄空)が100m北(現:墓地)の位置に専修念仏の道場として開基。本尊は阿弥陀如来像。文明10年(1478)美濃三河の合戦で焼失し2年後に現在地に再建。三重県津市に本山専修寺を創建した真慧が文明15年に寺号を浄泉寺と命名した。現本堂は享和元年(1801)築で内部には清洲城廊下から移した絵天井がある。本堂前の左右には「日本武」「信長」「秀吉」「家康」などを謡った詩碑がいくつもある。山門入ると大正6年(1917)灯籠、本堂前に昭和50年青銅製灯籠。境内左には小石仏群16体、新しい石仏3体、鐘楼、昭和8年(1933)手水石。明治20年(1887)には愛知郡第三高等小学校が置かれた。 | |
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{右}菊屋茂富 鳴海町相原町28 千代倉家へ入る小道のすぐ隣にある格子戸風の看板の建物。安政4年(1857)初代初次郎が創業した菓子屋。古くからの代表銘菓である「鳴海潟」(1個65円)は短冊状の干菓子の表面に干潟の波と千鳥が描かれており原材料には国産砂糖の阿波和三盆糖を使用している。創業時より干菓子や押し物を中心に作り店内には古い菓子型なども展示されている。他に大島きんとん(1個190円)わらび餅(1個220円)ほか季節に合わせた菓子を常時20-30種類作っている。9時-19時火休。
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曲尺手(枡形) すぐ先で道は突当りとなり右折、左折と曲がる枡形となる。ここから先が宿場の中心となる。正面右には宝屋(鳴海町本町53)という菓子屋があり相原町から本町となる。鳴海八幡宮例大祭(表方祭)では相原町、本町、中嶋町、根古屋、作町の5輌の山車が曳き回される。相原町の山車は建造年は不明だが明治11年(1878)千代倉家が子供の誕生祝いに小野浦(現:知多郡美浜町)より購入したものと伝えられ翌年に改造された。立川和四郎門下の甚右衛門重富の彫刻や柿の木に倒立し太鼓を叩くからくり人形もあり市指定有形民俗文化財。本町の山車は嘉永元年(1848)建造で屋根に大きな矛(薙刀)を乗せ幕末の浮世絵師・森高雅が描いた竜虎が大幕に、鶴が水引幕にある。 | |
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{左}緑生涯学習センター(問屋場跡) 鳴海町本町54 少し先にある。江戸時代は東の問屋場で明治6年(1873)からは下郷弥兵衛を初代所長とする鳴海郵便役所が置かれた。鳴海宿の問屋場は2箇所ありもう1箇所は花井町にあった。昭和38年名古屋市と合併するまでは鳴海町役場、以降は緑区役所が置かれ昭和49年区役所が現在地(青山2-15)に移転すると生涯学習センターとなった。問屋場跡碑はないが敷地の街道沿いに「旧愛知郡鳴海町役場跡地」碑がある。先を進むと電柱には鳴海商工会の名で「ここは東海道 鳴海宿」の文字と宿場のミニ案内があるがほとんど劣化している。 | |
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本町交差点 札の辻 少し先の本町交差点で県道242号と交差する。この交差点は手前右に高札場や成海神社の一ノ鳥居があり札の辻と呼ばれていた。高札場に掛かっていた慶応3年(1867)駄賃・人足賃に関する高札などは昭和30年代に町役場の倉庫から発見され名古屋市博物館(瑞穂区瑞穂通1-27-1)に保管されている。交差点を右折し少し先右の三菱東京UFJ銀行鳴海支店(鳴海町本町18-3)前にはポケットパークを作り高札場を復元する計画が進んでいる。交差点を左折し浅間橋を渡ると大正6年(1917)開業の名鉄名古屋本線の鳴海駅。 | |
