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{右}磐井神社 大森北2-20-8 大森海岸駅の前の歩道橋右側すぐの所にある。創建は不明だが延喜年間(901-21)には存在していた。また境内が海まで続き沖合に鳥居があったという記録もある。鈴ヶ森という地名の由来となった転がすと鈴の音がするという鈴石と上部に鳥の模様のある烏石(からすいし)を保有している。前の歩道には東海道を旅する人々が利用した磐井の井戸があり心正しい人には清水だが邪心のある人には塩水になると言われた。境内の左右に樹齢300年以上のイチョウがある。左は幹周囲4.9m樹高16m。右は幹周囲3.57m樹高16mで道路側の反面が黒く炭化している。文人たちが使用済の筆を埋めた筆供養塚もある。東海七福神の弁財天。社殿は老朽化により改築予定。 |
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美原通り 平和島口の交差点を過ぎてから第一京浜と分岐し左に入る道で東海道はこの美原通りを進む。東海道が拡張されて大正7年(1918)に第一京浜となった時この通りは商店街だったため第一京浜とはならず三原通りとして旧東海道の道幅を残した。三原とは字名の南原、中原、北原の三つの原のことで後に美原になった。通りはレンガ敷きでコブシ木が並び「旧東海道」石柱が建てられ整備されている。休憩用の石の腰掛もあり表面には海苔漁業の様子など昔の様子が描かれている。東海道は約1kmで再度第一京浜と合流する。 |
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{右・寄}大森神社 大森北6-32-12 美原通りには入らず国道をまっすぐ行くと右手にある。天正年間(1573-92)の創建。祭神は久久能智命(くくのちのみこと)。 黄金色に輝く像が岸に流れ着き里の人が恐れて沖に三度流したが三度ともまた元の場所に寄り来たるので社を建ててこの像を祀ったのが起源と言う。そのため寄来神社と称していたがのちに大森神社となった。現在の社殿は平成17年にできたばかり。 |
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{右}大黒屋 大森本町2-31-9 美原通りにある明治後期創業の和菓子老舗。餅に青海苔を練りこんだのり大福(1個120円)が有名。大森近辺は延宝年間(1673-81)頃日本の海苔養殖発祥の地となり昭和37年に沿海が埋め立てられるまで海苔養殖が続いた。現在も流通の拠点として日本全国から海苔が集まり問屋が大小約80件も集中、名刺代わりに海苔、手紙代りに海苔、冠婚葬祭に海苔と何かというと海苔という習慣が続いていて「海苔」が至るところにある。 |
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{右}松尾 大森東1-6-3 環七通りを渡りすぐ右。寛文9年(1669)創業の海苔の老舗。大森近辺の海苔は江戸時代には毎年欠かさず最上級品を将軍家や徳川御三家に「御膳海苔」として上納していた。初めは幕府から代金が支払われていたが天保4年(1833)には無償提供になり名誉である一方重荷でもあった。松尾は「御膳海苔」を現在も作り最高級の焼海苔として人気を博しており宮内庁御用達の店。御膳のり「雲」1帖(10枚)2000円。 |
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{右}餅甚 大森東1-4-3 享保元年(1716)創業の和菓子屋。品川宿〜川崎宿間の休憩場としてこのあたりには茶店があり餅甚は駿河屋という茶店だった。創業者から代々甚三郎という名を継ぎ明治の後期に餅甚という名になった。一口サイズのやわらかい餅に黒蜜ときなこをかけて食べるあべ川餅が有名。あべ川餅は駿河の安倍川に由来し餅甚の創業者も駿河の出だった。あべ川餅18枚650円。 |
