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{左}無縁塚 大正5年開業の八丁畷駅の踏切を渡るとすぐにある。江戸時代から戦後にかけて人骨が出土し東京大学の人類学の専門家により江戸時代のものと鑑定された。よく震災、大火、洪水、飢饉、疫病などが起きた川崎では身元不明の大量の死者をまとめて宿場のはずれのこの地に埋葬したらしく昭和9年慰霊塔を地元有志と川崎市で建立した。 |
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{右}熊野神社 市場東中町9-21 京急鶴見市場駅手前。祭神は国常立尊、伊邪那岐命、伊邪那美命。弘仁年間(810-824)紀州熊野の別当尊敬の勧請と伝えられ旧市場村の通称二本松と呼ばれる場所に鎮座した。その後戦火や六郷川、鶴見川の氾濫により社殿が大破し明和元年(1764)再建、天保6年(1835)現在の鶴見区元宮にあたる場所に移転、明治5年鉄道敷設時に現在地に移転した。この神社の宮司家に伝承された伝統芸能「市場神代神楽」は今は日枝神社(矢向4-16-2)に受け継がれている。徳川家康が入国に際し武運を祈った神社でもある。境内には市場小学校発祥記念碑や富士講による大正改元記念碑、江戸時代の俳人・加舎白雄と大島蓼太が鶴見橋を詠んだ句碑などの多くの石碑や稲荷神社などの境内社がある。 |
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{左}市場村一里塚跡 一里塚(5) 市場橋バス停(熊野神社前バス停の次)そばにある。明治9年(1877)地租改正にあたり払い下げられ昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたが今は左側の土盛りがわずかに残っている。昭和8年(1933)地元の名士添田坦の書による「武州橘樹郡市場村一里塚」の碑が建立された。その後も風雨で盛土が崩れ続けたので昭和25年地元の有志が大谷石で土留めをし、さらに昭和38年に補修を加えた。右側の塚があったところは理容キタニになっている。この地域は古くから海辺にあって魚、塩の収穫も豊かで天文年間(1532-1555)には魚貝の市も開かれたため村名も市場と呼ばれるようになった。 |
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{右}光明山遍照院 金剛寺 [真言宗智山派]市場下町6-33 鶴見川橋を渡る少し手前。平安時代の創建とされる。本尊は大日如来。四国の88箇所遍路巡礼にならって川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場に定めた「新四国東国八十八箇所」の第10番礼所。多摩川流域の88の寺院を霊場に定めた「新四国多摩川八十八箇所」のの第11番礼所。 |
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鶴見川橋 鎌倉時代末期の絵図にも描かれている橋で江戸時代に整備され鶴見橋とよばれていたが「鶴見橋」の呼称は下流の第一京浜に取られてしまい現在は「鶴見川橋」という。平成8年に河川改修に合わせ「あるく」「ながめる」「ひと休みする」というコンセプトのもとデザインされ架け替えられた。全長119.6m幅12mの鋼床ニールセンローゼ橋で色や隣接する市場下町公園のデザインは市民参加で決められた。公園内に鶴見橋の案内板がある。江戸時代には橋を渡るとよねまんじゅうを売る店が40軒も軒を連ねていた。 |
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{左}鶴見川関門跡 鶴見中央2-19-24 鶴見川橋を渡るとある。安政6年(1859)開港とともに外国人に対する危害防止のため横浜への主要道路筋に設けられた関門のひとつ。ここは万延元年(1860)に設置された。関門は橋際に往還幅4間(約7m)の幅で杉材の角柱を立て大貫を通し黒渋が塗られていた。黒渋は渋柿から採った液体で防水防腐用に利用されていた。文久2年(1862)生麦事件後は攘夷派浪士の取り締まりのため川崎宿と保土ヶ谷宿の間に20ヶ所の見張り番所を設置しここには5番番所、現在の京急鶴見駅付近に6番番所が設けられた。両方とも慶応3年(1867)に廃止された。このあたりは民家が三軒あったので三家(さんや)とも呼ばれていた。 |
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{右}寺尾稲荷道 道標 鶴見川関門の反対側少し先の鯉ヶ渕公園の前にある。寺尾城址(馬場3-11殿山公園に城址碑あり)の西山麓にある寺尾稲荷は現在は地名が馬場になったので馬場稲荷と呼ばれているが江戸時代は馬術上達がかなえられるとして参詣者も多くここから参道が東海道と分岐していった。道標は寛永二年(1705)に建てられ横に「是より25丁」と記されている。この地にあるのは複製で原本は鶴見神社に保管されている。 |
