東海道ルートガイド
保土ヶ谷宿

檀林道分岐点
坂を下りきると分岐点に出る。突き当たりのビル前に地図付きの案内柱がありここから浅間下交差点までの約500mは左の環状1号線が旧東海道で歩道に旧東海道のタイルも埋め込まれている。右の道は享保5年(1720)豊顕寺(三ツ沢西町16)に開講された三ツ沢檀林(僧侶の学問道場、現:豊顕寺市民の森)へ続く「檀林道」の一つとされ浅間下交差点、宮ヶ谷、三ツ沢公園内の戦没者慰霊塔脇を通る道筋となっていた。勧行寺に道標を兼ねた題目碑がある。檀林道は神奈川宿から計3本が分岐しており他に仲之町四ツ角(現:神奈川警察署横)などから分岐していた。
西区歴史街道
環状1号線の歩道をはじめ横浜市西区の歩道には旧東海道を示すマークのタイルが50〜75m間隔で埋め込まれている。平成16年から順次設置しているもので「西区歴史街道」と名付け案内板、案内柱、地図も整備している。 西区歴史街道は旧東海道の他に西区を通る横浜道、保土ケ谷道の古道も包括しており3つの道が3角に交わっているのでシンボルマークも3本の道をデザインしている。旧東海道は左の一番長い部分でシンボルカラーはえび茶色に規定されている。(横浜道は右上で藍色、保土ケ谷道は下辺で草色)
{右・寄}学陽山 勧行寺[法華宗陣門流]南軽井沢9
環状1号線沿いに参道の石柱があり右折していくと正面にある。豊顕寺の三世日養が文禄4年(1595)開山し本尊は大曼茶羅、一塔両尊。門を入ってすぐ左に天然理心流の開祖近藤内蔵助長裕の墓碑がある。文化4年と彫られ側面に桑原昌英(天然理心流別系三代目)の名があり開祖の供養を行った際に建てたとされる。長裕が埋葬された墓は妙久寺(江東区北砂町2-2-40)にあり桂福寺(八王子市戸吹町193)にも二代目近藤三助が建てたとされる墓碑がある。新撰組の近藤勇は四代目。門を入り左にUターンしていくと寛保2年(1742)建立の題目碑があり右下に「是より三沢檀林江凡十余丁」と彫られ檀林道の道標を兼ねていた。他に水車舟を造った道周の墓があり水戸藩主の和歌が彫られている。大正、昭和期の作家北林透馬、劇作家余志子夫妻の墓もある。
{左}横浜道(よこはまみち)分岐点
浅間下交差点の一つ手前の小道が横浜道の基点で案内板がある。安政5年(1858)開国後、横浜への交通は神奈川宿州崎大神前からの海路に頼っていたが翌年に東海道から横浜(現:関内)へ至る横浜道が開かれた。ここから岡野・平沼の各新田の埋立地と海面の境に盛土をし交差する3つの川(新田間川、雉子川、石崎川)に橋を架け戸部村へ一本道を作り戸部坂、野毛山を切通し野毛橋(現:都橋)太田橋(現:吉田橋)を架けて開港の中心地馬車道へと至っている。工期は3ヶ月の突貫工事で道幅は3間(約6m弱)だった。現在は道筋は残っているが拡張されたりして面影はほとんど残っていない。
浅間下公園 浅間町1-16-2
浅間下交差点の右側歩道橋下に地図付きの東海道案内板がある。歩道橋を渡ると浅間下公園があり旧東海道はこの公園を斜めに通り環状1号線の1本右側の小道へ続く。ここから環状1号線の方はかつての海岸線だったところで旧東海道より若干低くなっている。公園の交差点側の角には交番があり奥にはジャングルジムと一緒になった滑り台、ブランコ、鉄棒など遊具が置かれている。
{右・寄}浅間神社 浅間町1-19-10
浅間下公園を斜めに通り抜けて小道を行くとすぐに浅間神社の入口がある。承歴4年(1080)富士浅間神社の分霊を祭ったもので祭神は木花咲耶姫命。参道左手の崖に富士の裾野に通じているという横穴「富士の人穴」があったが実際は横穴式の古墳穴で現在は埋め立てられている。社殿横に置かれている大日如来石像はこの古墳内から見つかったもの。社殿は2階建浅間造で敷地には認可保育園の浅間幼育園もある。境内に地元の剣道団体誠愛剣友会が昭和45年に建立した誠愛剣法発祥地の石碑がある。このあたりは袖摺山(そですりやま)と呼ばれ山のすぐ下が海だった。裏手の石段は黒沢明監督の映画「姿三四郎」の1シーンで登場する。