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内川橋 大森一里塚(3) 内川にかかる内川橋を渡る。大森を東西に流れる内川は昔は海苔を運ぶ船が行き交っていた。橋を渡って左に分岐していく道脇に「羽田道(するがや通り)」の碑がある。内川橋は羽田道の起点でここから分岐していく羽田道には歌舞伎にも登場する旅籠 「駿河屋」があり道はするがや通り、橋はするがや橋とも言われた。歌舞伎「浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森刑場の場」で見事な立ち回りで追手を倒したお尋ね者白井権八に幡随院長兵衛が声をかける名場面では長兵衛は駿河屋の提灯を持っており羽田道の入口には提灯を持った長兵衛の浮世絵タイルも埋め込まれている。この付近には3里目の一里塚もあったとされ元禄3年(1690)東海道分間絵図には両塚に榎が植えられ右に1本、左に3本と記録されている。 |
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{右・寄}東海道一本灯籠 大森西5-2-13 第一京浜と合流してしばらく歩き京急大森町駅に行く道を右折して駅を過ぎ600mほど行きファミリーマート大森西五丁目店を左折すると大森西図書館(大森西5-2-13)手前の三輪公園内にある。江戸後期に当時の大森村をはじめとする近郷の富士講の人達が東海道を行き交う人の目印にと建てた常夜燈で富士講碑も兼ねており台石には富士山が浮き彫りにされている。もとは東海道沿いの現在の谷戸交番の向かい(大森中1-18)付近にあったが第一京浜国道の拡幅工事で移転され転々とした上に関東大震災で倒壊するなどして一部が失われ残った台石と笠石が三輪神社(大森西5-18-5)に置かれ昭和61年に大田区へ寄付されたのち火袋、竿石部分が復元され現在の場所に設置された。 |
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{右}貴舩神社(貴菅神社)大森西5-27-7 第一京浜沿い本宿バス停と谷戸交番の間にある。もともとは貴舩神社で創建の時期は不明だが江戸時代には大森村の街道に面した本宿の鎮守であった。宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。明治42年(1909)向かいにあった菅原道真と高龗神(たかおかみのかみ)を祀る菅原神社と合祀し昭和になって貴菅(きすが)神社と通称で呼ばれるようになった。東に約1km行ったところにも同名の貴舩神社(大森東3-9-19)がある。 |
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{右}聖蹟梅屋敷公園 蒲田3-25-6 文政年間(1818-30)に和中散(寝冷えや水あたりの薬)で繁盛した山本忠左衛門の息子久三郎が3000坪もあった屋敷内に数百本の梅の木を集め東海道を旅する人の休み茶屋を開いたのが起こり。江戸の名所となり12代将軍家慶が鷹狩りの途中に立ち寄ったり幕末には岩倉具視、木戸孝允、大久保利通などが会合を持った。文久2年(1863)横浜異人館襲撃を思いとどまった高杉晋作ら長州藩士と土佐藩士の騒ぎ梅屋敷事件もここで起きた。その後、山本家から高田家、第百銀行、京浜電気鉄道と所有者が変わり鉄道用地や第一京浜の拡張などで大部分が削り取られ残った部分が昭和に入って東京市に寄付され公園となった。園内に里程標が復元されており「距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋」と書いてある。ここも聖蹟で明治天皇が気に入り9度も訪れた。 |
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夫婦橋 呑川(のみかわ)にかかる夫婦橋を渡る。江戸時代呑川は海苔を採る舟が往来し名の由来になった呑めるほど澄んだ水が流れていた。川の南岸は現在遊歩道になっており近くに夫婦橋親水公園(船着場跡)がある。下流は大雨による増水や高潮にも備えるため川岸は高い堤防になっている。夫婦橋は江戸初期にはあったとされ2つの橋が並んで架けられていたことに由来する。現在は橋の右側に平行して京浜急行の橋が架けられており京急蒲田駅のプラットホームが続いている。 |