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{右・寄}天神社(成海神社旧蹟) 鳴海町城28 本町交差点を右折し三菱東京UFJ銀行鳴海支店を過ぎた右に平成2年設置の由緒説明板と石段がある。石段左に倭武尊御歌碑があり日本武尊が東国平定の折、鳴海浦に立ち寄り対岸の火高(現:大高)丘陵の尾張氏の館を望み詠んだもの。延喜式神名帳にも記載がある成海神社はこれに由来し朱鳥元年(686)この地に創建され日本武尊と尾張氏始祖である宮簀媛命と建稲種命を祀り鳴海城築城時に現在地(鳴海町乙子山85)に移転した。天神社はその跡地に城の鎮守として創建され現在は成海神社の境外社となっている。石段を上り左折すると嘉永5年(1852)灯籠、奥に小さな祠の社殿。境内左には造成のため切株だけになった神木、社殿右に平成2年建立「成海神社御旅所竣工記念碑」もある。 | |
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{右・寄}天神社 芭蕉句碑 境内には平成3年の建立の芭蕉句碑が3つある。明治31年(1898)建立の鳥居右に弟子の下里知足の弟、三郎左衛門の新居に祝意を表した句と言う「よき家や 雀よろこぶ 背戸の粟」。鳥居左に貞亨4年(1687)伊賀への4度目の帰郷途中に下里邸に宿泊し詠んだ「京までは まだ半空や 雪の雲」。社殿前左に伊勢物語の「かきつばた」の歌を背景にしたと言う「杜若 われに 発句の おもひあり」。この地は鳴海城の東曲輪跡でもあり石段を登った正面に昭和20年「史蹟 鳴海城趾」石柱、境内右に城の説明立札と城主・岡部元信の子孫である子爵・岡部長景の撰文、書による昭和18年建立の鳴海城址之碑もある。この地からは奈良時代の古瓦も出土し大寺院があったとされ鳴海廃寺と呼ばれている。 | |
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{右・寄}来迎山 誓願寺 [西山浄土宗] 鳴海町根古屋16 本町交差点を渡り右折した左。天正元年(1573)俊空の開山。本尊は阿弥陀如来。山門入って右の本堂の右前に市の保存樹に指定されているソテツがある。境内左には文化12年(1815)碓氷君徳政碑がある。天明2年(1782)から成海神社(鳴海町乙子山85)西側付近に置かれた尾張藩鳴海陣屋で文化10年(1813)代官となった碓氷清八郎重治を讃えた碑で永井荷風の先祖の儒学者・永井星渚の漢文が刻まれている。その左には文政2年(1819)徳本名号塔と横に小さな六字名号碑、前には元治元年(1864)手水石もある。東海道鳴海の宿11ヶ寺巡り第6番。敷地の北にあたる道路沿いには大師堂があり四國直傳弘法大師尾張88ヶ所霊場第2番。堂の左に「聖観世音菩薩」石柱、右におもかる地蔵もある。 | |
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{右・寄}誓願寺 芭蕉堂 境内の左奥。安政5年(1858)永井荷風の曾祖父・永井士前とその門人が建立した間口奥行共1間半(2.7m)の木造瓦葺・土壁の堂で中には芭蕉翁座像(高さ38cm)が安置されている。誓願寺を菩提寺とする千代倉家の別荘があった細根山(現:鳴海町細根)の小山園に芭蕉が手植えした杉の木が台風で倒れたためその木材で宝暦年間(1751-63)に彫刻したもの。堂の前には市指定保存樹の黒松。堂の左奥には昭和52年市指定文化財の芭蕉供養塔があり元禄7年(1694)芭蕉が没した翌月の命日に鳴海の芭蕉門人で追悼句会を催した際に如意寺に建立され芭蕉堂が建てられた以降に移された。芭蕉の供養塔としては最古で高さ60cmの緑色の自然石で表面に「芭蕉翁」背面に没年月日が刻まれている。 | |
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{右・寄}庚申山 圓道寺(円道寺) [曹洞宗] 鳴海町根古屋18 誓願寺北隣。天正年間(1573-92)に瑞泉寺11世仁甫良義によって末寺として創建。猿堂寺と呼ばれていたが後に有松へ移転した祇園寺へ寺号を譲り宝暦7年(1757)地蔵寺、安永3年(1774)庚申堂と改称し昭和17年(1942)瑞泉寺31世道本蜜成が圓道寺とした。本尊は青面金剛明王で前立に十一面観世音菩薩。平成3年竣工の本堂の屋根には「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三猿像があり山門の扁額や絵馬にも三猿が見られる。本堂右前には庚申石像と「くくり猿塚」手書札があり山門や本堂にはくくり猿が飾られている。本堂左に秋葉堂、3石仏と10小石仏が安置された弘法堂。鳴海宿周辺の寺を巡る東海道鳴海の宿11ヶ寺巡り第7番。寺の前の道は昔は道幅の狭い急坂で庚申坂と呼ばれていた。 | |