{右}芝生追分(しぼうおいわけ)
アパート「アーバン ユウ」の角に案内柱がある。ここから古東海道、八王子道、大山道が右に分岐していく。保土ヶ谷宿付近の東海道はもともと右側の道で交通量の増大から慶安元年(1648)に今の道筋になった。それ以降も八王子道の起点として甲州街道の八王子宿まで延びており開港後も絹などの輸送路として栄えた。また関東各所から丹沢にある大山に行く道がいくつもあったがこの道も大山詣に行くための道だった。
洪福寺松原商店街
追分からすぐに商店街に入る。戦前までは芝生追分から分岐する八王子道がメインストリートでこちらは人通りも少ない方だったが昭和27年(1952)松原安売り商店街としてスタートし昭和35年に洪福寺商栄会と合併し洪福寺松原商店街となり今では一帯が買い物客で賑わっている。安売りで全国的にも有名で横浜のアメ横とも言われている。洪福寺は商店街はずれの国道16号線沿い(浅間町5-385-3)にある寺で呑海が寛永13年(1636)袖摺山薬師堂を当地に移し開山したもの。昭和47年までは洪福寺〜間門(本牧)に市電が走っていた。松原とは昔はこの辺は民家もなく海沿いの松並木であったことから付いた。
{右}保土ヶ谷宿江戸方見附跡 天王町1-11-3
国道16号を渡ると天王町駅まではシルクロード天王町という商店街になる。しばらく行くと「ほうさい殿駐車場」の脇に案内板がある。ここからが保土ヶ谷宿である。江戸方見附は土盛りした土塁の上に竹と木で矢来(やらい)を組んだ構造で土居とも呼ばれていた。ここから外川神社付近の京都側の上方見附までは家屋敷が街道に沿って立ち並び宿内(しゅくうち)と呼ばれていた。この間の距離は19町(約2km)ある。
保土ヶ谷宿   本陣1脇本陣3旅籠67家数558人口2928[天保14年(1843)]
日本橋から4番目の宿で江戸を出てからの最初の難所と言われる権太坂の手前の宿場で多くの旅人は保土ヶ谷宿で休息してから坂越えに挑んだ。そのため神奈川宿と保土ヶ谷宿の間は4.9�劼蛤�までの宿場間では最短。設置当初は古東海道にあったとされ慶安元年(1648)に道筋変更とともに旧東海道沿いに改められた。保土ヶ谷の地名の由来は平安時代末期このあたりに住んでいた豪族榛谷(はんがや)四郎重朝の名前が転訛した説と凹地の地形を意味する「ホド」からきた説があり鎌倉時代ごろから使われていた。横浜市総合計画「ゆめはま2010プラン」では宿場資料館の設置が予定されている。
{右}橘樹神社(たちばなじんじゃ)天王町1-8-12
商店街の中ほどにある。文治2年(1186)平家を滅ぼし天下統一を目前にした源頼朝が国中に神社を創建、配置した時の創建とされ京都の祇園社(現:八坂神社)から分霊を勧請した。祭神は素盞男尊。古くは祇園社と称し江戸時代には牛頭天王社、明治初年に橘樹社と改称され大正10年(1921)に現在の社名となった。大きな耳の狛犬は嘉永5年(1852)建立。境内右手に明治天皇東幸遺蹟碑がある。社殿左には力石や延宝6年寄進の石盥盤(いしだらいばん)がある。その奥に庚申塔が3つあり中央のは寛文9年(1669)で市内最古。その隣の文化8年(1811)の銘がある不動明王石像は神田不動尊と呼ばれ昭和10年に別の場所に移されたが戦後に戻った。現在の社殿は平成10年建造。
{右}天王町駅 天王町2-45-5