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{右}鶴見神社参道 大通りを越えると鶴見神社の参道入口がある。このあたりがかつての鶴見村の中心地で幕末には鶴見関門関所の出張所も置かれていた。旅人相手の茶屋が並び商店のように扉が開け放しで畳を敷いた床上に客が座って休み通りには娘たちが茶わんをいくつもお盆にのせて並び食事を勧めた。参道入口には享保年間にできた鶴見村最大の信楽(しがらき)茶屋があり土間に縁台を置いて竹の皮に包んだ梅干と梅漬けの生姜が売られていた。明治に鉄道ができ駅の無かったこの辺りの人の往来が減り旅人も少なくなると信楽茶屋は蕎麦屋に変わったが太平洋戦争で消失。現在その位置にその名も信楽茶屋というラーメン屋チェーンの店舗がある。 |
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{右・寄}鶴見神社 鶴見中央1-14-1 鶴見神社参道口を入っていくと正面にある。鶴見川流域に多い杉山神社の一つで創建は1400年前の推古天皇の時代。五十猛命を祀り杉山大明神と称し一時は五千坪もあった。大正9年(1920)に鶴見神社と改称。昭和37年(1962)境内から祭祀に関わる弥生式土器が出土し古くから神聖な地だったことが判明した。のちに素盞鳴尊を祀る天王宮が合祀されて二社相殿となった。天王宮の御輿は鶴見川に流れ着いたと伝えられ横浜最古の御輿。他に稲荷社、富士浅間社などの境内社がある。昭和62年に116年振りに復活した鎌倉時代から伝わる横浜最古の民俗芸能「鶴見の田祭り」が毎年4月に行われる。
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{左・寄}清月(せいげつ) 鶴見中央4-28-18 JR鶴見駅前の通りを左折し京浜急行の線路をくぐって少し行った左側。明治年間に創業の和菓子屋だが江戸時代の銘菓「よねまんじゅう(米饅頭)」を昭和57年から復刻して販売している。17世紀後半に浅草待乳山の下で鶴屋の娘よねが売りはじめたのが最初で18世紀に入って鶴見の銘菓となった。鶴見橋のよねまんじゅう屋の中で特に名高い鶴屋と亀屋は「お江戸日本橋」の2番の歌詞の中に「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう」と唄われている。鉄道ができ旅人が減り明治末には消滅。復刻されたのは薄い羽二重餅で餡を包んだ小さな俵型の饅頭で白餡、こし餡、梅餡の3種類。6個入500円各85円。当時は塩餡の俵型の餅に焼ごてで焼き目を付け竹籠に入れて売られていた。
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ベルロードつるみ(京急鶴見駅前) JR鶴見駅前の通りを渡ると駅前繁華街のため東海道がわかりにくくなるが京急鶴見駅の左側を通る商店街へ入っていく。この先第一京浜と交差するまで続く商店街は昭和28年に鶴見銀座商店街協同組合として組織され京急鶴見駅前のレンガ敷に整備された250m部分は「ベルロードつるみ」と呼ばれている。平成5年(1993年)の横浜彫刻展横浜ビエンナーレ93で入賞した現代アートが2点通りに展示されており入口には児玉康兵「とろける立方体―9302」4分ほど歩いたところに中村節子「Family'93」がある。鶴見の周辺の地域には他にも9点の入賞作品が展示されている。 |
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{右}覇王樹(さぼてん)茶屋跡 鶴見中央4-1-7
ベルロードつるみ内のパン屋エスプラン(esplan)の前に碑がある。力餅で有名な茶屋は弘化2年(1845)の森七三郎「江ノ島参詣之記書写」に高さ7〜8尺のサボテン5株があったと紹介されている。サボテンは店主が長崎から持ち帰ったもので明治44年(1911)の鶴見の大火で消失した。昭和27年(1952)からパン屋となり現在覇王樹茶屋から数え11代目となる。1997年横浜生まれの書家田村空谷(くうこく)揮亳により碑を建立。「みぎひだり つのを出して世の中を 見たるもおかし さぼてんの茶屋」という歌が刻まれている。碑の斜め上の窓からはパンを焼いている石釜の様子を覗くことができる。 |
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{右}JR鶴見線国道駅 商店街を抜け下野谷町入口交差点で第一京浜を横断したところに旧東海道が続きやがて鶴見線のガードをくぐる。ガード下右手に国道駅がある。大正13年(1924)開通の貨物専用だった鶴見臨港鉄道が昭和5年国鉄に買収され鶴見線として一般乗客を乗せ開業したのが始まり。国道15号(第一京浜)に高架で交差したことから国道駅となった。当時は高架の下に「臨港テパート」が入ったモダンな駅で現在も売店の跡や昭和20年(1945)の空襲で煤が付いたままの天井や壁が残され時々テレビや映画のロケにも使用されている。 |