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{右・寄}鳴海城址公園 圓道寺のさらに北を左折すると正面にある鳴海城の本丸跡。根古屋城とも言い応永年間(1394-1428)足利義満配下の安原備中守源宗範が築城。宗範の死後、一旦廃城になったが天文年間(1532-54)に織田信秀が修築し山口教継が居城したが信秀が没すると今川方に寝返った。永禄年間(1558-69)には今川方の岡部元信が守り桶狭間の戦いで義元が討たれた後も奮戦し義元の首を交換条件に城を明渡した。その後は信長家臣・佐久間信盛、信栄父子の城となり整備されたが天正8年(1590)父子が織田家を追放され天正18年(1590)頃に廃城になった。江戸時代の記録には東西75間半(137m)南北34間(62m)で堀跡が残るとある。現在、公園内にはブランコ、ベンチ、砂場、富士山を模した遊具などがある。 | |
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{左}鳴海宿本陣跡 本町交差点を直進すると阪野家電(鳴海町作町9)手前の根古屋の山車庫前に説明立札。本陣は西尾伊右衛門が200年間つとめ享和2年(1802)宿方明細書上帳には建坪273坪(902平方m)とある。嘉永年間(1848-1854)以後は千代倉家の分家の下郷家に交代し敷地は676.5坪(2236平方m)もあり幕末には間口21間半(39m)奥行28間(51m)建坪235坪(777平方m)総畳数159畳。平成8年まで屋根の一部に本陣の長屋門の一部を残した菊野屋製菓舗があった。山車庫の中の山車は本陣車と呼ばれ天保10年(1839)建造で前後村の大工藤助の作で彫刻は瀬川治助重定の作。脇本陣は2軒あったが詳細は不明。斜め向かいに大名茶屋「善」(鳴海町根古屋30)があり看板に「鳴海宿 食い呑み問屋場」とある。 | |
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{右・寄}頭護山 如意寺 [曹洞宗] 鳴海町作町85 少し先を右折正面。山門に「如意寶珠寺」とある。康平2年(1059)2.5km北の上ノ山に真言宗の青鬼山地蔵寺として開山。応永5年(1398)霊鷲山長母寺[臨済宗東福寺派](東区矢田町寺畑2161)の無住国師が如意輪観世音菩薩を本尊とし現在地に移転し応永20年(1413)に如意寺となった。東海道鳴海の宿11ヶ寺巡り第5番。6世玄翁文英は俳号を沙門如風と言い鳴海六俳仙の1人。本堂左の蛤地蔵堂内の大きな地蔵菩薩は尾張国6地蔵第4番で飢饉の時に夢のお告げをしその通り掘ると多くの蛤が出たと伝わる。山門入って左に百度石、境内には昭和26年梵鐘の鐘楼、平成16年白衣観音もある。山門手前右の弘法堂は四國直傳弘法大師尾張88ヶ所霊場第3番。境内左に鳴海保育園(作町84)。 | |
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作町交差点 少し進むと作町交差点でT字路となる。江戸時代には鳴海宿から宮宿にかけて南は干潟か海だったとあり東海道はここから右折し北に向かう。作町という地名は鳴海城の最後の城主とされる佐久間氏から付いたとされる。鳴海八幡宮例大祭(表方祭)で曳き回される作町の山車は天保8年(1837)建造とされ彫刻は根古屋町と同じく瀬川治助重定の作。 | |
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{右・寄}東福院 [真言宗智山派] 鳴海町花井町3 右折してしばらく進み右の間口の広い格子戸の旧家の先を右折していくと左にある。古くは鎌倉街道にあり寛永年間(1624-43)にこの地へ再建された。本尊は大日如来。山門は鳴海城の廃材を用いている。山門左には絵天井の残る観音堂があり小さな子宝観音ほか35の石像が安置されている。境内右には池があり弁才天が祀られている弁天堂がある。鳴海宿周辺の寺を巡る東海道鳴海の宿11ヶ寺巡り第4番。 | |
