基本情報

十返舎一九「東海道中膝栗毛」

享和2年(1802)版元・村田屋治郎兵衛から出版された滑稽本「浮世道中 膝栗毛」が最初で十返舎一九が文、挿絵、版下(*1)も全部1人でこなしたと言う。「膝栗毛」とは自分の膝を馬(栗毛)の代わりに使って旅する、つまり徒歩旅行の意味。弥次郎兵衛(*2)と喜多八(*3)が品川〜箱根まで行く道中記で大ベストセラーとなり翌年に箱根〜岡部までの続編「道中膝栗毛 後篇 乾坤」が出版された。以降「東海道中膝栗毛」と改題され三編(岡部〜新居)四編(荒井〜桑名)五編(桑名〜伊勢めぐり)六編(伏見〜京都めぐり)七編(京都めぐり)八編(大阪見物)と文化6年(1809)まで1年に1編づつ出版された。文化11年(1814)にエピソード1とも言える「東海道中膝栗毛 発端」も出版された。五編からは歌川豊国、勝川春亭、喜多川式麿などが挿絵を描いた。 さらに文化7年(1810)からは「続膝栗毛」シリーズも始まっており、金比羅参り、安芸の宮島、木曾街道、善光寺、上州草津温泉、中山道と文政5年(1822)まで12編が出版された。
    *1 江戸時代の出版物で版木を彫る際に裏返して貼り付けるよう薄い紙に墨一色で描かれた下絵。
    *2 駿河国府中(現:静岡市)出身で実家は裕福な商家だったが遊興の借金から江戸に夜逃げし神田八丁堀の長屋で油絵などを描いて生活している。屋号は「栃面屋」。妻と死別し 50歳で旅に出ることを決意する。少し肥満気味。
    *3 弥次郎兵衛とともに江戸に夜逃げしてきた居候。ある商家に使用人として奉公するが女主人に言い寄ろうとして不興を買い、さらに使い込みもバレて解雇。行き場を失い30歳で弥次郎兵衛とともに旅に出る。色男。




十返舎一九 肖像画
三代 歌川豊国 画

  十返舎一九(明和2年〜天保2年:1765〜1831)

江戸時代後期の大衆作家。明和2年(1765)駿河国府中城下の同心・重田与八郎鞭助(*1)の子として生まれる。本名は貞一。幼名は市九、幾五郎といい、与七、五郎八とも称した。江戸に行き御使番・小田切直年(*2)に奉公し19歳の頃に直年が大坂東町奉行となると大坂に付いていくが後に辞めて浄瑠璃を修行し志野流の香道(*3)も学んだ。25歳で近松余七(与七)(*4)の名で浄瑠璃作者となる。この頃に材木商の娘と1度目の結婚をしていたが離婚し30歳で再び江戸に出て版元・蔦屋重三郎(*5)に寄食し仕事を手伝ううちに作家となる。寛政7年(1795)に3作の黄表紙(*6)を刊行したのを手始めに毎年20作以上の作品を出版した。32歳頃に町人の娘と2度目の結婚をするが5年後に離婚し40歳でお民と3度目の結婚をして娘まい(*7)をもうけた。駿河屋藤兵衛と名乗り蔦屋の近所である通油町(現:中央区日本橋付近)に住みつつ北陸、名古屋、大坂、信州などを旅行するが眼病や中風に悩まされ天保2年(1831)67歳で没した。戒名は「心月院一九日光信士」。墓は真圓山東陽院[日蓮宗](*8)にある。天保3年(1832)遺族門弟らが宝寿山遍照院長命寺[天台宗](墨田区向島5-4-4)に建立した辞世碑も現存する。静岡市の医王山顕光院[曹洞宗](葵区砥屋町45)には重田家の墓所があり一九の戒名も刻まれている。

          辞世 「此世をば どりゃお暇に 線香の 烟とともに 灰左様なら (*9)」

他の代表作として「稚衆忠臣蔵」「敵打巌流島」「方言修行 金草鞋(*10)」などがあり黄表紙、合巻、洒落本、滑稽本、人情本、咄本、艶本など約400作品の戯作の他、往来物、文例集、案文類などの実用書も書いた。東海道中膝栗毛のヒットにより原稿料だけで生活できた日本初の作家とされるが晩年には酒に溺れ貧乏だったともされる。

*1 静岡市葵区のマンション「インペリアル・コート両替町」(両替町1-2-3)前に平成15年建立の「十返舎一九生家跡伝承地」木柱と説明板がある。同地説明には一九は与八郎と妻・りへの長男として生まれ家督は弟の義十郎が継いだが子がなかったため一九の長男・定吉が重田家を継いだとある。
*2 寛保3年(1743)〜文化8年(1811)。旗本・小田切家7代目。官位は土佐守。23歳から書院番、御使番、駿府町奉行、大坂東町奉行を歴任。50歳で江戸北町奉行に就任し在職中に69歳で没するまで江戸町奉行史上4位となる18年間の永続勤務をした。
*3 香木を焚き香りを鑑賞する芸道。ペンネームである十返舎一九の「十返」は香道の「黄熟香の十返し」が由来とされる。黄熟香は正倉院所蔵の香木「蘭奢待」の正式名で十度繰り返して焚いても香りが失せないと言う。「一九」は幼名の「市九」からとされる。ペンネームは十遍舎一九、十偏舎、十偏斎、重田一九斎なども用い享和年間(1801-03)に十返舎一九に定着した。
*4 寛政元年(1789)大坂道頓堀の大西芝居(後の浪速座)で上演された浄瑠璃「木下蔭狭間合戦」(このしたかげはざまがつせん)全10段を若竹笛躬、並木千柳とともに合作した。石川五右衛門の半生を描いた作品。
*5 寛延3年(1750)〜寛政9年(1797)。本名・喜多川重三郎。丸山家に生まれ喜多川家の養子になり安永2年(1773)吉原に書店を開いて後に出版を行う。朋誠堂喜三二、山東京伝らの黄表紙、洒落本がヒットし天明3年(1783)日本橋に移転。喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵でも有名になった。
*6 江戸中期に流行した簡略装丁本・草双紙の一種で江戸っ子気質や風俗を言葉と絵で表現した大人向けの絵本。「黄表紙」の名は草の汁で染められていた緑色の表紙が黄色く変色したことに由来する。後に長編化すると冊数も多くなり「合巻」というジャンルに移行した。
*7 娘まいは日本舞踊藤間流の師匠となったとされ諸田玲子著「きりきり舞い」では主人公となっている。実母・お民はまいが生まれると間もなく没し一九の4番目の妻・えつに育てられたとしている。
*8 当時は浅草永住町にあり関東大震災後の昭和5年(1930)に現在地(東京都中央区勝どき4-12-9)に移転。墓所も移されて現存し中央区指定文化財となっており墓石左面には辞世も刻まれている。
*9 「線香の 烟とともに」の部分は「線香と ともに終には」とも伝わっている。「灰左様なら」は「はい、さようなら」の意味。この辞世とともに「土葬ではなく火葬すること」「風呂嫌いなので体を改めないこと」との遺言を残したともされ、遺族がその通りにすると服の下に仕込んでままの花火が火葬時に引火し大騒ぎになったとも伝わる。
*10 「続膝栗毛」と平行しながら出版が始まった膝栗毛に次ぐベストセラー道中記シリーズ。一九が死去するまで約20年に渡り24巻が発行された。狂歌師・鼻毛の延高と僧・千久良坊の2人が江戸見物、東海道、京、大坂、西海道、奥州路、越後路、四国遍路など全国を旅している。