| |
|
「東海道」を主題にした浮世絵は歌川広重が最初ではなく、北斎や歌麿など多くの絵師も描いていたが、彼らの「東海道」シリーズは人物が主体で風景は脇役の存在だった。広重の「東海道五十三次」は風景が主体で「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、自然の景観の中に風物、人物を叙情豊かに描き、雪や雨などの自然の風情も巧みに表している。 キッカケは天保3年(1832)の「八朔御馬献上の儀(*1)」。儀式図調整のため随行して東海道を初めて往復した36歳の広重が、この時の写生と印象をもとに描き翌年発表した。旅行ブームを背景に庶民の間で人気を博し浮世絵界始まって以来の大ヒット。版元は保永堂(*2)で、以後このシリーズは保永堂版と称される。広重はその後も江崎屋版など東海道シリーズを20種以上発表しているが、保永堂版が最も有名。
*2 保永堂は竹内孫八の新興の版元。厳密には当初、老舗の版元である鶴屋喜右衛門と共同で出版されたが途中から竹内の単独出版となった。53宿に「日本橋」「三条大橋」を含め55点が1セットとなる。ただし、需要が高く大増刷したため版木が変わったり色が省略されるなど図柄が若干違う後摺り版が多数存在する。 保永堂版「東海道五十三次」 その他の「東海道五十三次」 |
![]() 広重 肖像画 三代 歌川豊国 画 |
歌川広重(寛政9年〜安政5年:1797〜1858)江戸時代後期の浮世絵師。寛政9年(1797)江戸八重洲河岸に住む定火消同心(*1)、安藤源右衛門の子として生まれる。幼名は徳太郎といい、のちに重右衛門、徳兵衛と改めた。号は一遊斎、一幽斎、一立斎などがある。13歳で病気により両親を亡くすと元服前だが年齢を偽り家督を相続し火消同心職となった。職を続けながら15歳で歌川豊広(*2)に入門、浮世絵を学び始め、翌年歌川広重の名を許される。他に上司であった大岡冶兵衛(雲峰)に南画(*3)、岡島林斎に狩野派(*4)、さらに京都の画家から四条派(*5)も学んだ。27歳の時に火消同人の家職を縁者の仲次郎に譲り、武士から町人となり浮世絵師に専念する。当初は当時流行していた美人画や役者絵、武者絵を中心に描いていたが、師の豊広の死後、風景画を描き始め、天保2(1831)「東都名所(*6)」を発表し、翌々年の「東海道五十三次」で大ブレイクした。40歳のとき妻を失い、子にも先立たれ、60才で制作を開始した「名所江戸百景」を完成させた安政5年(1858)9月6日、コレラ(*7)により62才で永眠した。墓は浅草の東岳寺。その後、門人がニ代、三代と広重の名を継ぎ(*8)、一般には初代広重、安藤広重と呼ばれる。 |
|
辞世 「東路へ 筆を残して 旅の空 西の御国の 名ところを見舞(*9)」 他の代表作として、溪斎英泉との共作「木曾街道六十九次(*10)」、「江戸近郊八景」「近江八景」「名所江戸百景」「京都名所之内」など諸国名所絵、江戸名所絵など多くの名作を残す。また風景版画のほか、画賛と絵が見事に調和した花鳥版画、四条派に南画や狩野派の手法も加えた気品高い肉筆風景画の分野にも独自の画境を開いた。 *1 江戸城の丸の内、大名屋敷、旗本屋敷の消火に当たるのが役目で、普通四千石から一万石の旗本が交代で定火消を勤め、配下に与力六騎と同心30人ずつがいた。安藤家は同心という下級役職で俸禄は30俵二人扶持という貧しい御家人だった。 *2 当初、初代歌川豊国に弟子入りを請うたが門弟が多く叶わず、豊広(1773-1829)に入門した。広重の広は師である豊広より一字を受けたもの。歌川派は歌川豊春が開祖で門下の初代豊国、豊広などが中心となって発展させた浮世絵の最大勢力。幕末に活躍した三代豊国、国芳、広重は「歌川三羽烏」と称された。豊国は似顔絵、国芳は武者絵、広重は名所絵を得意としていた。 *3 水墨を基調にした東洋画で、室町時代に中国から渡来した南宗画が元になって、江戸時代に日本独自の南画として確立された。大岡冶兵衛(1765-1848)は旗本で定火消を勤めていた。 *4 室町時代後期、狩野正信を祖とする狩野派は江戸幕府の御用絵師としても重用された日本美術史上最大・最長の流派。山水、人物、花鳥などレパートリーは幅広い。岡島林斎は定火消の与力を勤めていた。 *6 大判横錦絵の十枚からなる組物「東都名所」は広重35歳の作でちょうど葛飾北斎(72歳)が「富嶽三十六景」を発刊した頃で当時、広重は葛飾北斎を尊敬しておりよく教えを請うため訪れていた。 *7 コレラは症状が急速に悪化して死にいたるため「三日虎狼痢 (みっかころり)」と呼ばれた。日本に初めてコレラが侵入したのは文政5年(1822)で、この時は西日本での流行のみで江戸までは達しなかった。その36年後の安政5年(1858)長崎に上陸した「安政のコレラ」は東に蔓延して7月末には江戸に侵入。1カ月余り流行し死者20万人を数え江戸最大の災害と言われている。 *8 二代広重(1826-69)若い頃から初代広重の門人となり、重宣を名乗っていた頃は初代の画風を模した風景画・美人画を描く。安政5年に広重が没した翌年、広重の養女辰の婿となり師家を継ぎ、二代広重を襲名した。だが慶応元年(1868)離縁し師の家を出、喜斎立祥と改名、横浜で輸出用茶箱に貼付する版画を描く。 三代広重(1842-94)初代広重の門人で二代広重が師家を去ったあと、辰の婿となり二代目を自称したが、実際には三代目。明治に入って、蒸気車、蒸気船、洋風建築などいわゆる開化絵を多く描いた。 *9 これからは西の御国(浄土)で名所めぐりをしたいが筆は東路(この世)に残したままだ。 *10 この時代の風景画の対抗馬とも言える渓齋(池田)英泉(1791-1848)が天保6年(1835)より保永堂の依頼によって書き始めた。しかし24枚執筆したところで描くのを辞めてしまい続きの46枚を広重が描き錦樹堂が出版した。 | |