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{右・寄}白龍山 長翁寺(ちょうおんじ) [曹洞宗] 鳴海町花井町50 三皿交差点で広い県道36号線を渡り右に少し行くとある。織田有楽斎が兄・信長の持仏の薬師如来像を譲り受け天正10年(1582)瑞泉寺10世海雄圭禅を開山として北東600mの現在の鳴海町薬師山に建立したのが起こり。天保5年(1835)一秀祖関が現在地に移し再開山した。本尊は釈迦牟尼仏。薬師如来像は本堂左の醫王殿内に秘仏として安置されており東海49薬師霊場第34番札所にもなっている。他に達磨大師座像、十六羅漢、准胝観音座像、鳴海城を築城した安原宗範の家臣・久野十太夫のものとされる室町時代の石地蔵も所蔵する。山門手前左の塀の一角に石仏2体、山門入って左奥に昭和52年水子地蔵菩薩もある。東海道鳴海の宿11ヶ寺巡り第3番。尾張四国88ヵ所第77番札所。 | |
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{右}成海神社 入口 しばらく行くと明治27年(1894)建立の社名柱がある。神社(鳴海町乙子山85)は右折して400m先。朱鳥元年(686)に現在天神社がある地に創建され鳴海城築城時に現在地に移転した。祭神は日本武尊、宮簀媛命、建稲種命。境内社は神明社、熊野日向社、宝田社、白山社、山神社、道祖祓島社、御井社、今宮社、八幡社、八劔社、住吉社など20社ある。境内は13221坪(4.4ha)あり今川義元の所領安堵状も所蔵する。成海神社と鳴海八幡宮(鳴海町前之輪49)はかつて同じ日に祭礼が行われていたが元禄13年(1700)に論争が起き以降は鳴海八幡宮を表方祭、成海神社を裏方祭と呼んで別々に行うようになった。裏方祭では城之下、花井、丹下、北浦の4輌の山車が曳き回される。 | |
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{右}丹下町常夜燈 少し先の居酒屋まる家(鳴海町丹下35-1)の先に秋葉山常夜燈と平成12年設置説明立札がある。寛政4年(1792)鳴海宿の西の入口の丹下町に建てられた。表に「秋葉大権現」左に「新馬中」裏には「願主重因」とある。左には大正15年(1926)建立「子安地蔵大菩薩光明寺」の石柱がある。右折していくと子安地蔵菩薩を本尊とする弘治2年(1556)剛庵和尚開山の一国山光明寺(鳴海町丹下26)があり付近一帯は永享2年(1559)信長が築いた丹下砦跡。桶狭間の戦いの際には水野帯刀らが守将として入城した。東海道はここから少しの間、右に一段高くなった歩道が平行する。 | |
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{右}鉾ノ木貝塚(ほこのきかいづか) しばらく行くと道幅が広がり昭和シェル石油プラザ鳴海店SS(緑区浦里2-211)向かいに緩斜面の草地があり説明板がある。郷土史家・野村三郎氏により発見された縄文時代前期の貝塚で昭和46年には市が土地を取得し盛土をして保存している。ハイガイ(灰貝)を主とした貝塚で上部貝層からは「鉾ノ木式」と呼称される縄文前期中ごろの羽状縄文、瓜形文を施した平底の深鉾形土器が出土している。下部貝層や基底面からも縄文のあるやや厚い土器や薄手の細線文土器が出土している。ハイガイは1万年前の日本には多く存在したが現在は有明海でしか確認できない。 | |