100m程行くと帷子川にかかる帷子橋(かたびらばし)を渡りさらに行くと相鉄線天王町駅に突き当たる。天王町の名は江戸時代に牛頭天王社と呼ばれた橘樹神社の「天王さま」の名が残り昭和2年に町名になった。駅は昭和5年(1930)相鉄の前身神中鉄道の駅として開業。戦前は従業員数7000人超の富士紡績の工場があり商店街が栄え映画館もあって週末には周辺の町から多くの人が押し寄せた。昭和20年空襲で駅舎と一帯が焼け終戦後は進駐軍に車両置場として接収、解除された昭和23年に駅舎が再建された。昭和43年立体交差・高架化。旧東海道はそのまま駅のガード下をくぐる。
{右}天王町駅前公園(旧帷子橋跡)
駅のガードを越えると公園があり斜めに横切り環状1号線に合流する。広重の保土ヶ谷宿の絵に描かれた新町橋(帷子橋の別名)があった場所で公園内に帷子橋のモニュメントや旧帷子橋跡の碑がありある。旧帷子川はここを流れていたが氾濫が多く昭和30年から39年にかけて流路を変える工事が行われ橋も移動した。先ほど渡った現帷子橋は昭和31年(1956)に架けられたもの。旧帷子橋は長さ15間 (約27m)幅3間 (約5.4m)という大きなものだった。真新しい「江戸日本橋より八里」の道標や旧東海道の案内板もある。
{左}街道松 岩間町1-7-15
環状1号線をしばらく行くと岩間市民プラザの前に街道松と「旧東海道保土ヶ谷宿」の石碑がある。また建物入口を挟んだ先に保土ヶ谷宿の建物図などのレリーフを埋め込んだ石のモニュメントがある。環状1号線沿いは「歴史の道」として保土ヶ谷区が案内板などを整備している。道路脇にところどころある車止はちょんまげ裃(かみしも)姿の武士がデザインされている。右手にはYBP(横浜ビジネスパーク)の高層ビル群が見える。まもなく寺町界隈と呼ばれる寺の密集地に入る。
{右}普賢山 香象院(こうぞういん)[高野山真言宗] 岩間町2-153
しばらく行くと入口に大きな釜が2つ置いてある。創立の年代は不明だが天正11年(1583)再興したという記録がある。本尊の不動明王は慈覚大師の作で脇本尊は如意輪観世音菩薩と弘法大師。昭和に入って鎌倉時代に金文字で書かれた貴重な般若経の巻物560巻が発見された。境内に象の石像がある。本堂左に郷土史学者磯貝正を顕彰した郷土愛の碑があり昭和37年考古学者石野瑛の撰文揮毫による。俳句や刀剣研磨に秀で保土ヶ谷宿で最も大きい寺子屋を設けた清墨庵(せいぼくあん)の墓碑もあり慶応2年(1866)建立。四国の88箇所遍路巡礼にならって川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場に定めた新四国東国八十八箇所第26番礼所。
{右・寄}大誉山珂山院 見光寺(けんこうじ)[浄土宗]岩間町2-140
街道沿いに参道の石柱と駐車場があり右折して正面。寛永6年(1629)創建。信仰心篤い茂平夫妻が霊厳寺(現:江東区白河1-3-32)の珂山上人のもとで剃髪して名を道意、貞壽と改め上人から授けられた阿弥陀像を現在の寺の場所に安置した。千日千夜拝んだところ夜に像が光を発し珂山上人の勧めで寺を建立し見光寺と名付けた。「横浜地名案内」の著者森田友昇(嘯月庵)の墓がある。保土ヶ谷出身のコラムニスト青木雨彦の文学碑もある。権太坂にある境木地蔵を管理している寺でもある。
{右・寄}神戸山 天徳院 [曹洞宗]神戸町102
理容ベニスの先を右折するとと突き当たりに立派な山門がある。天正元年(1573)保土ヶ谷の豪族小野筑後守が華林栄公和尚に帰依して建立。本尊は地蔵菩薩だがその腹の中には鎌倉時代の高名な彫刻家運慶の手による1寸8分(5.5cm)の地蔵尊が納められている。この小さな地蔵尊は小野筑後守が戦におもむくとき常に身につけていて戦場での功名もこのおかげだと大変崇拝した。東海道の宿場には医師が多く小田原宿虎屋藤右衛門の頭痛、たちくらみ等に効く「外郎」神奈川宿の津屋太郎兵衛の打ち身切り傷等万病に効く「神妙湯」などが有名だが保土ヶ谷宿宮本周司の目薬「金明丹」も多くの眼疾を治し有名だった。この宮本家歴代の墓が山門を入って左奥の崖下にある。