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生麦魚河岸通り 国道駅のガードをくぐると生麦魚河岸通りになる。古くから漁港の村で江戸時代には幕府に魚を献上する御菜八ヶ浦の一つとして賑わっていたが明治の末頃から埋め立てにより漁業が減る代わりに魚介類を扱う店が増えはじめ魚市場が誕生した。漁業は昭和48年(1973)に完全消滅したが現在でも300mほどの間に約80の鮮魚店が並び半分は元漁師の家系である。通りにある「かやぎや」は270年以上この地に続く家で現当主は14代目。元々は裏庭で鶏を飼い卵や団子などの菓子を売っていたが30年前から魚や貝の調理道具屋になった。魚河岸の朝市は水曜日・日曜日は休みでそれ以外の日の昼前なら一般人も買うことができる。 |
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{左}南海山瑠璃光院 正泉寺(しょうせんじ)[真言宗智山派]生麦4-31-4 江戸時代初期に創建された。本尊は薬師如来。 参道入口には鶴見で一番古い地蔵があり境内には海亀を形どった亀供養碑がある。地引網にかかった大きな海亀を竜宮に帰そうとしたが死んでしまい供養するために漁師達が建てたと伝わる。四国の88箇所遍路巡礼にならって多摩川流域の88の寺院を霊場に定めた「新四国多摩川八十八箇所」のの第8番礼所。 |
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{右}道念稲荷神社 生麦4-27-18 正泉寺の斜め向かいで大小19の鳥居が並ぶ。旅の途中の僧・道念により建てられた。入口右側に寛文8年(1668)左側に明和3年(1766)建立の地蔵講供養仏がある。社殿は昭和6年(1931)大工の白川利三郎と兄庄吉により改築された。近くの神明社(生麦3-13)とともに横浜市無形民俗文化財「蛇も蚊も(じゃもかも)祭」を伝えている。毎年6月第1日曜日。約300年前に疫病が流行り萱で作った蛇体に悪を封じ込めて海に流したことから雨乞い、厄病退散、子供の成育などを祈念する祭となった。現在も萱を遠方から取寄せ長さ20m胴囲1mの蛇体を作り目に貝殻、角に御神木の枝、耳に琵琶の葉、舌に菖蒲の葉、尾に赤黒の木を付け大蛇を作る。神明社隣りの生麦神明公園には大蛇のモニュメントがある。 |
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{右}生麦事件発生現場 道念稲荷神社から300mほど行った民家の塀に案内板がある。文久2年(1862)8月21日川崎大師参りに行く途中に英国商人リチャードソンほか3名は藩主の父・島津久光の行列の前を馬に乗ったまま横切ったため藩士に斬りつけられた。発生後イギリスは幕府に10万ポンド薩摩藩に2万5千ポンドと引渡しを要求したが幕府は応じたものの薩摩藩は応じず翌年の薩英戦争に発展した。案内板は第一京浜を挟んで生麦駅前近くにある生麦事件参考館(生麦1-11-20)の館長浅海武夫氏が建てたもの。参考館は平成6年(1994)に酒店を営んでいた浅海氏が20数年かけて集めた生麦事件に関する資料を公開する私設の資料館。 |
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国道15号合流地点 しばらく旧道を進むと左側にキリンビールの横浜工場が見えてくる。このあたりが「生麦旧道」で「旧東海道」と合わせた標識もある。やがて第一京浜(国道15号)と合流しここからしばらくは国道を歩く。 |
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{左}生麦事件の碑 第一京浜と合流点して20m程行ったところにある。発生現場で奈良原喜左衛門に斬りつけられたチャールズ・レノックス・リチャードソンはここまで馬で逃げてきたがここで落馬し追ってきた海江田武次に斬られ息絶えたと言われている。リチャードソンの墓は横浜山手の外人墓地にある。他の二人ウッドソープ・C・クラーク、ウィリアム・マーシャル2名はアメリカ領事館だった本覚寺に逃げ込みヘボン医師の手当てを受け残るマーガレット・ボロデール夫人は帽子と髪の一部を斬られただけで横浜居留地まで馬で逃げ帰った。碑は明治16年(1883)にこの土地の所有者黒川荘三によって建立されたもので東京大学教授中村敬宇(正直)によるリチャードソン追悼の古詩体の文が刻まれている。 |
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{左}キリンビアビレッジ 生麦1-17-1 生麦事件の碑からすぐにキリンビール横浜工場に併設されたキリンビアビレッジの門がある。工場は明治3年(1870)アメリカ人コープランドにより横浜山手に開かれた日本初のビール醸造所が前身で後に麒麟麦酒となり関東大震災で倒壊後この地に移転した。ビアビレッジは平成3年にオープン。公園として開放されている敷地内にはコープランドが山手に開設したビール工場の建物を模したパブブルワリー「スプリングバレー」や船をイメージしたレストラン「ビア・ポート」、バーベキューガーデンがある。ブルワリーツアー(工場見学)はガイド付きでビールの歴史や製法を知ることができ試飲もできる。月曜日定休。