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{右}千句塚公園 登山口 少し先に「千鳥塚」案内標識や大正8年(1919)「正一位緒畑稲荷神社」石柱があり登っていく細道がある。右折し少し先の昭和13年(1938)石鳥居をくぐって行くと100mで千句塚公園。三王山は一時は草が茂って荒れていたが現在は整備され公園となり入口の右壁面には千鳥塚の句会での芭蕉発句「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥」も記されている。公園整備中には弥生時代後期を主とする遺跡(三王山遺跡)も見つかっており東海地方初の突起付青銅製腕輪(有鉤銅訓)も出土した。公園左奥にある緒畑稲荷神社は室町時代創建とされ桶狭間の戦いで焼失したがその後再建された。一対の白狐が住み着いていたと伝わり社殿奥の階段を降りる途中左には狐塚がある。公園内には他に四阿、遊具などもある。 | |
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{右・寄}千句塚公園 千鳥塚 公園の右手奥の大きな榎の下にある高さ43cmほどの小さな石碑。誓願寺の芭蕉供養塔と同質の緑色片岩で表面の上に「千鳥塚」下に「武城江東散人 芭蕉桃青」と芭蕉揮毫の文字が刻まれている。裏面には上に「千句塚」下に「知足軒寂照」「寺島業言」「同 安信」「出羽守自笑」「児玉重辰」「沙門如風」と鳴海六俳仙の名がある。昭和52年市指定史跡。貞享4年(1687)寺島安信邸での句会の記念に建立され芭蕉存命中に建てられた唯一の塚碑とされる。知足軒寂照は千代倉家の下里知足で寺島業言(ぼく言)は知足の叔父(母の弟)の桝屋嘉右衛門、寺島安信は桝屋の分家。出羽守自笑は刀鍛冶の出羽守氏雲で岡島佐助のこと。児玉重辰は鳴海の荷問屋、沙門如風は如意寺の6世玄翁文英。 | |
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天白橋 少し先の三王山交差点で県道59号線を横断すると街道は左へ曲がり少し先で右後ろから広い通りが合流する。しばらく先で上り坂となり天白川に架かる昭和50年竣工の天白橋を渡る。天白川は名古屋商科大学(日進市米野木町三ヶ峯4-4)付近が水源で名古屋港に注ぐ。延長22.7km流域面積118.8平方km。天白川の名は天白橋付近に天白大明神が祀ってあったのがその由来と言い江戸時代から天白川と呼ばれていた。下流流域一帯は年魚市潟(あゆちがた)の一部で天正15年(1587)頃から堤防が整えられ新田と化していった。この辺りは松並木があり昭和30年代にはまだ残っていたと言う。橋を渡ると名古屋市南区に入り右には遊具などがある赤坪南公園がある。 | |
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{左}「東海道」標柱 知多郡道分岐点 しばらく進むと笠寺精治寮病院(南区笠寺町柚ノ木3)手前の歩道と車道の間にあり側面には「知多郡道 この先五十米先南へ」とある。この宿駅制度制定400年記念の「東海道」標柱はこの後の南区内の東海道にもいくつかある。すぐ先には小さな松に挟まれて東海道分間延絵図の付近の部分を拡大して貼り付けた巨大な案内碑。その先で街道は右に少しカーブするが左折して分岐するのが旧知多郡道で天白川と扇川が合流する辺り(現:大慶橋付近)に向かっていた。寛政5年(1793)の絵地図には知多海道とある。地元では阿原道、鳴海前之輪への道とも言う。 分岐点にあるサイクルパーク・カトウ(南区笠寺町下新町1)横には地蔵の祠があり地蔵の左手のいぼに触れて祈願するといぼが取れると言う。 | |
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{右}笠寺一里塚(88) 少し先で右に道が分岐し2叉路になっておりその三角地帯に右塚と石柱、説明碑がある。市内に唯一残る一里塚で高さ3m直径10mの円丘上に高さ2.6mの榎が一本あり地表を這う根が塚全体を掴み上げている。市の都市景観保存樹に指定されておりうろが出来て樹勢が衰えていたのを平成6年に200万円で穴をふさぐ施術を行い蘇った。ムクノキが植えられていた左塚は大正時代に取り壊された。旧東海道は2叉路の左を進む。ここから先が江戸時代には笠寺の立場があった付近となり古くはないが格子の家が数軒ある。 | |