{右・寄}妙栄山 大蓮寺 [日蓮宗]神戸町98
天徳院の前の道を塀沿いに進み角を右折した正面に石段がある。21才の日蓮がここにあった浄土宗の民家に宿泊した際、釈迦像をおもちゃにして遊んでいた子供を諌めて開眼して安置し旅立った仁治3年(1242)を開基の年としている。建長5年(1253)日蓮宗を立宗後再び立寄った時に主人が改宗し民家は法華道場となり後に寺となった。寛永2年(1625)から大蓮寺と称するようになった。山門へ登る階段の途中に大正7年建立の日蓮上人帷子里霊場の碑がある。その後ろにある七文字号碑は文化10年(1813)建立。家康の側室で熱心な日蓮宗信者だったお万の方(養珠院)が柘榴(ざくろ)の木を寄進したとされ本堂左に2代目の木がある。
旧中橋跡
神奈川県警交通反則通告センターと交番がある交差点。手前右に平成16年設置説明板がある。慶安元年(1648)新しい保土ヶ谷宿が作られた時に今井川の流路が変更されここで東海道を横切り橋が架けられた。交差している道が川の跡。天徳院の前の道を東海道と平行に流れていた川を横切らせるために遍照寺の前で直角に曲げて東海道と交差させ現在の今井川と交差する辺りで再び直角に曲がっていた。そのため大雨が降るたびに曲がり角であふれて浸水することが多く嘉永5年(1852)に現在の川筋に改修された。その際大量に出た残土は船で品川に運ばれ品川台場の建設用埋立てに利用された。
{右・寄}医王山 遍照寺[高野山真言宗]月見台38-31
旧中橋跡を右折していくと左に門がある。貞観18年(1876)創建。本尊の薬師如来座像(高さ85.4cm)は鎌倉時代の作で市の指定有形文化財。もとは仏向村の浅間寶寺にあったが焼き討ちにあい帷子川に漂着して遍照寺の本尊になったといわれる。門から本堂に行く右は鉄筋コンクリートの会館があり横に新しい13の石仏像が並んでいる。境内には弘法大師の石像がある。本堂左手奥に江戸時代の狂歌三大家の一人・朱楽管江(あけらかんこう)書で文化6年(1809)建立の百万遍供養塔がある。墓地には岡野新田の開発で有名な岡野家の墓がある。新四国東国八十八箇所第27番礼所。
保土ヶ谷駅西口商店街
しばらく進むと環状1号線が保土ヶ谷駅へ向かって左にカーブしていくあたりに右に入っていく1車線幅の道があり商店街となっている。この道が旧東海道で分岐する手前の植え込みに案内板もある。地元では「宿場通り」と呼ばれ秋には商店街主催の宿場まつりを行っている。
{右}助郷会所跡
商店街に入って少々行くと7階建てマンション建設予定地(現:S&S駐車場)とシャッターが閉まった古い建物の間に案内柱がある。享保10年(1725)の保土ヶ谷宿の助郷村は約40村あり現在の保土ヶ谷区、旭区、戸塚区、港南区、磯子区、南区、中区、西区まで渡っていた。
{左}問屋場跡
助郷会所跡の斜め向かいのマンション前に平成16年設置の説明板がある。助郷会所や高札場についても解説がある。
{右}高札場跡 帷子町2-91
しばらく進むと横浜帷子郵便局(帷子町2-89)へ通じる道の角の古い建物前に平成16年設置案内柱がある。宝暦13年(1763)に設置された高札場は幅2間半(4.5m)高さ1丈(3m)だった。
{左}金沢横町道標 四基