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{右・寄}密巌山 遍照院(へんじょういん)[高野山真言宗]子安通3-382 新子安駅の手前200m辺りにあり境内が京浜急行の線路で分断されており踏切を渡って山門となる。歴史は古く長禄2年(1458)裕等(ゆうとう)法印によって開かれた。本堂その他の建物は江戸時代の天明の大火や空襲によって焼失し昭和の中頃に竣工したが山門は被害を免れ昔からの姿を残している。境内のイチョウの木は樹齢170年、タブノキは樹齢270年。山門手前左右に享保13年(1728)安永3年(1774)建立などの庚申塔が5基並んでいる。四国の88箇所遍路巡礼にならって川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場に定めた「新四国東国八十八箇所」の第16番礼所。 |
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{右・寄}神奈川通東公園(土居・長延寺跡) 新町16 神奈川新町駅前の東側にある公園。神奈川宿の江戸側の入口(見附)と長延寺の跡地になる。宿場の入口として高さ2.5mの土居の上に75cmの竹矢来(たけやらい)を重ね互い違いに突き出した桝形があった。長延寺は浄土真宗の寺で寛永8年(1631)から昭和39年(1964)までこの場所にあり昭和40年(1965)国道拡幅に伴う区画整理のために移転し現在は緑区三保町2440にある。横浜開港期当初は成仏寺に置かれたオランダ領事館がのちに長延寺に移され「沖の黒船歴史を変えてオランダ領事は長延寺」という狂歌にも歌われている。公園内にオランダ領事館跡の石碑や土居、長延寺跡の説明板がある。 |
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神奈川宿 本陣2脇本陣0旅籠58家数1341人口5793[天保14年(1843)] 神奈川宿は東は長延寺から西は上台町に至る非常に長い海に面した宿場だった。東海道有数の景勝地である「袖ヶ浦」のそばにあったため、旅人はもちろん観光客で訪れる客も数多く滞在した。最盛期には近隣の宿の2倍の人口を抱えたといわれる。安政5年(1858)の日米修好通商条約締結後は開港場としても賑わった。たくさんの寺が領事館などの在日外交施設として使われていたが横浜港が整備されるにつれここでは不便になり文久2年(1862)オランダ領事館が横浜に移転したのを機に他国も移転し神奈川宿は急速に衰えていった。海に面した高台も鉄道用地などで徐々に埋め立てられ内陸となった。歴史的建造物は横浜大空襲で殆ど焼失した。 |
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{右・寄}神奈川宿歴史の道 神奈川通東公園から横浜西口近くの上台橋までの約4.3kmの道のりを歴史の散策道として神奈川区役所が制定したルート。宮前商店街あたりまでは旧東海道とは一致していない。仲木戸駅前あたりは第一京浜(旧東海道)の進行方向右側の一本裏通りが「神奈川宿歴史の道」で東海道よりも名所・旧跡が点在している。街路灯、車止め、橋の欄干などには青海波や神奈川の浦島伝説にちなんで亀がデザインされ歩道にはこげ茶色のレンガと史跡の入口には青海波模様が敷かれている。また各史跡の前には説明板があり合計33か所設置されている。 |
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{右}海岸山 良泉寺(旧:良仙寺)[浄土真宗]新町10 神奈川新町駅のあたりを過ぎ少し行くとある。本願寺第8世蓮如上人に帰依した蓮誉(れんよ)が15〜16世紀ごろ小机付近に草創し現在の場所には慶安元年(1648)に亡くなった第4世良念の代には移転していた。幕末期の住職は開港で他国の領事館に当てられることを嫌い本堂の屋根をはがし修理中であると言って幕府の命令を断った。 |
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{右・寄}笠のぎ稲荷 東神奈川2-9-1 (「のぎ」の漢字は「禾」へんに「皇」) 良泉寺を過ぎた角に参道を示す道標があり右折していくと線路を越えた正面にある。天慶年間(938-947)勧福寿寺の僧が京都の伏見稲荷の分霊を勧請したのが起こり。当初は稲荷山(現:浦島丘)の中腹にあり北条時宗が元寇のときに国家安泰を祈願し神宝を奉納した。元禄2年(1689)山の麓に移り通行する人の笠がよく脱げたので笠脱稲荷大明神と呼ばれ後に別当寺だった能満寺の僧・阿砂利が笠のぎ稲荷神社と改称した。明治2年(1869)鉄道敷設で現在地に移転。現在の社殿は昭和54年建造。社殿前に二本が寄り添って一本になったような御神木「夫婦和合の大銀杏」や「子宝安産の大楠」がある。「瘡(かさ)退き」に合わせて瘡に効くと言われ病気回復に土団子を供えるという信仰もある。 |
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{右・寄}海運山 能満寺[高野山真言宗]東神奈川2-32-1 良泉寺過ぎ2本目あたりの小道を右折するとある。正安元年(1299)土地の有力者・内海新四郎光善が海中より木像を拾い上げ家へ持ち帰ったところ霊感の強い娘が千葉・清澄寺(現:日蓮宗大本山)の霊木だと言うので寺を建て像を祀った。本尊は高さ5寸の木造虚空蔵菩薩坐像。本堂は昭和58年に建て替えられたもの。門前の右に芭蕉の句碑「父母のしきりに恋し雉子の声」がある。高野山奥之院参道にある安永4年(1775)書画家・池大雅(いけのたいが)の揮毫によって建立された句碑の複製。四国の88箇所遍路巡礼にならって川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場に定めた「新四国東国八十八箇所」の第18番礼所。 |