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{左}六郷神社 東六郷3-10-18 ひたすら第一京浜を歩き東六郷三交差点の先にある。入口には「東海道跡の碑」と神社の由来を書いた案内板がある。天喜5年(1051)に源頼義、頼家父子が奥州討伐の時この地の巨杉に白旗をかかげ戦勝を祈り凱旋の帰途報恩のためこの神社を建てた。現在も境内にこの巨杉の根株が残る。文治5年(1189)頼朝もまた奥州征定時戦勝を祈り建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。境内の手水石は頼朝が奉献したもので南門前の太鼓橋は景時の寄進。大正14年(1925)に鉄橋に架け替える前の六郷橋(木橋)の親柱も移されている。
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{左}旧東海道の名残 六郷一里塚(4) 神社を過ぎると左側歩道はそのまま裏通りに分岐している。第一京浜に拡張されなかった旧東海道が残っているところである。旧東海道といっても慶長6年(1601)当初の東海道は六郷神社の南門正面の道路でこちらは元和9年(1623)以降に東海道となった。第一京浜に面している神社参道は脇参道としてあとで作られたもの。少し先には4里目の一里塚があったとされ元禄3年(1690)東海道分間絵図には両塚に榎が複数植えられていたとあり天保7年(1836)の江戸名所図会には神社南門前からの道と交差する付近に一里塚と高札場が描かれている。 |
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{右・寄}御幡山 宝珠院(建長寺)[真言宗] 仲六郷4-34-8 旧道に分岐して少し進んだ付近の第一京浜を挟んだ反対側にある。本尊は阿弥陀如来で江戸時代は六郷神社の別当寺(神社に付属して置かれた寺院)だったが明治の神仏分離策で分離した。もともと近くの宝幢院(西六郷2-52-1)の末寺とも言われるが慶安年間(1648-51)に日栄上人が中興開山した。山号は源氏が戦勝祈願に旗(御旗)を立てた六郷神社の故事に由来する。四国の88箇所遍路巡礼にならって多摩川流域の88の寺院を霊場に定めた新四国多摩川88箇所霊場の第85番礼所。 |
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{右・寄}宮本台緑地 仲六郷4-30-5 多摩川の手前に来たら新六郷橋の下をくぐる右側の歩道を行くとある。川崎方面から橋を渡ってきた車が川際の一般道に下りる周回車線の内側。名前は緑地でも実際はレンガ敷きの公園で「夏のおもいで」という彫刻やベンチが設置され橋下にはテニスの壁打ち練習場がある。川側に大正14年(1925)開通の旧六郷橋の橋門と親柱1基がある。総工費105万円をかけて川崎側の低水路上は鋼タイドアーチ、東京側の高水敷上は鋼I桁造りという2連アーチ鉄橋は長さ446.2m幅16.4mだった。「帝都の南門」と呼ばれたが昭和59年に老朽化により現在の新六郷橋と交代した。川崎側の稲毛公園内にも旧六郷橋親柱2基がある。 |
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{右・寄}北野天神(北野神社) 宮本台緑地の車道を挟んで川側にある。祭神は菅原道真。ご加護により馬が暴走しても8代将軍吉宗が落馬しなかったことから「落馬止め天神」「止め天神」と有名になり将軍指南役の柳生家も近所に馬屋や馬別当屋敷を置いた。今でも「落ちない」関係から多くの受験生や選挙立候補者に人気がある。境内には力石の鶴さん(千年石)亀さん(万年石)もあり触わって長寿祈願する。日本橋へ四里半と書かれた「六郷の渡し」標柱が鳥居の手前左側にある。実際の渡し場は新六郷橋の下流150mほど行った辺りで川崎側の下流50m辺りまでを結んでいた。
六郷の渡しに行くのに渡らなければならなかった河原橋の踏石も境内に残っており人目につかない河原橋は若い男女の忍び会う所でもあった。
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{右・寄}新六郷橋 多摩川は現在は第一京浜に架かる新六郷橋で渡る。最初の橋(長さ200m幅7m)は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの直前に家康が架けたが貞享5年(1688)洪水で流出後は改架されず以降の江戸時代は少し下流を舟渡しで往来した。明治7年(1874)になって鈴木左内が左内橋を架けたが4年後に流出。明治16年地元有志により再改架され明治33年(1900)に京浜電気鉄道(現:京浜急行)が買収。大正14年(1925)先代の鉄橋が完成、平行して存続していた渡船はこの時に消滅した。現在の新六郷橋は昭和59年に上り車線、昭和62年に旧橋を撤去し下り車線が完成、3車線ずつの2つの橋から成り親柱の上には「渡し舟」のオブジェがデザインされている。橋を渡ると東京都から神奈川県に入る。 |