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{右}天林山 笠覆寺(しょうふくじ)(笠寺)[真言宗智山派] 南区笠寺町上新町83 しばらく行くと池が現れ文政3年(1820)建立の山門(仁王門)がある。天平8年(736)夢のお告げを受けた善光上人が呼続の浜に漂着した霊木から本尊十一面観世音菩薩を刻み現在地の南方650mの観音塚(南区柏畠町2)天林山小松寺として開基。延長8年(930)藤原兼平と玉照姫夫妻が現在地に再興し寺号を改称した。嘉禎4年(1238)阿願が再々興し境内右の鐘楼にある尾張3名鐘の1つで県指定文化財の梵鐘を鋳造。この後も何度か荒廃、再興を繰り返し昭和に入り吉川政識が復興。境内右に政識和尚像がある。本堂は宝暦13年(1763)築。 8年に1度の開帳の本尊は笠寺観音と呼ばれ尾張4観音の1つで尾張西国33観音第15番札所、尾張33観音霊場第3番札所、東海圏新西国33観音第24番札所。
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{右}笠覆寺 玉照堂 本堂右前にある堂で笠寺の名の由来になった玉照姫と藤原兼平を祀る。荒廃し廃寺となった小松寺で雨露に晒さらされていた本尊に自らの笠をかぶせた鳴海長者・太郎成高の侍女が通りかかった兼平に見初められ都で妻となり玉照姫となった。玉照堂は明治以降は失われたままだったが残されていた玉照姫・兼平像と位牌を安置し平成14年再建した。縁結び、交際円満の信仰を集める。堂左には文化2年(1805)灯籠、元治2年(1865)百度石。堂の右奥の護摩堂には弘法大師、虚空菩薩、釈迦如来、恵比寿、不動明王、阿弥陀如来などが安置され名古屋21大師霊場第16番札所、名古屋四国88ヵ所霊場第43番札所、尾張四国88ヵ所第1番札所、東海36不動尊霊場第15番札所、なごや七福神の恵比寿。 | |
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{右}笠覆寺 宮本武蔵供養碑&笠寺千鳥塚 境内右の阿弥陀如来を安置する善光寺堂の左。供養碑「新免武蔵守玄信之碑」は武蔵の孫弟子の子孫と門弟が百年忌の延亨元年(1744)に建立。小次郎に勝った後に尾張を訪れ泊まったと言う笠寺の塔頭・東光院(笠寺町上新町47)には武蔵の自画像、自作木刀、左右両腕で書き分けたと言う「南無天満大自在天神」掛軸が残る。千鳥塚は名古屋の医師で俳人の丹羽以之が享保14年(1729)芭蕉36回忌に建立した石柱「星崎の 闇を見よとや 啼千鳥 芭蕉翁」で芭蕉はこの句を詠んだ貞享4年(1687)笠寺を訪れた。左へ行くと薬師如来を安置する医王殿(薬師堂)がありさらに左の墓地内には如意輪観音を安置する石祠の如意輪堂、墓地奥に中興阿願上人と開山善光上人の五輪塔、キリシタン灯籠がある。 | |
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{右}笠覆寺 多宝塔 境内の左。堂宇の中では最も古い正保年間(1644-47)建立とされ阿弥陀如来を安置している。塔の奥にはいくつか石碑が並ぶ一角があり一番左に春雨塚がある。千代倉家3代蝶羽の子・蝶羅が安永2年(1773)祖父・知足の60回忌、叔父・亀世の33回忌に建立した碑で表面に芭蕉の句、知足の句、素堂の句、蝶羽の句、裏面に亀世の句が刻まれている。多宝塔の裏には市保存樹のクロガネモチの巨木もある。塔と文化11年(1814)建立の西門の間には各面に地蔵菩薩が浮彫された六角塔を安置する六地蔵堂、塔の向かいには行者堂、加藤暁台の門人・井上士朗が享和3年(1803)建立した暁台塚と呼ばれる暁台句碑「さむ空や ただ暁の 峰の松」、延命地蔵堂、白山社が並ぶ。それらの裏には西福院がある。 | |
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{左}天林山 泉増院 [真言宗智山派] 笠寺町上新町76 笠寺の旧東海道を隔てた向い側で入口右に「玉照姫」と刻まれた石柱がある。笠覆寺の笠寺十二坊と呼ばれた塔頭の1つである泉増坊が改称した寺で本尊は大日如来。他に弘法大師、不動明王も安置しており名古屋四国88ヵ所霊場第44番札所。石段を登り右にある山門をくぐると左に昭和57年百度石と平成11年手水石。正面が玉照姫座像を安置している玉照堂でその右が本堂。玉照姫座像は明治15年(1882)から泉増院に安置しており8年に1度の開帳。縁結び祈願に訪れる人が多く堂の前には笠寺縁起を絵にした絵馬も多く掛けられている。玉照堂左には平成14年に楠の霊木を京都の仏師・松本明慶が薬師如来に刻んだ「くす薬師」、境内左には福寿地蔵尊、水子地蔵尊もある。 | |