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{右・寄}神明宮(しんめいぐう) 東神奈川2-34-6 能満寺の隣。創建は定かではないが明治元年(1868)神仏分離令で分かれるまで能満寺と別当寺としており江戸時代に編纂され武蔵国を網羅した地誌「新編武蔵風土記稿」には能満寺と同じ正安元年(1299)の勧請とされている。かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王(ごずてんのう)の御神体が現れたことから神明宮と洲崎大神に祠を建て牛頭天王を祀ったという伝承もある。この先を少し進むと神奈川小学校に突き当たりその角の壁面には神奈川宿の東海道分間延絵図を拡大焼成した陶板画がある。 |
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{右・寄}平尾山 東光寺[真言宗智山派]東神奈川2-37-6 神奈川小学校の先にある。東海道からは一本裏の道。小田原北条氏の家臣平尾内膳の草創。本尊は江戸城の築城で有名な太田道灌の守護仏であったが文明10年(1478)の小机城攻め以降に平尾内膳が譲り受けその際に道灌が「海山をへだつ東のお国より放つ光はここもかわらじ」と詠みそれが寺名の由来にもなった。本堂は陸屋根の鉄筋コンクリート製。「新四国東国八十八箇所」の第19番礼所。江戸時代には隣に妙仙寺があったが横浜鉄道(現JR横浜線)が生糸を港まで運ぶ臨港貨物線を敷設するため移転を余儀なくされ明治41年(1908)同じ日蓮宗だった蓮光寺(港北区菊名2-1-5)に合併し妙蓮寺となった。 |
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{右・寄}神鏡山 金蔵院(こんぞういん)[真言宗智山派]東神奈川1-4-3 仲木戸駅前の通りを渡り1本先の道を右折してしばらく行くと左側にある。平安末期に京都山科にある醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正によって創建され神奈川宿最古とされる。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には本堂前に徳川家康の御手折梅の木があり住職がこの枝を携え毎年一月に江戸城に登城していた。四国の88箇所遍路巡礼にならって川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場に定めた「新四国東国八十八箇所」の第20番礼所。多摩川流域の88の寺院を霊場に定めた「新四国多摩川八十八箇所」の第3番礼所。 |
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{右・寄}熊野神社 東神奈川1-1-3
金蔵院の斜め向かいに裏口がある。醍醐寺の勝覚僧正が三宝院を開く前の寛治元年(1087)に紀伊の熊野権現から分祀して権現山(現:幸ヶ谷公園付近)に祠を建てたのが起こり。正徳2年(1712)山崩れのため金蔵院の境内であったこの地に遷座し明治の神仏分離令で分割された。戦後接収され西神奈川1丁目に一時期移転したが解除後に復興。巨大な狛犬は嘉永年間に鶴見村の石工飯島吉六が作ったもの。境内裏には樹齢400年のイチョウの御神木があり慶応4年(1868)の大火や昭和20年の戦災で境内が全焼しても再生した。社殿は昭和38年(1963)に建てられ前と横に文政7年(1824)出版の「金川砂子」や東海道分間延絵図に描かれた付近の地図の拡大コピーが貼られている。 |
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{右・寄}高札場(神奈川地区センター前) 神奈川本町8-1 金蔵院と熊野神社の間の道をさらに進むと左側にある。東海道からはローソン神奈川二丁目店の次の角を右折し3本先の道を左折したところ。高札場は東海道沿いの滝の橋手前右側にあったが昭和61年ここに復元された。大きさは間口が約5.7m、高3.5m、奥行1.7mで江戸末期に修復した際の採寸が神奈川本陣の石井家に伝わっておりそれをもとに復元した。土台を石で固めその上を柵で囲んだ内部に数枚の高札が2段に掲げられ風雨を避けるために屋根が設けられている。センター内1階には神奈川宿全体の模型(ジオラマ)がある。 |