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{右・寄}明治天皇六郷渡御碑(とぎょひ) 新六郷橋を渡った左にある。明治元年(1868)明治天皇が初めて江戸城に入る際に23隻の舟を横に並べその上に板を這わせ船橋を作って渡った。様子が描かれた「武州六郷船渡図」のレリーフが碑に埋め込まれている。隣には大師道の先にある川崎大師の灯籠、川崎宿(六郷の渡し)説明板もある。長十郎梨のふるさとの説明板もあり明治中期に付近の梨畑で新種として発見され病害に強く甘いため全国に広まった。旧東海道は下流の舟着場から右にカーブして川崎宿に入っていたが現在はこのまま歩道で坂を下り少し先で右折し第一京浜(車道)の高架をくぐると旧東海道となる。 |
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川崎宿 本陣2脇本陣0旅籠72家数541人口2433[天保14年(1843)] 東海道開設から22年遅れの元和9年(1623)に設置された。六郷川(現:多摩川)の氾濫でよく冠水する地形だったため周囲に盛土して宿場が作られ東海道も極力微高地を通るようになっていた。当初は財政難で廃止検討もされていたが宝永6年(1709)川の渡船権を得て難を脱し江戸後期には川崎大師信仰が広がり参拝客で栄えた。慶安、元禄の大地震、宝暦11年(1761)の大火、関東大震災、太平洋戦争で殆ど遺構はなく特に宝暦以前の歴史文献は皆無。かつての宿場町は現在京急川崎駅前の商店街となっている。砂子の里資料館や川崎市民ミュージアム(中原区等々力1-2)に宿場模型がある。 |
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{右}万年屋(まんねんや)跡説明板 ガードをくぐりすぐのマンションダイアパレスグランデージ川崎多摩川リバーウイングス前に説明板がある。江戸名所図会や東海道中膝栗毛にも出てくる奈良茶飯の河崎万年屋が付近の街道左にあった。奈良茶飯は元は奈良の東大寺、興福寺などの僧食で塩味の効いた茶で炊いた炒豆、粟、栗などの炊込みご飯でこれに六郷川(多摩川)産の蜆の味噌汁が付いていた。明和年間(1764-72)は13文均一の一膳飯屋だったが川崎大師参詣者の増加などで宿内一の茶屋にとなり後に旅籠となった。文久3年(1863)の記録では間口11間半(21m)奥行12間(22m)総坪123坪(407平方m)で畳数55畳、板敷36畳とあり安政4年(1857)には下田から江戸に向かう初代駐日米総領事タウンゼント・ハリスも宿泊している。 |
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{右・寄}川崎稲荷社 国道409号と交差する手前の小道(稲荷横丁)を右折していくと左。戦災により創建時期は不明。享保元年(1716)紀州藩主だった吉宗が8代将軍になるために江戸へ向う途中ここで休息したと言う。社殿と鳥居は昭和26年(1951)頃の再建。社殿下にはケヤキの大木の根株があり木を切った頃に怪我人が多発したため厄払いの意味で切株上に社殿を建てたと言う。社殿の基礎の土留には二ヶ領用水の石橋の部材が使用された。二ヶ領用水は家康が作らせ慶長16年(1611)完成。現在の多摩区布田で多摩川から取水し全長32kmに渡って流れ近隣の農業を支え享保9年(1794)には田中本陣出身で幕府の勘定支配格に登用され川除御普請御用として関東の治水事業に従事していた田中休愚が全面改修した。 |
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{右}田中本陣跡(現:深瀬小児科医院) 神奈川県川崎市川崎区本町1-4-6 国道409号横断して旧道をしらばく進むと説明立札がある。川崎宿開設時は近くにあった妙遠寺(昭和になって宮前町6-5に移転)を本陣代わりとしていたが寛永6年(1629)に田中家が仮本陣となり寛永11年正式に本陣となった。敷地は231坪(764平方m)門構玄関付で川崎宿の3つの本陣の中では最大規模で下本陣と呼ばれた。宝永4年(1707)4代目当主となった田中休愚(丘隅、兵庫)は問屋役もつとめ川崎宿の財政再建と発展に貢献し享保8年(1723)には将軍吉宗に見込まれ幕府に登用され享保14年には代官に出世した。安永元年(1772)この本陣からの出火で30軒の延焼となり安政5年(1858)と文久2年(1862)にも焼け記録は殆ど焼失。明治元年(1868)江戸に向かう明治天皇が昼食でここに立寄った。 |