保土ヶ谷税務署を過ぎしばらくして十字路がある。渡った右側に平成16年設置の金沢横町の案内柱があり左側には道標が4つと平成2年案内柱、平成5年説明板がある。天明3年(1783)建立の円海山之道は鎌倉へ行く途中にある「峯のお灸」で有名な円海山を指し建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門。天和2年(1682)建立のかなさわ、かまくら道の左面にはぐめうし道(弘明寺)とも刻まれている。文化11年(1814)建立道標は「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花」と句が刻まれ珍しく作者の其爪(きそう)は河東節の家元で梅の名所だった杉田(磯子区)への道標。弘化2年(1845)建立の富岡山芋大明神社の道は疱瘡(ほうそう)の守り神として賑わった山芋大明神を指し建立者は柳島村(現:茅ヶ崎市)の藤間氏。
{左・寄}無量山 福聚寺[臨済宗]岩井町56
道標四基がある十字路を左折し踏切と国道1号を渡り石名坂(いわなざか)を登っていくとある。本堂の裏に東海道中膝栗毛の作者十返舎一九の弟子五返舎半九の墓がある。墓碑には明治13年と書かれているが生没年は不明で娘のきくが横浜の橋本楼(現:横浜公園)の後妻になった関係で橋本家の菩提であるここに墓があると考えられる。明治から昭和初期の侠客である半鐘兼親分の眠る堀井家の墓もある。石名坂をさらに登っていくと貞享〜明和年間(1684-1771)建立の多くの庚申塔・石塔に囲まれた御所台地蔵尊や北条政子が通りかかり水を化粧に使ったという御所台の井戸(政子の井戸)がある。
{左}保土ヶ谷宿本陣跡
金沢横町道標を過ぎ東海道線の踏切を渡ると国道1号に突き当たる。渡った正面に赤い屋根の建物があり前に案内柱、説明板がある。塀の1部も昭和40年横浜市長・飛鳥田一雄が記したの説明石碑になっている。手前にある門が現存する当時の門。保土ヶ谷宿の本陣は小田原北条氏家臣刈部豊前守康則の子孫が江戸時代を通してつとめた。代々苅部清兵衛を名乗り問屋、名主を兼ね保土ヶ谷宿では最も有力な家で安政6年(1859)には開港する横浜の総年寄にもなった。明治3年(1870)軽部と姓を改めこの場所には子孫が今も住んでいる。近所に軽部姓も多く近くには軽部家の菩提寺である大仙寺(霞台15-16)がある。東海道はこの先右折して国道1号となる。
{右}大金子屋脇本陣跡
本陣の斜め向かいにあるマンション「コスモス横浜保土ヶ谷」前の車道側に平成16年設置案内柱がある。天保年間(1830-43)の記録では当主は八郎右衛門で建坪119坪(393平方m)間口7間(12.7m)奥行17間(30.9m)室数14で玄関付だった。保土ヶ谷宿の脇本陣は大金子屋、藤屋、水屋の3軒があった。
{左}藤屋脇本陣跡
しばらく国道1号を行くと古い建物の前の車道側に平成16年設置案内柱がある。天保年間(1830-43)の記録では当主は四郎兵衛で建坪119坪(393平方m)間口6間半(11.8m)奥行18間(32.7m)室数14で玄関付だった。
{左}村田金子屋敷跡
藤屋脇本陣跡の隣のマンション「オーベル保土ヶ谷」塀に元治元年(1864)幕府が調査した絵図を元にした本陣、脇本陣、商店の配列を記した平成3年製作の大きな銅板が埋め込まれている。このマンションが「村田金子」と呼ばれた金子家の屋敷跡にあたる。
{左}水屋脇本陣跡 保土ヶ谷町1-77
少し先の保土ヶ谷消防署本陣消防出張所の敷地に平成16年設置の案内柱と説明板「保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設」がある。天保年間(1830-43)の記録では当主は与右衛門で建坪128坪(423平方m)間口8間(14.5m)奥行16間(29m)室数14で玄関門構付だった。
{左}旅籠 本金子屋跡 保土ヶ谷町1-84