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{右・寄}成仏寺(成佛寺)[浄土宗]神奈川本町10-10 高札場からさらに進むと右側にある。永仁年間(1293-1299)の創建。少し離れた別の場所にあったが江戸初期に将軍の宿泊所(神奈川御殿)造営のため現在地に移転した。庭に竜宮から戻った浦島太郎が「竜宮恋しや」と涙を流したという涙石がある。アメリカの宣教師で医師であったジェームズ・C・ヘボン博士夫妻が安政6年(1859)から3年間本堂に住んだ。庫裡には聖書や讃美歌の翻訳に尽くした宣教師ロビンス・ブラウンが住んでいた。門前に「外國宣教師宿舎跡の碑」があり付近の他寺の領事館跡碑と同じく昭和29年平沼亮三横浜市長(当時)揮毫。斜め向かいの公園奥には明治神宮宮司であり陸軍大将であった一戸兵衛(1885-1931)揮毫による明治天皇御在所跡の碑がある。 |
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{右・寄}慶運寺(旧:慶雲寺)[浄土宗]神奈川本町18-2 成仏寺の京浜急行の線路を挟んで北側。室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観により創建。開港当初はフランス領事館となり門前に碑がある。別名浦島寺と言い耳付きの亀の台座に乗った「浦島観世音 浦島寺」の石柱が門前にある。浦島太郎が父を供養するため住んだ庵跡の観福寿寺が慶応4年(1868)の大火で焼失し明治5年(1872)廃寺となり翌年慶運寺が併合して浦島伝説を引継いだ。太郎が竜宮から持ち帰った聖観世音菩薩像が祀られ12年に一度子年に公開される。境内の天明8年(1788)建立の浦島父子塔には「淳和天皇 勅願所」「父 浦島太夫 子 浦島太良」とある。太郎は淳和天皇(在位823-833年)の頃に竜宮城から帰ってきたと言われる。観福寿寺の跡地に大正末期に移転してきた蓮法寺(七島町21)には浦島父子供養塔、石亀などがある。 |
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{左・寄}神奈川台場跡(現:JR貨物線東高島駅周辺) 滝の橋手前を左折しすぐ左折すぐ右折し行くと突き当たりに跡碑がある。安政6年(1859)沿岸防衛のため勝海舟の設計により構築された稜堡式砲台場で松山藩が工事に当たり約七万両を費やし万延元年(1860)完成。横長131間4尺(237m)奥行中央48間(86.4m)石垣の高さ2丈6尺(8.5m)総面積約26,000平方メートル。10門の36ポンド砲を含む14門の大砲が備えられたが外敵砲撃は一度もなく外交団の来日時や諸外国の記念日などの儀礼祝砲に利用された。明治に陸軍省の管轄になり明治32年(1899)廃止された後に鉄道省の所管となり大正10年ごろから埋め立てられ大正13年(1924)東高島駅が開業。その後も埋め立てが続き現在は石垣の一部が残っている。近くに神奈川台場公園がある。 |
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滝の橋 滝の川にかかる橋を渡る。現在は昭和41年竣工の鉄筋コンクリート橋となっているが江戸時代も同じ場所にありこのあたりが神奈川宿の中心だった。この川を挟んで手前が神奈川町、向こうが青木町で橋の手前右側に神奈川本陣(石井家)橋を渡った左側に青木本陣(鈴木家)があった。神奈川本陣のあたりは現在小野モータース、青木本陣のあたりはマンション「ランドシティ横濱ポートサイド」となっている。青木本陣跡のマンション前の交差点脇に「神奈川町本陣跡と青木町本陣跡」の解説プレートがある。 |
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{右・寄}宗興寺 [曹洞宗]幸ケ谷10-6 滝の橋を渡って右側の一本裏の道にある。室町時代の宝徳年間の創建。開港時には米宣教医のD.B.シモンズ博士や米宣教師ネビウスが住み2人が去った後の文久元年(1861)ヘボン博士が診療所を開設し数ヵ月間日本人患者を無料で診察した。ヘボン博士はヘボン式ローマ字や日本初の和英辞典を作り明治学院大学の創設者としても知られている。境内に昭和51年建立の飛鳥田一雄横浜市長(当時)揮毫によるヘボンのブロンズレリーフ付き施療所跡碑がある。境内のイチョウは樹齢200年以上。寺の東側に名水「神奈川の大井戸」がある。昔はこの井戸水を売り歩く水屋までいた。また水かさが減ると天気が悪くなると言われお天気井戸とも呼ばれていた。 |
![]() | {右・寄}妙湖山 浄瀧寺(じょうりゅうじ)[日蓮宗] 幸ケ谷17-5 宗興寺のさらに滝の川上流にある。文応元年(1260)妙湖尼が日蓮の弟子となり自分の庵を法華経の道場としたのが始まり。本尊は釈迦・多宝両如来と十界曼陀羅。もとは東海道沿いにあったが江戸に入る徳川家康に移転を命じられ青木本陣の鈴木家の寄進で現在地へ移転した。開港時はイギリス領事館となりイギリス領事手植えの松(多行松・たぎょうまつ)が境内にあったが空襲で焼失した。門前にイギリス領事館跡碑がある。本堂は昭和30年(1955)に建てられたもの。 |
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宮前商店街 第一京浜から右へ分岐してこの商店街に入っていく。ここで第一京浜(国道15号)とお別れとなる。この先の第一京浜はかつての海岸線で東海道に比べて若干低くなっている。宮前商店街は幸が谷小学校付近から京急神奈川駅付近までのおよそ250mで旧東海道の道幅を留めている。宮前の宮は州崎大神のこと。 |