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{左}助郷会所跡 本町1-8-9 しばらく進むと御菓子処 東照の前に川崎歴史ガイドの説明立札がある。常駐する伝馬人足の不足を補うために近在農村から借りた人馬がここに集められた。助郷制度による負担は周辺農村の貧困化を招き宝永6年(1709)六郷川の渡船権を得て宿場の収入が安定するまで財政難の元凶となっていた。 |
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{右・寄}専修山念仏院 一行寺(いちぎょうじ)[浄土宗] 本町1-1-5 少し先の右歩道に説明立札と街灯柱に矢印標示があり小道を右折していくとある。寛永8年(1631)良忠寺(横浜市鶴見区矢向4-21-36)18世顕譽円超が念仏弘通の道場として創建。現在の本堂、客殿とも昭和58年築。本尊は戦災で焼失し戦後に浄土宗宗務所から新たに江戸初期作の阿弥陀如来が下付され客殿に安置されており本堂には善導大師像、法然上人像を安置する。江戸時代から閻魔寺とも呼ばれ境内には閻魔堂があったが戦災で焼失し現在は客殿に新しい閻魔座像が安置されている。境内には樹齢400年の大イチョウや平成14年建立の夫婦像がある。
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{右}瑞龍山 宗三寺[曹洞宗] 砂子1-4-3 少し先に説明立札、昭和27年寺名柱があり塀の内側の駐車場を抜けると境内。鎌倉時代の僧・玄統がこの付近に開いた勝福寺が前身で佐々木高綱がこの辺を領した時には菩提寺となり弘長3年(1263)には子孫の佐々木泰綱が梵鐘を寄進したと言う。16世紀に小田原北条氏の家臣・間宮康俊がかつてこの付近に河崎城(館)を築いていた祖父の間宮信盛を開基とし宝泉寺(横浜市鶴見区下末吉6-19-31)4世自山を開山に招き宗三寺として中興した。寺号は信盛の戒名・瑞龍院(瑞栄院?)雲谷宗三居士に由来し墓地には天和3年(1683)子孫が建立した信盛供養塔もある。本尊は釈迦如来、脇侍は如意輪観音で准秩父34観音札所第20番。墓地の一番奥の角には昭和63年建立の川崎宿飯盛女供養塔もある。 |
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{右}砂子(いさご)の里資料館 砂子1-4-10 少し先右の高橋印房(砂子1-4-6)前には広重の絵入りの「川崎宿の由来」説明板がありその先に資料館がある。元参議院議員である斎藤文夫が街道に面した自宅前面を海鼠壁風に改造し平成13年に開館。先代から収集し続けている3千点の浮世絵コレクションの中から月替わりで企画展示している。館内には川崎区役所が元禄3年(1690)東海道分間絵図を元に製作した川崎宿ジオラマもある。10時-17時、日祭休、無料。資料館前には向小学校(大島4-17-1)に保管されていた丸型ポストが平成17年に移設され現役ポストとして復活し運用されている。
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{右}中の本陣跡 砂子1-2-20 少し先の神戸らんぷ亭京急川崎店手前に浮世絵や宿並図なども入った高札風の川崎宿案内板がありすぐ先の角に説明立札、「旧東海道」石柱がある。川崎宿の本陣は田中本陣の他に佐藤本陣と惣兵衛本陣があり惣兵衛本陣は田中・佐藤本陣の中間にあったことから中の本陣と呼ばれていたが江戸後期に廃業した。少し手前の宗三寺入口から2軒挟んだ位置には高札場もあった。 |