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{左}天林山 西方院 [真言宗智山派] 笠寺町上新町81 少し先の笠覆寺沿いに右にカーブするところにある。笠寺十二坊の1つ。山門手前右の明王堂には木曽義仲の母の持仏とされる烏瑟沙摩明王が祀られている。義仲を無事安産できたことから安産の利益があるとされ8年に1度の開帳。他に粕畠観世音大菩薩なども祀られており堂の右には水子地蔵の祠、その右の出入口には昭和11年(1936)灯籠がある。山門入って左の手水石は天保2年(1831)。本堂へ向かう参道左には楠甫句碑「吐く息を 己が吸いて 海鼡突」と昭和57年建立の田中均一郎(蛇々子)句碑「めづらしき 客が裏より 花夕べ」。明治9年(1876)には笠寺小学校(本星崎町本城765)の前身となる松風学校が置かれた。名古屋四国88ヵ所霊場第45番札所。 | |
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笠寺かんのん商店街 その先の笠覆寺西門前から左折するようにして商店街に入る。玉照姫が商店街のシンボルキャラクターになっている。しばらく進み県道77号線と交差する笠寺西門交差点に出ると左には平成3年建立「笠寺の歴史」案内碑あり下部に笠寺地区の歴史の説明と上部に尾張名所図会の笠寺が金属プレートとなっている。交差点手前右と渡った左には常夜燈をモチーフにしたオブジェもある。交差点横断後も商店街は続きしばらく進むと踏切を渡る。豊橋から東海道と平行し何度も交差した名鉄名古屋本線でこれが最後の交差。線路上から左には本笠寺駅のホームが見える。 大正6年(1917)笠寺駅として開業し昭和18年(1843)国鉄(現:JR)笠寺駅が開業したため本笠寺駅と改称した。踏切を渡ると商店街も終わる。
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{左・寄}戸部城跡 踏切を渡って少し先の交差点で東海道は右にカーブ(右折)するが直進し次を左折して行くとみどり幼稚園(呼続5-14-34)前の3叉路の右に大楠と昭和4年(1929)戸部城跡碑、明治7年(1874)「当古城主戸部新左衛門政直」碑、昭和30年市長小林橘川句碑「ほととぎす 泣いてすぐるや 戸部の城」がある。笠寺城、松本城とも呼ばれた城はここよりも西にあったとされ西側と南側は十数mの断崖で南北180m東西30mだったが昭和4年の区画整理で遺構は残っていない。政直は弘治3年(1557)信長の計略にかかり今川義元に殺害されたとされる。自分の前を横切る者は全て斬ったと言う乱暴者の政直が蛙は斬れなかった逸話から江戸後期には瓦職人が蛙の置物「戸部蛙」を作り旅人にお土産として売ったと言う。 | |
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{左}「東海道」石柱 交差点で県道222号線から分岐し右にカーブ(右折)するとある。側面に「是より北よびつぎ」「是より東かさでら」とあり宿場制度400年記念に建立。ここから南区呼続となる。呼続は宮宿より渡し舟の出港を呼びついたことが由来と言われる。この付近には愛智助右衛門吉清(一色愛智入道)を城主とする東西55m南北110mの戸部一色城があった。文安3年(1446)と応仁2年(1468)に吉清が笠覆寺へ寄進した記録がある。手前の踏切付近に明治期まであった愛智塚は吉清一族のものとされる宝篋印塔、五輪塔で現在は笠覆寺墓地に移されている。 | |
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