しばらく行くと格子戸の旧家とその前に平成16年設置案内柱がある。天保年間(1830-43)の記録では当主は伝左衛門で規模は建坪79坪(261平方m)間口7間(12.7m)奥行11間半(20.9m)室数は13だった。大金子屋、藤屋、水屋の3軒の脇本陣に加え本金子屋も時には脇本陣のような役目をしていたと言う。現存する建物は明治2年(1969)再建とされるが奥側は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。道路側も震災後に国道が拡幅される前までは門や前庭があった。敷地内には戦後に造園された日本庭園(非公開)も残り灯籠や大正天皇が休憩したと伝わる石などもある。平成21年から保土ヶ谷まちかど博物館の1つ(見学は建物外観のみ)となっている。
{右}茶屋本陣跡
さらに行くと道路反対側の民家前の車道側に平成16年設置案内柱がある。元治元年(1864)の記録では当主は九左衛門で規模は建坪63坪(208平方m)間口10間半(19.1m)奥行6間(10.9m)室数は8で門構付だった。本陣に匹敵する格式を持ち大名の休息等に用いられた。
茶屋町橋
すぐに今井川が左側に見え、右側の民家の裏を流れていた小さな川が今井川に合流するため国道を横切る。そこに架かっている小さな橋(茶屋町橋)を渡る。
{左}保土ヶ谷宿上方見附跡 一里塚(8)
すぐ先の交差点を渡ると平成15年設置の説明板がある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には一里塚の記載はないが文化3年(1806)東海道分間延絵図には茶屋町橋を渡った左に一里塚の記載がある。宿の上方見附(京側口)は一里塚の少し先にあった。平成19年「第1回ヨコハマ市民まち普請事業」により規模は小さいものの榎が植えられた一里塚が復元され同時にここから今井川に沿って300mに若い松が植えられ遊歩道が整備された。一里塚と松並木の復元についての説明板も設置されている。江戸時代から昭和初期までは保土ヶ谷宿から境木までの間は松並木が続いていた。
{左・寄}外川神社(とがわじんじゃ) 瀬戸ヶ谷町194
すぐ先を左折し平成16年竣工の仙人橋を渡ると右にある。明治2年(1969)三山講の中心人物だった清宮與一(与一)が羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したのが起こり。霊験あらたかな神社として旅人が皆ひざまずいて参拝したと言う。戦前は子供の虫封じに利益ありと賑わい7月17日の例祭時は保土ヶ谷駅まで線香の匂いが届いた。子供好きの道祖神としても有名で民話としても語り継がれている。境内右に昭和36年建立の黒田長種理学博士揮毫の小寿鶏放翔感謝の碑。大正11年(1922)上海から5羽輸入した小寿鶏が保土ヶ谷の県立鳥獣飼養所で飼育中逃げ野鳥として全国的に繁殖し狩の好対象となったことに対し雑誌「狩猟界」が感謝の碑を建てた。大きな欅は横浜市指定名木。
分岐点
少し進むと保土ヶ谷2丁目交差点で国道1号と分岐する。旧東海道はここから右へ行く。東海道の道筋案内板も設置されている。
{右}妙秀山 樹源寺(じゅげんじ) 保土ヶ谷町3-172
国道から分岐し行くとある。鎌倉時代に開かれた医王寺が江戸初期に焼失し薬師堂だけの廃寺になり寛永年間(1624-44)保土ヶ谷宿本陣2代目刈部吉重の妻が日蓮宗に帰依し心了院妙秀となって薬師堂の脇に庵を建て開基、善通院日了上人を招き開山した。火災で焼け残り寺名の由来ともなった樹齢700年の大けやきは白蛇が現れたという民話にも伝えられていたが排気ガスにより枯れ昭和45年に伐採された。明治時代に活躍した新史劇の劇作家で後に横浜市議となった山崎紫紅の墓がある。慶安元年(1648)に東海道を改修する以前の古道の「かながわ坂」はここの墓地の一角を通っていた。