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{左}浦志満(うらしま)跡 青木町6-12 宮前商店街にある大正8年創業の老舗だが平成17年4月に閉店した。享保2年(1717)に若菜屋が売り出した「亀の甲せんべい」は浦島伝説の亀の甲型に焼いた小麦粉のせんべいで幕府や諸大名御用達となり神奈川宿の名物だった。平成元年(1989)に若菜屋が閉店後、浦志満が引き継いでいた。 |
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{右}州崎大神 青木町5-29 宮前商店街にある神社。建久2年(1191)源頼朝が安房州崎(千葉県)の安房神社の神をこの地に祠ったのが始まり。祭神は天比理刀売命と天太玉命。現在の社殿は昭和31年(1956)のもの。この神社にあった御神木のアハギがなまり青木町となったと言われる。安房神社の御本霊と州崎大神の御分霊が海上で対面する由縁の祭りである毎年6月のお浜下り(提灯祭り)では重さ約2トン高さ約5mの日本最大級の神輿の周囲に提灯がつけられる。江戸時代には神社前から第一京浜へ通じる参道の先に船着場があり開港してからは横浜と神奈川宿を結ぶ渡船場として賑わった所で海陸警護のための陣屋も造られた。 |
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{右・寄}幸ヶ谷公園 州崎大神の背後一帯にに広がる公園。かつては権現山と呼ばれ線路を挟んで向かいの本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山だった。永正7年(1510)北条早雲に寝返った扇谷上杉家の重臣・上田政盛(蔵人)が権現山城にたてこもり上杉2万の大軍相手に落城するまで10日間激戦を繰り広げたという権現山の合戦場跡。幕末から明治にかけて神奈川台場埋立て用土、鉄道用地の開削などによって山は削られ低い丘になった。戦前は高級住宅地で昭和21年からの区画整理で公園となり現在は桜の名所として知られる。南側にはコミュニティハウスがあり図書サービスなどを行っている。 |
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{右・寄}洲崎山 普門寺 [真言宗智山派]青木町3-18 宮前商店街のとんかつ屋「サンオリーブ」の手前を右折して正面。洲崎大神の別当寺で明治の神仏分離令で分離した。洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置し多くの人々に救いの門を開いているという意味で普門寺という寺名になった。江戸時代後期は本堂、客殿、不動堂などの建物が建ち並び、開港時はイギリス士官の宿舎となった。四国の88箇所遍路巡礼にならって川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場に定めた「新四国東国八十八箇所」の第21番礼所。 |
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{右・寄}真色山 甚行寺 [浄土真宗]青木町3-9 宮前商店街に戻り50m先の次の道を右折して正面。明暦2年(1656)神奈川宿の伊勢屋甚右衛門(意圓上人)を開基、伊勢の専修寺第14世堯秀(ぎょうしゅう)上人を開山として創建された。本尊は阿弥陀如来像。宝暦年間(1751-64)に焼失するが再建され開港時は土蔵だった本堂を改造してフランス公使館となった。門前右に昭和46年津田文吾神奈川県知事(当時)揮毫のフランス公使館跡碑がある。関東大震災、大空襲で全焼し現在の鉄筋コンクリート造りの本堂・客殿は昭和46年に建てられた。境内のイチョウの木は樹齢250年。 |
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{右}京急神奈川駅 やがてJR、京浜急行の線路と国道1号によって大きく分断された場所に着く。旧東海道はそのまま真っ直ぐ斜めに突っ切ていくが分断されているので右手の青木橋を渡って迂回する。橋の手前に京急神奈川駅があり駅前に東海道の案内板がある。駅の開業は昭和5年(1930)で1992年に江戸時代の宿場を模した駅舎に改築された。1999年関東の駅百選に選ばれている。品川からほぼ旧東海道と平行に走ってきた京浜急行ともここでお別れでこれからはJR東海道線に沿っていく。 |
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{右・寄}青木山 本覚寺(ほんがくじ)[曹洞宗] 高島台1-2 青木橋を渡り国道1号を横断すると右手坂上の高台にある。臨済宗の開祖栄西により嘉禄2年(1226年)創建。権現山の合戦で荒廃し天文元年(1532)今は小机にある雲松院(小机町451)3世の陽広和尚が再興し曹洞宗に改めた。開港時はアメリカ領事館で領事であったドーアは松の枝を払い落として星条旗を掲げ建物に白いペンキを塗った。これが日本家屋に塗った最初のペンキ塗装と言われ空襲で残った山門の唐獅子にはペンキ跡が残っている。境内にはアメリカ領事館跡碑や横浜開港の首唱者岩瀬忠震の顕彰碑、昭和53年建立の全国塗装業者合同慰霊碑などもある。樹齢200年を越すスダジイ、タブノキや樹齢160年のエノキや210年のイチョウの大木がある。 |