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{左}問屋場跡 砂子1-7-1 向かいのセブンイレブン砂子1丁目店前に説明立札、「旧東海道」石柱がある。実際の問屋場は手前の宗三寺入口斜め向かい、高札場向かい付近にあり文久3年(1863)の記録で建坪56坪(185平方m)で付属として馬士小屋10坪(33平方m)歩行人足小屋18坪(60平方m)があった。問屋役人は昼夜交替で勤務したと言い天保14年(1843)の記録には問屋3人、問屋代4人、年寄5人、人馬指11人とあり元治元年(1864)の記録には問屋2人、名主3人、年寄6人、助郷惣代6人、帳付・人馬指・迎番22人とその助役22人とある。すぐ先の交差点を渡った斜め向かいのサクライメガネ(砂子1-1-13)の壁には広重の戸塚宿の絵がある。 |
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{左・寄}稲毛公園 宮本町7 少し先の砂子交差点で川崎駅前の大通り(市役所通り)に出る。東海道は直進するが左折ししばらく行くと第一京浜と交差する交差点の左側に公園がある。園内には平成14年に区制30周年を記念して設置された宮本台緑地にあったものと同じ旧六郷橋の親柱2基がある。1基はもともと市の財産として今の六郷橋の下にあったものでもう1基は国道交通省の国道事務所の庭に飾ってあったものを移設して再現整備された。他に公園内には平和像の噴水や記念碑などがある。 |
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{左・寄}稲毛神社 宮本町7-7 稲毛公園の東京側の隣。平安時代の河崎庄の鎮守河崎山王社を佐々木高綱が鎌倉時代に社殿造営した。江戸時代には川崎宿の総鎮守で慶応4年(1868)武蔵国稲毛庄の名から川崎大神稲毛神社となり明治中期に稲毛神社となった。田中本陣出身の田中休愚の関係者が享保14年(1729)に奉納した手水石は昭和63年市指定文化財。境内に戦災から再生した樹齢千年以上の大イチョウと周囲に十二支像がある。他に小土呂橋遺構、文化8年(1811)と文政12年(1829)の2つの年号が刻まれた御神水吹上井戸石枠、平成6年建立芭蕉句碑「秋十とせ 却って江戸を さす故郷」 平成14年建立正岡子規句碑「六郷の 橋まで来たり 春の風」。明治3年(1870)築の子神社(ねのじんじゃ)など16の境内社もある。
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{右}佐藤本陣跡 砂子2-4-17 市役所通りを渡り少し先の川崎砂子ビル(Cassia Kawasaki)のガラス張りの屋内自転車置場に平成19年設置のタペストリー状の説明板がある。佐藤本陣の規模は181坪(598平方m)で門構玄関付。惣左衛門本陣や上の本陣とも呼ばれ幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊した。 |
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{左}佐藤惣之助生誕の地碑 向かいの川崎信用金庫本店(砂子2-11-1)横のふれあい広場内にある。明治23年(1890)生まれの惣之助は大正から戦前にかけての詩人で歌謡曲「赤城の子守歌」「人生劇場」や阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」の作詞者としても知られ昭和17年に51歳で没した。佐藤本陣の子孫で生誕時は佐藤家は雑貨商「藤屋」を営んでおり住居は少し北の銀柳街沿いにあった。碑は生誕地の敷地が確保できずこの場所に昭和54年建立されたもので上部に圓鍔勝三作の肖像レリーフ、嗣子・佐藤沙羅夫揮毫による「青い背広で」歌詞も付いている。近くの稲毛神社、川崎市体育館(富士見町1-1-4)前にも惣之助の詩碑があるほか下田公園開国広場(静岡県)、琉球大学(沖縄県)など全国に詩碑が建立されている。 |
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{右・寄}観行院(かんぎょういん)[天台宗]砂子2-5-2 仲見世通りを右折していくと右側にある。信州善光寺の関東別院。本堂脇の植込みなどに古い石板碑が置かれており中でも薬師如来の板碑は珍しいと言われる。門前には大黒天と水かけ、銭洗いの井水がある。仲見世通りは飲食街が多く「お箸」のありがたさに感謝し商売繁盛を願う箸供養祭を毎年10月に行っている。 |
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{右}小土呂橋(こどろばし)の擬宝珠 駅前の大通り(新川通り)の小土呂橋交差点を横断した所の歩道脇にある。新川通りは以前は新川掘という用水路で慶安3年(1650)に幕府関東郡代伊奈半十郎忠治が普請奉行となって開削された。そこを東海道が横断する橋が小土呂橋で洪水で流されるなどして寛保3年(1742)に幕府御普請役水谷郷右衛門によって再架された石橋の擬宝珠が残っている。橋の規模は長さ、幅とも3間(5.5m)で昭和6年(1931)新川掘の埋立てが始まるまで約200年間利用されていた。擬宝珠以外の橋の遺稿は稲毛神社に11部残されている。 |
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{右・寄}一乗山 教安寺 [浄土宗]小川町6-2 しばらく進み次の信号を右折して次を左折すると山門がある。開山は天文22年(1553)で川崎宿のはずれにあった。本尊は阿弥陀三尊立像。山門前左にある石灯籠は堀の内村出身で富士講の有名な先達だった西川満翁徳行が組織したタテカワ講によって天保11年(1840)建立されたもので江戸期には川崎宿京入口にあり宿入口の目印だった。境内には文政12年(1829)の梵鐘もあり空襲時に停電した場合のサイレン代わりにと市役所に保管されていたため供出を逃れた。江戸時代に鋳造され市内に現存する梵鐘はここを含め3つのみ。他に文化13年(1816)年建立の徳本上人の六字名号碑もある。 |
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{右}「ここに幸あり」碑・川崎宿京入口跡 小川町10-10 少し先の老人ホーム恒春園の前にある。碑はホーム開園10周年にあたる昭和63年に経営する馬嶋病院が建てたもので碑文には川崎宿京入口がこの付近にあったという記述がある。京入口には切石を積んだ土居がありここを出ると八町畷(なわて)の一本道となった。畷とは田圃の中の真っ直ぐな道の意味。文久2年(1862)外国人遊歩区域となった川崎宿では土居付近に外国人警護のための第一関門番所を設け宿役人2人、道案内3人が詰めていた。関門番所は他に保土ヶ谷宿までの間に19ヶ所も設けられ非常の時は半鐘を鳴らし近隣の番所と連絡を取った。 |
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{左}芭蕉ミニパーク 日進町24-15 少し先で市電通りを横断ししばらく行くとある。平成17年ここに移転してきた馬嶋病院の駐車場入口前に作られた休憩スペースで何個かの椅子がありこの先の芭蕉句碑にちなみ芭蕉の門人たちの俳句を紹介している。床面の石板には7人、ジュースの自動販売機の背面の柱面には22人の句が記されている。杉風の「落着の 古郷やてうど 麦時分」子珊の「組笠に もる日を包め 夏木立」など。 少し先左の川崎警察署向かいにある日新町町内会館「麦の郷」前には平成17年設置の東海道分間延絵図の銅版とその説明板がある。銅版は昭和40年代に製作されたもので旧町内会会館の倉庫から発見されたもの。 |
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{右}芭蕉句碑 日進町11-9 八丁畷駅手前にある。元禄7年(1694)江戸に住んでいた松尾芭蕉は郷里の伊賀へ旅立った。芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、岱水らは多摩川を渡り川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという腰掛茶屋で休憩し最後の別れを惜しみ「翁の旅を見送りて」という題で各人が句を読んだ。弟子たちの句に対し芭蕉が詠んだ返歌が「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」である。芭蕉はこの年に大阪で亡くなり関東に戻ることはなかった。文政13年(1830)俳人一種が師の桜井梅室に揮毫してもらい碑を川崎宿京入口に建立、明治になって現地点に移設された。芭蕉の句碑は神奈川県だけでも59基と多いが詠んだ地にあるのは全国的にも少ない。 |
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