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{右・寄}瑠璃光山 三宝寺 [浄土宗]台町7-1 本覚寺の門前を左折し坂を登っていくとある。または大綱金刀比羅神社の手前のマンション「ハイツ横浜」の屋上から渡り廊下で行ける。コンクリート柱に支えられ空中に浮かんでいるような建築。文禄・天正年間(1573-1596)嘆誉和尚の創建。本尊は弘法大師の作と伝えられる薬師如来像だったが空襲で焼失し現在は浄土宗大本山である芝増上寺から下付された釈迦如来像を本尊とする。開港時はアメリカ旅宿になっていた。21代目住職大熊弁玉 (おおくまべんぎょく)は明治初期の歌人としても有名で文明開化の歌を多数詠んでおり近くの高島山公園に歌碑がある。 |
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{右}大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ) 一里塚(7) 台町7-34 青木橋を渡り国道1号を渡ったあと左に20m行った早慶外語ゼミとやまざき歯科クリニックの間の道が旧東海道。源頼朝が荒海を鎮めるため文治4年(1188)に創建。大物主神、金山彦神などを祀る。東海道を行き交う人々は旅の安全を、船乗りたちは海上安全を祈願した。元は飯綱大権現と金刀比羅大権現とに分かれており明治2年それぞれ大綱神社、金刀比羅神社に改称、明治43年崖崩れで金刀比羅神社が倒壊し翌年山上にあった大綱神社を現在地に移築し両社を合祀した。湧水池奥の崖下の洞には横浜弁財天があり他の境内社である三宝荒神社、竜神社、稲荷社と合わせ外陣四社と呼ぶ。空襲で焼失した顔の長さ4尺5寸(136cm)巾3尺(91cm)の大天狗像は社殿横の大木を削り復元されている。江戸時代には神社前に一里塚があった。 |
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{左}袖ヶ浦の案内板(料亭 滝川の塀)台町8-14 坂を上りはじめるとある。広重の絵と東海道中膝栗毛の一文が書かれている大きなプレート。この辺りは台町と呼ばれ江戸時代には左手がすぐ海で中世以来の港として栄えた神奈川湊(袖ヶ浦)を街道松越しに見下ろす東海道屈指の景勝地として多くの旅人が訪れていた。広重の神奈川宿の絵がこのあたりで絵にあるように茶店も多く東海道中膝栗毛でも女の声につられて野次さん喜多さんが茶店に立寄っている。広重の絵の海の部分は現在横浜駅のあたりになる。袖ヶ浦は宝永4(1707)富士山の噴火の影響で海が浅くなり徐々に埋め立てられ1850年頃には畑と塩田になっていた。 |
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{左}割烹 田中家 台町11-1 広重の神奈川宿の絵の中にある「さくらや」という茶店があったところ。権八茶屋とも言われ平井権八が立ち寄り麦飯にとろろ汁で十杯も食べたといわれる。その後下田家となり高島易断の祖で実業家だった高島嘉右衛門が経営していたのを文久3年(1863)晝間(ひるま)弥兵衛が買取り旅篭料理屋を開業した。屋号は晝間家の実家が田に囲まれ一軒屋だったことから田中家と名付けた。明治8年頃には坂本龍馬の妻おりょうが仲居として働いており後に常連客だった横須賀の西村松兵衛と再婚している。
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{右}神奈川台関門跡 台町の坂道を上りきった頂上付近に碑と説明板がある。開港後に外国人に対する危害防止のため主要道路筋に設けられた関門のひとつで安政6年(1859)碑のある場所より少し先に設置され明治4年(1871)廃藩置県以降に廃止された。説明板に当時の関門の写真が見ることができる。碑には袖ヶ浦見晴所とも書かれている。このあたりから袖ヶ浦だけでなく横浜の砂州や本牧、房総まで眺望することができた。碑は昭和51年建立で揮毫は「神奈川台関門跡」を飛鳥田一雄横浜市長(当時)「袖ヶ浦見晴所」を長洲一ニ神奈川県知事(当時)。裏には関門の由来や関門が置かれた7箇所、番所が置かれた10箇所が列記されている。 |
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上台橋(かみだいばし) 神奈川台関門跡から下り坂となり途中に横浜駅と国道1号線を結ぶ道路の上にかかる上台橋を渡る。東海道の下に交差する形で車道が走っており橋は昭和5年(1930)下の道路を開削した際に架けられた。下の道路の地下には横浜市営地下鉄も走っている。神奈川宿歴史の道の西の起点でもあり昭和31年コンクリート造りに架け替えられた橋の欄干は現在青海波にデザインされている。橋を渡った右手が小広場になっており神奈川宿歴史の道の解説パネルがある。江戸時代はこの付近に神奈川宿の上方見附(京入口)が置かれた。 |
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